2013年8月31日土曜日

アベノミクスの指南役”浜田宏一氏”の本を読んで:


(7月ホームページ付属のブログに投稿したものを若干修正して掲載します;http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/mopyesr/view/201307)

 昨日、「アメリカは日本経済の復活を知っている」と題する本を本屋で見つけて買った。著者の浜田先生はアベノミクスの指南役のような立場の方であるということなので、一度、読んでみたかった。内容は一言で言うと、通貨供給量を増やせば、為替は妥当な円相場(\100-110/$)にもどり、輸出企業は復活するだろうというもの。ゼロ金利に近く企業などに借り手が無くても、強引にやれば良いということである。円高になった原因はリーマンショック以後、他国が通貨供給量を増やしたのに、日本はほとんど増やさなかったからということである。用意されたグラフ(図表9;ソロス・チャート, p102)を見ればその点は明らかである。

 ただ、低金利政策なら日銀はやったと思うが、既にゼロ金利だったことが、日銀が何もしなかった或は出来なかった理由だと思う。金の借り手が無くても、通貨供給量を増やす具体的な方法が、そこではなく、ずっと後ろの方に書かれていた。
以下その方法:1)日銀が多量に国債を市場から買い上げて、政府がその金をインフラ整備などに使う“財政出動”である(ほとんど法律違反であるが)。(注1) 
その他に、2)いろんな債券や投資信託などを購入する。
 株価指数連動型上場投資信託(ETF)などを買う場合には、株価の上昇を後押しする。また、不動産投資信託(REIT)を購入した場合には、不動産価格が上昇するだろう。これも日銀は投資会社ではないので、一部の業界へのプレゼントのように見える異常な手段である。
 つまり、何れの方法も緊急避難的であり、政府の堕落の危険性と経済分野における不平等性を含むと思うが、そのあたりは非常に楽観的に書かれている。日銀の金融緩和に反対する経済通の人は、1)の方法をとることによる、国家財政規律崩壊と破綻を心配している。IMFも何とか破綻を防ぐ対策をとる様に(つまり、財政再建)勧告してきているので、浜田名誉教授の書いておられる程安全ではないと思う。多くの大口の円通貨保持者は海外に資金を移動するだろうし、悪い噂が流れた時には銀行に人が列をつくることになるかもしれない。また、国家が破産しても国民が破産するわけではないとおっしゃるが、ずっと郵便貯金で持っていた人は酷い目に遭うのではないでしょうか?実際には長期金利も低く、破綻の心配はないということであるが、逃げ足の速いプロの投資家は直前まで心配ないというだろう。日銀が相手なら最後までやれば投資家に勝ち目は無いとはいえ、後始末がたいへんだろうと思う。(つまり、極端な場合は国債を全部買い上げてしまえば良いとまで書いてあったと思う。)

 浜田名誉教授の説明される円高の弊害は、国内コスト、特に賃金が国際比較で高くなり過ぎ、輸出企業に不利になるということである。そして、それを是正する為に通貨発行量を増加し、円安に誘導するということである(p73)。日銀の白川さんが通貨量を増加しなかったのは、既にゼロ金利だったことと、多額の国債発行残高があったためであり、日銀だけの失敗ではない。ただそのとき、対策をとり得るのは日銀だけだったということで、矢面に立っているだけである。農業への株式会社の参入などを許さない規制温存の政治、ダイナミックな国際展開などを思い付かない老人幹部の(人事が停滞した)企業なども原因である筈。今の政治では国民は将来に不安を感じ、出来るだけ貯蓄をして老後に備えようとするだろう。そもそも、伝統的に政府不信の国民は、貯金を多く溜め込むことを無条件に良い事と考えている。金のある人も無い人も、一億人が貯金に励むことが、通貨の循環を阻害し、不景気の主原因の一つとなってきた筈。(注2) 

 実際、第4章以降に、日本の教育、文化、などが、国際基準からみて大きく異なっており、競争は大学入試で終了し、同じ分野での競争をへて優れた人材が指導者として浮き上がるメカニズムが無いなど、日本の文化に疑問を呈しておられる。それらを国際標準的に正すことが、日本経済復活の原因療法の一つであると思っておられるのだと思う。明確にそう書いてほしかった。
また、与謝野さんや藤井さんをデフレ擁護論者と言っておられるが、そうではなく、財政再建優先論者だと思います。彼ら政治家としては誠実ではあるが、経済をあまり知らないのでそう言われても仕方ないということでしょうか?与謝野さんと藤井さんに本を書いてもらいたいものである。

「注釈」
1) 国債の直接引き受けは法律で禁止されている。市場からどんどん買えば良いというのは、屁理屈に聞こえる。
2) 「だから、政府は金を使う役を引き受けて来たのだ」といいたいのであろうが、そう言う理屈を古来より、「盗人たけだけしい」というのである。

「携帯を持ったサル」再考

 携帯を持ったサルは正高信男氏の著書のタイトルである。携帯電話を持て余しているヒトを表している。つまり、「携帯電話という先端技術製品の前では、サルに過ぎない人が多い」ということである。人が、ことばと論理を操ることが出来る唯一の動物であることは確かである。しかし、近代科学とそれに基づく技術文明の開花は、ある種奇跡的な現象であると思う。正高氏のことばを延長して、我々は「高度な科学技術文明を持ったサル」ではないだろうか。


 さて、この文明の基礎をなす科学が高度に発達した理由として、1)この世界は神が創造したので、緻密かつ美しく出来ている筈;2)従って、その構造は、“ことば”を用いた論理的考察により解明できる筈;3)人の和よりも真理に最高の価値をおくべき、の3つの信念をもち、この自然界の成り立ちを哲学する有閑階級の社交の場、つまり学会が存在したことであると思う。会う人毎、情況毎に異なったことを言う東アジアの文化の中では、このような科学は決して生まれなかった筈である。つまり、日本の科学文化は全く西欧キリスト教文化圏のものの模倣でしかない。この異なった文化圏或は奇跡的な文明の中でつくられたものに、(日本の)人は順応できるだろうか?という質問が、本稿の「携帯を持ったサル」という表題の意味である。



 ところで、携帯を持った"サル"は、日本の若い人が電車の中でもひたすら携帯と向かい合っている姿を見て得た着想だと思う。確かに、日本で顕著に見られる病状である。今の若者の集団において、携帯電話から発せられる電波がまるで、“場の空気”というより“場の電波”として、集団を支配するような情況になっている。河合隼雄さんは、日本は場が支配することとそのメカニズムを“母性社会、日本の病理”で分析している。また、その一つの現象として日本の“平等信仰”を指摘している。


 私流に例をつくってみると、人は皆平等という心理的縛りにあった社会は、例えば同じ質量の多数の玉(平等)が、同じ定数[フックの法則のF(力)=kX(Xは伸び)のk]のバネで結ばれた規則正しい構造に喩えられる。そこでは、瞬時に伝搬される電波で玉が運動を始めると、大振動となって全体が揺れるが、一部に少し差のある不純物的玉があると、そこで構造破壊(いじめなど)が起こる。そのようなことがないと、最初の運動を始めた玉の方向に、全体の集団的移動(そこの女子高生全員が超ミニスカートを着るなど)が起こるかもしれない。“携帯を持ったサル”は、猿にその知性を遥かに超えたものを見せたときの反応を観測した記録と言える。例えば、ネコに鏡を見せた時の反応;猿にロボットを見せた時の反応;そして、三流女子高生(失礼)の一群に携帯電話を持たせた時の反応、を併記すればその表題の意味が良くわかる。このような失礼な表題の本を、マスコミは叩かず、民衆はボイコットせず、長い間本屋に陳列されてよく売れたものだと思う。



 ここで書きたいのは、このようなことだけではない。日本の科学会のことで一言ある。上記のような病理は女子高生に限ったことではない。日本人全体、そして、知性の本丸と思われているかもしれない学会においても同じであるということである。つまり、西欧の伝統である“科学”の分野で、“真理”に最高の価値を置く社交界の“学会”において、三流大学教員から亜流研究所の研究員に移った研究者の研究を、そのまま物まねして科学研究費を申請し、仲間内の審査で通した後、その成果に学会賞を与えるというようなことも起こるのである。(参照)  また、スパコン開発に多額の予算を計上するように、”科学や技術の研究に必須だから”と、専門外の偉い先生が恥ずかしげもなく堂々とテレビの画面で訴えかけ、数百億—千億の予算を計上する文部科学賞の連係プレイの愚かさ(おっと!某企業のトライアングルだった)も、西欧の学会という制度を使えこなせない"サル"同然ではないだろうか。(参照)


 因に、上記河合隼雄先生の本では、“平等信仰”の日本でも、現実には社会が回って行かないので、「分」という概念を以て調和ととって来たと書いている。つまり、「身分という限界を生まれながらに持つものとして受け入れ、それによる不平等は運命的に受け入れる」(80頁)というのである。つまり、スパコン開発費計上は、理化学研究所の理事長や東大教授が仰せになることだから、認めるというのである。知性の本丸まで"サル"である。(これは、ホームページ付属のブログに6/2掲載したものを書き直したものです。)


2013年8月29日木曜日

櫻井よしこさんの靖国参拝に関するコラムを読んで解った事。

 週刊新潮8月15・22日号の連載コラム「日本ルネッサンス」(172頁)に掲載された櫻井よしこさんの文章を読んで、所謂右寄りの人たちが靖国に参拝する理由について、私は重要な誤解をしていることに気づいた。櫻井さんを始め多くの上記自民党議員たちには、単に戦死した多くの兵士達の慰霊だけではなく、戦争主導者達(所謂A級戦犯を含む)を含め全戦犯の慰霊も、重要な参拝理由であることが解ったのである。つまり、彼らは戦争責任者などいないという考えを持っているのである。櫻井さんは書いている、「独立を回復したとき、全国で戦犯の赦免及び保釈の運動が湧き起こった。赦免を求めて署名した総数は4739万人だった。A級戦犯注1)をはじめとする全ての戦犯の赦免こそ、国民とほぼ全ての政党の切なる願いだった。」更に、「A級戦犯を含めた全ての戦犯は、日本国内外の合意と承認を得て赦されたのであり、合祀の時点ではもはやどの人も戦犯ではなかったのである。」と。
 この文章において、櫻井さんは明解な、しかし私にとってはとんでもない、主張をされている。その為、歴史的データを自分に都合の良い方向に解釈されている。例えば、1)4739万人の署名は、全ての戦犯の赦免を要求するものだったのか?という疑問がわく。つまり、戦犯のほとんどはB・C級戦犯であり、極限情況での捕虜虐待などの犯罪行為を裁かれ投獄中の人たちである。東京にいて戦争を指揮し、既に絞首刑になったA級戦犯たちを念頭において署名しただろうか?しかし、櫻井さんは強引に、「A級戦犯を始め全ての戦犯の赦免こそ、殆ど全ての国民の願いだった」としている;2)「全ての戦犯が赦免されたのだから、靖国に合祀された段階では戦犯では無かったのである」と勝手に解釈している。赦されたのだからその人達は戦犯ではなかったという、とんでもない理屈である。注2) ボケた頭のせいなら兎も角、全体的に練られた文章の中に、このようなとんでもない理屈を入れるという手口は悪質としか言い様が無い。
 また、絞首刑にされたA級戦犯の多くは、終戦時内閣を組織し、原爆や空襲で数十万人の民間人に死者を出しながら、尚、自分達ではポツダム宣言受諾を決められなかった指導者である。注3) 西欧諸国に戦争を挑み国家の存立さえ危うくなってもなお、自分達の立場に固執して何百万人を無駄死に追いやったのである。国民の平穏な生活を守るというような視点はなく、国民全てを自分達の危険な賭けのチップとしたのである。そのような人たちを英霊として何故拝まなければならないのか? 戦争は、ましてや一億玉砕や神風特攻隊は日本国民全員の本来の意志ではない筈である。そのように国民を煽動した者達の霊を拝む必要はない。
 戦死者のほとんどは国家へ命を捧げた方々であるが、何故神社ではなく墓地に埋葬し、国民が純粋な気持ちで墓参できるようにしないのだ? 明らかに靖国神社は、戦死したら神になるというごまかしを用い、兵を死すべく戦場に追いやるのに用いられた国家主義的施設なのである。 注釈: 1)日米開戦には慎重派の閣僚でも、開戦時内閣の構成員だったという理由でA級戦犯となった人もおり、一括りにして論じるのは不適切であると思う。櫻井さんは全ての戦犯を同等に考えておられるから、文字通りで良いが、私は、A級戦犯を以下戦争指導者の意味で用いる。 2)A級戦犯合祀が1979年4月に毎日新聞のスクープ記事となった直後、靖国へ参拝した大平首相は、6月の参議院内閣委員会での質問には、「(A級戦犯についての)審判は歴史が下すであろうとかんがえています」と答えた。その後12月には中国を訪問した際、多いに歓迎された。中国の姿勢が変化したのは、中曽根首相が85年8月15日に10回目の参拝をした後の9月20日である。明らかに政治的な理由がある」と書いておられる。中曽根首相の終戦記念日での参拝に対する批判までに、6年近く経っていることから、中国は政治的に利用していると結論している。明確に先の大戦と関係つけて参拝したのが終戦記念日に参拝した中曽根首相であるのなら、中国の批判は瞬時ということになるが、その点には何もふれていない。 3)ポツダム宣言は前の米国の駐日大使であった、グルーの努力により日本を救う為に出されたということである。厳しい内容の中に、そのような意図が汲み取れない指導者は、一国の指導者たる資格はないと思う。
(2014/1/2改訂:日本語的におかしいところを改訂しました。何故、旧稿のような日本語になっていたのか不思議である)

2013年8月27日火曜日

善と悪:再考

 善を尊び、悪を憎んで人間社会が運営できれば理想的である。しかし、歴史上現実の世界はそのようには運ばなかった。この理想と現実のズレは、本質的なものなのだろうか?
 元々、弱い生き物に過ぎない人間は、大きなグループ(注1)を造ることで個人の多様な能力の総和をとり、全体として大きな力の集団を形成する必要があった。その為には、グループへの帰属意識とそのグループ内での揺るぎない結束(=信用)を作ることが重要である。家族関係にない個体間にも、固い繋がりを可能にするための背景として、“善と悪”という価値(倫理)が創られた。(注2) その結果、他の生物を圧倒することが出来、人間がその生存を懸けて対立するのは、他のグループの人間ということになった。もちろん他のグループでも、同じ様に“善と悪”を背景に構成員が結束している。このグループの形は、相似形をなすため、“善悪”という倫理的物差は普遍的に人間社会に君臨することになる。(注3)
 ところが、マルサスの人口論にあるように、地球は有限であるが人口は急速に増加するため、他のグループとの生存競争が生じる。必然として、人の歴史は戦争の繰り返しとなり、敵を討つ事がグループ内で評価される。その為、善悪はグループ内だけで成立する価値となる。私は、この人間生存のメカニズムが、自然現象のように進んだと思う。その結果、平均的な人間は敵地において、善悪を始め多くの人間的価値を脱ぎ捨てる事となる。しかし、この善悪に境界があることを常に認めると善悪の価値が崩壊するので、人類にとっては公然の秘密である。(注4)
 現代、上記グループとして最も適当な領域は、国というレベルまで大きくなった。近代史において欧米の民主主義が世界を席巻し、その結果善悪に適用領域を設けないで生きることが可能な世界国家を目指しているように見えなくもない。しかし、国際社会というかなり獏とした権威により、戦争にも一定のルールができ、(一定の範囲の国の間では)外交の中に包含することが出来る様になったのが精々である。(注5)
   現代政治の世界において、この戦争行為を大衆に向かって正当化することは困難である。そこで、理想主義と現実主義という二極を設けて、その後に理想主義を退けるという方法で、上記善悪の適用領域という問題を避けて来た。民主政治の根本的困難は有権者一般が大きな世界を俯瞰的に把握することが困難なため、理想に高い価値を置き、政治の世界の現実主義を汚いものとして嫌うことである。その結果、政治の世界は巧妙に嘘を用いて、この困難を克服?して来たと思う。(注6) また、人類の創る社会は国家のみではなく、複雑な多層構造を創っていることである。日本では、会社や官庁の省庁まで、共同体的グループである。その結果、善悪がその境界の内外で不確かになり、社会の信用環境を損なっているといえないだろうか。一神教の国では、要するに神の戒めに従うことが善であり、それで善悪からは自由になる。つまり、善悪を神に返すことで永遠の命を得ようとしている。注3) その結果、宗教以外のグループの地位は低下し、相対的に個人は自立する。「一神教、個人の自立、民主主義の正常な機能」の一組は、切り離せないのではないだろうか。(注7)
  『注釈』
注1) 人間は家族関係、血縁関係、地縁関係といった重複した社会構造を持つ大きなグループを作る唯一の動物である。
注2) 更に、大きな国家レベルでは、その中に多くのグループが多層的に含まれてくる。そのため、厳密な定義と強力な執行力を伴う“法”を併用することになる。その場合でも、善悪は社会生活を送るうえで、重要な信用という環境を養っている。
注3) 創世記によると、善悪を知る木の実を食べたイブとアダムは楽園から追放され、死ぬ存在、つまり生身の人間となったのである。
注4)知る人ぞ知るという意味。親鸞(浄土真宗)のことば、”善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや”は、悪を人間が生存する上での必然と見抜いてのことばだと思う。
注5) イスラムの世界やアフリカを見ると、そして、現在頻繁するテロリズムを考えると、これも一時の幻想かもしれない。
注6) 欧米の政治家は嘘がうまい。太平洋戦争開戦時の、米国のルーズベルトなどが良い例である。
注7) 小沢一郎氏は日本列島改造計画において、民主主義には個人の自立が重要であることを論理的に説明している。

2013年8月25日日曜日

有識者会議を表に出して利用する非合法な政治

 小泉内閣の時に皇室典範を変える目的で組織された有識者会議が、表の政治で大々的に利用された。法的根拠などない総理の私的組織であるからには、その議論は総理の見解となって初めて表にでるべきものである。従って、そのメンバーの名前や経歴とともに有識者会議の様子やその見解がテレビなどで報道され、それを取り上げる形で総理が政治に使うのは、民主主義を歪める卑怯な手法であると思った。仮に、その分野の有力な学者で組織するとしても、今まで結論の出ていない問題に関しては、意見が別れるのが通例である。その“有識者群”の中から、政府の決めたい方向を支持する者を選んで組織し、他の意見を持つ有権者からの批判をかわす為に用いていることが、ある程度の知識のある者が見れば明らかである。小泉内閣の皇室典範を改めるための有識者会議では、小泉さんの女帝容認論があり、それにそった結論を出させる為に、元東大総長のロボット工学専門の方が座長になって有識者会議が組織された。予想通り、ロボット工学の人が小泉氏のロボットになって、女帝を容認するという結論を出した。丁度そのとき、皇室に男児が出生して、その話が立ち消えになった。小泉氏が矛を収めると、その座長もロボットであることを証明するがごとく、電源が切れてしまった。  今回の消費増税に関する有識者会議も、既に法案になっている消費増税案を、今更議論している。消費税増税案は選挙で選ばれた議員が、そしてその中から選ばれた野田総理大臣が中心になって法案化したものである。今回の有識者会議など法的根拠は無く、それの議論の結果を用いて、増税を遅らせる法案を提出するとしたら、安倍内閣は、完全に民主主義無視の政権である。  また、内閣参与なるものが表に出るのも問題である。総理大臣が、浜田宏一氏などの意見をいろいろ聞くのは問題ない。しかし、それは安倍総理の考えを形成する為に用いるものであり、内閣総理大臣の作業の一部に含まれる筈である。従って、その方が、まるで、権力者の片腕のような形でマスコミに登場することに違和感を持つ。  いったいこの国は民主主義を理解しているのか?

2013年8月24日土曜日

北朝鮮との関係改善を急ぐべきでは?

 北朝鮮は新しい指導者の下、国際社会への復帰を考えているように見える。それが、時代の流れであることを留学経験のある若い指導者は、知っているようである。例えば、脱北者に帰還を求め、応じた者に現金の供与も行っているとの報道もある。 http://www.reuters.com/article/2013/08/18/us-korea-north-defectors-insight-idUSBRE97H0D120130818 また、韓国とケソン工業団地の操業再開や、金剛山の観光再開を話し合っている。このような韓国の動きは、外交標的を日本に絞っている証拠ではないだろうか。注1)
 日本国は、古い体制にあるものの新しい方向を模索する新体制の北朝鮮に対して、拉致被害者の救出、経済協力、平和条約の締結を目指すべきであると思う。北朝鮮が現在一番必要としているからこそ、経済協力が高く評価され、平和条約のための戦後保証金を低く抑えることが可能である。経済発展後、日本との距離が遠くなった場合、多額の保証金を提示され、日本の最大の脅威となるだろう。また、北朝鮮と拉致問題などを解決し、平和条約を締結することは、注2)韓国が中心となって進めている日本封じ込め政策への強力な対抗措置となりうるのではないだろうか。
 韓国の司法は、日韓平和条約において解決済みであるにも拘らず、戦時中徴用され民間企業で働いていた人の賠償請求を認める方向にあるなど、中国も巻き込んで日本封じ込め政策を強力に進めているようである。また、当時無かった従軍慰安婦というような言葉を用いて、米国の多くの都市にその像を設置したり、その他、安重根という名を戦艦につけたりと、日本に対する敵対姿勢を強めている。日本国も、太平洋戦争の歴史的評価をその中での指導者達の役割と責任を含め、総合的に行って国民に公表すべきである。本質ケジメをつけるためにも必要であると思う。注3)
http://island.geocities.yahoo.co.jp/gl/mopyesr/view/20130815/1376526533 日本国としては、尖閣諸島の防衛体制を整備する一方、これ以上の島への投資は遠分しないなど、中国に一定の譲歩を行うことで、反日の動きを封じる様にすべきではないだろうか。野中広務氏によると、田中角栄と中国首脳らとの日中国交回復交渉の際、尖閣諸島の領有権問題については棚上げにするという合意があったとのことである。 http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1307090015/ 日本には、「中国に一歩譲ると、全てを獲られてしまう」という、被害妄想的議論があるが、それは米国ベッタリの官僚たちが政治家を洗脳しているのだと思う。日本国が自信をもって、中国と交渉すればそのようなことになり得ないと思う。
 日本の国際的地位を護る為には、差し当たり対韓国戦略を重点に置くべきだと思う。米国は、日本がこのような動きをしたとしたら、「日韓が一致して、北朝鮮の核兵器を廃絶させるべく協力すべき時に、何を考えているのだ」と不愉快になるだろう。北朝鮮は核兵器を放棄することはあり得ない。韓国と対等に振る舞うには核兵器が差し当たり必要である。米国を標的にすると言う説が圧倒的であるが、北朝鮮が開放的な政策を今後執るとした場合、米国が北朝鮮を攻撃することはあり得ない。そして、北朝鮮にとって米国はミサイルの標的ではない。我々が肝に命じておくべきことは、米国は表向き親日的であるが、その下層にあるのは日本封じ込めである。田中角栄が日中で平和条約を結んだとき、キッシンジャーが「あのジャップめ!」といって、腹を立てたという話を想起すべきであると思う。
注釈:
1)私は元理系研究者ですので、この分野に詳しい方の指摘を歓迎します。
2)「核兵器を保持する北朝鮮と平和条約を締結するなんて、とんでもない」という意見が圧倒的だろう。しかし、北朝鮮は今後中国型の国家になることは確実であり、経済発展こそ軍事的脅威を減らすことになると思う。また、北朝鮮が早期に崩壊すれば、東アジアは大混乱となり、それこそ大きな脅威となる。
3)東京裁判史観を受け入れることを条件とした、米国等との講和条約との矛盾をさけるため、独立行政法人を設立して、そこを研究の中心とする形で進めたら良いと思う。

2013年8月23日金曜日

苛めが無くならないのは、苛めとは何かを社会が理解していないからである。

苛めによる中高生の自殺が続いている。その原因の一つとして、苛めという言葉が社会において十分理解されていない為、その有効な対策をとり得ないからだと思う。(注1)


 本来、我々が社会の中で生活する際、なんらかの利害の発生を伴う対人行為は、全て法律になければならない。しかもそれが間接的とはいえ、人の命に拘る行為であれば、なおさらのことである。しかし、”苛め”はこの様な対人行為として法律用語として存在しなかった。今年、いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)が制定されたが、“いじめ”の定義が十分な形でなされていない。(注2) 誰も何も言わないのは、日本が社会で生じた問題を、法律に照らして解決することに慣れていないことの証明である。例えば、最近の小倉さんの朝のTV番組(愛知県、地上波1CH;8:00~)によれば、自殺した高校生が校内でお腹を膝蹴りで暴行されているのを目撃したという、クラスメイトの証言があったという。この番組でも、学校長へのアンケートや教育委員会の考えなどが放送の中心であった。この行為は法的には暴行事件であり、警察の出番の筈であるが、全くそのような言及はなかった。全ての中高生達にも、たとえ平手打ちでも法的には暴行になり得、(注3)告発があれば刑法208条に従って刑事事件として処罰される可能性があることを教えるべきである。


 ここで、“いじめ”を私なりに定義しておく。「いじめとは、ある共同体において、特定の構成員を孤立した状態及びそれに近い状態に置いて、集団での心理的圧迫や肉体的暴行を加える行為である。」(注4) このように現在いじめと言われている行為になるべく近くなるように定義すれば、自ずとその対策が見えてくる。心理的圧迫には、個人のその集団からの離脱を勧めることを含めたカウンセリングを、暴行には警察を利用することで、解決される。もちろん、解決とは言え、当事者“双方”に負担となることは当然である。その負担が苛めを減少させることになると思う。  苛めによる自殺が示唆する、根本的なもう一つの問題点は、個人と共同体(ここでは学校のクラス)の関係を被害者を含めて構成員が重く考え過ぎていることである。幼少期には仕方がないが、中学生以降は個人の自立を教育の一つの主眼とすべきである。大人の社会を含め、日本では個人が共同体に依存する割合が高すぎるのではないだろうか。


注釈:
注1)私は元理系の研究者であり、法学は大学の教養課程で一年間学んだだけである。指摘事項があれば歓迎したい。
注2)殺人(人を殺したるもは、。。。)などについては刑法に定義はない。これは言語上明確だから問題はない。
注3)平手打ち(平手で顔面を殴打すること)でも、相手が侮辱された又は被害を受けたという感覚を持ったなら、暴行である。つまり、被害者がどう受け取るかにより変わりうる。それは裁判において決せられると思う。

注4)苛めの対象となる個人も苛めを行う側も、同じ共同体に属していることが大切な点である。上記法律の第2条の定義らしき文にはこの点が欠けている。

2013年8月21日水曜日

韓国の戦時徴用訴訟で新日鉄住金が賠償金を支払うのは間違いである。

 産経新聞8月18日(日)の配信記事によると、朝鮮半島の日本統治時代に日本で戦時徴用された韓国人4人が未払い賃金などの個人補償を求めた訴訟で、被告の新日鉄住金(旧日本製鉄、本社・東京)は敗訴判決が確定した場合には、賠償に応じる意向であることが分かったとのことである。 私企業が、差し当たり金額がたいしたことが無いいう理由と、韓国と摩擦を起こしたくないという理由で、理不尽な韓国裁判所の決定に従うとしたら、他の次から次へと出てくる可能性のある同種の訴訟に影響を与え、大きな問題になる。当時韓国は日韓併合条約で合法的に日本の一部になっており、決して外国ではなかった。従って、国策の一環として徴用にかり出されたからといって、賠償金支払いを要求するのはおかしい。国民としての義務を果たしたにすぎず、徴用された多くの日本人(現在)と同様賠償請求権などない。韓国という国の前近代的裁判所の非論理に一々付き合っていれば、気が付いたときその被害は甚大になっているだろう。韓国での批判はかわせても、自国での会社の姿勢への批判により 不利な情況に追い込まれるだろうから、無視すべきである。差し押さえとその後の競売などの措置に韓国が踏み込むからという理由で脅しに屈するのは、プライドも何も無い守銭奴的企業というそしりを免れない。また、そのような措置は韓国の利益にならないだろう。  一般に、講和条約締結後、「戦争時に個人が相手国から受けた損害は、自国が対処する」という国際ルールは、戦争を”民族全体の生死を懸けた闘い”から、”話し合いで決着不可能な問題の最終的な外交的解決方法”にレベルを下げることに役立っている。それは、白旗を上げたのちの講和条約で、一応処理済みとなるからである。例外としてのナチスのケースは、民族の殲滅を図ったのであるから、戦後処理も例外的であっても不思議ではない。  今回の日韓の問題は、このレベルに遠く及ばないものである。つまり、当時韓国は日本国の一部であり、日韓の間に戦争は存在しなかった。日韓併合条約は力で強いられたということを根拠に損害賠償を要求するのも、常識外れである。この不平等条約に対する不平は、自国である韓国に対して言うべきであり、今になって日本に言うのは単なる泣き言であり、国際常識からはかけ離れている。「条約は常に強者に有利に出来ている」というのも国際的常識である。ペリーが日本に来た時も、不利な開国条約を結んだ。そして、その後条約をより有利な形にすべく日本国は努力をした。それが、本来の国家のあり方である。昨今の韓国の姿勢を見ると、あの国は中国以上にまともではない。

2013年8月19日月曜日

宙に浮く独楽=回転は磁場からの力を平均して純粋揚力をつくる。

空中で回転するこまの動画をuploadしました。結構有名なこまですのでたくさんuploadされているかもしれません。 =空中浮遊のこま= 不均一な反発場の中でも、回転することで、平均として揚力を得ています。独楽は、重力によるモーメントが独楽全体で打ち消し合ってゼロとなることで、角運動量が保存される(回転しつづける)。この宙に浮く独楽は、回転が二つの役割を果たして居ます。(平成25/12/15文章改訂)

2013年8月18日日曜日

日本における善意と恨みの同根性

 一ヶ月ばかり前だったか、JR南浦和駅で、列車とホームで挟まれた女性を、短い時間で集まった約40人の人が32トンの列車を傾かせ、救出した。その様子が海外にインターネットで流されると、一瞬で出来上がった協力体制の素晴らしさに対して、驚きと感動のメッセージが返された。この出来事は、日本国に生きる人々の協調性の大きさと素早さを表していると思う。  一方、山口県周南市金峰で、10戸ばかりの山中の集落で暮らしている人のうち、5人が撲殺され家が放火される事件があった。犯人は逮捕され、そこでの異常な人間関係が徐々に明らかにされている。逮捕されたとき、ある女性へのインタビューが放送されていた。その女性は、「これでやっと普段の生活が出来る様になり嬉しいです」と発言していた。わたくしは、このコメントに非常におどろいた。何故なら、人里に迷い込んで暴れるクマが、射殺された時のコメントの様だったからである。5人を殺した人を庇う訳ではないが、そこまで追い込まれた人がパンツ姿で捕まった事実を想像すると、クマ出没の事件より、数段恐ろしく悲しい気持ちに襲われる。つまり、この女性を含め人の想像力というのはこの程度であるということである。  この犯人は、以前、一人暮らしの老人の家の修理をしてやり、非常に親切な人だったとのコメントもある。また、学生のころ、いじめられた同級生を庇ったという話もあり、多少腕力に頼る傾向があるものの普通の人間だった筈である。( http://danshi.gundari.info/山口5人殺害%E3%80%80「あの優しかった男がなぜ」%E3%80%80事.html )また、実際犯人は、“自分は村八分にされた被害者である”という意識があるということである。 (http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20130727-1163781.html)  日本人とくに田舎では、日常作業も互いに協力しなければこなせない情況にあった。例えば、昔、“結い(田植えの協力など)”や“講(伊勢講など)”などという協力体制がどこでもあった。つまり、隣人は互いに協力すること、またそれを実現する為に、互いに善意で接することを前提に生きる文化があった。そうは言うものの、人は自分の受けた親切行為と自分の行った親切行為の質と量を自分なりに計算している。その差引勘定に敏感な人もいれば、わざと鈍感になる太っ腹な人もいる。善意で何かを行う為には、相手に何が不足しているかを想像する力が必要である。その想像力には個人差があり、通常、人は自分側の事情は良く見えるが、相手側の事情は想像力を働かさないと見えてこない為、殆どこの勘定を赤字と見る場合が多い。つまり、濃厚な人間関係の中で、その赤字勘定の不満を飲み込んで生きて行くことになる。また、それが善であると人々は幼少時より教え込まれる(調教される)のである。その為に、「和を以て貴と為す」とか「沈黙は金」などの箴言が多く用いられた。  しかし、あるメンバーがこの赤字勘定が破産的に膨大になると感じたとき、その人は怒りをあらわにし始める。しかし、廻りの人々には同じ勘定が赤字には見えず、身勝手な奴という烙印を押すことになる。そこで村八分、強力な圧殺行為が、その他の集団の協調関係を維持するために行われるのである。これはまた、上記勘定を無視すること、つまり我を抑えることが如何に大切かを他のメンバーに教えることになる。ただ、その場合には少ない確率であるが、今回の山口事件や八墓村のモデルになった津山事件などが起こるのである。  以上の考察で判る様に、この種の事件は稀な事件ではあるが、強力な協調的隣人関係を持つある種コストと考えられ、論理的に起こりうるのであり、その意味で異常ではない。

2013年8月15日木曜日

"終戦の日"について

 8月15日を日本では終戦の日と呼んでいるが、より正確にはポツダム宣言受諾を連合国側に通告した日である。厳密な意味で戦争が終わったのは、ミズーリー号上で停戦合意の文書に調印した9月2日である。1945年8月15日の数日前、8月9日に対日宣戦布告の後、満州を経て、南樺太、千島、北海道を占領すべく攻め込んで来たソ連軍は15日以降も南下を続けた。このソ連軍と戦う日本軍や、ソ連軍とそれに乗じた満州人や朝鮮人から多大の被害を被った民間人のことを忘れてはならない。また、ソ連軍は9月2日以降も軍を進め、歯舞色丹島に至って9月5日に戦闘停止したとのことである。注1) ソ連軍の南下の具体的な様子は、ブログなどにも書かれている。例えば、http://www2s.biglobe.ne.jp/%257enippon/jogbd_h13/jog203.html の記事の中にある、南樺太真岡の電話局で最後を迎えた9人の乙女の話など、胸に迫るものが多い。
 以上のような情況を考えても、8月15日を終戦の日とすることに、政府は疑問を持たないのだろうか。 日本国政府の各大臣は、毎年靖国参拝注2)をするかどうかが、最大の問題として8月15日を迎える。終戦後70年近く経っても、あの戦争の日本国としてのReview(再検討)は無く、連合国側の東京裁判があるのみである。そして、あの戦争に対する “日本国の理解” 注3)が公表されていないため、隣国はおろか国民の間でも、評価は兎も角、事実についても合意が形成されていない。そのため、毎年政府要人はキョロキョロと隣国の様子を伺いながら、靖国の前で足踏みをするとい醜態を演じている。
 あのように壊滅的な打撃を受けながら、政府の決断としてではなく、天皇の決断(聖断という訳の判らない言葉が用いられている)によって、“敗戦”(つまり、連合国側の条件を記したポツダム宣言)を受け入れることになったことが、あの戦争の全てを象徴している。つまり、戦争の指揮を行った主体(つまり主語)が明確ではないのである。日本国総理なのか、日本国軍トップなのか、日本国天皇なのか? 注4) 
 明治以降、西欧諸国に学んで、近代国家建設に邁進した筈である。しかし、いつの間にか日本独自の文化的背景の中に、そのような姿勢も消えてしまい、近代国家に脱皮できなかったのが、あのような無惨な結果に終わった原因ではないだろうか。いまでも所謂右に位置する人たちも、日本の非論理の文化に最高の価値を置こうとしている。靖国神社がその象徴ではないだろうか。

 注釈:
 注1) 尚、ソ連軍の足音を聞いて、満州国からいち早く脱出したのは、軍関係者や外交官とその家族であり、民間人には脱出計画は知らされなかったとのことである。Wikipediaなど参照されたい。
 注2) 注2)戦死者を何故墓地ではなく、神社に祀るのか?その疑問に答えてほしいものである。東京裁判で重要な戦争責任があるとされた者達を、日本国の再検討(上記のReview)なしに、神に仕立て上げたことに靖国問題の本質がある。「以前何も言わなかった隣国が、急に言いだしたのは、戦術として用いる悪しき意図からだ」という理屈はおかしい。異なる文化圏の人間の意図に、気づくことが遅れるのはよくあることだと思う。 注3) 
あの時国の指導者が本来どのような道を歩むべきであったか、それと歴史的事実はそれとどのようにずれていたのか? また、沖縄や本土そして朝鮮半島などから徴兵及び徴用された人に、多くの犠牲者を出した理由は何か? そして、それらの責任者が明確になるように、歴史として公表すべきである。日本国内でも自分の祖父などが戦争の際に日本をミスリードしたとされることになるかもしれないが、その痛みは本来終戦後数年のうちに経験しておくべきことであった筈である。つまり、その後の処理の遅れの責任についても明確にすべきである。以上のプロセスを踏めば、中国や朝鮮半島とのわだかまりの可成りの部分は消える筈であり、それ以上の反日姿勢は、こちらも強硬に反論すべきである。
 注4) セオドア・ルーズベルトの真珠湾攻撃後の対日開戦の演説では、明確に日本国天皇(Japanese Emperor)がオアフやサイパンを奇襲したとなっている。しかし、日本では天皇制の維持のため、この問題に触れないでおこうとする勢力が、政府の中枢にいるのだろう。現在は平成の世である。昭和天皇は歴史上の"人"である。 あの戦争の再評価(レビュー)が出来ない筈が無い。

2013年8月12日月曜日

沖縄と基地


 沖縄で再び、米軍のヘリコプターが墜落し、米兵一人が死亡した。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00251252.html;また墜落現場から数キロ以内に市街地があり、http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130805-00000065-mai-soci;沖縄では、「沖縄の空がいかに危険か改めて証明された」そして、「この上オスプレイの配備を進めていくことは許されない」と云う様な怒りの声が上がったとのことである。私はこの記事を読み、以下のような違和感を持った。
1)先ず、人一人が死亡していることに、何の弔意も表されていない。
2)まるで、「近くにいる敵軍をなんとか早急に退去させたい」というような反応である。
 このような沖縄の反応は、島民全てのものではないだろうが、最近の沖縄の知事や市長などの意見と大差がないことから、それらを沖縄の反応として、以下議論する。先ず言いたいのは、沖縄の人たちも日本国民として日本国の中で生きているという事である。また、どこでも地域的特殊性があり、その地方独自の日本国行政への協力の仕方があると言う事である。私は以前航空自衛隊基地のとなりに住み、そこには巨大な弾薬庫があった。しかし、そこに住む以上、頻繁に飛ぶ航空自衛隊のヘリコプターや弾薬庫の危険性を引き受けて生活してきた。また、例えば木曽三川の流域では、伊勢湾台風の時の様な水害の危険性がある。しかし、その地域の人は承知の上で農業や製造業に従事して、国の経済に貢献している。沖縄県には他国の軍隊が極東拠点の一つとして駐留するのであるから、地方の特殊性の中でも特別であることは十分理解できる。また、米軍や日本政府も、沖縄の負担を軽減すすべく、基地の移転や米軍の訓練の仕方等を常に考えるべきであると思う。そうは云うものの、日米の同盟関係に影響を及ぼすような運動を不用意に広げるべきではない。この件、他国のオルグもあるものと考えられるので、1報道する人々は慎重にオリジナルな議論をしてほしい。
 日米同盟は、沖縄をふくめ日本全体にとって現在非常に重要であることは云うまでもない。米軍基地内での事故やオスプレイ問題を、米軍を邪魔者扱いする方向で議論するのは、従って、日本全体の利益に強く反する行為である。 2 地球が狭くなりつつある現在、我々が再度確認すべきことがある。地球上に現存の人種と人口は、何が決めて来たのか? 経済成長という空間の拡大があったものの、大規模な戦争や侵略によって決まって来たのである。つまり、南北アメリカ大陸、オーストラリア、そのほかの至る所で、激しい戦闘や無差別虐殺により、我々現存人類が生きる空間を確保してきたのである。それらがなければ、この地球はずっと前に人で満ちていた筈である。この歴史のプロセスは遠い過去のものでは無い。戦争や虐殺はどのようなものか?先日の中日春秋で、「最愛の大地」という映画で描かれているボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の悲惨な情況が紹介されていた。僅か20年前の人類の姿である。そのような情況が、日本国を舞台に起こらないという保障は全くない。日本国という温暖で緑に覆われ、水の豊かな大地は、黄色い大地の他国から見れば垂涎の的であろう。例えば、地球規模の気象変動などが起こった場合、3生きる土地を失った核兵器を持つ民族の指導者は、日本国に対する敵対心を民衆の間に喚起し、防衛出動であるとして、日本国民の虐殺と国土の略奪を行うかもしれない。4 一般市民の想像を超えた脚本が、5いろんな前提を背景にして既に創られていると思う。もちろん、そのような情況は、考え過ぎだと云う意見が大多数だろう。しかし、為政者はそのような大きな視野で歴史を眺めなければならないと思うし、一般市民も政治家とは高度に専門的な仕事であると考えるべきである。6


注1)日本共産党の政治活動がモスクワで決められていたことを思い出すべき。(http://ja.wikipedia.org/wiki/コミンテルン)
注2)対米依存せずに、日中友好で平和と経済的安定が実現できるのなら、それでも良い。しかし、その方向で舵をとれる政治家が日本にはいない。日本は、未だに戦後の親米政治家の敷いたレイルの上を走るしか選択肢がない。
注3)大きな気象変動は歴史を変えることを知るべきである。
注4)既に尖閣諸島や南沙諸島で序章が始まっている。
注5)過去、オレンジ計画というのがあったことを想起してほしい。
注6)現在の政治家の質が低いのは日本国民が能力本位で選ばないのが原因である。国民は自分と子孫の生命を守るため、知的レベルを上げる努力をし、選挙に臨むべきである。

2013年8月10日土曜日

敬語の愚


 ドナルドキーンさんが司馬遼太郎さんに尋ねた。「おとうさん、おかあさんという言葉は何時頃できたのでしょうか?」司馬さんが答えた。「明治時代、文部省が決めたのです。」この話は、何処で読んだか忘れた。ひょっとして、書棚にある「日本人と日本文化(司馬遼太郎とドナルドキーンの対談)」にあるかもしれない。明治時代に多くの単語が創られたことは知っていたが、お父さん、お母さんという基本的な人間関係を表す言葉まで明治政府製だとは知らなかった。1) 父上と母上という言葉はあっただろうが、そのという接尾語がつかない言葉が必要だと日本政府が思ったのだろう。

日本政府の試みは、少なくとも関西圏では成功していない。私をふくめ、関西人が「おとうさん」を用いることは少ない。私は子供の頃、父と母を呼ぶ際、地方の方言を用いていたが、その後、それらが幼児語的であることを知り使えなくなり、父と母を失う前に、父と母を呼ぶ言葉を失ってしまった。こんなことを、外国の方に説明できるだろうか?

 一般に、日本語は話をする相手と自分との上下関係が、名詞、動詞、接尾語などの選択を要求し、その結果文章全体が複雑に変化する。例えば、「言う」という動作を表す動詞では、話す、話される、仰る、仰せになる、言う、言われる、喋る、などと変化する。注2) これらを臨機応変に選択できなければ流暢には喋れない。何故このような複雑な敬語体系を必要とするのだろうか? それは、国内のあらゆる組織が共同体(ゲマインシャフト)的色彩を帯びている国だからであると思う。社会が色んな共同体で作られた国では、存在する上下関係は仕事上だけでなく、永続的であり、従って、それに相応しい言葉を持たなければならない。仕事場での上司は私的なあつまりでも尊敬語の対象となる。このような情況は、おそらく儒教文化圏に共通なのだろう。

 つまり、日本では
身分で人間集団を多層状に分け、その間の情報交換を(言圧を弱める)敬語で制限して、「和」を保つ社会を完成した。そして、個人は分をわきまえ、所属する層(身分)での責任を果たすことで、共同体全体のパーフォーマンスを挙げるという社会である。 上下方向に多くの層状構造で構成された社会では、人事なども常にその層を意識して行われ、入省何年後で課長といった適材適所とはかなり遠い基準が用いられている。注3 層状構造を持ち込むことで社会は安定化し、トラブルを避けることで活動度を上げるのであるから、その視点からは当然の人事基準である。結果としてそれほど有能なトップを選べないので、つつがなく任期を全うすることを最善とするトップの下、激しい変化の時代に混乱の末に英傑により創られた前例を、ただ踏襲する結果としての保守主義が殆どの組織の特徴である。特に、消滅の危機のない組織、例えば全国の地方公共団体や国立諸機関では、その傾向が著しい。ただ、変化すべき時にも舵を切れずに、益々情況を悪くするのはどこも同じである。そして、カタストロフィーが起こるのである。

 その段階になると、その社会は英雄を必要とするが、それは全階層を見れば一人や二人必ず居るのである。その英雄は前例を破壊し、新しい共同体運営モデルをつくる。以前の前例もそのようにして創られたことを完全にその時代の社会は忘れているのである。
 その後、2−3世代トップが交代して行く中で、創られた新しい前例を踏襲する何もしない保守主義が復活するのである。明治時代は変化の時代であった。そこで活躍した英雄達は、この複雑で風通しの悪い層状社会を改善(敢えてそう呼ぶ)することを考えたのだと思う。そして、父上、母上に代表される上下でフランクな対話を妨げる言葉に代わって、おとうさん、おかあさんという言葉を創ったのだろう。母上、父上ということばはほぼ追放できたが、それに代わるものには「お母さん」「お父さん」はなっていない。そして、「万機公論に決すべし」も同じ運命である。日本語の構造を変えること無しに、日本の社会構造など変えることはできない。依然として「和を以て、貴しとなす」が、日本国を縛っている。分を弁えて保つ和、対話でなく沈黙で保つ和に価値はないのにである。



注釈)
1)私は理化学を専攻する専門バカの一人だったので、それまでは横目で文科系の学問を眺めていただけである。従って、素人としてこの種の文章を書くことになる。
2)助動詞「れる」「られる」が4種類(「受け身」「可能」「自発」「尊敬」)の意味を備える。
3)国会議院には政治的名家の子供が当然のように国会議員になる。能もないのにである。

2013年8月6日火曜日

広島平和祈念式典での市長挨拶に対する疑問


 広島への原爆投下から68年過ぎた。一分間の黙祷は、エノラゲイから落された原爆の爆発の瞬間と一瞬のうちに火傷で死ぬ人の苦痛を想像しながらおこなった。テレビに映る原爆記念碑には、「安らかにお休みください。過ちは繰り返しませんから」という誓いの文がかかれていた。過ちは日本が第二次大戦において悲惨な負け方をし、その結果敵国に原子爆弾を落されたことである。松井市長のあいさつの中で以下の様な話が紹介されていた。終戦後、嫁を迎えたある家の姑が、その嫁が被爆者だと判ると、「被爆した嫁はいらん、直ぐ出て行け」と言って追い出したという話である。一般市民にとっては消化しきれない出来事であったと思う。

 松井市長の話はその後、「終生にわたって心身を苛み続ける原爆は非人道的兵器であり絶対悪である」「核廃絶に向けて努力しなければならない。」更に、原爆とは関係の薄い、原子力発電所の東北での事故へ及んだ。原爆が絶対悪なのか?むしろ、絶対悪は原爆を街の真ん中に落す行為ではないのか?ピストルが絶対悪ではなく、ピストルで罪の無い人間を殺傷することが絶対悪ではないのか。もし仮に、原爆そのものが絶対悪だと断定されるなら、何故、その絶対悪を多量に保持し、外交の武器に使っている米国、ロシア、中国、フランス、イギリスを非難しないのか?それらの国々の中で、絶対悪を広島で使った米国を何故強く非難しないのか?私には、さっぱり判らない。

 一般市民はともかく、地方であれ中央であれ、行政のトップに位置する者は、原子爆弾といえどもその軍事的意味、外交的意味については冷静に考えて、ことの本質を把握しなければならないと思う。つまり、ピストルが絶対悪なら、ピストルを持つ警察官も絶対悪ということになる。そうではなく、悪は正しくピストルを使わないことであって、ピストルを持つ人ではない。バカみたいな話だが、もし地球を攻撃するエイリアンを核兵器で追い返したとしても、核兵器は悪でしょうか? 実際、米国は広島と長崎での核兵器使用を悪とはしていない。理由をしつこく聞けば、日本国が当時エイリアン1)の住む国に等しいと考えたと云うであろう。 このような機会に、為政者が考えるべきは、そして、言及すべきは、複数の周辺諸国が核兵器を持つ環境下で、そして経済的混乱が起こるかもしれない東アジアで、どのように隣国の持つ核兵器の脅威を緩和するかについてである。それに対してある程度のビジョンがあれば披露するよい機会である。そのようなものが無いのなら、「核兵器の威嚇からどのように日本国民を守るかについての方向を見いだす努力、そして、現在も続く被爆者の苦痛を緩和する施策の実行について、国は全力を尽くしてもらいたい」位にしておくべきである。それが、碑文にある誓いを果たすことにつながるのではないだろうか。

 有限な地球の中で、技術の進歩などにより殆どの国が経済的に膨張して来ている。有限な海や陸の資源の争奪戦は、今後益々激しくなると考えられる。実際、尖閣諸島に対する中国の主張は、太平洋に拡大する政策の一端に過ぎない。そんな外交環境の中、出来もしない核兵器廃絶なんて台詞を簡単に行政府のトップが挨拶に盛り込むことは、その方のトップとしての資質に疑問を抱かせることになる。「(核兵器による)威嚇で国の安全を達成できると思うのですか?」と問いかける市長。思い違いも甚だしい。核兵器を持とうとする国、そして持っている国は、全て「核兵器による抑止力」を信じているのである。米国やロシアが核兵器の数を減らすのは、維持管理費の削減を目指すという経済的理由であり、決して核廃絶を達成する一里塚としてではない。

 ところで、この種の挨拶を聞くたびに感じることは、このような式典で単に儀礼的(祝事であればのりと)に挨拶をするのが、日本文化の一つの特徴ではないかということである。何かの何周年式典で出くわす意味のない挨拶は、次の日にはそんなこといったかな?と当の本人も忘れる類いの挨拶である。今回の挨拶はもちろんある程度シアリアスであったろうと思うが、その日本的文化の片鱗が、大きく中身の文章に影響したのではないかとも思う。その場合は、「きれいごとで済まされますか?」と市長にいいたい。 以上が、今回の広島市長の挨拶を聞いての感想である。

注1)殆ど戦争が終わったも同然であったが、それでも本土焦土作戦や一億玉砕などと、とんでもないことを言うエイリアンと思ったのだろう。因に、エイリアンには異星人の他、異国人という意味もある。

2013年8月1日木曜日

子供達の成長に携帯電話は有害である


 小学校6年生が自殺を図り、その原因に苛めを受けていたことの可能性があるとの報道があった。また、この10日程16歳の少女達が集団でリンチ殺人と死体遺棄事件を起こしたという報道が日本中を憂鬱にさせた。報道によると仲の良かった友人間のネットでの口論が出発点にあり、その後自首した犯人達には確固とした罪の意識がなかったということである。このような事件の報道を視聴すると、今の若い人たちの人間関係がガラスのように壊れやすく、しかし彼らはその人間関係に強く依存して生きていることが判る。何故このような情況になったのか?その原因或は誘因となって居る筈の、過去と現在の子供達の環境に関する違いは何なのかを考えてみた。
 大きな差の一つとして誰もが考えつくのが、携帯電話或はその最新型のスマートフォンを殆どの子供達(を含めて若者達)が持つ様になったことである。その結果、同世代の会話らしきものが瞬間的に仲間内で広がるようになり、未熟な同世代間の電話でのつぶやき(或はTwittering、つまりさえずり)が日常の人間関係の中で大きな部分を占め、それにより形成された同級生同学年の生徒間の平面的(或は層状)な人間関係が、大きな意味を持つ様になったのではないだろうか。親は常に必要なものを供給してくれる存在ではあるが、それを厳しい労働などにより得ていることを子供達が知る機会は少なく、その結果殆ど空気のような存在になっていると思う。その為、脆いがガラスの様に硬い層状の人間関係の中に入って、我が子との人間的接触を取り戻すことが困難な場合が多くなっているのではないだろうか。また、学校の先生たちも子供を指導するというよりは、問題を生じないことに神経のほとんどを使うはめに陥り、子供達の人間関係の外に存在している場合が多いのではと想像する。
 本来人は、幼少期より親を含めて回りの人間との接触により、自分を意識し、成長して独立した人格を持つ様になる。その機会を子供達から奪っているのが、上記のような環境と教育ではないだろうか? 従来、子供達であっても人間関係は3次元プラスアルファにわたって広がっていた筈である。同世代がつくる平面の人間関係の他に、子供達が成長し、且つ、社会の秩序を守るために必要な(親、祖父母、先生、近所の方々との)上下に広がる人間関係、そして、異質ではあるが、本の中で出会ったり、過去の人に学んだり、或は、聖典による神や仏との出会いなども一方的ではあるが、過去に広がる人間関係と言えなくもない。そのような子供達を育てる役割をしてきた人間関係が、上記平面的な人間関係に置き換わってきているとしたら深刻な問題である。この国に未来は無いと思う。早い段階から同世代間の二次元的人間関係の中にとじこもると、正統な言葉とその中に含まれた思想道徳等も学ばずに、子供達は大きくなってしまう。あの16歳のグループ間の会話として公開された言葉は、それを裏付けているように思う。解決法は差し当たり、十分な言葉を持たない若者に携帯を持たせないことであると思う。