2013年10月28日月曜日

伊豆大島の土砂災害と町長の対応についてのマスコミの不十分な報道について

 台風26号による伊豆大島の被害は甚大だった。火山灰地の雨に対する弱さは誰でも知っていることであるから、大雨の中気象庁により送られた土砂災害情報のファクスを、長時間放って置いた大島町の対応は責められるべきである。(注1)しかし、そのファックスを見なくても、気象庁のサイト(http://www.jma.go.jp/jp/radnowc/)で、豪雨の様子を実時間で見ることが出来る。伊豆大島町長である川島氏が、大事な時に遠く島根県で宴会と二次会で羽目を外していたと、批難されるに十分な理由があると思う。(注2)
 この件で私が非常に不満に思うのは、川島市長の態度ではない。それに対するマスコミの対応である。週末の辛坊治郎氏が司会するウエークでも、市長の責任を問う場面は無かった。島根に出張中であったということも報道されなかった。その後、次の台風27号の接近に際して、町長はNHKなどの取材を受けていたが、台風26号の際の土砂災害に関する責任追及は無かった。新聞(中日新聞)にも、その論調の記事には気が付かなかった。我々日本国民は、真実を知る為には新聞やテレビではなく、週刊新潮や週刊文春に頼らなければならないということである。
 もし、明らかに何の落度も大島町になければ、責任問題の議論は不要である。しかし、断片的に町の責任が報道されているのであるから、マスコミや政府担当省庁はそれらについて考察とともに公にすべきではないか。大島町と町長に対する責任追求と彼らの受け答えを合わせ総括することで、今後このような事態に際して、伊豆大島以外の多くの地方自治体の長がどうすべきかを学ぶことが出来るのである。責任追及は、個人や大衆の鬱憤ばらしの為にするのではない。事故や災害は、行政等社会の機能や状態を映す鏡になり得る。そして、議論を通してそれらの欠点を明らかにし改革するのが、正常な民主的社会であると思う。

注釈
1) 個人の安全対策は自分自身で行なうのが基本である。しかし、その為の情報を迅速に伝達する責任は、自治体にある。
2) 週刊新潮10月31日号、22ペイジ参照。もちろん市長には反論があると思う。口論ではなく、冷静に大島市と市長の対応を議論すべきであった。そこで、取るべき責任が明らかになれば、市長はそのように甘受すべきである。

2013年10月27日日曜日

ワイルド・スワン(Wild Swans)を読んで=古い中国と毛沢東の圧政についての感想

 ワイルド・スワンはユン・チャン(張戒;Jung Chang)が著した、19世紀後半から20世紀の中国で生きた3代、祖母、母、著者の記録(ドキュメンタリー)である。親族や公人については本名で書かれている。(注1)祖母は纏足をしており、古い中国の大家族制の社会で生きた。(注2)母は中華人民共和国の成立過程の中で成人し、やがて共産党員になった。父は、党の高級幹部になったが、やがて毛沢東の圧政に押しつぶされることになる。著者は、そのような家族を見て生まれ育った。文化大革命の初期に、一時紅衛兵になるものの、その後“造反組”による父母に加えられた、意図的誤解に基づく根拠の無い残忍な仕打ちや、既存社会の価値の破壊は、毛沢東の革命の名を冠した欺瞞的運動によると気付くことになる。そして、毛沢東の死後、ロンドンに脱出する。この本は、人類の歴史の中で培った文化という上皮を捲れば、人間は獣よりも醜い存在となり得ることを教えてくれる。(注3)
 毛沢東は、国民党との戦いを指揮して勝ち、中華人民共和国を1949年に設立した。その後、農産物や鉄の増産を杜撰な計画により国民に命令した大躍進運動で数千万人の餓死者を出すという大失政を行なう。その結果、政権中枢での力が一旦失われる。その後、ソ連のフルシチョフにより批判されたスターリンが、歴史の中で負の評価とともに残ることになったのを見て、文化大革命という壮絶な権力奪回の闘争を計画実行した。国民の中に残っている、中華人民共和国創立の英雄としての尊敬の念を利用し、“新しい体制の確立には、古い価値を全て否定する必要がある”という言葉で総括出来る、多くのスローガンを立てた。(注4)そして、最終的に劉少奇や鄧小平などを古い価値の中に含ませることで、権力を奪回しようとしたのである。しかし、毛沢東は巧みに貧しい時代の中国大衆の不満に由来する膨大なエネルギーを利用したため、破壊すべき古い価値の中に現政権の組織とその中で地位を得ている優秀なる幹部らだけでなく、人類が長い間に築いた文化や学問、多くの知識人に加えて中堅幹部から中学校レベルの優秀な先生までが含まれることになった。そして走資派と看做された攻撃の対象は、批闘大会と呼ばれる吊るし上げに呼び出され、大衆の不満と怨念とによる復讐の対象となった。結果として、広範なレベルで中国国民、文化的施設や財産、それらの組織に、多大の犠牲を出すこととなった。それは、自分以外の全ての範囲に膨大な犠牲者を出してもかまわないという、極めて利己的な計画であった。
 著者の両親も、特に優秀なる共産党の幹部であったが故に、塗炭の苦しみの中に放り込まれることになった。多くの悲惨なる挿話は、読者に人の醜さを嫌という程反芻させる。毛沢東が創った中国は、人民共和国とは言いながら皇帝毛沢東の独裁国家であり、人と人の信用や社会の信用を一挙に破壊するものであり、その回復は現在も尚なされていないことを著者は示している。
 人は他人である人との間にも、信用を築くことで社会を構成し、生き延びてきた。しかし、この人と人の間の親和性による社会の信用は、生きる為のあらゆる作業の能率を協力によって向上させることを駆動力として築かれるので、非常に不均一である。我々が現在理想とする社会は、その信用が人と人との親和性から、「法と正義」により構築される社会である。(注5)法と正義による人と人の協力関係は、空気のように均質で解放的な信頼性の高い社会に必須である。中国でも他の東アジア諸国でも、法と正義による国家形成の考え方は西欧から輸入されているが、未だに十分な形にはなっていないと思う。(注6)
 
注釈
1) この感想文は、ワイルド・スワンに書かれた内容を事実として捉えて書いたものです。
2) 纏足や大家族性(数代に亘る家族や妾とその子らの同居)は、極端な男女差別により可能になった。
3) 他の動物の生態を見ても、自然の中で生きる厳しさを感じるが、ルールとは言えないが、型にはまった生き方をしており、あまり汚さを感じない。人は知恵を持つ動物であり、欺瞞と暴力を巧妙に用いた手段で有利に生きる姿は、他の人(或は神)から見て、汚いと映る。
4) 古い価値とは、「古い時代の優秀なるもの」ということになる。そして当時の劉少奇や鄧小平の、大躍進運動で疲弊した中国経済の立て直し政策の中心となった政権を、古い時代のものとすることで、彼ら指導者を失脚させるのである。
5) 経済構造の変化により、古代には既に貴族と農民などの身分社会が出来ていた。西欧では、その貴族の間に法と正義という概念が産まれたのは、おそらく人が神と直接つながる一神教の役割が大きいのではないだろうか。つまり、ユダヤーキリスト教では、神(聖書)以外にオリジナルな権威を認めないのである。そして、善良なる人は全て、神の下に平等(経済的や知的には平等ではないが)であるという考えが、「法と正義による社会」の誕生に必須であったのではないだろうか。
6) 文化大革命の時代には、毛沢東の写真が掲載された新聞紙は、包装紙として利用できないだけでなく焼却さえも出来なかった。現代でも、韓国の裁判所は対馬の寺からの盗品を国内に保持して返却しなくて良いとの判断をしている。日本では、一票の格差は2倍以下なら、憲法に違反しないという判断を最高裁はして来た。最近では、国家公安委員長が、制限時速60kmの表示があっても、流れに乗れば70km/hで走っても良いという発言をしている。東アジア全体が、或は儒教圏と言っても良いが、人治国家(法治国家といいながら)の伝統から完全に抜けきれていないのである。

2013年10月23日水曜日

国連でなされた核兵器不使用声明は核兵器保有国の工作かも

 国連において核兵器不使用声明が出され、日本等もそれに加わった。私は、核保有国が参加しないのだから、このような声明に日本は参加すべきではなかったと思う。核兵器を持っている国が不使用声明を出すなら兎も角、持っていない国が自分で自分を縛るような声明を出して何になる。こんな下らない声明は無いと思うが、新聞は今まで参加しなかった日本政府を批判している。これは恐らく米国や中国など核保有国が裏で核兵器の拡散を防止して、それらの国の核保有国としての特権性&有利性を保持するための工作だろうと思う。
 そのような無駄な声明よりも、核兵器保有国に非保有国への不使用宣言を出させる様に国連は努力すべきである。もちろん、地球上から核兵器廃絶出来れば良いが、それは時間を逆進行させる位に難しい話である。エネルギーでも知識でも何でも、拡散するのが自然の法則であり、政治主体が200近くある地球上で出来る筈がない。せめて、北朝鮮に核兵器廃棄させ、馬鹿げたものではないと証明してから、声明参加国を募集してもらいたい。たぶん、「核兵器保有国を核廃絶に導く第一歩として、このような声明を出すのだ」という人も多いだろう。世の中に、第一歩が大切であるという人も多いが、元々不可能だと解っていることへ向かっての第一歩は、エネルギーを浪費するのみで無駄な行為である。(注1)核兵器廃絶が可能になるのは、政治主体が一つになった時、つまり世界政府が樹立したときである。世界政府の樹立は、世界中の人が経済的に豊かになった時に初めて可能になるが、それは夢のまた夢である。

  注釈
(1)不可能なことで、この種の第一歩に富とエネルギーを浪費するケースが多い。例えば、「人類が移住出来る惑星を探す」とか、「宇宙に資源を求める長期計画」とかいう口実での、所謂宇宙開発もその一つである。しかし、これにも上記声明同様に良く知られた“裏”がある。兵器開発である

2013年10月21日月曜日

経済発展と人材不足

 19世紀以降の急激な工業技術の発展により、我国そして世界の経済規模は飛躍的に増大した。それとともに、“文明”の中での所謂科学技術の役割が大きくなり、学術分野の拡大をもたらした。(注1)その結果、高等教育の分野拡大と細分化、人生における教育を受ける時間の割合増加、そして、社会に於ける学生等の人口比率の増加をもたらした。例えば、“医術”といわれていた医療技術は“医学”とよばれるようになり、先端的科学技術分野の中に転生し、我国においては秀才を集める様になった。また、各分野の発展には、その分野でプロとして通用するには、幼少期からの教育が必須になった。(注2)そして、所謂“専門バカ”の大量生産となり、社会の実相を眺めるに必要な広い分野での知識を持った人材が希有となってしまった。つまり、文明の拡大と各分野の専門化は、一つの分野での優秀な人材と総合的視野を持つ人材の両方の枯渇に結びついている。
 国家の実力は、社会のインフラとそこで活動する企業群、政治的安定と社会における信用、及びトータルな人材の質と量にある。土地の形状面積と気候、そこで産出する資源なども重要であり、地政学的リスクは政治的安定と不可分であるだろう。経済的な諸分野への人材配分は、相互の利益追求というメカニズムによりある程度効率よく行なわれる。しかし、政治分野への人材配分においては、日本にそのような機構がないので、(注3)安易に官僚からの転身(天下り)や世襲により定員を埋めてきた。
 今後、国家の隆盛と国民の幸福を決めるのは何かと考えれば、やはり政治が最も大きなそして同時に不安定な要因として存在すると考える。未だに国民が自由にものを言えない体制にあり、且つ、核兵器を保有する複数の国と、法治国家の概念が裁判所判事にすら行き渡ってない国に囲まれているという、地政学的リスクが大きくなる可能性大である。(注4)
 現在の日本を見ると、“科学技術”の分野では米国を除いた諸外国と殆ど対等と言えるレベルにあるが、政界や経済界の表舞台で社会を動かしている人を見ると、その実力は諸外国のそれに比較して大きく劣り、且つ劣化の一途であるように見える。これは、本文のテーマである文明の拡大が一つの原因であるが、それに加えて、日本国の硬直した人材養成の様式(注5)と社会の労働流動性の無さ(注6)や硬直した社会の層状構造(注7)が優秀なる人材の登用における障壁として加わっている。
 これらの問題の解決には時間を要するが、会社再建の方法と同じで、組織のトップに最も優秀なる者を持ってくるメカニズムを先ず創るべきである。そして、稟議とか会議とか無駄の多い決定プロセスを廃止して、国民に選ばれた首長がトップダウンで政治を行う体制にすべきである。その様な体制に耐える首長を各レベルで選ぶには、沈黙よりも議論を、精神よりも結果を、(注8)平等よりも実力による格差を、(注9)それぞれ重視する社会通念を育てることで、優秀な政治家を掘り出すメカニズムとすべきであると思う。

注釈
1) 哲学(philosophy)は知恵を愛することであり、人間、社会、自然全てを対象にする。“科学技術”文明の発展は、このうちの自然に関する部分である“自然哲学”を、科学と命名して独立した学術分野とみなし、科学は細分化されて、物理、化学、生物学となり、工学と結びついて、機械工学、化学工学、薬学、etcなどとなり、その他の哲学全体よりも遥かに大きな学術分野となった。
2) その顕著な例はスポーツ界である。教育の分野でも、私立中高一貫学校など、幼少期から方向を定めて行なう場合が多い。
3)本来選挙がそのメカニズムになるべきだが、小泉チルドレンや小沢ガールズで解る通り、選挙は正しく機能していない。取りあえず、一票の格差を完全に解消して、都市部の知性を軽視する選挙を改めるべきである。
4) 所謂儒教圏にある国家は、法の近代社会における重要性が理解されていない。日本国も、制限時速を10km/h超えても場合によっては良いじゃないかという国家公安委員長が居ることでも解る様に、法治国家とは言い難い。
5) 大学入学までがこの国での教育である。そこからは、大学のブランドと本人の“人柄”が全てを決める。明治時代以降、この教育制度と人材配布の様式は変わっていない。
6) 英国バーバリーのCEOが米国アップルの経営陣として加わることになった。日本でトコロテン式に昇進したCEOでは勝負になる訳が無い。
7) 「優秀な大学教授は弟子を育て大学教授等に出世させることだ」という言葉を良く聞く。学閥や同期などの言葉で人事が語られる限り、優秀なる人材を得ることは困難だろう。
8) 最近の紅綬褒章に関して、ひと言ブログで述べているので見ていただきたい。
9) 平等に最高の価値を置く考え方は、共産主義が社会を支配するまで待ちたい。しかし、共産主義国家が標準になる時代は、永久に来ないだろう。

2013年10月17日木曜日

無責任な発言を繰り返す小泉純一郎氏

 小泉純一郎氏は、政界を引退した一市民である。しかし、経歴から考えて、政治的発言をすれば、マスコミが反応することを承知している筈である。それにも拘らず、原子力発電再稼働問題というエネルギー政策の根本に拘り、且つ、国民が最も感心のある問題の一つについて、無責任な発言をしている。小泉氏の原発に関する発言は、十分な知識を以てなされているとは思えない。何故なら、一見説得力のある、「核のゴミを捨てる場所がないのに原発に頼ることは無理である」という氏の発言の中で、“場所がないのに”が十分な考察の結果とは思えないからである。小泉氏に「この根拠を国民の前で語る前に、何故廃棄場所が見つからないのか、探す事も出来ないのか、現在候補に上がっている処理廃棄方法以外に別の方法は無いのか、などの問題に関する分析をされましたか」と聞けば、威勢の良い態度が一変するだろう。核のゴミは地中深く、強靭なコンクリート構造をつくり、その中に永年貯蔵するという有力な方法がある。単に住民の同意が得られていないだけであり、過去高知県のある町で具体的な問題として検討されたこともある。この方法は、危険性が十分低くすることが出来ることを、説明能力の高い専門家を派遣し、時間を懸けて住民の理解を試みれば、同意が得られる可能性が未だあると思う。また、その場所を人口密度の低い海外に求める方法もある。更に、巧妙な方法は以下のブログに書かれている。http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51710655.html   小泉発言の動機は、安倍総理への嫉妬か退屈しのぎか、その程度のものだろう(週刊新潮、10月17日号、22ペイジ)。NHKなどのマスコミは、安易に小泉氏の発言を報道することは避けるべきである。既に引退した一老人の配慮に欠ける講演内容を一々報道することは、有害なだけである。(一種放射線取扱主任者免許保持者)

2013年10月13日日曜日

日本維新の会が、堺市長選に敗北したことが意味するもの

産経の記事:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131010-00000529-san-pol は堺市長選後の、維新の会の低迷する状態を報じている。そこには、既存政党の醜い姿が報じられている。既存政党には、政治を職業とする政治屋が集まっているのであり、自分の職業を維持することが市民へのサービスに優先することを示している。また、このような状態に維新の会が追い込まれたのは、橋下氏の維新の会があまりにも安易に、同士として人材を登用ししてきたことを示している。堺市長選の結果は、仮に多少日本維新の会の目指す方向を理解したとしても、一度手にした特権を手放すには、相当の人材(品性知性ともに)でなかればならない事を示している。維新の会が人材不足であり、かなりいい加減な基準で同士を集めて来た事は、既に指摘して来たが、今回も東国張氏が次回の宮崎県知事選に出馬する意向を示した事でも証明されている。
 更に、今回の堺市長選の結果は、堺市民がおおむね今の日本国と堺市に満足していることを示している。海の表面温度が27度以上にならなければ、強烈な大気の渦巻きが生じないように、市民の鬱憤が山の様に蓄積しなければ、大衆は動かないのである。大衆が政治に与えるのは、単にエネルギーであり、政治の方向ではない。エネルギーだけでは、政治は改革の方向に進まない。能力とカリスマ性を備えたリーダー及びそれを取り巻く優秀なる人材が必要である。そのようなリーダーの出現が遅れれば遅れる程、政治改革が望ましい方向に進みだすまでに、大きな犠牲を伴うのである。
 ギリシャで衆愚政治と堕落し、そしてアラブの春で証明されたように、元々民主主義は政治形態として最善かどうか疑問に思われて来た。所詮、大衆のエネルギーを日常的に吸収するメカニズムに過ぎないのである。もし、民主主義体制で政治が円滑に機能しているとすれば、民主主義が政治の表に現れる部分に過ぎない筈である。完全な民主主義体制になってしまえば、そして、自立した知性ある個人が選挙民でなければ、国は滅びるだろう。日本が、辛うじて平和と繁栄を維持できたのは、裏打ちするメカニズムとして、いままで親米官僚機構であったことを、昨年まで3年程続いた民主党の政治における数々の失敗が証明している。その官僚機構を破壊するなら、それに変わるものが必要である。その代わりは別途何らかのエリート集団でなければ、この複雑なグローバル化した政治経済社会で反映した国家を築くことは不可能だろう。

平成維新を諦めた橋下市長

  昨日の維新の会の研修会で、「国会議員には、自民党に対抗する政党を創ってもらいたい」とのべたと伝えられている。(Yahoo news 13日朝)これは、二大政党制を育てるというと聞こえが良いが、橋下氏が彼と石原共同代表とで、日本の政治を刷新するという野望を捨てたことを意味していると思う。
 彼の目的は、維新の会が日本全国を制覇し、この65年間積み上げられて来た政治の延長ではなく、全く新しい政治の種を育て成木にするという試みだった筈である。戦後の政治は、脚本は官僚が完成し、政治家である自民党が舞台で演じるというものだった。野党は観客席にいてヤジを飛ばす位の役割しか無かった。そのことは、テレビ中継される予算委員会や本会議の質疑をみていれば解ることである。その戦後政治を、原点に戻って刷新する筈だったと思う。
 ここで二大政党制を育てるという、小沢一郎氏が一度失敗した路線に戻ることは、橋下氏が堺市長選での敗北を重く受け止め、維新の会創設時の熱意を無くしたことを意味している。維新の会が、初期に創ったシナリオ通り事が上手く運ぶには、大衆の支援が大きな波として全国に広がることが必須条件であり、その事を橋下氏が十分承知していたのである。元々、橋下氏の手法は、端的に言えば、素人の手法である。(注1)所謂腐敗したプロの政治家が用いる政治手法とその伝統を完全に否定することからスタートしなければ、この国の政治が良くならないことが解っていた筈である。従来のタイプの政治家が大半を占める霞ヶ関で、野党連合を考えることはそれを諦めたことを意味している。
 彼はよく頑張ったと思う。大阪府の財政の健全化などは、従来型の地方の首長では出来ない事であり、その手法を大きく展開出来れば、日本の政治も維新を迎えることが出来たかもしれない。しかし、今回の堺市長選の敗北は、日本人は口では不平不満を言いながらも、おおむね現在の政治に満足していて、改革のエネルギーは大衆の中に無い事が明らかになったのである。この事実は堺市長選までにすでに明らかになっていた。最初から、彼の周りに集まった人材は、石原氏を除いて二級品ばかりであり、(注2)大きな助けにはならなかったのである。
 国家も人も、落ちるところまで落ちなければ、底を蹴ることが出来ないのだろう。
 
注釈:
1)プロの弱点は、ゼロベースで考えて、その結論を素直に発言出来ないことである。
プロの弱点の一例を挙げる:最近の「慰安所に婦女子を集めた手法などについて調査し、もし、国家の政策として、強制(親権者と本人の意志に反して)連行したようなケースが明らかになれば、新たに謝罪と賠償を行なうべきである。」という趣旨の橋下氏のテレビ番組での発言が話題になった。「この様な場合、新たな謝罪と賠償が必要だと思いますか?」という質問を投げかけられたプロの政治解説者である大谷昭宏氏は、今後のテレビでの仕事の事か何かを考えたのだろう、何度も繰り返し質問されても答えられなかった。(名前を忘れたが、ある芸能人が橋下氏に小金稼ぎで出演していると言われて、番組を降りた時の一場面である。)
2)最近、東国張氏は再び宮崎知事選に出馬する意志を然るべき筋に伝えていることがニュースにながれた。
 
==これは理系素人の意見ですので、批判等歓迎します。==

2013年10月9日水曜日

憲法9条と最高裁判所の怠慢

憲法9条と最高裁判所の怠慢

 憲法の中で改正の必要性がもっとも頻繁に議論されているのは、第9条である:

「第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
 最初にこの条文に関する疑問点を挙げる。まず全体について:この文章のわかりにくさの原因は、主体が不確かなことである。つまり、日本国民が憲法策定の主体であるのなら、第二項は不要な筈である。第二項は、日本国民の後ろに連合国が存在していると考えれば、理解できる。(注1)次に、第9条第一項の最初の文だが、「希求し」の“し”は単に動詞を重ねる助詞の“し” (広辞苑第二判)なのだろう。何故文章を切らないのだろうか。しかし、文章を切ってしまえば、既に前文に同様の文章があるので不要になる。  第一項後半、”国際紛争を解決する手段として、戦争、武力による威嚇、そして武力の行使を放棄する”と宣言しているところに疑問点はないが、この文章に関して、市井で聴かれる「自衛戦争は放棄していない」という解釈は一寸無理があると思う。(注2)

  第二項の最初に、“前項の目的を達するため”とあるが、「--が目的である」という文章が第一項に無い。「---を永久にこれを放棄する」のが目的なら、国民が主人公の統一国家で、その国民が放棄を宣言したところで、目的は達成される筈。「放棄したので、その為の道具は国家に持たせない」なんて条項が何故必要なのだ。(注1,3)
以上が、第9条の文章に関する私の疑問点である。  現在、日本には自衛隊という軍隊がある。英語でSelf Defense Forceと訳されており、Forceは軍隊なので、国際的にも軍隊を保持していると看做されている。これは明らかに第9条第二項に違反している。何の為であれ(前項の目的を達するため、)「戦力は、これを保持しない」と明確に書かれているのだから、よくある”いかさま解釈”は成り立たない。(注4)、何故、このような憲法に違反する自衛隊を持つにいたったか?それは、軍隊が国家を維持する上で不可欠だからであると思う。丁度、腕(arm)や力(force)を持つことが、人の生存上、必須であるのと同様にである。
 このような混乱した情況が長く続いた事の責任は、最高裁判所にあると思う。明らかに違憲である自衛隊を、三権分立の基本に反して行政におもねり、合憲としてきたからである。然るべき機会に違憲判決をだしていたのなら、その後、早々に改憲されていたと思う。そして、東アジアの一部の国々が、憲法改正に触れる我国の政治家に右翼のレッテルを張り、それを外交の道具に使うことが出来なかったと思う。
注釈:
1)第二項は、「性犯罪人なのだから、懲罰とその後の宣誓だけでは不十分である。去勢しなければならない。」と読める。これが、連合国が日本国民の後ろに見えるという意味である。こんな文章を、日本国民の総意として書くのか?最高裁判所の判事の連中は憲法読んでいるのか、そして平気なのか?
2) よくある憲法解釈に、第一項は「自衛戦争を放棄していない」というのがあるが、自衛戦争と国際紛争が独立した概念ではない(つまり、大抵同じもの)ので、無理な解釈である。

 3) この憲法条文を読んで、私はアニマルズのヒット曲、「朝日のあたる家」を思い出した。その歌詞の一部を掲載する。
With one foot on the platform  And the other foot on the train  
I'm going back to New Orleans  To wear that ball and chain 
ボールとチェインは、朝日の家という刑務所のようなところで不良少年の主人公が足に付けられる、鉄の玉と鎖である。
4)前項の目的を達する為でなければ、軍隊を持つことが可能であるとする解釈である。第二項の文章は、「前項の目的を達するための陸海空軍は、これを保持しない」 でなくてはならないと思う。


==これは元理系研究者の文章ですので、専門の方の批判を歓迎します。==

2013年10月6日日曜日

知恵の木の実を食べた人類の末路

 科学は最初、ヨーロッパの貴族社会のサロン的な場で産まれた。技術に転嫁されて経済的利益を生じることが、科学界への持続的な研究費の流れのメカニズムを発生した。そして、“科学技術文明”として地球上に君臨することになる。その結果、高度に訓練された知的人々が構成する各学会のものであった科学が、一般社会の所有になった。(注1)その結果、科学と技術の区別も明確でなくなり、元々泥臭い仕事に過ぎない技術開発が、エリートの職業となり、“科学技術”の発展方向を一般社会が決めることになる。例えば、原子核分裂により大きなエネルギーを発生することは、質量とエネルギーが本来等価なものであるというアインシュタインの公式を実証した。科学の範囲では、ここで興味は尽きるのだが、“科学技術”に転化したあとは、原子爆弾や原子力発電の開発という方向の方がより重大な関心となる。細胞生物学(科学の一分野)では、体性幹細胞などの発見が重大事である。人工的に作られた胚性幹細胞(i-PS)は生物学としても大きな成果であるが、本来技術の範疇に入るものであると思う。しかし、その人類の未来に於ける役割は、正か負の両極端に振れるほどのものである。そう言う意味では、オットー・ハーンの核分裂発見と並んだ大きな意味を持つ。
 ここで私が思い出すのが、創世記の知恵の木の実の話である。この話の中の“人”を“人類”に置き換えた場合、知恵の木の実は我々が享受している科学技術文明であると考えることが出来る。その譬え話を延長して、人類の死滅の原因を考えると、幾つかが頭に浮かぶ。地球温暖化、人類に何らかのプロセスで組み込まれて行く不妊、核戦争などである。i-PS細胞研究は、進路を誤ると間接的かもしれないが、人類の死滅につながる位のものであると思う。(注2)
 現代の政治形態の主流は民主政治である。ギリシャの時代のデモクラシーは衆愚政治に堕落して一旦消え去ったが、産業革命後科学技術文明の発展と同期して甦り、近代民主主義と呼ばれている。制限のない民主政治は、再び衆愚政治に堕落し、発展した科学技術文明を持て余して、上記人類破滅のシナリオの一端を担うのではないだろうか。
注釈:
1) このプロセスはスポーツにも当てはまる。昨日の体操の世界選手権で、未だ高校生の白井選手がシライと名付けられた、“後方伸身宙返り4回ひねり”を決め、金メダルを取った。この種の技は、幼少期から高度な訓練をして初めて可能になるもので、それは、体操選手という職業が人生の目標に設定され無ければ、あり得ない。それは、体操界の経済界との強い結びつきを意味する。
2) 最近、不妊治療は顕微授精などの極限的レベルまで進んでいる。ここで、次に登場するのが当然人工胚性幹細胞である。米国などの国では胚性幹細胞の作成を禁止しているが、いずれ忘れ去られるだろう。

2013年10月5日土曜日

老人を助け損ね踏切で死亡した女性に紅綬褒章と感謝状銀杯授与した阿部首相の思惑

 この件、大橋巨泉さんを始めネットでは多くの人により議論されているので、今更という感じがするが、一寸書いてみる。  巨泉さんは、官房長官が出向いての褒賞授与を、政治的パーフォーマンスとして批判しておられる。(注1)論点は明確である。つまり、踏み切りの仕切り棒が降りている時に、線路内に入るのは違法行為であり、その“違法行為”に政府から褒賞を贈るのはおかしいという論理である。このような明確な批判が、マスコミ界で飯を喰っている人からあまり聞かれないのは、「この国はものが言えない国」ということを示しているような気がする。
 私は、その女性が咄嗟の判断ミスをして死亡したのであると思う。また、そのような救命行動をとった勇気は誉められるべきだが、他人に勧められる行動では無い。ましてや、それにより死亡したことを誉めたたえる安倍総理や菅官房長官の言葉には、非常な違和感を覚える。もし、成功した場合、官房長官が出向いて紅綬褒章を授与するだろうか?本当は、成功したときの方が賞賛に値する筈なのに、死亡したことに特別の意味を持たせる今回の褒賞は一体何を意味しているのか?過去に、山手線のホームから落ちた人を助けに韓国人青年と日本人カメラマンがホームに降りたが、3人とも死亡した事故があった。その当時、事件は大きく報道されたが、政府要人が遺族を訪問していない。
 ところで、私はこの件を考えていた時に、突然、安倍さんが過去の戦争で命を失った多くの人を思い出したのではないかと思った。日本国民は昔から、他人のために命を捧げることに対して、最高の価値を置く感覚を持っていたと強調するための褒賞及び銀杯ではないかと。終戦間際に戦闘機で艦船に体当たりする行為は、犠牲でもなんでもない。ただの無駄な死であったと思う。優秀なる若者を無駄に死に追いやるという愚かな政策を採った、当時の日本国指導者の多くは、東京裁判で死刑になった。しかし、櫻井よしこさんを始め、所謂右翼的な人は、そのような人も日本国内の視点では戦犯ではなく、靖国神社に祀られて当然であるとの考えである。(注2)
 国の指導者の責任を問うか問わないかが、民主主義と全体主義の違いだと思う。櫻井さんは戦前の全体主義的政治を良しとする感覚をもっているのではないかと思う。そして、安倍さんを始め多くの自民党議員達も同様だろう。マスコミ人は、今回の特別な褒賞の理由を首相に正すべきだと思う。
 上記感想は、ちょっと想像し過ぎかもしれない。安倍さんはもっと単純に、愚民政策的に人気取りをしただけかもしれない。何れにしても、悪質である。
注1)http://www.youtube.com/watch?v=YA7OMkIphkk
注2)http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html