2017年1月18日水曜日

孤独死は問題ではない:ある葬式を体験して感じたこと

1)昨年の12月下旬、高速を車で走って1時間ほどのところに住む義理の叔父の葬式に出席した。中部を中心に140店ほどの専門店を経営する会社でかなり出世した人ではあったが、出席者は多くなかった。最後はその会社関係の専門学校の理事長を務めたと聞いていたので、意外だった。

弔電は国会議員数名を含め30位あったと思う。日本を代表する企業の社長から弔電が届いたのは、親族の勤務先だからだろう。故人とは二、三度会ったのみだが、非常にしっかりとした知的で社交的な人物だった。夫人も、多少プライドの高い方のように感じたが、同様だった。

最後の別れということで、死に顔を拝見することになった。生前話した時の面影はなかった。その時、三島由紀夫の小説「金閣寺」の中の文章を思い出した。(補足1)つまり、生きている私の視線を、屍が一方的にまるで暴力のように受けて居ると感じた。義理の親族の屍に対して、私にそのような権利がある筈はないと思い、直ぐに目を離した。

葬式からは早々に失礼する予定だったが、火葬場にも行くことになった。その火葬場は、車で45分ほどもかかる遠方にあった。焼かれて出てきた遺灰は思ったより少なかった。二回骨を拾うことになり、それらが壺に納められたのだが、生前の姿と比較して無に等しかった。

二人いる娘さんのうち、同居している次女の方のかすかな鳴き声を一度聞いたが、それ以外の泣き声を聞くことも、涙を見ることもなかった。もちろん、私の視線の及ぶ範囲のことではあるが。

2)昨今、わが国では孤独死が問題になって居る。経済発展や少子高齢化などの影響で、家族に見守られて死亡するという古来の死の形が崩壊しつつある。これに関連した五木寛之氏の新聞紙上の文章について一昨日感想を書いたが、“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という五木さんの言葉に同意した。

その理由はそこに書いて居るが、その思いはこの葬式が心に残っていたのでより鮮明に、心の中に刻み込まれていたのかもしれない。今日(こんにち)の葬式では、そこへの出席が面倒だと思いながら、自分の心の中の義務感に従って出席する人が多くなって居るだろう。義理の親族や親族の会社の関係者などは当然だが、親族でも一滴の涙も流さない人も多いだろう。(補足2)

死が孤独なのは、葬式に多くの人がこようが来まいが、死ぬ直前に周りに親族が居ようが居まいが当たり前であると思った。生きて居るうちの孤独による不便は問題だが、孤独死は問題ではないと思う。(もし、人々もマスコミも行政も、そのような意味で孤独死の問題を考えていたのなら、言葉はもう少し丁寧に使うべきだと言いたい。(補足3))

補足:
1)小説金閣寺の中に、父親の遺体を前にしたときの記述がある。”屍はただ見られている。私はただ見ている。見るということ、ふだん何の意識もなしにしているとおり、見るということが、こんなに生けるものの権利の証明であり、残酷さの表示でもありうるとは、私にとって鮮やかな体験だった”
2)中国だったかネパールだったか忘れたが、葬式では大声を出して泣くのが礼儀だという国や地方が多く存在する。韓国もその一つらしい。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1294250662 もちろん、亡くなったその瞬間にあるいは時間がたって思い出した時に、涙するという親族は多いかもしれない。しかし、これらの涙は、別れの涙というより生きて居る自分の孤独を泣くのだと思う。
3)日本人だが私も日本語が十分には使いこなせない。

2017年1月16日月曜日

「一人で逝く覚悟が必要」五木寛之さんの文章を読んで

15日の読売新聞36面に“質の高い死について考えるシリーズ第4部では、五木寛之さんの「死を語る(上)」が掲載されていた。以前読んだ深沢七郎の楢山節考の話も引用して、自分の考えをまとめる。

1)五木さんは、以下のように語る。

団塊の世代が死を迎えるとき、大量の要介護老人と、大量の死者が周囲に溢れる時代だろう。それは、これまでの歴史に無かったまさに未曾有の事態である。近代は、個人としての老いや死を問題にしてきたが、これからは社会全体でどう受け止めていくかが問題になる。政治や経済だけの問題ではなく、宗教のような集団的思想がクローズアップされるだろう。

老いや死に対して、安らかな、落ち着いた境地があると考えるのは幻想でしょう。身体が次第に崩壊していく中、肩身を狭くして生きていくことなのです。昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄という観念がリアルにあったが、今は死ねば宇宙のゴミになる感覚でしょう。多くの人が、家族との絆も薄れる中で、自らの老いや死と向き合わねばならない時代です。最後は一人でこの世を去る覚悟を持たないといけないでしょう。


そして、「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない。単独死、孤独死が悲惨だとは思いませんね。」と結論した。

2)私の体験、感想、考え:

私もすでに何度かこの問題を考えている。今回、五木さんの文章を読んで、昨今自分の考えていることと全く同じであることを知り、同じ問題を考えれば五木さんの考えにたどり着くのは自然なことだと思うようになった。(補足1)五木さんの場合、大陸からケダモノの様なロシア軍兵士から逃げ帰る経験を持ち、その中で家族と周りの人の無残な死を体験されたことが、死を考える原点にあると思う。

15歳以上若い私にはそのような体験はないが、母が死ぬ時の痛々しい様子を漏れ聞き(補足2)、遠方に住む故最後まで近くに居れなかった分、余計に心を痛めた記憶がある。自分の死を考える際にも、それが強く思い出され参考となる。それは、被害者意識などではなく、一人の死とその周辺の苦しみを全体として把握した時の話である。

死にゆく過程は、まさに自分の体と精神の崩壊のプロセスである。体は部分的に死滅した後腐敗し、最後は頭脳か心臓が止まるところで人としての死に至る。その中に最後まで自分以外の人を巻き込めば、近くに残る人から加えられる言葉や態度は、死に往く人の人格も生きていた頃の思い出も何もかも破壊し尽くすだろう。五木さんの“単独死、孤独死が悲惨だとは思わない”という結論は、まさに“鏡の中に映る自分の姿”(あるいはアルバムに残る自分の姿)が破壊される前に、自分の心にそして家族の心に残したいという最後の願望だと思う。それは孤独を受け容れなければできないことであり、仏教の涅槃の境地と言えるだろう。

群れを作るボスライオンは、死ぬ時は静かに群れを去る。その勇者の最後の姿に、神々しさを感じるのは私だけではないだろう。またそれは、深沢七郎の楢山節考に出てくる老女、“おりん”の姿に重なる。70歳になったところで、親族に背負われ楢山(という高い山)の頂上付近に連れられて、置き去りにされるのが“楢山参り”である。その前日は祝いの酒を近隣に住む人たちに振る舞い、彼らからは祝いの言葉を受ける。楢山は信仰の山であり、神の下に往くことにして、老人を捨てて口減らしするのである。“おりん”はそのための準備を自分の意思で万端ととのえて、その日に臨んだのである。

楢山参りの掟は、お山(楢山)に行ったら物を云わぬこと、家を出る時には誰にも見られないこと、山から帰る時(付添人)には必ず後ろを振り向かぬことである。死は人にとって、思考や弁舌に馴染まない出来事である。つまり、死と生はいかなる理屈も埋め合わせることのできない深い谷で別けられているのである。(補足3)楢山節考の世界は、そのほかのあらゆる宗教にある欺瞞性を超えた、日本の原点に存在するオリジナルな神道の世界である。勿論、それは伊勢神道とは似て非なるものである。神道には経典や教義はない。つまり、語れないことはそのまま受け入れるしかないのである。

補足:

1)五木さんの本は親鸞を少し読んだと思う。私は、その影響下にあるのかもしれない。
2)介護に当たった義理の親族による度重なる虐待の話を聞いた。スリッパで顔が殴られ、母の歪む顔と涙を想像し、死の残酷さを思った。
3)聖書の創世記にある話を思い出す。知恵の(善悪を知る)木の実を食べた結果、楽園を追い出され、神の言葉を聞く。「あなたはちりだから、ちりに帰る」と。楽園とは生と死を語る必要のない場所であり、野生の動物は未だそこに留まっているのだろう。しかし、その生と死の思考モデルも非常によくできているが、創り話にすぎない。(信者でもないものが、聖書の片言双句を引用するのは、多少気がひける。)

2017年1月15日日曜日

理系のセンスのない行政の長や報道関係の人たち

1)豊洲の地下水モニタリング調査は、201箇所からのサンプリングで行われ、環境基準の最大79倍のベンゼンが検出されたという。小池知事は「もう一度、調査をしようということになるかもしれず、専門家会議に(移転して良いかどうかの判断を)任せたい」と述べ、専門家会議で詳細な分析をしたうえで(移転して良いかどうかについて)判断すべきだという考えを示した。 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170114/k10010839481000.html (補足1)

地下水の環境基準値は、0.01mg/Lであるから、http://www.env.go.jp/kijun/tikat1.html 最大0.79mg/Lの濃度でベンゼンを含む水がどこかにあったのは事実だろう。しかし、何の為に何を測っているのか、その数値のどこが問題なのか、明確な話はこの報道のどこにもない。報道に携わる方々や行政の方々はほとんど文系なので、最大濃度にどれだけの意味があるかという思考の訓練がなされていないのだろう。理系の研究者なら、平均値も発表されていないのなら、2シグマ(標準偏差;補足2)の外ではないかと疑って見たくなる。

環境基準というが地下水を対象にしているので、その地下水を飲用や調理作業に用いる場合は問題だが、そうでないのなら問題にすべきは大気中にどれだけ含まれるかということである。小池知事は「食の安全という立場から」という語句を屡々用いているが、食の安全と地下水中のベンゼン濃度との関係について何も言っていない。この問題は数ヶ月経っているので、東京都にも理系の職員はいるのだから、その間に情報を仕込むことができたはずである。明確な数字と不明確な都知事の態度の対照性は、不自然極まりない。この問題を大きく取り上げ、この時点まで引きずったのは、ポピュリスト的政治の結果だと言われても反論できないだろう。しかし、その点を気にかける報道関係者は皆無である。まさに馬鹿騒ぎである。

2)表題で理系と言ったが、論理的な考察能力の必要度が理系では高いという意味であり、それは文系でも必要な能力であることには変わりはない。理系では、まともな業績評価はほとんど英語で執筆された論文を対象になされる。例えば論文を英米の雑誌に投稿する場合、必然的に英語の訓練を受けることになる。そこで初めて、英語が日本語に比べて遥かに論理的考察に適していることを知ることとなる。

英語の科学論文では、観測結果の数値が何を意味するかについて、曖昧さがあれば受理されない。つまり、それらの数値が、何を対象にどのような方法で得られたか、統計的に意味のある数字なのかなど、実験値が研究対象の記述となり得ているかどうかの確認が先ずなされる。その後、数式などを用いてなされる実験値と執筆者の引き出した対象に関する結論や推論との間を結ぶ論理展開の正しさが、さらにその結論等のその分野に置ける重要性が、審査員や編集長(室)により審査される。発表後は、読者によりそれらがより綿密に多くの方向からなされ、その評価が長い時間を経て実際の業績となる。

そのようなプロセスを経験した人間からすれば、一連の豊洲とベンゼンの関係に関する知事の発言や各種報道の質は、一編の低級な短い論文にも劣るというのが正直な感想である。(補足3)

補足:
1)カッコ内は推測で補足した語句である。肝心な目的語などを省くのは、日本語の欠陥を利用した保険だろう。何か不都合が生じた時、カッコ内の語句を自由にいれかえることができるからである。(日本語の欠陥については、HPやブログに山ほど書いてきた:e.g., http://island.geocities.jp/mopyesr/kotoba.html
2)N個の観測数値があったとする。夫々の数値の平均値からのずれを二乗し、足し合わせて平均した数値を分散と呼ぶ。分散の平方根を標準偏差(σ)と呼ぶ。乱雑な現象の場合、2σより上にずれた値を得る確率は2.3%以下である。したがって、地下水全体のベンゼン濃度が問題なら、問題にすべきはその平均値であり最大値ではない。観測結果が平均値から大きくずれた値なら(2σ、3σずれているのなら)、それは観測機の誤動作や誤操作も疑う必要がある。
3)今朝の読売新聞朝刊一面にこの件が記載されていたが、最大値のみを記載している。情報量はほとんどゼロと言って良い記事である。

2017年1月14日土曜日

韓国の未成熟な政治の原因:韓国は封建社会を経由していない

1)ここ数日少しずつだが、韓国のキム・ワンソプ著「親日派のための弁明」を読んでいる。この本は、自信を無くしつつある日本人の方々、特に左寄りの方々の必読書だろうと思う。何故なら、韓国や台湾の資本主義経済の発展は、日本統治を基礎としてなされたと論理的に述べているからである。今回は、その本を参考にして、韓国の歴史に関する誤解と現在の未成熟な社会の原因などについてまとめてみる。

マルクスの社会発展の理論は、人間社会は下部構造である経済構造の変化が上部構造である政治と文化をかたち作る原動力になるというものである。そして人間の政治構造は、原子共同体社会、奴隷社会、封建社会を経て、資本主義社会に発展してきた。資本主義社会の前段階である封建社会を持ったのは、上記キム氏の本には、日本と西欧だけであったという。

従って、近代資本主義の発展には封建制度を経過する必要があるが、それまでの韓国は李氏朝鮮という帝政であり、日本で言えば平安時代に相当し、近代資本主義の萌芽は全くなかった。日本統治は、被支配国を搾取の対象とする西欧型の植民地政策ではなく同化政策であり、日本と同じ近代資本主義的な政治制度の導入と同時に、近代化に必要な基礎情報の収集、教育制度や交通網整備などのインフラ整備などがなされたのである。

2)次に何故、封建社会が近代資本主義社会の成立に必要かについて考える。封建社会においては、封建領主が一定地域の土地を支配してそれを領民に分配し租税(日本では年貢米)を徴収する。そのため、領地内では地域毎に土地に関する権利や租税に関する強力で整備された法体系と、それを執行できる政治組織を持つ。そして、それらを大きな範囲で統合する中央集権政府が存在する。

従って、領民はその領域とその中で有効な法律を意識して生きるという法治国家の基本を身につける。封建領主の支配は、その権利と義務の関係を保障するものであるから、経済活動もその範囲で広く行われる。広範な範囲での経済活動は、貨幣経済の発展をもたらし、その結果資本の蓄積といったことも広く意識される。これらは、近代資本主義に必要とされる多くのことの準備となるのである。

その結果、日本では西欧の市民革命とは異なった形だが、結果的に明治維新という革命が成功裏に進められ、資本主義的国民国家としての体制を整えることになった。一方、朝鮮半島ではこのような経過を経ておらず、また、登記制度や裁判などにも馴染みがなかったので、独自に近代化を成し遂げるのは困難だっただろう。ただ、現代の日本の歴史教育において、この江戸時代の役割を正当に教えていないことは改めるべきである。

韓国では以上のような、経済史学や歴史学の成果を否定している。つまり、現在でも韓国では近代化の萌芽が李氏朝鮮の時代にあったのだが、それを日本統治が摘み取り、韓国の独自の発展を阻害したという教育を行っているという。それを著者は、韓国は何故「オレンジ畑でリンゴを探すのか」と嘆いている。

3)以上の考察を経れば、何故韓国が、現代においても尚、権利と義務、法と正義などの基本的な知的インフラに(部分的に)欠ける国家なのかが理解できる。例えば韓国は未だに、親日派という人間の分類項目を作り、それに指定された場合には、その資産を没収できるという類のとんでもない法律(反日法)を制定したり、対馬の寺から盗まれた仏像を、犯人逮捕が終わった後も元々は韓国から盗まれたものだから、返却できないと言い張るような国なのである。

韓国のようなことすべての国が主張すれば、ルーブル博物館も大英博物館もほとんど空になってしまうだろう。韓国は上記のような歴史歪曲を行っていること、且つ、それが韓国の発展を阻害しているということについて、支配層すら十分気がついていないらしい。その”苦しみと事情”は、薩長下級士族を中心とした日本政府が、明治維新の後で江戸時代をまるで暗黒の時代のように規定した事実を考えれば、理解できなくもない。(補足1)

つまり、韓国も独自に近代民主主義社会に発展させる段階になり、過去を足場として蹴ることの反跳力を利用することが安易な道として欲しいのである。過去とは日本統治時代の韓国である。(補足2) 韓国がより安易な方向に流される理由として、日本の場合は明治維新を多くの血を流して成し遂げたが、韓国の場合は日本の敗戦という棚ぼた的にその時期を迎えたことがあると思う。(補足3)

また、世界各国に封建社会を経ていない国が多いが、それらの国々に何故個人の権利と義務を明確に規定する民主主義制度と、それが必須の近代資本主義社会が定着しにくいのかが理解できたような気がする。

補足:
1)明治維新という革命で分断された国家を早期に統一をするため、思想教育の一つとして利用されたと思う。しかし、それが訂正されないのは、今でもなお薩長政権が続いている結果ではないだろうか。
2)朝鮮半島の人々は、朝鮮国が中華帝国の朝貢国(属国)であったという劣等意識を、中国より遠い島国日本を格下の国として見下すことを中和剤に用いて、心理的安定を保ってきたのだろう。日本が敗戦したので、それを足蹴にすることに二重の意味が生じたのである。一つは格下の国であるにも拘らず、朝鮮を支配した国であること、もう一つは上記の近代化へ向けて国民を結束させる安易な方法としてうってつけであること、の二つである。 3)以上の考察を経れば、何故韓国は、権利と義務、法と正義などの基本的な知的インフラに欠ける国家なのかが理解できる。
(15日朝一部加筆の上編集)

2017年1月13日金曜日

トランプ新大統領はやっぱり変か?

少し古い話だが、週の初めの日曜日朝7時サンデーモーニングの感想から書く。

トランプ大統領の政治がすでに始まっているという指摘ののち、二人のコメンテーターにより興味ある指摘がなされた。一つは、寺島実郎氏によるトランプ氏は白人低所得者層の支持で大統領に当選したが、その実態はニューヨークの金融資本の政権であるというもの。

財務長官と国務長官に夫々予定されているゴールドマン・サックスの関係者やエクソン・モービルの経営者などの顔ぶれはその話を裏付けている。トランプ氏のキャッチフレーズはアメリカン・ファーストで、そのアメリカンがアメリカ人だと思って投票した人が多かっただろうが、本当は“アメリカの”という形容詞であり、その後に金融とか企業とかがつくのだろう。それを実現するために、国防長官には軍人を持ってきているし、核装備の拡充などにも言及している。

つまり、トランプ氏が考えているのはアメリカ孤立主義ではなく、アメリカ企業や金融の利益第一主義であり、そのおこぼれをWASP貧困層にtrickle downさせるというものだろう。アベノミクスでもtrickle downがなかなか実現しなかったので、トランプ批判は半年ほどで生じるだろう。

もう一人のゲストの姜尚中氏が引用した最近英国でできた新しい言葉ポスト・ツルース(post truth)時代についての話である。つまり事実(truth)を無視して、いい加減なプロパガンダが世界を動かす時代を指す。この用語については新たに言葉を作る必要などないとの議論は既にした。何故なら、嘘が歴史の中に山ほどあるからである。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/43126500.html

しかし、昨日の記者会見でのトランプ氏の発言は異常である。大統領就任後も変化しないのなら、何か事件が起こりそうに思う。例えば、自動車をメキシコで作って米国で販売する場合、高い関税をかけるとの発言(補足)は、NAFTA(北米自由貿易協定)に違反するので、20年以上も続いた条約を廃止することになる。そんなことが簡単にできるのか?

とにかく、そろそろ大統領らしい発言をしないと、ロシアの政権の選挙介入問題が大きくなってくると思う。

補足:関税ではなく、全く新しい税金であり(国境税と呼ばれている)、性格としては法人税の増税らしい。しかし関税の増税ならNAFTAからの脱退で可能だが、国境税のような非関税障壁の創設はWTO違反になると、三橋貴明氏が指摘している。(18:00) https://www.youtube.com/watch?v=bykcrTrx6JQ

2017年1月12日木曜日

米国ニクソン大統領が佐藤総理に日本の再軍備と核装備を勧めたという話

1)米国の対日政策は一貫して、日本国の「骨抜き」を目的としていると考えてきた。つまり、非武装を定めた日本国憲法の制定や有能な人間の公職追放など、マッカーサーの戦後の占領政治の延長上に現在もあるということである。しかし、それとは若干異なる歴史的事実も存在したのである。

以前のブログでも書いたのだが、片岡鉄哉氏は著書「核武装なき改憲は国を滅ぼす」(ビジネス社)において、佐藤栄作の首席秘書官だった楠田實著の「楠田實日記」(中央公論社、2001年、776頁)を引用して、米国ニクソン大統領が憲法改正と核武装を1967-1972の間に何度か佐藤栄作総理に勧めたことを書いている。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42740249.html

この片岡鉄哉氏の本を読んだ時には十分消化吸収できなかったのだが、今回江崎道朗氏の「中国共産党の対日工作」という動画を見て、納得できたので、その講演の資料を参照して少し追加する。

米国は、1962年10月の“キューバ危機”において、ソ連との悲壮な決意で臨んだ交渉の結果、核戦争の危機を脱した(補足1)。また、ベトナム戦争において、1965年には最大16万人を派兵しながら、勝利には程遠かった。ニクソン大統領の提案はそのような情況下でなされたのである。その冷戦時の米国の焦りを前提にすると、再軍備と核装備の勧め、および、冷戦における米国への積極的協力を、日本に要請したことが理解できるのである。

2)1967年10月、ニクソン大統領は外交専門誌foreignaffairs誌上で、ベトナム戦争に疲弊した米国は、もはや世界の警察官としての役割は十分には果たせないので、同盟国は「中国の野望」から自らを守るために、より一層の努力が必要であると述べた。1969年11月ニクソン大統領は佐藤総理に、沖縄の核兵器をアメリカ製から日本製に変えるように促した。

1972年1月、訪米した佐藤総理に対して、ニクソンはアジアでの日本の軍事的役割の拡大を主張したが、佐藤総理は「日本の国会と国民の圧倒的多数は、核兵器に反対している」と反論した。これは、ソ連と中国の脅威に対して、日本はアメリカと共に戦う意思はないと表明したことになる。しかし、日本は日米安保条約をあてにしないわけではない。日本は、この子供の論理から戦後四半世紀経っても抜けていないし、抜ける努力もなされていないと最高指導者は言ったのである。

ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官(のち国務長官)らが、冷戦に勝つために恐らく並行して考えていたと思われるのは、日本の軍事面を含めた協力とソ連と中国の分断である。当然、後者の作戦において中ソ国境紛争(補足2)が米国の味方となると、そして、日本が米国に一人前の国家として協力しないのなら、日本を売り渡すことは大きな取引材料になると、ニクソンらは考えた筈である。

1972年2月に訪中したニクソン大統領は毛沢東との会談で、日米安保条約は「日本が軍事ナショナリズムに走ることを阻止するためのものである」と主張した。そして、2月28日の米中共同コミュニケにおいて、中国側は「日本軍国主義の復活と対外拡張に断固反対し、中立の日本を打ち立てんとする日本人民の願望を断固支持する」と書き込んだ。

その後は、1976年三木内閣の防衛費GNP1%枠設定、1982年鈴木善幸内閣での教科書問題事件で、歴史教科書に日本の「侵略」を明記することの約束など、現在の日中関係が出来上がった。

3)日本が何故、このような半国家のような状態になったのかは、戦後、経済復興を最優先したからという言い訳はありえる。しかし、経済発展は国家あってのことであり、そのような路線は極短期ならともかく将来に禍根を残すことは、誰でもわかった筈である。

その戦後政治において、日露戦争後日本が受け入れた多くの中国人留学生が、大きな働きをした。共産主義思想を日本で学び、その後中国共産党員として日本の工作に関わったという。特に、中国共産党の下に位置した(補足3)日本共産党など左派勢力に大きな影響力を持ったというのが、江崎道朗氏の講演「中国共産党の対日工作」の主題である。

前回のブログに書いたように、その工作が与党である自民党の主流派にまで及んだことが、日本の半国家化に大きく寄与したということになる。そのもっとも大事なポイントは、過去の戦争を侵略戦争と位置付けて、それとの関連で日本の再軍備や日米安保条約に反対するという筋書きである。その考え方に日本の国立大学の学生たちの頭脳が完全に支配されたのが、60年および70年安保闘争である。

日本が主権回復後に、大学等の英知を集めて過去の戦争を詳細且つ客観的にレビューして、その作成した報告書をにおいて正当化すべきところを正面から主張しておけば、このようなことにはならなかったと思う。その趣旨の記述は、半藤一利氏の昭和史などにはない。むしろ、韓国人のキム・ワンソプ氏の「親日派のための弁明」で述べられているのは情けない限りである。

補足:

1)キューバ危機:
共産主義が自由主義に勝つのではないかという恐れをかなりの人が持った時代の出来事である。米国民の事情に詳しい人のかなりは、共産主義の波が米国を飲み込むのではないかと本気で思っただろう。J.F.ケネディは就任後すぐに、キューバで誕生したカストロ政権を牽制する意味で、キューバの経済封鎖を発表した。その翌月、5月にベトナムに正規軍を軍事顧問団の名目で投入する決断をした。その同じ5月に、宇宙開発とロケット技術での遅れを取り戻すため、議会において月面に人を送る計画のスピーチを行なっている。
その翌年の10月にキューバに核基地が出来つつあることを米国は発見した。その対抗策である海上封鎖を、ケネディがテレビで米国民に知らせた時、彼らの共産主義に対する恐怖は頂点に達したと思う。キューバ危機は、ソ連のミサイル撤去という形で幕を閉じた。その代わり、米国はキューバへの不介入とトルコに配備していた核ミサイル撤去を約束した。両方の駆け引きは、一流の指導者ならではと思わせるものである。互いに、取りうる選択の余地を残して交渉できたのは、互いに相手の力を評価していたからだろう。

2)つまり、1969年3月ウスリー側の中洲を巡って武力衝突をし、その後もアムール川の中洲などで衝突を繰り返すことになる。しかし、ソ連のコスイギン首相はベトナムのホーチミン国家主席の葬儀のあと北京に立ち寄り、周恩来首相と会談を行い政治解決の道を探るために問題を先送りし、軍事的緊張は緩和された。

3)コミンテルン執行委員の佐野学は、コミンテルンより日本共産党に対する活動資金及び各種指令は、中国共産党の手をへて伝達されることが多いと、供述したという。

2017年1月10日火曜日

ポスト-真実の政治? 中国の嘘と工作で動かされた日本の近代

§1。 ぽすと-真実(post-truth)という言葉を聞いたのは、この8日のテレビ番組「サンデーモーニング」で、ゲスト姜尚中氏が昨今の政治について話した時が最初だった。それを聞いた後直ちに、政治とは大昔から嘘の連続なのに、今更何を言っているのかと思った。

その言葉の由来だが、オックスフォード辞書を出版しているOxford Dictionariesが毎年、その年の言葉(Word of theyear)を選んでおり、2016年がそのpost-truthだった。特にpost-truth politics (ポストー真実の政治)という風に、政治を形容することを念頭に置いた形容詞である。(補足1)

オックスフォード辞書出版のHPを見ると、post-truthという言葉は、”客観的事実に基づくよりも、感情や個人的信条に訴える方法の方が世論を形成する上で有効であるという状況、或いはその様な状況に関するという意味の形容詞”と定義されている。(補足2)https://en.oxforddictionaries.com/word-of-the-year/word-of-the-year-2016

この単語自体は既にあった様だが、今年英国のEU離脱の決定やトランプ氏の次期米国大統領への当選などの際に、主なる出版物においてその言葉が説明なしで用いられるようになり、その出現回数がスパイク状に増加したという。

しかし、上記定義は何かおかしい。Post-truthには、真実(truth)の後に来るものは何も書かれていないので、当然、上記定義にある“感情や個人的信条”などの意味は無い。大衆の感情や個人的信条(例えばナショナリズム)に訴えて政治的力にする用語として、既にポピュリズムという言葉がある。何故、それを使わないのか?

つまり、Post-truth politicsという言い方には、欺瞞が含まれている。それは、これまでの政治は真実に基づいていたという嘘である。確かに、表舞台では民主政治という形式が取られていたが、それを犯す内外からのいろんな力が存在して、実際には影の力やメカニズムが政治を動かす大きな力となっていた。それに反感を持った民衆が民主政治の方法により大きく動かすようになった政治が昨年の世界的現象であり、それをpost-truth politicsというのは、米国の新聞などと同様、これまでの支配者とべったりだった出版社や新聞社による敗者の戯言なのだろう。(補足3)

§2。 嘘800並べる政治的プロパガンダが政治を動かし、その結果が歴史を作るという意味では、「ポスト真実」と言う言葉を用いて新しい現象のようにいうのは欺瞞である。そのような手法はむしろ古典的である。近代政治において諜報活動が大きな力を発揮して来たのであり、それらを意識することは現在の政治でも重要である。日本の戦後政治にとって非常に弱い分野であるが、中国や英国など大陸の諸国(の政治当局)はそれを研究し、実行していると思う。

以前書いたが、中国では昔から人間を階層分けして、士の身分と君子の身分では別々の考え方が必要だと教えており、「君子は言葉に縛られることはない」というのが常識だという。つまり、君子つまり政治を行う者は、時に嘘をつく(あるいは豹変する)のである。(補足4)一方、日本では人に仕えるものの教育だけに熱心であり、「嘘は泥棒の始まり」でしかない。(補足5)その結果、日中国交回復の際に、田中角栄が周恩来にさりげなく馬鹿にされても、それに報道機関も気づかないのである。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42762695.html

主題からの飛躍が過ぎると言われそうだが、あえて書く。

たとえば、最近ネットでの議論で教えてもらった江崎道朗氏の「中国共産党の対日工作」という動画では、情報を知らないのか工作を受けた結果なのか、その田中角栄時代の非常に貧弱な中国外交を指摘している。この一部は過去にすでに指摘した。”田中角栄は天才か小物か”:https://www.youtube.com/watch?v=RLG8vUu9lVg

中国の共産党政権が、大躍進運動の失敗による経済的苦境から立ち上がれない時に、日中国交回復と経済協力で、田中内閣は中国経済の立て直しに協力した。また、外務大臣の大平正芳の指令により、中国を刺激するような情報活動を禁止し、中国共産党の日本に対する工作を助けた。さらに、天安門事件で国際制裁を受けていた時に、加藤紘一内閣は天皇陛下の訪中とODAの再会で中国共産党政権を助けた。

なお、中国共産党はモスクワのコミンテルンの下にあり、その工作員の疑いのある人物が、池田勇人が作った宏池会の初代事務局長を勤め、その宏池会に上記加藤紘一、大平正芳、の他、河野洋平、宮沢喜一らという売国奴的人物が属するのである。また、中国がスパイ教育して日本に返した旧日本兵の団体である中国帰還者連絡会が、731事件や南京大虐殺などを、嘘を含めて大宣伝したのである。

上記講演において江崎氏は、これらの嘘を使った工作が日本側に大きな損害を生じさせていると指摘している。つまり政治は、嘘を如何に多く大きく宣伝するかの競争のようなものだったと言うのが常識であり、重ねて言うが、post-truth politicsとか言う言葉を今更作ることは欺瞞である。

追加:素人ですので、思い違いや誤解が含まれる可能性があります。指摘くだされば助かります。最後の方は江崎氏の講演内容の書き写しにしか過ぎません。ただ、江崎氏は売国奴という言葉は使っていません。(同日10:30(UTC))

補足:
1)清水寺管主が筆書きすることで有名な2016年の漢字は「金」であった。また、2016年の流行語大賞は「神っている」であった。日本の一般民の昨年の理解は、この程度なのか。
2)次のように説明されている。an adjective defined as ‘relating to or denotingcircumstances in which objective facts are less influential in shaping publicopinion than appeals to emotion and personal belief’
3)民主政治という言葉は、必ずしも”民”が最大の利益を得るという制度を意味しない。民が代表を選んで議会を作ることや議会が定めるルールに責任を持つこと、及びそれらを維持する能力と責任を持つ制度である。つまり、変な工作を受けるのは、民がその責任を果たしていないだけであり、その民が不利益を受けることを理由に民主政治ではないということにはならない。
4)孟子には、「孟子曰、大人者言不必信、行不必果、惟義所在」とある。”大人(たいじん)は言うことを必ずしも実行しない。またやっている事業を必ずしも貫徹しない。ただ、義のあるところに従ってなすことだけ”の意味。
5)これは、権威だけ持ち権力を持たない天皇を政治の中心に置くという、訳のわからない政治制度の欠点の一つだと思う。つまり、権力を少数の人間が握り続けることが天皇の権威をかりて可能となる。そこで必要なのは、下克上を抑えるだけであり、大人(たいじん)を育てる言葉は不要である。天皇を元首に規定する憲法の自民党草案では、その欠点を合法化するだろう。天皇に関する条項は、今上天皇が国民に向けた言葉で強調されたように、象徴と規定する現行憲法のままでよいと思う。