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2013年12月23日月曜日

科学技術文明の発展と崩壊について

 自然科学(自然哲学)は二十世紀に大きく進歩し(注1)、その工業技術への応用は、人類に全く新しい生活環境を提供することになった。それに比較して、人間や社会を対象にした通常哲学と呼ばれる分野に関しては、素人目には自然科学ほどの大きな発展は見えない。(注2)その原因は、用いる言葉にあるのではないかと思う。与えられた言葉により、人間の思考の範囲は決められてしまうので、その言葉を使う限り哲学の発展にも限界があることになる。(注3)一方、自然科学が大きく発展したのは、言葉として通常の言語の他に数学を用いたからであると思う。その結果、通常の言語で与えられた、例えば、粒子と波、エネルギーと質量(重さ)などの基本的概念の壁をも、突き破ることができた(注4)。その発展した科学を基礎にして、現代の技術文明の中心にある電子技術や新材料技術などが発展した。
 その自然科学が奇跡的発展を遂げたことの原点にあるのは、やはりギリシャの哲学であると感じる。ソクラテスの”対話”を真理へ到達する方法とした考えに基づいて、現在の文明が築かれたのではないだろうか(注5)。科学は、対話という方法と数学という新しい言葉を用い、自然科学と相互作用的に発展した技術文明という土壌の上に、大きく育ったと思う。この自己駆動的に発展した”科学技術文明”にもやはり限界はあると思う。理由の一つに、人の寿命や知能が有限であるため、次の世代に整理された形で伝承することが可能な(文明に関する)情報の質と量に限界があるからである。更に、この科学技術文明は今や人間の直感を超えたところにあるため、人は屢々”携帯をもったサル”状態になってしまう。つまり、自分達が造り出した文明社会に人間が不適応状態になりつつあるためである。
 文明の情報量と人の感覚からの乖離(注6)が大きくなるに従って、人生の目的(調和的な人生)と文明を維持すること及び文明から受ける利益との間に、大きな差が生じる。その時、“科学技術文明”はその頂上に至ると思う。この高度にバブル的に発展した文明の終わりは、停止するという形ではなく、カタストロフィックな崩壊的なものになるだろう。例えば、核戦争での大都市数個の破壊とその後の世界経済の破滅のような、論理的に継続しない形をとると思う。(注7)

注釈:
1) 進歩の度合いを計る物差はたくさんあり得るので、古代より着実に進歩して来たという言い方もあり得る。ここでは単に表層的な変化について述べているだけである。
2) NHKで放送された"サンデル教授の哲学講義"で、正義についてのレベルの高い講義が放送されていた。しかし、たかが正義について近代哲学者によっても繰り返し議論されているとしたら、驚きである。(追記参照)
3)現在、少しずつ勉強しているに過ぎないので、この言葉は言い過ぎかもしれない。
4) 量子力学は、電子(古典的には粒子)を波動として取り扱うことで、その原子分子での振る舞いを理解可能にした。また、原子力発電の原理は言うまでもなく、原子核分裂の際、一部の質量がエネルギーとして放出されることを利用している。
5) 対話は英語でdialogueであり、ギリシャ語でディアロゴス(二つのロゴス)というらしい。つまり、二つの理の対立により真理へ到達できるのである。この方法は、個の都合を排して真理へ近づく最善の方法である。ここで二つは、神(=自然観察)と人(哲学者の論理)なのだろう。
6)通常言語の概念を超えて発展した科学とそれによる技術が、人の感覚から乖離した所にあるのは当然かもしれない。例えば、コンピュータに置ける数テラバイトの記憶装置や数GHzの演算速度は、一台で全国民の個人情報を管理解析出来るレベルにある。
7)リアルタイムで情報が世界中を伝搬するため、人は人間固有の時間スケールより遥かに早い応答を要求される。また、やり取りされる情報の性格付けが時として容易でないため、突発的に異常なことが起こり得る。また、数世代に亘り文明から受ける利益は、人を傲慢にし、その結果この危険性を増す。崖を落ちるように一瞬の悲劇は生じるかもしれないと想像する。その後、知的真空状態(或いは虚無状態)の中で世界は混乱し、社会は信用を失い、世界経済は破綻するような気がする。追加:一言で言えば、この世界は6歳児が戦車を持っている状態にある。
(出来が悪くて改訂を繰り返しています。何を感じてこのような文章を書いているかだけでも、理解していただければと思います。平成25年12月23日午後、24日、25日夕改訂)

追記(12/29):近代の哲学が存在や認識についていろいろ議論しているのは知っていますが、それらは何か実りあるものを人類に与えたか疑問ですので、注釈2)には上げていません。私は、人が創造された時に、人の認識は全て人の内部に用意され、決定されていると思っています。更に、人と同時に創造された言葉にその表現が準備されていると考えています。ただ、人の創造が神によりなされたかどうかは判りません。これについてはホームページの巻頭に書いています。

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