2017年12月11日月曜日

「和の国」で成立しない議論:和は結果であるべき

北朝鮮危機がテレビ等で話題になっているが、日本では誰もそれに備えるほど危機感を抱いていない。政治家はその難問を避けて自己保身に走り、テレビの評論家は大きな声で喋っても、その意見に必死に情報を集め解析したという努力のあとが感じられない。彼らには、利己主義が蔓延している。

声の大きい人に二通りある。知識と自信に基いて明確に喋る人と、知識の有無は分からないが、自分或いは自分の所属する団体の利益を考えて喋る人である。どちらが正しいのか、声の大きさだけでは全くわからない。この国では、互いの主張が矛盾していても、正面衝突することは稀である。

本人達が避けるのか、報道機関などがそのような場面設定を避けるのか分からない。多分両方のメカニズムが、この「和の国」では働くのだろう。「和の国」というのは、議論を避けることを優先する国のことであり、我が国を指している。議論は、問題を洗い出して解決の方法を見つける為にするのが一般的だが、この国では多くの場合議論は口論の始まりであり、口論は喧嘩で終わる場合が多い。無駄に終わり団結を阻害するのなら、最初から議論など始めない方が良いと考えるのだろう。(補足1)

勿論、個人が自分の知識を基に信用できる人を探し出し、その意見を参考にして何事も自己責任で判断するしかないのだが、この国ではそれが一層難しいのではないだろうか。

「和の国」の政治家は能力がないし、官僚やマスコミは利己的である。マスコミは、コスト削減か何か知らないが、何時も評論家の顔ぶれは同じである。(補足2)米国べったりの元官僚や元新聞社の人たちが、何時も同じことを喋っている。

シリアスな政治番組など地上波放送局では出来ないと思ったのか、嘗てかなり聴きごたえのあった政治バラエティー番組が、全編お笑い番組のようになったものもある。(補足3)この危機の時に、三流週刊誌のような番組作りをする神経がわからない。司会者には、放送法一条を読めといいたい。

この国ではまともな意見を述べる人が出演するのは、ミニコミ的番組のみである。(補足4)何故そのようになってしまうのか?この「和の国」の特徴、マスコミなどで意見を述べる資格を得た人(=リーダー的存在)の能力、彼らの選ばれ方、などについて少し考えてみる。前置きが長くなってしまったが、以下本論を始める。

尚、ここで考える日本の特徴は、人間に共通するものである。それを特別に色濃く社会全体で持つのが日本であるというだけである。

[1]

「和の国」の掟は人の非難をしないことである。目の前の人がバカげたことを言ったとしても、この国ではそれを非難をした途端、大衆の刃は非難した人に向かう。正論を提げても、言論意味不明の「人格者」には勝てない。何処の国でも、一番恐ろしいのは大衆の刃である。中国やロシアでもそれは同じである。(補足5)

多くの国では非難は議論の出発点になるが、この国では、非難は「和」の破壊という終着駅である。上述のように、議論は何も産まないからである。

和は大切である。絶対君主が支配する国でも、君主は一定の範囲だが、和の実現を体制維持の為の主要課題と考えるだろう。長期的には、広く国内全体の和が、その体制の命運を決めるだろう。しかし、「和」が社会での最重要な価値として宗教の様に信じられている国、つまり「和」絶対主義の国は日本以外にないだろう。

一般に国家の仕事は、国民の権利保障と福祉実現である。それは、国民の安全及び自由の確保と領土の保全といった国家の枠に関するものと、国内での「富の効率的な創生と公正な分配」に分けられるだろう。そこには和の実現という項目は不要である。何故なら、公正且つ豊かな分配の結果として、和が成り立つからである。表題に書いたように、和は結果であって方法ではなないのである。

つまり、和は目標であり方法ではない。しかし、「和」絶対主義の国では、「和」は方法であり且つ目的でもある。非常に深刻なことだが、この国では国際関係を考える際にも、「和」原理主義が、大手を振っていることである。どこの国が親日的でどこが反日的だとか、誰が親日的で誰が侮日的(反日的)だとかが、関心ごとの中心にある。(補足6)

社会という公の空間で和を中心に置くのは本質的に間違いである。何故なら、和は基本的に1:1の融和的関係の輪の広がりで達成される状態であり、公の(パブリックな)概念でないからである。

一方、議論や評論は、公の空間に投げかけ(パブリッシュし)、社会全体の(公の)空間でブラッシュアップされる。国家の運営は、公の空間でオープンに議論を行って、その方針を決定するのが基本である。(補足7)

[2]

正当なる分配は、分配の規則は何かという公の議論で決められるだろう。それが、社会への寄与と同じ社会に生を受けた人間の既得権の二つであるとして、それをどう評価しどう足し合わせるかするか。その方針決定には、解析的議論が不可欠である。議論が始まれば、複数の考え方が衝突し、方針はブラッシュアップされるだろう。その議論の場が公という空間の役割である。相撲で言えば土俵である。そして、その議論の積み重ねは、その社会の問題解決能力を育て、対外問題などが生じた時は能力の高い力の基礎となる。

しかし、残念なことに日本では、「和」は自己目的化しており、正当なる分配を議論するよりも、目で見える「横並び」で達成しようとする。

与党の国会議員らは、大臣ポストのバラ巻きで実現し、政党という社会での和を実現しようとする。そこには、公を向いた姿勢など存在しない。国権の最高機関にしてこのような非常にみっともない状況にある。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201708/CK2017080602000109.html 

同じ団地で、周囲の人が国産車に乗っているのなら、「和」の実現を考えて経済的に余裕のある人でもBMWやベンツは避けようとする。(補足8)個の自立して居ない人たちは、孤立とイジメをおそれ、社会で思いのままに振る舞う自由を無くしている。

横並びには“苦手な議論”は不要であり、偽りの平衡点に忍耐を持って立ち止まることで偽りの和が達成できる。「和」とは偽りの和である。その文化により、日本人は精神まで染め上げられている。小学生のランドセル、高校までの制服など、幼少期から極めて高い統一された姿に安心し、周囲に叛かないように教育される。それを明確に指摘したのは、山本七平だろう。

その「和の文化」の下、大金持ちでも質素に生活すること、能力があっても謙虚寡黙に徹する姿勢が、高く評価される。議論をする人間は、横並びから脱して高みを目指す理屈屋として嫌われる。明治の「万機公論に決すべし」は、日本に欠けたところを指摘したのだろう。

一方、文明国では組織がなければ社会は成り立たない。そして、その組織のリーダーや運営者の人選は必要である。自分が適当だと考えても、「和の国」では自薦より他薦が望ましい。その推薦は、「人格」と「能力」を基準になされる。人格者とは「和の社会」に適合した人の意味である。そして、能力は「人格」というブースターがなければ、他者に伝わらない。「能力」は本当の意味での能力ではない。

「人格」は一次元の物差し(高低)で測られる。これまでの「和の文化」での実績と、家柄、人脈、学歴、專門分野での実績などに基いて、周辺の人が作る。その人格という一次元の物差しで測った値が、これまでの所属した分野に関係なく人選の指標となる。

わかり易い例を挙げると、花を活けるのが得意な人が、日本相撲協会の評議員会議長になっていることが、最近の相撲界での事件で知れわたった。議長はテレビでこの事件について話をしているが、説得力は皆無である。法治国家の基本さえわかって居ない。その人は、家柄とその家で磨いた生け花の実績で、高い人格と評価されたのだろう。
http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20171129-OHT1T50079.html
https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43485858.html

補足:
1)私は、この原因の一つとして日本語が議論に向かない、出来の悪い言語であると考えている。“日本語と日本教について” http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.html “日本語と日本文化について”http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)例えば、日曜の朝の時事放談という番組があるが、そこに出た評論家は必ずと言っていいほど、その日の別の局に出演する。録画を両方で同日(金曜日)に済ませるのだろう。
3)日曜午後のSIIKというお笑い政治番組は、嘗て、勝谷誠彦や橋下徹などの議論で相当面白かった。しかし、自衛隊に命を救われた人が司会者になって以降、お笑い番組になってしまった。不愉快な顔を見たくないので、現在観て居ない。
4)現在もっとも面白いのは、西部邁と伊藤貫両氏の議論であり、youtubeで観ている。右寄りだと意識して観れば面白いのは、3時間番組のチャネル桜の水島社長司会の番組である。社長が人選をするのは当然だとしても、佐藤健志氏ら意見が異る人を出さないのは度量不足だろう。
5)唯一、大衆の刃を矯める力を持った例外は米国である。ブレジンスキー(今年5月死去)の言葉がそれを物語っている。https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html 米国程恐ろしい国はない。従って、日本も米国とは喧嘩をしないほうが良い。それを理解しなかった過去の日本のリーダーは、無能であった。
6)何処かで誰かが、米国には日本人と比べて中国人の方が話しが通じるという人が多いと言って居た。
7)森友問題や加計問題には、公という概念に疎い人たちの醜態が隠れている。
8)近くに住んで居ても「和」の満たすグループではない場合、その違いを強調する意味でなされるのが、ネグレクトや誇示的消費である。「和」を考える範囲の外にあると見なされる場合、その境界は憎しみや蔑みの感情で明確に色分けされる。

2017年12月9日土曜日

国債暴落と激高インフレを懸念する専門家と完全否定する専門家

昨日たまたまyoutubeで大前研一氏の動画を観た。そこでは、財政破綻とハイパーインフレの危険が語られていた。https://www.youtube.com/watch?v=qbhrserTfnQ(2015年8月9日公開)

今後も国家は赤字を出し続けるだろうから、格付け会社による日本国債の格下げなどを切っ掛けにして、ハイパーインフレが何時起こっても不思議ではないと語られていた。

大前氏は、その事態に対する準備をすべきだと語っている。個人、特に年金受給者などには、株や不動産などの価値ある資産への預金の移動を勧めている。また、企業などに外債や外国株に投資することを勧めている。(補足1)

これらの発言は、大前氏の本音なのだろうかと疑う。日本の企業に外債や外国株に投資する様に勧めるなど、外国への利益誘導的な発言かもしれない。また、日本に於けるハイパーインフレの危険性を、トルコなどの国と同様に考えているのは、誠に不思議である。尚、高いインフレ率の懸念は、野口悠紀雄氏の持論でもあったと記憶する。

この他、上の動画では日本政府の財政改革の一環として、道州制の導入に言及している。また、移民の導入を解禁して経済を大きくすべきだとも言っている。それらについては補足で筆者の考えを記す。(補足2)

大前氏の動画を見ていた時に、上念司氏の動画のサムネイルが画面横に出てきたので、それを視聴した。そこでは、ハイパーインフレの危険性は全く無いとし、政府は国債を発行して敎育投資や防衛への投資などで経済を刺激し、2%程度のインフレの実現を目指すべきという、大前氏の考えと180度異る議論がなされていた。https://www.youtube.com/watch?v=3mLdQQmStbY

経済を專門とする著名な評論家の間で、このように真っ向から意見が違うのは、日本で経済学が未だまともに発展していないからだろう。因みに、野口悠紀雄氏は東大工学部卒で元官僚、元東大教授の経済学者である。大前研一氏は早大理工学部卒で経営コンサルタント、スタンフォード大経営大学院客員教授などの錚々たる肩書を持つ。国債暴落の危険性を指摘するこの二人は、大学は工学部卒の経済学者・評論家である点も共通している。

一方、国債暴落とか、高いインフレ(ハイパーインフレ)など起こり得ないと解説している評論家に、三橋貴明氏、上念司氏、高橋洋一氏らがいる。国債暴落などあり得ないという三人のうち、二人は経済学部を卒業している。

私自身は殆ど上念司氏や三橋貴明氏の、国債を更に発行をして景気刺激しても、ハイパーインフレにはならないという説を正しいと思っている。以下は上念氏、三橋氏、高橋氏の動画などから学んで、筆者がまとめたものである。

その第一の理由は、日本国債は円で発行されていること、そして日銀が国債価格が急激に低下(長期金利の上昇)する兆候が出れば、直ちに国債を買取るという方針を続けるからである。国債を買い支える限り、国債の価格低下は起こらず、金利上昇も起こらない。

日銀の貸借対照表は膨張するので、円安を心配する人が多いかもしれない。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43424501.html しかし、円安になれば、日本の製造業は国際競争力を持つ。現在、経常収支は黒字であり、外貨を円に換えて国内に持ち込む流れは変わらない。それに加えて、製造業がドルを余計に稼ぐことになれば、外国から持ち込むドルの量がその分増えて、円安を解消することになる。日本は、円安にブレーキが掛かるメカニズムを持っているのである。

国家の貸借対照表(BS)は依然として、米国よりも日本の方が健全である。この点、高橋洋一氏は、日本国政府の収税機能を資産に換算すれば、その健全さが分かると言っている。兎に角、円建てで国債が発行出来る限り、基軸通貨発行国の国債と同程度に安全であると思う。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/09/blog-post_22.html

野口悠紀雄氏は、動画で何れ日銀は量的緩和を終了する必要があると、その出口に言及していた。その際、国債を売らなければならないが、そこで暴落するのではないかと言うのである。しかし、米国連銀のように怪しげな住宅ローン債券などへの投資は日銀には無いので、BSの縮小を急ぐ必要は無いと思う。

何年か経過して物価が倍になれば、国債の価値は実質半額になるので、そのまま日銀の資産として持っていても良いと思う。また、物価が上昇しなければ、その場合も国債は健全な資産である。

日銀の緩和政策で要注意なのは、突然且つ急激に予定していたインフレが進行した場合である。それは、日銀当座預金に積み上げられた約400兆円に登る預金が、金融業者などにより株式投資などに大量に廻った場合に起こると思う。その際、株式市場はバブル的になる可能性がある。

資産価値が上昇した部分のいくらかは、消費市場に流れて物価上昇が起こる。それが行き過ぎた場合は、日銀は更にバブルが成長しないように当座預金に付利をつけることや、国債の放出を考えなければならないだろう。それは、日銀の収益に悪影響を及ぼし、経営の悪化を導くのではないだろうか。それは円安懸念の原因になる。日銀は今の株高進行を少し警戒すべきだと思う。

またもう一つ恐ろしいのは、国際関係で異常な事態が生じることであると思うが、それは今回の議論の対象でないので省略する。

(以上は、元理系研究者のメモですので、批判コメント歓迎します。)

補足:

1)外国債の購入を勧めるのは、自説の日本国債暴落を実現したいためと言われても、抗弁できないだろう。米国債は、日本国債以上に危険かもしれない。財務情況は明らかに日本より悪い。 https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43416690.html

2)限られた人たちの考えが、議会等の議論なしに走り抜ける現在の日本政府のような政治体制よりも、大前氏の提案している道州制の方が良いと思う。日本は、知的に優秀、且つ、リーダー的素質を持った人が、国家などの組織のトップになりにくい文化の国である。従って、物事はできるだけ分散的に解決するほうが効率的である。そして中央国家は、防衛とか外交という国家の枠組みをしっかりと構築維持することに専念すべきだと思う。

次に、「移民解禁は当然」という大前氏の意見には唖然とした。日本経済は日本人のためにあり、外国人の為にあるのではない。人手不足は、デジタル技術の導入などに設備投資をして、労働生産性の向上で対応すべきであると思う。外国人の流入は、優秀で日本の為になる人に限るべきである。移民を安価な労働者として入れるのは、労働生産性を高める機会を逸することになる。

2017年12月7日木曜日

放送法64条が合憲だとする最高裁判決について

1)放送法第64条は、「テレビを視聴可能な状態で設置したものは、NHKと視聴契約をしなければならない」と規定している。今回、最高裁は、その強制契約が合憲であると判断した。

一方、日本国憲法は、憲法13条(個人の尊厳)と憲法29条(財産権)で契約の自由を保障している。これら憲法の条文は、何れも「公共の福祉に反しない限り」と枠をはめている。従って、今回の最高裁判決は、テレビを設置しながらNHKと視聴契約をしないことは、公共の福祉に反する行為であるということを意味する。

法律面からNHKの公共性を裏打ちするように、放送法第3節にはNHKの経営委員会の設置、委員の選定、職務等が記載されているので、法的には今回の判決は整合性があるようだ。この点、昨日の記事は誤っていることを認めざるを得ない。(補足1)

つまり、NHKの放送内容とか、国民の知る権利を確保する上でNHKが不可欠かどうかなどは、最高裁の判断することではないということである。法的な整合性のみ最高裁は判断するのであり、NHKの受信料のシステムが時代錯誤的であるとすれば、それを改めなかったのは立法府の怠慢であり、その修正を指示することは最高裁の仕事ではないということだろう。

2)受信者が契約を拒否した場合、NHK側は「この契約は、契約の申し込みをNHKが行った時に成立し、支払うべき受信料はテレビを設置したときに遡る。」とこの放送法64条を解釈している。一方今回の判決では、NHKが裁判を起こして勝訴した時に視聴契約は成立し、「受信料支払の義務は、テレビ設置の時点に遡る」としている。

このNHKが裁判をおこして勝訴することで契約成立と見做すという点を取り上げ、NHKが全てのテレビ設置済の未契約者を対象に裁判を起こすことは困難であるとして、NHKは敗訴したのだと宣伝する「不払い運動の指導者」もいる。https://www.youtube.com/watch?v=80J1hzVRXdk

しかし、スタンプを押すように、被告欄に名前を書くだけで訴状が出来上がるのなら、それほど困難ではないだろう。今後、NHKの現状やその受信料のあり方を不適当と考えて居られる方々は、その運動において別の戦略を取るべきだと思う。つまり、相手にすべきは総務省及び国会であり、最終的には放送法を改訂させる方向を考えるべきだろう。

放送内容への干渉は経営委員会で可能だが、有識者として選任されるのは異なった分野での成功者が多く、期待薄である。

3)この情報化社会にあって、NHKが未だに国民の知る権利を実現するための不可欠な存在だというのは、時代錯誤の極限だと私は思う。現在、我々国民が知る権利を十分活用しえないのは、情報が提供されないからではない。何が本物の情報であり何が作為的に流された情報であるかの識別方法を持たないことである。その点に関して、後で述べる様にNHKの報道は、知る権利を侵害する側である。

繰り返しになるが、各種情報をしる上でNHKに頼る必要は殆どない。現状では、国会中継などを除いて、NHKは何の役割も果たしていない。公共放送としての役割は、現在のNHKの五分の一で足りるのであり、その意味では視聴料は現在の五分の一以下で良い筈である。

国会中継や総理大臣談話などの公共放送として重要な部分には、例えば、NHKの一つのチャンネルを完全に使い、その放送の経費のみをテレビ設置税として徴収すれば良い。その税の根拠は、丁度自動車税と相似であると思う。公共放送を受信する上で、視聴料を支払わなければならないという論理は、私には理解不能である。

それ以外の娯楽番組は、民営化して視聴料を徴収するなり、民間などからスポンサーを受け入れるなりすればよい。前者の方法をとるのなら、未契約者のテレビ画面にはスクランブルをかければ済むことである。現状NHKは、立法府や行政府の怠慢により、抱き合わせ商法で金を稼いでいるといえる。今回最高裁は、その行為に免罪符をあたえたことになる。

つまり、三権夫々の立場から、NHKの現状を擁護しているのである。

4)NHKの放送内容であるが、公共放送を標榜しながらその質や姿勢は国民の利益に合致しているとは思えない。例えば、1996年に放映した「51年目の戦争責任」では、慰安婦募集に関連して軍が出した通達文を改竄して紹介し、不正な方法を用いてでも慰安婦を調達せよと命じていた証拠を突き止めたとして、その非道を糾弾してみせた。http://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/4d3e5b172db4f6f8f032777a918177ba(補足1)

NHK受信料の契約を渋る多くの人達は、この国益に反するNHKの“公共放送”に不満を持っているのである。そのNHKの姿勢が原因なのか結果なのか分からないが、近い過去(自身或いは親)に朝鮮半島などにルーツを持つ人を多く採用していると聞くが、それも国益に反する放送を生む土壌となっていると思う。その根拠は、以前書いたブログ記事をご覧ください。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43060935.html

補足:
1)昨日の記事では、一方的に最高裁の判断を契約の自由を根拠に間違っているとしたが、「公共放送が国家の機能として必要である」と考えられれば、放送法64条の規定は合憲ということになる。現在のNHKの実態が、その役割を果たしているかどうかの審査や、現在のような大きな組織が必要かどうか、視聴料金が高すぎるのではないか、などの判断や適正化への指導などは、総務省や経営委員会の仕事である。
2)慰安婦問題については、朴裕河氏の「帝国の慰安婦」(日本語訳)が公平な視点でかかれている。朴裕河氏と思われる人のブログ記事を私が訳したものを引用しておく。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/07/blog-post_15.html (17:00、補足1の加筆)

2017年12月6日水曜日

最高裁は日本政治を劣悪にした原因の一つである(削除予定)

追補:

NHKの視聴料の問題は、最高裁の他に総務省(NHKの指導)や内閣(経営委員の選任)も責任があると思います。その点について、次の記事に書きます。

本文:
最高裁は三権の一つの役割を全く果たさない。それは戦後の日本政治を混乱に陥れた。例えば:
自衛隊が違憲であることは、日本語がまともな言語なら憲法9条の条文で明らかである。その判断が最高裁により示されなかった為に、日本は国家の体をなさないようになった。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_24.html

今年の安倍総理による理由なき解散も、最高裁がまともな判断をしなかった結果である。国権の最高機関である筈の国会を、行政の長がなんの理由も無く、スクラップにできるのである。これを違憲としなかったのは、最高裁は単なる行政の下部組織であり、専門家としてのプライドよりも自分の利益を優先するインチキ法律家が判事になっていることを示している。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2017/10/blog-post_30.html

今回、NHKの受信料制度が、憲法が保障する「契約の自由」に反するかどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は6日、この制度を「合憲」とする初判断を示した。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171206-00000058-mai-soci

下級審の「受信料制度は、公共の福祉に適合し必要性が認められる」という判断が追認されたことになる。

NHKの受信料制度は放送法64条を根拠にする。放送法第64条:協会の放送を受信することの出来る受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。(以下省略)

ここで重要なのは、「この契約は、契約の申し込みをNHKが行った時に成立し、支払うべき受信料はテレビを設置したときに遡る。」と言うNHKの解釈であり、これら解釈も(テレビのニュースでは)追認されたと放送していた。

追補:12/7/am7, 前半の契約の成立の部分は、今朝12/7の中日新聞によれば間違いです。受信契約の一方的な成立は、裁判でのNHK側の勝訴によって確定する。その時の料金請求はテレビ設置の時点まで遡る。}

最近、櫻井よしこさんがyoutube動画上でこの件を議論している。放送法64条とNHKの受信料取り立ての問題点は、そこに全て出ている。https://www.youtube.com/watch?v=q2N4p9SX

「契約」は、当事者双方の合意に基づく行為である。その日本語の解釈まで曲げて、このNHKの略奪行為を法的に追認したのは、違憲とした場合の混乱を考えた行政的配慮だろう。日本の最高裁は、憲法解釈を全て行政に阿る姿勢で行っている。

重ねて言うが、日本は三権分立の国ではない。最高裁は、行政の下の役所に過ぎない。最高裁長官は、専門家のプライドよりも自分の利益を優先する、他の官僚たちと同じく利己主義者である。

2017年12月5日火曜日

フラットな社会に安定国家は成立しない(国家は、高貴な階層の人間を必要とする)

1)現在の社会はフラットであると言われる。総理大臣も一介のサラリーマンも社会的には差はない。言葉も同じであり、趣味も何もかも大してかわらない。その傾向は、米国にも出現しており、大統領の言葉と下町の言葉に大差ないことが話題になっている。

二年程前のあるテレビ番組(Sokomade I.I.)で、左翼のある女性(YT)が、「天皇ってかわいそうだよね」と発言した。人権も自由もないという類のことをその理由として喋っていた。しかし、それは根本的に間違っている。日本人の中で天皇は特別な存在であり、天皇には我々庶民が俗っぽく考える自由な振る舞いはあり得ない。そして、天皇は我々庶民には超えられない天井の上に存在し、そもそも世界が違うのである。

西洋にはnoblesse obligeという言葉がある。このフランス語は、「高貴さは(義務を)強制する」と訳される。上記の発言は、特別に高貴な天皇としてのobligeを不自由と感じる貧しい心が生んだのである。自分の思考における不自由がもたらした発言であることに気付かないのは、その女の人が完全に左翼信仰に染まっているということである。(補足1)

その“noblesse oblige”(英語でnoble obligationという)を感じる人が、日本にも世界にも殆ど居なくなった。貴族は通常金持ちではあるが、金持ちということは貴族を意味しない。貴族は金銭に支配されないという点で、経済的に豊かな人達は貴族の候補ではある。“貴族階層”の中の本当の貴族は、有史以来各種の俗な欲望以外を(も)考え追求してきた人たちである。その階層は、貧困層が混沌の中に停滞している中で貴族の文化を形成し、その中から近代文明が生まれた。

しかし、現在の金持ちの殆ど全ては、俗世界の経済活動にむしろ積極的であり、金に支配されている。それは、現代の日本社会(多分世界も)が単一の階層からなるフラットな社会になり、貴族と貴族文化が存在しないからだろう。(補足2)

数年前、ある新興金持ちのM氏が、「金儲けは悪いことですか」と喋ったテレビの画面が今でも目に浮かぶ。現在の金持ち達は、貴族階級を形成できずに巨大になり、世界の文化も何もかも破壊する最前線を担うことになっているように思える。そこから、調和的な新しい社会を構築する処方箋を人類は未だみつけてはいない。

2)太古の昔、「ヒト」は野生の動物であった。そこから社会を造って生きる「人間」となったプロセスを、再構成するシミュレーションは、社会の今後を考える上で参考になるだろう。

ヒトが人間になるまでに得た最も本質的なものは、言葉である。(補足3)その言葉は、社会構造の複雑化(発展)に伴って、より複雑(高度)な言語となっていく。つまり、社会と言語が密接に関連しながら発展し、そこに文化が生じる。例えば、武士の社会には武士の言葉があり、そして武士の文化が生まれる。また、農民には農民の言葉があり、農民の文化があっただろう。更に女性も、“部分社会”をつくり、特有の言葉や文字もあった。勿論、用事があれば話をするわけだから、言葉の構造や用法には共通の部分が多いだろう。

それらの部分社会の地位に自然と上下ができるが、それを階層と呼ぶことができる。例えば、武士の文化は、国(その社会集団)を守り安定化するために適したものだっただろう。国を守ることが、全ての住人の生存に必須であるので、武士階級は高い地位を自然に得たと思う。そして、それら各階層の文化は、社会を分業して担うのに重要な役割を果たした筈である。

我々は、それぞれの階層で身につけた知識や価値観、つまり、武士階級で言えば戦士としての勇気や、対面した相手に対する端正さなどを、身に纏う服の様に考えがちである。しかし、その喩えは部分的にしか正しいとは言えないだろう。服なら着替えが可能だが、その武士としての性質は、着替え不可能な皮膚の様なものであると思う。従って、成人した武士、農民、職人、商人は全て「別種の人間」といえるだろう。

逆に、人間社会で育た無かった野生のヒト、例えば狼に育てられ、狼の群れの掟の中で育ったヒトは、人間社会の基本を身につけることは最早不可能であり、いかに学習を重ねても服を着る様には人間にはなれない。例えば:http://karapaia.com/archives/52147667.html

上記の事実が示す重要なことは、「誕生間もないヒトは高度に可塑的な粘土のようなものであり、それを人或いは人間に成型するのは、社会の文化でありそれを身につけている両親や周囲の人達である」ということである。もし、適当な時期に相応しい形に成型しなければ、社会で生きる人間にはなれず、理解不能な無秩序な、或いは、奇異なヒトに成長するだろう。

この事実は少年犯罪における保護観察処分などの制度には、深刻な欠陥が存在することを示唆している。そして、異る文化圏にある国の間では、本当の意味で言葉が通じることは期待できないことを示している。言葉は翻訳できるのだが、通じないのである。また、同じ国でも、過去の歴史の出来事を現在の言葉や感覚で理解することには、本質的な壁が存在することを示している。(補足4)

3)ほとんどの日本国民にとって、現在最も大きな運命共同体は日本国家である。それは殆どどの国でも同じだろう。全ては国家あってのことである。その国家の複雑な構造の中で、人々は分業を行ってそれを支え、生きている。 

  その安定と繁栄は、各構造の力で決まる(勿論、ある弱い構造が全体を決める場合もある)。あらゆる構造を担う人材の育成、及び適材適所の配布は、国家の繁栄と安定に必須である。上記は当たり前の論理だが、ただ「人材の育成」には特別の意味を持たせたい。それは、人をパソコンに例えて話をすれば、単に各分野に相応しいソフトウエアをインストールしなければならないと言っているのではない。パソコンの基本設計から、そのインストールソフトを意識して、行わなければならないのである。  

特に高度な専門職、各構造の整合的な働きを実現する総合職(=国家の中枢を担う人材)などは、昔の貴族的な特別な教育が必要だと思う。それは、敎育現場の環境だけでなく、その中で生まれ育つ社会環境から、それら人材の育成に相応しい環境が必要だろうと思う。つまり、現代でも国家の中枢を担うような人材の育成には、そのための特別な階層或いは”部分社会”(相応に閉鎖的な社会)が必要なのではないか。  

最初に述べた皇室もその代表かと思う。天皇はその家系に生まれるという意味で、生まれながらに天皇としての準備ができており、その後成人までの環境は最も高貴な人を作り上げる為に必須の役割を果たしていると思う。また、日本の政界などでも、一国の宰相となり相応の活躍ができるのには、素材としての能力(上の言葉では可塑性)だけでは不可能だろう。 

フラットな世界では、何処で切り取っても同じ社会であり、そこで家族だけが特別であっても、国家を担うレベルの宰相は出来上がらない可能性がたかい。また、それを支える知的集団を、他国を真似て造ってみても、俄には機能しないだろう。  

我が国と比較して、高度な国家中枢を作る準備を整えた国がある。それらは米国や英国のなどの西欧諸国、それに中国である。中国は共産党という階層を作り、その中から人材育成をしている。ただし、共産主義思想は権力者による国家統治という考えと矛盾するので、共産党の階層が権力者的な国家の宰相を育てる環境となり得るかどうか今一つわからない。  

米国の場合、政治貴族は大金持ちの企業経営者とその周囲に一定の閉鎖性のある社会を作っており、政治を支配する階層となっている。エール大学などのアイビーリーグが作るエリート層(その中の特別な組織、スカル&ボーンズなど)などがそれである。その構造の中にCFR(外交問題評議会)やCSIS(戦略国際問題研究所)が組み込まれているのだろう。英米政府がこれまで国家をうまく操縦してきた様に見えるのは、そのような社会の構造があったからであり、表向きに標榜している民主政の所為では無いと思う。  

その民主という表の思想と裏の支配構造との暗黙の了解が崩れ、民主が前面に出かかっているのが現在のトランプ政権の成立のプロセスの可能性がある。それを揺り戻す動きが、政権内外で起こっていると思う。 

(21:50編集あり;理系人間のメモですので、批判等歓迎します。)

補足:

1)人間の創った壮大な文明における“noblesse oblige”を考えた時、obligeは下層或いは大多数からの視点での描写である。その強制(oblige, obligation)という部分は、高貴な上層の言葉を用いれば、誇り高き世界における自由ということになる。上記YT氏の言葉は、例えば、「哲学者って可愛そうね。一生頭を使って苦しんでいる。」と言う粗野な人の発言と似ている。その“強制”が高貴な身分と同居することを知らず、下層の言葉で不自由として抽出したのに気がついていないのである。それは、下層と上層の間での、無益な言葉のやり取りである。その下層の視点で壮大な文明社会を体系化したのが、左翼思想である。その視点は既にその思想の限界を示唆している。
2)高貴さは、全体として貧困を感じる社会の中でのみ維持されるのだろう。経済的豊かさを温度の上昇と考えれば、現在の情況が分かり易く説明できる。つまり、現在の社会は、多くの分子(人間)が結合して有機体(社会)をつくっていても、温度上昇により分子がバラバラになり構造が破壊された情況に近いのである。更に温度が上昇すれば、原子状態から素粒子状態にまでなる。それは、人間社会に話を戻せば、人格破壊を意味するのである。
3)通常、日本語で「もの」は、物か者である。“言葉は喋るときにつかうもの”という「もの」の使い方に自信がない。
4)この文章を理解した後に、ルトワックの「戦争にチャンスを与えよ」と言う本の題名、或いは、ブレジンスキーの「政治に目覚めてしまった百万人を説得するよりも、殺す方が簡単である」という講演を聞けば、その人たちの考えが理解出来るかもしれない。ブレジンスキーの言葉:https://blogs.yahoo.co.jp/hetanonanpin/64822106.html

2017年12月2日土曜日

キッシンジャー氏は生まれながらの反日親中か?

1)昨日、政治評論家の加藤清隆氏のyoutube動画を観た。そこでは、トランプ大統領の知恵袋的なキッシンジャー氏に対する批判が語られていた。キッシンジャーは、米国において中国の利益を代表する人物であると語っている。https://www.youtube.com/watch?v=aSlZ_aiC4OU

キッシンジャーが10月にホワイトハウスに招かれた際、米中の取引で北朝鮮を平和裏に治める案を吹き込んだ可能性があるという。その内容はニューズウイーク紙の11/28日号に、中国専門家のBill Powell氏の記事として書かれているという。

それによれば:1.中国は全ての手段を用いて金正恩に核計画を諦めさせる;2.米国が検証し納得する;3.米国と北朝鮮を正式に承認し、経済援助を行う;4.在韓米軍は撤退する、の4項目であるという。(補足1)

この4番目は、日本にとって最悪のシナリオとなり得る。韓国にとっても最悪だと、加藤氏は言っているが、現韓国大統領にとっては織り込み済みのシナリオかと私は思う。

また加藤氏は、「トランプ大統領はキッシンジャーの意見に従ったために、米中首脳会談でも米国の主張が出来なかった。」更に、「キッシンジャーは中国の利益を代弁し、“日本に未来永劫核武装を許さない”という姿勢を米国政府に持ち込んでいる」と言っている。(「」中の文は話の内容であり、語りをそのまま書いたのではありません。)

その上で、キッシンジャーは「日本にとっては有害な人物と言う事もできる」と語っている。その様に語るのなら、その理由も具体的に語るべきである。「虫が好かない」レベルの「キッシンジャーは反日である」という議論は、有害無益であると私は思う。

2)キッシンジャーとともに、米国の国際戦略に重要な役割を果たした人に、ブレジンスキーがいた。あの「ひよわな花・日本」を書いた人である。今年死亡したらしいが、そのニュースが大きく報道されなかったことは、日本が政治と報道の両面で後進国であることを示している。

北野幸伯氏が自身のメルマガ「ロシア政治経済ジャーナル」にブレジンスキーの死去にふれている。そこで、伊藤貫氏(補足2)の著書「中国の核が世界を制す」の中の「ブレジンスキーもキッシンジャーも反日親中である」を引用し、更に、つぎの様に書いている。

キッシンジャーと同様の親中外交論を主張してきたブレジンスキーは、「中国こそは、アジアにおける”アメリカの自然な同盟国”と言ってよい。アメリカの国防政策は、日本政府の行動の自由を拘束する役割を務めている。この地域で優越した地位にある中国こそ、アメリカの東アジア外交の基盤となる国だ。」と述べているというのである。

一方、「この二人には違いもある。ブレジンスキーは日本人を小馬鹿にしているが、日本人を憎悪してはいない。それに比べてキッシンジャーは、日本人に対して鋭い敵意と嫌悪感抱いている。」とも書かれているという。
https://news.goo.ne.jp/article/mag2/world/mag2-250961

ところで、何故この二人の米国外交の中心的人物が日本軽視の戦略論を展開してきたのか? 私は、それを語らずして“誰それは日本に有害な人物である”と言うべきではないと思う。上記北野幸伯氏の文章では、その反日親中は、中国が彼ら二人の生い立ちから調べ上げ、プライドの高い二人の特性を利用して取り込んだ結果だと書いている。

それもその通りだろうが、キッシンジャーの反日姿勢(憎悪感を持つ)について、もう少し別の背景があるように思うので、それを書いてみたい。

3)加藤氏の話にある通り、反日キッシンジャーは“日本には未来永劫核武装はさせない”と思っているだろう。しかし、キッシンジャーは“日本も核武装をすべきである”と考えた時期があったと、或る本に書かれている。片岡哲哉著「核武装なき改憲は国を滅ぼす」である。そのことは既にブログで紹介した。https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43129251.html

日本が佐藤栄作政権下であり、米国はニクソン政権下であった。そのニクソン政権の安全保障担当の補佐官がキッシンジャーだった。私の理解したところでは、米国が自国のアジア戦略において、何処に重点を置くかを考えた時、第一に日本を考えた。つまり、日本を核武装した米国の同盟国にすることを考えた。しかしその時、無能な佐藤総理が、日本はそのような役割はできないと断ったのだった。その結果、未来永劫日本国民は、中国、ロシア、米国、更に朝鮮の核の脅威に怯えることになったのである。そして、中国を米国のアジア戦略のパートナーと考えることになったのだろう。(補足3)

更に日米繊維摩擦の際、ニクソン大統領は佐藤総理に何とかして欲しいと対策を依頼した。沖縄が交渉の末に1972年5月に返還されたのだが、そのような時期だけにニクソンは佐藤が合意に基いて有効な手を打ってくれると思っていたが、佐藤は何もしなかったという。そこで、ニクソンは烈火のごとく「ジャップの裏切り」と怒ったという。佐藤は、愚かにも日本のもの(沖縄)は返還されて当然だと考えたのだと、書かれている。(ウイキペディア参照)(補足4)

つまり、そのような歴史的背景を念頭において、キッシンジャーの対日対中姿勢を考えなければならないと思うのである。「戦略なき政府は国を滅ぼす」である。

補足:
1)上記4項目とティラーソン国務長官の「四つのNO」とは関連があるという。1.北朝鮮の政権交代を望まない;2.北朝鮮の政権は滅ぼさない;3.半島の統一は加速させない;4.米軍を38度線以北に派遣しない、は北朝鮮の主張を取り込んだもので、これも出処はキッシンジャーではないかと加藤氏は言っている。
2)訂正:「核武装なき改憲は国を滅ぼす」の著者を伊藤貫氏と書いた事があるかもしれません。正しくは片岡哲哉氏です。
3)上記片岡哲哉著の本の中に、ニクソン政権の時、佐藤政権の日本に核武装を打診した旨の詳しい記述がある。その時の安全保障補佐官はキッシンジャーである。「北朝鮮の核武装と日本の核武装論」https://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42740249.html
4)「核武装なき改憲は国を滅ぼす」では、その怒ったニクソンの下に派遣されたのが田中角栄であり、田中は米国の駐留経費に金をつぎ込むことで解決したと書かれている。つまり、戦略もなにもなく、金で解決するという日米安保体制が出来上がったと書かれている。米国が、戦略的同盟の意志を無くすのは当然かもしれない。

2017年11月29日水曜日

62年間安全保障に関する政綱を実現出来なかった自民党は解党すべきである

1955年二つの政党の合併により自由民主党が立党された。その時の国民への約束として定められた政策目標が自民党の政綱である。 https://www.jimin.jp/aboutus/declaration/100285.html

その第6項目に、「独立体制の整備」がある。

平和主義、民主主義および基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。世界の平和と国家の独立及び国民の自由を保護するため、集団安全保障体制の下、国力と国情に相応した自衛軍備を整え、駐留外国軍隊の撤退に備える。

佐藤健志氏は、改訂後の日米安保条約には、どちらか一方が解消の意思を示してから一年後、安保条約は消滅することを考え、遅きに失した感があるものの、その準備、つまり駐留外国軍隊の撤退に急ぎ備えるべきであると言って居る。 https://www.youtube.com/watch?v=FpGVxVgHCp0&t=955s

しかし、62年前から憲法改正と自衛軍保持を国家の必須要件と考えてきた政党が、そして、ほとんどの時間を与党として日本政治に君臨してきた自民党が、なぜその国民に対する約束を守らなかったのか?

もし国民の同意など得られそうにないというのなら、そして、その政綱が尚正しい方向だと思うのなら、一旦解党して自分たちの国民を説得する能力の無さ、無能さを恥じて、政治家をやめるべきではないのか。

高校や大学の授業でも、教師が本当に理解できていないことは、生徒に伝えられない。しかし、教師が本当に理解しているのなら、解説の方法を何通りか変えることでなんとか伝達できるものである。

つまり、自民党の政治家が、政綱の上記項目について62年間かかっても国民の理解を得られないとしたら、それは借りものの言葉を並べ立てて、政綱なるものにつくり上げたからであり、その本当の意味をかれら自民党議員も理解していないのだ。

その程度の国会議員からなる政党なら、62年間幻の政策を看板にしてきた大罪を、解党と政治家の辞任という形で償うべきである。

自前の立派な毛布を手配しているという空約束のリーダーを信じて、国民は借り物の毛布で長期間暖をとってきた。そのため、その毛布が借り物だったことも、外の寒さがどの程度であるかということも、今や判らなくなって居るのだ。

一旦裸になって、幾らかの凍死者をだしても、外の空気に触れるべきかもしれない。それを大寒波の来る前にやっておけば、自前の毛布を手配するべきだという空気が湧き上がり、ふさわしいリーダーがその中で選ばれるだろう。