2014年1月31日金曜日

STAP細胞と進化論&ガン研究: 退役軍人の夢想

 昨日の発表された理研の小保方さんらの研究は世界中の話題になっている。 私もこの成果にびっくりして、Natureのホームページをみた。論文のpdfファイルをダウンロードしたかったが、3000円もすると書いてあったので諦めた。その研究で発見されたSTAP細胞とは、刺激が引金となって獲得した多能性をもつ(Stimulus Triggered Acquisition of Pluripotency)細胞のことである。この研究成果が、数年間世界の研究者による追試験や発展研究を経て科学界に輝きを維持しておれば、平成日本の最高の科学的成果だと思う。STAP細胞」は何がすごいのか? 世界の科学者はこう見ると題したヤフーの記事や他の報道では幹細胞生物学や再生医療研究の発展に大きく寄与するというコメントが多い。しかし、私はそれ以上の可能性を持つと思う。
 それは、進化論への貢献及び細胞のガン化メカニズム研究への応用である。何故なら、ある細胞からSTAP細胞を経て、他の組織の細胞になったとした場合、そこで遺伝子情報が書き換えられていることを意味している。生物の進化も細胞のガン化も遺伝子情報の書き換えであるので、それら二つの大きな問題とSTAPプロセスには共通点があると考えたのである。(注釈1)
 生物の進化論として、我々が学校でならったのは、ラマルクの用不用説とダーウインの突然変異と自然選択説である。現在、ダーウインの説が進化論の主流として現在に至っている。因に最近、きりんの首が長くなる様子を描いたアニメとともに、「強いものが生き残ったのでない。適応出来るものが生き残ったのである」というナレーションを使った企業の宣伝をテレビでよくみる。キリンの首が長いことはキリンの遺伝子に書かれており、スポーツ選手が筋肉を鍛えるように、首を長くする訓練を子供のときからした結果ではない。何が言いたいのかというと、個体が首を長くする努力が首の骨などを作る細胞への刺激となり、遺伝子に書き込まれることはないか?ということである。つまり、突然変異が全く突然に起こるのではなく、刺激によって種が望む方向に起こらないかということである。そうすると、ラマルクの説とダーウインの説の真ん中に、進化の原理が存在することになる。STAP細胞という新しい生物学的技術は、そのような進化のプロセス解明へ役立つのではないかと考えた。  私の専門領域としてきたのは、物理化学であり、生物学は全くの異分野である。退役軍人の夢想として読み流して欲しい。

注釈1)細胞のガン化プロセス研究へのSTAP細胞の応用については、例えば、喫煙による刺激が肺や咽頭に出来るガンの原因になることなどを考えれば判りやすい。これについては、以後省略する。

2014年1月30日木曜日

 ”東大紛争秘録;NHKクローズアップ現代”の感想

 本日のNHKクローズアップ現代で、東大紛争について新しい資料に基づいた解説があった。新しい資料とは、加藤一郎総長代理の下、紛争の収拾を任された教授達の会議録である。東大紛争の経緯を簡単に書く。当時、医学部研修医の待遇改善運動などが全国の医学部でおこり、その拠点であった東大で医学部学生の無期限ストライキに発展した。その際、学生と大学当局者との間で衝突事件が発生し、処分された数人の中に誤認処分された学生一人含まれていた。その処分を巡る紛争が長期に亘り、急進派学生の安田講堂占拠へ発展したものである。
 私は、当時大学生であったが、安田講堂に立てこもった学生に違和感をもっていた。その原因は、どのようなプロセスが大学当局と学生の間にあったとしても、大学の建造物占拠は違法行為であり、且つ、日本は法治国家を名乗っていたからである。大学の自治といっても、それは、思想の自由に由来する学問の自由に基づくものであり、それはゲバ棒(学生達が武器として用いた棒)で護るべきものではないからである。ゲストの方の「国民にもシンパシー(感情的な共鳴)があった」という発言には驚いた。
 当時全国の大学に紛争が広がったのには、いろんな理由があると思う。その一つとして、番組で紹介されていたのは、当時の高度経済成長路線に対する漠とした疑問である。活動に参加した学生達があげた疑問として番組で紹介されたのは:
1)高度成長は何故必要か? 2)学問は何の為にするのか?
である。当時を回想した教授の一人から、「それらの問いかけに我々もまともな答えを持っていなかった」との正直なコメントがあった。
 しかし、このような純粋な質問の陰に隠れて存在するのは、世界を二分する勢力間の冷戦構造であったと思う。何故なら、全国の大学紛争が先鋭化した後に聞こえたシュプレヒコールは、「安保反対」であったからである。今日の放送で、このことが全く触れられなかったのは、非常に不自然である。また、早期に安田講堂占拠事件が解決しなかった原因は、日本国全体に当時も今も法治国家という制度が文化として定着していない為であると思う。

2014年1月28日火曜日

NHK会長の問題発言について

 新しくNHK会長になった籾井勝人氏の発言にたいして、国の内外からの批難が報道されている。以下MSN産経ニュースから、 所謂”慰安婦問題”についての発言部分  を抜粋して示す。

慰安婦は、今のモラルでは悪い。僕はいいと言っているのではない。しかし、そのときの現実としてあった。この2つを分けないと分かりづらい。個人的見解だが、韓国だけではなく、戦争地域に僕はあったと思う。ほかの地域になかったという証拠はない。ドイツにもフランスにも、ヨーロッパにはどこでもあっただろう。この問題は、韓国が日本だけが強制連行したように主張するから話がややこしい。それは日韓基本条約で国際的には解決している。それを蒸し返されるのはおかしい。


この中で、問題になりうる発言は、後ろから二行目の“韓国が日本だけが強制連行したように主張するから話がややこしい”である。 しかし、この“強制連行”が国策として行なわれたものなら、日韓基本条約締結後の新たな問題であるから、日本国は賠償の責任を負うと思う。しかし、その証拠が全くなければ、その他の問題は日韓基本条約締結の際に、賠償金相当額(注1)が既に支払われているので、解決済みということになると思う。
 戦争当時、兵舎の周りに本人の意に反して売春婦として働いた韓国人がいたというだけなら、当時の基準から考えて、国家間の問題として新たに取り上げるべきではないと思う。また、強制連行という言葉も当時の判断基準に照らして解釈する必要がある。つまり、極貧の時代には、親に売られるようなことはどの国でもあっただろうが、その後の本人の意志に反した移動は強制連行とは言えないだろう。そのような行為で生計をたてることは究極の選択であるので、本人は強制と感じるのは当然であるし、気の毒なことと思う。しかし、極めて貧しい上に戦争中という異常な時代の歴史的出来事を、現代の感覚で裁くことは出来ないだろう。
 重大なる新発見があったのなら兎も角、歴史上の出来事になったことを誇張して取り上げ、日韓基本条約を締結して将来へ向け出発した筈の両国関係を壊そうとする最近の韓国側の姿勢には辟易する。上のパラグラフに書いた様な趣旨の発言なら、取り消す等と発言せず、仮に職を辞することになったとしても批難の言葉の前面に堂々と立つべきである。本音を喋っただけだけれども、就任会見としては相応しくないのでワイシャツを着替えるような感覚で簡単に取り消すというのなら、その“取り消し発言”こそNHK会長の適性を疑わせる。また、従軍慰安婦という言葉がインタビューで現れただけで、パニック状態になる日本社会にもうんざりする。報道を職業としながら、籾井勝人氏の発言の何処がどのような基準に照らして問題なのかを明確にせず、さしたる議論も無く、あたかも言霊の宿る”従軍慰安婦”という言葉におびえるような人たちに一国民としてウンザリである。

注釈:
1) 韓国は連合国側としてサンフランシスコ平和条約に参加しようとしたが、連合国側により戦争時韓国は日本国の一部であった(つまり、日韓併合条約は有効)ので拒否された。従って、戦争した訳ではないので、賠償金という名目では支払われなかった。(Wikipedia参照)

2014年1月26日日曜日

キャロライン・ケネディ駐日大使の「イルカ漁は非人道的だ」という発言について

 数日前に、ケネディ大使が和歌山県太地町のイルカ漁について、”非人道的”という表現で反対の意向を示した。それに対して、 安倍首相を始め何人かの発言がネットに掲載された。 安倍総理は、「太地町のイルカ漁は古来続いている伝統文化の一つであり、またそれを生活のため続けていることを理解してほしい。」と述べ、更に「それぞれの地域には、それぞれ祖先から伝わる様々な慣習や文化がある。当然そうしたものは尊重されるべきと思う。また、同時に様々な批判があることも承知をしている」(要約)と発言した。

この安倍総理の発言は将に正論である。今日放送された、「そこまで言って委員会」においてもこの件が議論され、出席したコメンテーターは圧倒的に安倍首相の正論を支持する発言をしていた。一方、番組の中で津川氏は、日本でイルカを食べていることを知らなかったと発言していたのが、印象的だった。私も太地町は捕鯨で有名であることは知っていたが、イルカを食用に捕っていることを数年前まで知らなかった。つまり、捕鯨と異なり、イルカを食用にするという習慣は日本国内でも非常にローカルな慣習と言って良いと思う。(注1)

 このイルカを食べる文化であるが、米国の駐日大使の非人道的という批判が世界に報道され、日本文化に悪い印象を与えるのなら、もう少し慎重に対応を考えた方が良いと思う。権利義務に関して白黒つける場面なら、正論を主張するのは当然であるが、国際的な舞台での印象や好き嫌いの問題としてイルカ食を評価する場合、そして、それと関連して日本国の損得の問題として考える場合、計算式は異なるのである。私は、太地町の皆さんには別の漁で生計を立てて欲しいし、場合によっては、行政によって漁の自粛措置も考えるべきだと思う。もちろんそれに対する太地町の皆さんへの代償措置は考えるべきだと思う。

 日本国は戦後70年間に、豊かで平和な国として復興及び成長出来たのは、国際的な枠組みとルールの下で、経済活動を拡大してきた結果である。もちろん、このグローバル化した政治経済体制の中にあっても、ローカルな文化を出来るだけ許容することは、人種差別の解消と同じように国際的了解事項として定着している。しかし、それはエキゾチックという言葉で済まされる場合に限られると思う。動物園でみる愛らしい曲芸を見せるイルカを食する文化が、世界に広く知られるようになったなら、日本国と日本国民全体が、国際的に奇異な目で見られることになるだろう。

 2020年のオリンピックが東京に決定したのは、経済的政治的な面から開催能力が高く評価されたからだと思う。しかし、その招聘の為のプレゼンテーションは、日本や東京のイメージを高める様に外国の専門家を雇って企画された。国際的政治経済に於いても、そのようなイメージ戦略はこれから益々大切になると思う。原理原則を盾に、突っぱねる場面もあるだろうが、そのカードをイルカ漁に使うのは損であると思う。

注釈:
1)イルカもクジラの仲間であり、おそらく区別なく漁の対象になっていたのだろう。しかし、太地町以外の住人にとってはイルカは水族館でみる曲芸で馴染みの動物であり、巨大なクジラとの差は、ネコと虎の差に近いと思う。

2014年1月23日木曜日

地球温暖化仮説のインチキと日本国民の将来(&原発も有力なエネルギーとして確保しておくべき)

 19日の日曜日のそこまで言って委員会で、 丸山茂徳東京工業大教授による二酸化炭素による地球温暖化説は誤りであるとの解説があった。その根拠として、過去1940年から40年間CO2濃度が急激に増加しているが温暖化は全くなかったことや、地質学的データであるが、CO2濃度が現在の50倍であるにも拘らず赤道まで凍った時期があるなどの事実が紹介された。また、地球の気温を決めるメカニズムとして、1)地球表面の雲による被覆率が太陽光の反射率を決め、2)その雲の量を決めるのは、水蒸気凝縮の核となる宇宙線(宇宙から降り注ぐ放射線)の量であり(注1)、3)宇宙線量は太陽活動により変化する磁気が決めるという、1)ー3)の3つのプロセスが考えられることが、過去1000年間の太陽活動、宇宙線量、気温のデータから判るという。3つのデータの時間的相関から結論された以上1)ー3)の理論は、非常に説得力がある。
また、 アラスカ大学教授(地球物理)であった赤祖父俊一氏の講演をyoutubeでみた。それによると、地球温暖化は起こったとしても1度以下だろうとのことで、大した問題ではないとの話であった。更に、地球温暖化などの問題は時間的余裕もあり、まだまだ学者の研究する領域であり、政治的問題ではないと指摘している。日本はCO2による地球温暖化に関して、世界の中でも特別でヒステリックとも云える状態になっている国とのことである。(注2)そして、イギリスの4チャンネル(テレビ局)により、ゴア氏の“不都合な真実”のインチキはあばかれているということであるが、日本ではそれほど大きく報じられていない。実際同じことが、他の人によっても 解析、指摘されている。アル・ゴア氏とIPCC(学会ではない)のノーベル賞受賞は、同賞が偏った政治的活動の道具となっていることを示している。  ここで、ローマクラブによる “成長の限界等”の出版(1972;1992年)によっても指摘された、資源の枯渇や人口の増加により、近い将来、人類の成長の限界が来るということを思い出すべきである。具体的な図が、赤祖父氏の講演の中で、示された(下図)。それによると、資源枯渇と環境汚染などにより2030-2050年の間に、世界人口の激減が予想されている。地球温暖化説は、この資源枯渇と環境汚染を抑えるという動機で”闇のなかから”出された可能性が高い。(注3)そして、判りやすく二酸化炭素がその象徴として採用されたのだろう。
 これらのことから、我々に課された火急の課題は、1)如何にして食料を確保するか、必要な資源を削減するか、2)上記2030-2050年の人口の急減の際に、何が地球上で起こるのか、それへの対策として最善なのは何か、などについて考察することである。また、原子力は資源やエネルギー枯渇の将来を考えた場合、確保しておくべき技術であることは明白である。日本人であることのリスク(橘玲著、講談社プラスアルファ)を最少にすることに、今こそ政治は着手すべきであると考える。

注釈:
1) 放射線の最初の検出は、ウイルソンの霧箱を用いて行なわれた。これは、まさに雲の放射線による発生と同じ現象である。
2) 日本は、ダイオキシンが話題になった時と同じように無駄な金を使うべきでないとの指摘もあった。
3)赤祖父氏の講演では、アメリカの経済を牽制する目的で英国により工作された可能性がサジェストされていた。どこかで、発展途上国の更なる経済発展と資源消費を抑える目的でだされたとの仮説をみたことがある。
(2014/1/23; revision: 1/24)

2014年1月21日火曜日

日本教と日本語について2:私の考えをまとめる

 数日前に「日本教について」(イザヤベンダサン著、山本七平訳)の感想とそれに関連したテーマについて自分の考えを書いた。その文章は、何度か改訂したものの依然として読み難いので、私の考えのエッセンスを以下に新たな文章として書く。
 山本氏の上記本の20頁に、「日本語には論理はありません。日本人は論理学なるものを全く知りませんでした。日本語とは“ロゴス(論理)なきロゴス(言語)”です」とある。 私もそのように考察したことがある。その日本語の下に出来上がっている日本社会の特徴と、その社会に問題が生じたときの対処プロセスに絞って、以下に箇条書きに書く。

  1. 日本人は密な集団で温暖な自然の中で生きてきたため、恐怖は冷害や台風などの自然現象と所属集団からの疎外であった。
  2. 自然の恐怖にたいしては、自然信仰である神道を持つことで、集団からの疎外に対しては、私心を捨てることを美徳とすることで、それぞれ対応する”日本文化”を育てた。
  3. 私心を捨てて集団の中に生きてきたため、「私」や「あなた」などの主格を明確にする言語表現が消え去り、その結果、現代まで論理なき言語しか持てなくなった。論理は、主格と目的格が明確でない文章では組み立てられないからである。(注1)
  4. ある問題が生じた時、論理無き言語とそれに包摂された文化の下では、問題の原因解析と解決への対策が、集団の英知結集と彼らの議論というプロセスを経て提出できない。従って、集団の指導者には論理的考察力のある者よりも、個性が魅力的に見える陰謀家タイプの者がなる。
  5. 従って、その問題に対する直接的関与(実体語)で解決しない場合、間接的或いは根源的原因などは追求されず、精神とか一丸とか云う言葉とともに虚しい解決策、つまり空体語、として提出される。それらは問題が解決しない限り社会の中に蓄積するので、”空体語のバスケット”の中に投げ込まれた虚しい解決策と呼ぶことにする。そして、それらは民衆を不安にするとともに、破滅の道へ導く”空気”の醸成に寄与する。(注2)

  6. その未解決の問題は、当事者の暴発(内乱、クーデター)や外圧(強圧的外交、敗戦)と言う形でカタストロフィックに取り除かれる以外には消滅しようがない。

 論理の無い日本語文化で用いられる「空体語」の表現は、解決がそれほど難しくない日常生活レベルの問題でも、「ゴミをすてないでおこう」などという標語のように、“実質的には問題のオーム返しに過ぎない解決策”という形で、”空体語バスケット”に投げ込むレベルのものになる。国家レベルの例では、戦争時に敗戦が近くなるに従って、勇ましい標語が氾濫したのも同じメカニズムである。孫引きさせてもらった戦時標語のなかから、「一億抜刀 米英打倒」を例にとれば、この標語も”「どうしたら米英を打倒できるか」についてのデータを用いた、論理的思考の末に得るべき作戦”の代わりに、”一億抜刀”が置き換わり、問題の「空体語バスケット」への投げ込みになっている。誰かが"空体語バスケット"に投げ込むと、その後は多くの人が似た様な同一の原因による困難を空体語にして同じバスケットに投げ込む。それが、上に引用した数多くの標語である。

 更にもう一つ例をあげると、江戸末期開国も止むなしと悟りながら、島津藩などは攘夷を叫んだことが「日本教について」で紹介されている。そして、実体語での”開港は必要である”とバランスをとる為の空体語”攘夷を叫びうる状態も必要である”であったと言う記述である。(文庫版26頁)空体語と実体語の間の支点としての『人間』が存在し、両者間のバランスをとることは、日本教についての中心的教義ではあるが、判り難いと思う。むしろ、”開港は必要である”は同じでも、それに付随した新たに生じる問題、例えば、幕府の崩壊や、日本の植民地化の可能性など、にたいして、論理的な考察が出来なかっただけではないだろうか。つまり、上記5)に述べたように、これらの問題を論理的考察なしに”攘夷論”という”空体語バスケット”に投げ込んだだけではないのか。

論理的な言語環境を持つ体制であれば、それぞれの考え方を持つ智慧者を集めた討論などを通して、現在採るべき対策と、今後生じる問題とその解決法などが、探せたかもしれない。

以上、日本教の中心的教義の『人間』(=空体語と実体語の支点)を用いないで、同じ問題を考察してみた。私は、橘玲氏の著書『(日本人)』(括弧日本人と読む;幻冬社)にあるように、日本教のような特別な概念を用いなくても、日本人の文化や行動は解析可能だと思う。


 このような文化は、人治国家的な東アジア全体に見られる。大陸の半島北にある国も、勇ましい言葉でテレビ放送がされる時、それらの言葉は実際には苦境にあることを物語っているのである。「特に日本教という程のものではないのではないか」というのが私の最終的な結論です。

注釈)

1)英語でもドイツ語でも主格、所有格、目的格には、それぞれ別の言葉が用いられている。一人称及び三人称では、それぞれの単数と複数の区別も明確である。一方、日本語ではこれらを助詞を用いて区別しているにすぎず、英語やドイツ語(私はこれら以外を知らない)と比べて差は明らかである。たぶん中国語も日本語と同様だろう。例えば、我の所有格は我的であり、助詞と思われる”的”がつくのみである。

2)著者は、江戸時代の鎌田柳泓の「心学奥の桟」の中から、「がんらい神は、本質的には「空名」であるが、その名があることはすなわちその理があることで、その応はまたむなしくない」を引用して、この空名(なばかりのもの)を空体語と同じとしている。ここで、我々にとっての「神」を考えると、現実の生活で本質的に解決出来ない「生命」に由来する問題を全て、「神」という「空体語バスケット」に投げ込んでいると考えれば、この項目は判りやすくなると思う。ただ、日本人は、論理的な議論を通して緻密な議論を繰り返せば、解決可能或いは問題を縮小させることが出来る問題すら、この「空体語バスケット」に投げ込んでしまうのである。

2014年1月19日日曜日

インターネットの危険性-社会を破壊するかもしれないネット菌

 以下は、昨年ヤフーの知恵袋に投稿したものです(表題は変形)。ここには掲載していませんので再掲します。

 スマホやパソコンでのインターネット利用の危険性については、広く知られている。しかし、文部科学省のサイト例1では、危険な事象を羅列的に述べているに過ぎないし、別のサイトでは、その原因について、「インターネットは現実の社会と異なり匿名性があるため、仮想的な世界となっている」との指摘があるものの、今一つ深さがない。つまり、匿名性があれば何故仮想的な世界になるのか?或は、分析者は“仮想的”ということばをどう定義して用いているのか?などの疑問が残るのである。そこで、ここではもう少し掘り下げてこの問題を考察するための糸口を提案したい。  インターネットの危険性は、一言で云えば、どのサイトもクリック一つでアクセス可能である点にあると思う。つまり、地上の生活においては、全てのサイト(位置或は場所)は離れて分布し、そこへのアクセスは何らかの交通手段を要する。その場所には何らかの全体的イメージがあり、個々の場所に至るまでに既にある種実質的及び心理的エネルギーが必要である。また、昼の世界(表の世界)と夜の世界(裏の世界)などの区別も加わる。更に、何よりも重要な差は、インターネットでは厳密ではない個人の表と裏が、地上の世界では峻別されることである。我々は社会生活をする上で、外に出るときは表の顔で出る必要があり、それは幼児教育から一貫して教え込まれている。表においても、公的会合とその他のオープンな場の区別、客とホストの別など、我々が用いる”表の世界での仮面”にはいろんな区別がある。  それらの複雑な多様な情況を、一様に伸しイカの如く平面に広げてしまうのがインターネットの世界である。内面の欲求と関連したイカガワしい(と表のことばで表現される)ページも、社会人としての勉強のために見るページも、全てワンクリックでアクセス可能である。このような世界を、法と正義を看板に挙げた我々の社会生活と共存させて良いものなのか?  一時期流行して人類の大きな危機となった結核菌の如く、社会を構成する個人の幼児期から形成した“表と裏”のチャンネル(細胞膜にあるイオンチャンネルのような)を破壊し、人間社会を死に導くかも知れない。 ある人は“携帯を持ったサル”などと、このネット社会を批判するが、問題の一端を指摘したにすぎない。このような議論を喚起するまでもなく、すでに菌は蔓延してしまっている。全体的な議論をもっと大きなスケールで且つ強力に行う必要があるだろう。規制の方法は上の議論から組上げることは可能であるが、経済界を始め、方々から反対の嵐がおこるかもしれない。それらをのり超えるには、精緻且つ分りやすい論理で武装し、その危険性を訴えるしかない。ただ、この種の問題を考える時に、私の頭をよぎるのは、「文明の崩壊はいろんな方向からやってくる、人類にとって運命的なものかもしれない」という託宣である。

2014年1月18日土曜日

日本語と日本教について

1) 「日本教について」と私の解釈:
 イザヤベンダサン(山本七平)著の「日本教について」は、非常に面白い本である。日本人の言葉が十分理解出来ないことがこの日本教と関係していると書かれている。本音と口からでる言葉が等しくないことは、洋の東西を問わずよくあることである。多くはうそとごまかしであり、人類に共通したものである。しかし、日本人(日本教信者)には、もう一つ自覚せずに用いる歪んだ言葉の用法がある。その言葉は対話のためではなく、本人と相手(或いは社会)の間に投げかけられる。山本七平氏によると、(日本語を母国語とする)日本人は、ほとんど全員が日本教の信者であり、そこで話される“言葉(日本語)”は、“実体語”と“空体語”(24頁(以下全て文庫版の頁))という異なった成分を持っている。しかし、“空体語”は”実体語”と違って現実的意味を持たない(“空名”である)にも拘らず、一定の影響(“応”)を持つ為に、日本人の言動や行動が西欧からみて判り難くなっている。なお、私の理解では、空体語の判りやすい例として社会に氾濫する標語がある。それら(空体語)は、現実から次元的に離れている点で理想でもない。(注1)

そこで先ず、日本教について私の理解した範囲をまとめてみる。

(第一条) 日本教の信者は、『人間』でなくてはならない。この『人間』は、言葉では規定されず、実体語と空体語の間にあって、これらの間で両者のバランスをとる支点的存在である。(46頁;内容をまとめている)

   日本教においては、ことば(日本語)を用いて事実と事実を結びつけ、有用なる論理的な展開は(しないし)出来ないとしている(20頁)。しかしながら、人間の生きる空間とそこでとるべき行動を、ことばを全く用いないで規定出来ないので、『人間』は現実に即した“実体語”とそれと対立する“空体語”という全く異なったタイプのことばを用い、その間で両方のバランスを採る様に立つべき位置を決める。これが、私の理解した”日本教”の中心的教義である。(注2)なお、人間に『』がつくのは、日本教の教義における人間という意味である。

(第二条)『人間』の純度はこの支点の位置にあり、支点が空体語に近いほど高くなる。(51頁)

   この教義は、『人間』の純度(=『人間』の価値)の定義である。この国では何かを主張するとき、先ず、現実に即した「実体語」表現で、目に見えた実利(自己或いは自己の集団の利益:私心(注1を参照))を優先した表現になる。一方、将来のそして直ちに明らかでないとるべき方向(道)を考える場合、論理のない日本語では、空体語を加えて選択の範囲を広げる必要がある。(注3)そこで、空体語に近い人ほど“現実の利益を優先しない純度が高い人”ということになる。  裁判所などを含め日本の全てのところで、純度により対象となる人(裁判所なら罪人)への待遇が異なるので、日本を「人間の純度による流動的アパルトヘイトの国」としている(文庫版77頁)。このアパルトヘイトの存在が『人間』の純度=『人間』の価値となる理由である。ただ、空体語(虚軸)での表現がそのまま具体的になった場合、自己の所属する集団(社会)の利益にならないばかりか、破滅的な結末に至ることも考えられる。従って、この教義と付随する上記流動的アパルトヘイトは、集団の破滅にもつながりかねない。長い時間軸でマクロ(広角的)な視点に立つべき政治家が、純度の高い人であると、現実を無視することで日本国に破滅的損害を与える可能性がある。日本経済を破滅に導くかもしれない「原発即時ゼロ」(注4)を主張する純度の高い人々を批難するのは、日本教の国では至難の業である。

(第三条)空体語は、空名(名だけの存在)であるが、名があるだけに、応(利用価値)がある。(64頁)

   空体語の私流の定義は既に述べたが、この概念を著者が提出するヒントになったのは、江戸時代の鎌田柳泓という人が書いた『心学奥の桟』中に使われている「空名」という言葉である。その『心学奥の桟』に、“がんらい神は、本質的には「空名」であるが、その名があることはすなわちその「理(存在理由)」があることで、その「応(レスポンス)」はまた空しくない。”(55頁)とあり、その「空名」を「空体語」と言い換えたとのことである。

 以上が、条文として明確に書かれた、日本教の教義である。社会の空気に満ち、大きな損害を招いた空体語として、例えば1960年の「安保反対」と太平洋戦争のときの「八紘一宇」が挙げられている。日本で歴史に残る多くの「暴走的事件」において、空体語が大きな役割を果たしたが、それらは単に「無私の心で発せられた無知に由来する言葉」が人々を翻弄した結果と言える。そのような空体語は、実際には役立たないために社会に蓄積してホルモン的な意味(注5)を持ち、大きな事件のエネルギーを産み出すのである。蓄積した「空体語」の重さに社会が耐えられなくなり、ある時点で人間と言葉の関係が破壊され、カタストロフィックな(言葉を超えた)歴史の進行が起こる。そして、その問題は実質的には解消(解決でなく)される。これを実体語、空体語、『人間』がつくる天秤のようなものがひっくり返ると表現されている(95頁)。

 日本教についての私の感想を簡単に書く。私は、日本人の言動と行動は、主格が明確でない論理展開が出来ない日本語と、それと同根である蜜な集団で生きるという日本文化を出発点にして、(日本教という枠なしに)全て説明可能な様に思う。そこでは、一緒に生きる人の集団に最高の権威があり、「神」もその集団の権威の下に存在するのである。つまり日本人は、恵まれた天候と農耕に適した土地において、論理的な言語とそれを用いた厳しい議論なしに、高い純度を保持したまま生き残れた現実主義的文化を持った集団だと思う。この本質的に孤立した文化に、稀に外からの力が加わった時、現実的対応とそれに対する論理的な道筋を得ない否定が、それぞれ、山本氏が呼ぶ実体語と空体語に対応するのだろう。空体語は論理的なものではなく感覚的なものであるから、支点なるものは最初からないと思う。個人の問題なら支点という理解でも良いが、集団の問題に関しては、人により両者の間に立つ位置はことなり、混乱あるのみであり、従って支点という考え方は無意味だと思う。

2)日本文化についての私の考え:
 一神教の国々では、人は神と一対一の契約を結び生きている。契約であるから、「私」と「神」は明確にそれぞれ一点に位置する。その国の人たちが作る社会では、従って、私(一人称)が明確であり、その結果「私」の相手である、「あなた(二人称)」が明確になる。しかし、日本の様に自然を神とする国(或いは、神のない国)では、宗教は神との契約という形をとらないし、その結果、私の位置もそれほど明確でなくなる。神の前に「私の位置」が明確でないので、集団で生きる様運命つけられた人間は、集団からの疎外を一番の恐怖として意識する。集団から疎外されない方法は、集団全体のことを考える姿勢「無私の姿勢」をとることである。その結果、言葉は「私」から離れて、屢々空虚な響きでその集団に発せられることになる。集団としての行動決定が遅れると、これらの言葉は集団の間に浮遊蓄積し、場の「空気」のテンションを高めることになる。元々恐怖から始まったこれらの言葉に論理がある筈がない。それが、「空気」が支配する日本社会の特徴ではないだろうか。 つまり、「私」が明確でないことが原因となり、集団から離れて「私とあなた」も明確に規定できなくなる。そのような集団には論理的な言葉は発生しない。また、はじめに原始的な言葉が存在したとしても、論理的な言葉に成長しない。このような社会を、「お前」と「お前のお前」という二人称しかない存在しない社会と言うのだろう。(これは若干注意が必要である。注6)「私」はあなた(或いはあなた方)にどのように映っているかという視点でしか存在しないからである。このことは、既に森有正元パリ大学教授が詳細に議論していると、この本には書かれている(100頁)。

 しばしば言われるように、日本は西欧からみた場合特殊な社会にあるように見える。しかし私は、「私」と「お前」が明確に存在しつつ、集団で生きている西欧社会の方が異常(たぶん良い方向に)に見える。つまり、一神教の下で発展した西欧社会の方が特殊であり、そして、西欧で産まれた論理的空間と文化の発展は奇跡であると考えている。現在、西欧化した世界があり、文明を享受しているのであるから、日本的な社会を異常な前近代的遺物と考える方が良いのかもしれないが。しかし、人間が再度ゼロからスタートして、このような文明社会が出来るかと言えば、恐らく無理であり、精々古代中国の文明やインカ帝国の文明までが限界だと思う。何故なら、人類があらわれて50万年の内の、たまたま極最近の2−3千年間に近代文明は発展したのであり、これは必然とは思えないからである。つまり、人間の遺伝子には数十万年前から、この近代文明までに至る能力が刷り込まれているとしたら、もっと前に現代のような文明社会が出来ていても不思議ではない。(注7)一神教は、神が実際にカナンの地に現れたのでなければ、一つの密に集団として生きていた民族に降り懸かった極限的情況下で、その集団が奇跡的に産み出した天才的指導者により創られたのだろう。私はどちらかというと、この後者の筋書きが本当で、それが旧約聖書に物語的に書かれていることだろうと思う。その後、ギリシャ文明と結びついて、奇跡的に現代文明として開花したのだろう。

3)日本教という考え方の限界:
 私は、日本人の言動が説明困難なのは、我々日本人は、人称が揃った、そして、十分に体系化された言語を持たないことが原因の第一にあると思う。(注8)その言動や行動を、西欧の一神教文明に投影した時に、「日本教」というモデルがこの本の著者に現れ出たのではないだろうか。「一向宗徒になろうとして成れず、また、キリスト教徒になろうとしてなれない」というのと、「日本人は論理的な言葉を持っていないが、一定のパターンで行動する」の二つから、「その人格の底に既に日本教があるからだ」と無理に結論付けされているように思える。私は、「日本人は神を持たない」(注9)と「日本人は非論理的な言語しかもたない」ということと、その背景にある「蜜な集団で生きて来た歴史をもち、そして(個人ではなく)集団に最高の権威がある」ということで、日本人の行動や言動は説明可能であると思う。つまり、論理的でない言語を持つことと「空体語」が存在することは、原因と結果(或いはその逆)の関係であり、一体として考えるべきだと思う。そして、それは日本だけに限らず、東アジアに共通だろうと想像する。中国などの標語を多用して社会に訴える方法は、その一つの証明だと思う。

 最初の方に書いたが、日本人の社会的行動における特徴を日本教の用語を使ってまとめる。
1)論理的な言葉をもたない『日本人』は、現実的&直接的な言語表現である”実体語”で問題の解決を図る。しかし、複雑な問題の解決法を語る言葉を構成する言葉がないので、”実体語”表現で漏れたところを”空体語”という直観的な言葉で表現する。
2)”空体語”表現と”実体語”表現は、(議論などという論理的プロセスがないので)対立したままであるため、問題が致命的に拡大した時に、革命や戦争といったカタストロフィックなプロセスで解消するのである。以上は、用語は「日本教」のものを用いているが、日本教の教義は用いていない。
 

注釈:
1)“実体語”は現実に即して表現したことばであり、現実的であるが故に汚れ(或いは穢れ)があると考えるらしい。“空体語”は現実離れしているが故に、純粋であり穢れがない。その中間に人はバランスをとる様に立っているというのである。純度の高い『人間』(数行下)は、空体語に近い点に立つ人である。空体語は、異次元にあることばとでも説明すべきだと思う。例えば、数学で言う複素数空間の虚軸上にある言葉と言えば判りやすいかも。
2)これは、日本人と日本社会における実体と様々な言語表現との関係を述べているのであり、教義を述べているのではないと思う。日本語は非論理的言語であるので、論理を辿って執るべき正しい方向を探すことができない。そこで、直感に訴え異次元にジャンプして探し出したもう一つの方向が、”空体語”での表現なのだろう。 “空体語”と“実体語”との中間の然るべき位置に『人間』は立つという表現は、そのプロセスを記述したモデルではないだろうか。
3)江戸末期開国も止むなしと悟りながら、島津藩などは攘夷を叫んだ。それ(攘夷論)は実体語(開国止むなし)とのバランスをとるための空体語であったと言う記述がある。(26頁)
4)ローマクラブの未来予測(1972)などを考えると、原発の廃止は未来のエネルギー政策の柔軟性を破壊する。更に、発電用ガスの輸入などで経常赤字を継続すれば、円安から経済破綻に陥る可能性が高いと思う。例えば:このサイトを読んでみてほしい。
  5)人体モデルで社会を考える。人体は、脳から神経を経由して伝達される電気信号(動作と一対一の関係)と代謝エネルギーを全体的に調節するためのホルモン分泌という二つのプロセスで制御される。社会において、”実体語”は実態に即した直接的制御に用いられる言葉に対応し、”空体語”はホルモン的な制御に対応する。後者は日本独特の“空気”を媒介とする支配であり、西欧的近代社会からは全体主義的或いは非論理的として批判されるだろう。
6)二人称しか存在しないというが、本当は二人称も明確ではないのである。私という一人称が明確でないことを言い換えただけであると思う。「空気」が支配する社会も、同じことを言い換えただけであると思う。
7)中国にも個別にはいろんな発明があっただろう。日本にも2000年近く前に、製鉄の技術が大陸から輸入されている。北半球で文明が発展したのは、人間の生活に適した温帯の土地が、一万キロに渡って存在したからだという説がある。つまり、古代中国の文明もその一万キロの幅の中で、そこに住む人間の交流があったから生じたのだろう。ただ、現代文明のような形にまで発展するとは思えない。西欧医学と漢方とを比較すれば、判ることである。
8)このことは別に書いた。
日本語で、人称代名詞の数は無数にあり、場面毎にことなる。それが、「人称」或いは主語が明確でない(明確にしたくない)ことの証明である。あなた、お前、貴様、おぬし、君などの”二人称代名詞”の変化は、目の前の人と私とがある関係で混合し、その混合のレベルが異なる為に生じたものである。同様に”一人称代名詞”も、目の前の人との関係により決定される。つまり、「あなた」も「私」も言語空間内の一点に明確に存在するのではないと思う。
9)日本の神道の神は、人格を持つ一神教の神と違って、大きな山などの自然が神体である。自然に対する恐怖が産み出した神だと思う。(岡谷公ニ著、神社の起源と古代朝鮮(平凡社))天照大神などを祀る形の神道は、大規模な戦争が歴史に現れた後の変形された神道である。
(以上は理系人間の戯言かもしれません。批判議論等お願いします。今後、改訂する予定で、これは暫定版です。2014/1/18;1/20;1/21;1/24)

2014年1月14日火曜日

”ポエム”日本にあふれる優しいことばと厳しい現実

 今日、NHKクローズアップ現代で放送された『あふれる“ポエム”不透明な社会を覆う優しいことば』という番組を視た。一日の労働時間が16時間になることも屢々ある厳しい職場で、客、上司、同僚の間での優しい言葉を、生きる力として毎日を送っている若者、厳しい財政情況にある地方自治体での“優しい言葉の条例”、など、今の日本に見られる不思議な情景が放送されていた。論理的な言語空間で生きてきた一人として、大きな違和感を持った。そう言えば、安倍総理が「美しい国日本」という本を出版されたときにも、通読して同じ様な感覚を持った記憶がある。決して優しくない社会、美しくない日本、それとバランスをとるように用いられる優しい言葉と美しいが空しいことば。しかし、その優しい言葉、美しい言葉に論理で反論することはこの国では容易でない。
 そして、ある本を思い出した。イザヤベンザサン(山本七平)著の「日本教について」である。その中に、日本人の特殊な言語空間についての記述がある。それは、『人間』は“実体語”(現実の世界の言葉)と“空体語”(実体語とバランスをとる為の言葉)の支点の位置に存在するというものである。日本人は嘘つきだという西欧社会の評価は、この特殊な言語空間の中に日本人が生きていて、しかも、世界の全ての人も同じであると信じていることによる。あの「京都の茶漬けでも召し上がって」も、おそらく空体語に類するものであり(注1)、それを発せられた情況から考えて、“実体語”と受け取らない芸当が即座に出来るのは日本教の信者、つまり、日本人だけである。NHKで放送されたケースでは、「16時間労働は厳しい。相応の超過勤務手当を貰って当然である」とか、「優しい言葉は優しい行動をとりえる能力を前提とする」、などと言えば、場がしらけて「もやもやしたしかし幸せそうな空気」は瞬間的に霧と消えるのである。そして、そのような言葉を発した者は、理屈屋、偏屈者などと言われて、その集団から排除される。また、空体語は厳しい情況になった時に大きくなり、同時に支点にある『人間』が現実を表す”実体語”から“空体語”の方向に移動してバランスをとる。つまり、上記情況は、将に厳しい日本の雇用環境を示しているのではと思う。
 この対話形式は、日常的な場面では日本人の間であれば誤解を生じないが、近代政治の様に西欧から輸入した舞台(注2)においては誤解を招くことが多い。つまり、日常の言語空間と同じ感覚で政治に参加した場合、合意された『あるべき人間』という支点の位置がひとによりまちまちであり、”空体語”と”実体語”との区別が出来なくなる場合が多くなるのである。「非武装中立」「恒久平和」なども、歴史を冷徹に見れば非現実的でり、具体的に国家の理想形態ともなり得ない。しかし、他国により懲罰的に持ち込まれたにも拘らず、かなりの人に“空体語”(注3)としてではなく”実体語”として受け取られ、戦後70年経っても憲法の中に生き残ったのではないだろうか。
因に、日本教は日本語でのみ語られ、日本語と不可分である。

注釈:
1)言葉の意味は”茶漬け(本当はごちそう)を準備します”です。実際には”そろそろ帰るかどうか決めて下さい=>お帰りにならないのなら、ごちそうを準備しなければなりませんという意味です。そして、それほど歓待してもらう根拠がない場合、「そろそろお帰りになったら如何でしょう。」を意味します。従って、本当の意味は空体語からどの程度離れて、人間としての支点があるかにより変化すると思います。
2)政治は、正義、自由、権利、義務などの定義された言葉で、論理が展開されるべき空間である。
3)空体語は具体的な理想を語った言葉ではない。イマジナリー(虚)なことばというべきものである。
== 日本教について、理解が不十分(私も自覚しています。)である点など、具体的な批判を歓迎します。==
(2014/1/14/21:30; 1/15/12:00改訂)

2014年1月12日日曜日

元総理は隠居すべき

細川氏を小泉氏が担いで都知事選に立候補させるという。開いた口が塞がらない。(以上。) 補足:佐川事件で一億円受領した件、刑事事件として立件されていないから、細川潰しの材料たり得ないという反論がある。しかし、猪瀬氏だって、刑事事件に未だなっていない。小沢氏の西松建設の件も、結局無罪であり、同じである。(日本は法治国家ではないので、無罪でも検察が起訴したら、政治家としての資質を判断する上に考慮しないと行けないのか?)何故、あの細川氏が暗闇から再度東条するのか?立つのなら、小泉氏自身が立って、原発反対の根拠を説明したらどうか?自民党だけでなく、日本経済をぶっ壊したどうか?

2014年1月11日土曜日

「米国はいざとなったら中国をとるか日本をとるか?」という無意味な議論---今朝のウエークを観て感じたこと

 今朝のテレビ番組「ウエーク」での、”沖縄の辺野古埋め立て”に関連した議論を視聴して感じたこと、それは、日本の安全保障に関するグランドデサインにおける何らかの合意なしに議論しても、この問題について何の結論も得られないということである。その初歩的な点を考えないで番組を組まれたことは、この番組が単に騒ぎを報道する娯楽番組でないのなら、遺憾である。
 沖縄の前知事太田さんは、全く中国の脅威を感じておられない上に、戦争時の沖縄地上戦の記憶から脱しておられない。また、社民党の方は、日本国全体の国益を考えるという視点が最初からない(注1)。ケビンメアさんは当然米国の国益を第一に考えつつ、言葉を選んで発言される。その他の方は、中国の脅威と沖縄の負担を考えておられるようだが、そもそも「沖縄の負担とは何か」(注2)についての合意は形成されていないのだろう。その議論の終盤近くになって、政治評論家の伊藤さんが、後藤田正晴元副総理との話を紹介された。後藤田さんは、「米国が最終的には、対日関係よりも対中関係を毀損しないように選択する可能性もある」と話されたというのである。終盤で原点に戻ってしまったような感想を持ってしまった。そして話はソチの五輪へと移った。従って、当然ながら、番組全体の大筋である、中国の脅威を前提にした沖縄基地の議論は全く噛み合わず、何の結論さえ得られなかった。もちろん、視聴者が問題点を把握できるようになれば良いという考え方もあるだろうが。
 ここで大切なことは、「米国が最終的には、対日関係と対中関係のどちらを選択するか?」に関する結論は米国が出すことなので、日本国はこの点を疑問文のままにして安全保障のグランドデザインを組まなくてはならないことである(最後のパラグラフ参照)。従って、国家の枠組みを国際政治の前提とするならば(注3)、憲法をしかるべく改正することと自衛隊を自衛軍とすること(名称変更しなくても、防衛軍の機能を持たせることだけでも良い)は、独立国として成すべき第一歩である。1)沖縄が日本国の一部であること、そして、2)日本国は独立国として、外国からの脅威に軍事的に対抗できること、以上2点の確認をとってからで無いと議論しても、(注4)カレー鍋をかき混ぜるレベルの議論しか出来ないだろう。つまり、伊藤さんが後藤田さんの話を紹介した時点で、議論の原点を形成する必要性に気付くべきなのであり、そこで、ケピンメアさんに「米国はイザという時に、日本国を護ってくれますか?」という質問を投げるのは、愚かな行為でしかない。
 つまり、日米安保保障条約は、日本が感じる曖昧さを、敵国になるかもしれない国も同様に感じるレベルで有効なものなのである。孫崎亨さんの著書「アメリカに潰された政治家たち」によれば、北大西洋条約(NATO)と違って、日本が第三国により攻撃された場合の米国の参戦は、米国議会の承認を経て決定されるとのことである。日本国民は日米安保がNATOレベルの信頼性を持たない条約であることを知るべきである。

注釈:
1) 「万国の労働者は連帯すべきである」という、昔広く全学連の方等に読まれた小冊子にある視点(インターナショナルという視点)しかないのかもしれない。
2) (この注釈は、最後まで文章を読んだ後に読んで下さい。)沖縄の負担と言うが、沖縄が日本国に属するという前提をおくのなら、地政学的な重要性を考えれば、基地の存在を認める義務がある筈である。もちろん、権利義務は対になって考えられるべきであるので、沖縄は安全確保やその他の支援を要求する権利を持つ。国家と個人の関係と類似した関係が、国家と地方自治体にも存在すると思う。
3) 地球国家的な枠組と法(ルール)による統治が国際社会において(十分といえるレベルまで)成立しておらず、国家間の関係は未だ戦争が起こりうる状態にある。つまり“野性の原理”(つまり、弱肉強食の原理)が支配している。そのような政治環境で、国を構成するメンバーの政治的経済的な自由と安全は、対外的に使用しうる軍事力なしには保全されない。
4) この点に反対の者は別の機会を設けて、「米国の属国であり続けるか、中国へ媚を売るか、のどちらに日本の将来を懸けるか?」の選択について議論すれば良い。

2014年1月8日水曜日

「アメリカに潰された政治家たち」感想

孫崎亨著「アメリカに潰された政治家たち」(小学館、2012年9月)

 先日、孫崎亨著「アメリカに潰された政治家たち」(小学館、2012年9月)という本を、西友春日井店にて買った。早速速読した。この本が主張するもっとも重要なポイントは、日本の戦後政治は吉田茂、池田勇人らの対米追従路線と鳩山一郎、岸信介らの独自路線とのせめぎあいで進んで来たこと、そして、後者を米国はCIAなどの諜報機関とその手先になった人々を用いて潰してきたことで解釈できるということである。その潰された政治家として、鳩山一郎、石橋湛山、重光葵、岸信介、佐藤栄作、田中角栄、小沢一郎、など12名の名前が書かれていた。(注1)また、その手先として、政治家の他に、官僚、新聞などマスコミ、財界などに広く存在する、“人脈”(注2)を用いて来たと書かれている。
 中でも印象的なのは、60年代安保闘争に関する記述である。総理大臣岸信介の時、不平等条約である旧安保条約(吉田茂が調印した)を日本の立場を盛り込んだ形へ改定する際、安定多数の自民党政権下においては、社会党や共産党の安保破棄の主張があったとしても、国内的には容易なことと思われた。しかし、自民党の池田勇人や三木武夫は安保条約とそれに付随する日米行政協定の同時改訂を主張して、岸の安保単独改訂に反対した。(注3)この安保改定を困難な事業にした池田勇人や三木武夫の一派による反対は、米国の工作によると言うのである。何故なら、安保改定後総理になった池田勇人は、日米地位協定(旧日米行政協定であり、内容をあまり変えることが出来なかった。)には手をつけなかったからである。米国は徐々に独自路線を歩みだす岸信介を警戒するようになり、彼を退陣させ、もっと有利な形で日米間の関係を進めたかったのである。一方、国会の外では、左翼的思想に染まった学生たちの激しいデモが組織された。このデモの本質を示す話がある。それは過激な反対を行なった全学連(ブント)の中心的人物の一人、西部邁氏(当時全学連中央執行委員:ウィキペディアによる)は後に、こう言ったという。「60年安保闘争は安保反対の闘争などではなかった。闘争参加者の殆どが国際政治及び国際軍事に無知であり、無関心であった」と(38頁)。(注4)この本では、安保反対デモが大きく展開されたのは、米国の意向に沿って、右翼(注5)や財界を通して、全学連へ支援があったからだということである。また、女子学生(樺美智子さん)の死亡とともに混乱が過大になると思われた時に、新聞社7社が連携して沈静化を呼びかけたことも、米国の工作によるということである。(39-40頁)兎に角、岸信介退陣により米国の目的は大部分達せられた。初めて孫崎氏の本を読んだ私には、この60年安保闘争などの解釈は驚くべき内容だったが、この時の政治の流れに関する著者独自のモデル(42頁)と具体的な名前を挙げての詳しい説明により、十分説得力があると思った。
 米国が嫌う日本の独自路線であるが、それは、東アジアの一員として、米国抜きの政治経済圏をつくることだろう。そして、その中心にあるのは、中国と日本の接近である。日中接近の企てを、著者は「虎の尾を踏む」(74頁)と表現している。つまり、田中角栄が失脚したのは、米国に先だって、日中国交回復を成したことである。米国は、諜報機関を使って政治家が失脚するような情報をストックし、必要な時にそれをリークして、”虎の尾を踏んだ”政治家を失脚させるというのである。小沢つぶしも、同じような解析で理解可能である。小沢氏秘書の告発やそのタイミング、執拗な強制起訴などの出来事は、三権分立近代法治国家としてはあまりにも不自然である。(注6)我々素人の国民も注意して政治の動きを観察すれば、孫崎氏の書かれた米国の対日工作を確信できるのではないだろうか。(注7)  結局外交は、自国の国益を最大限優先するのであるから、米国は日本の国益など本気で考えてはいないだろう。(68頁)また、それは国際社会において正常なことである。従って、日本政界の対米追従派は、比較的無能な政治家で形成されていると思う。有能なる政治家を戦争時に失い、戦後も有能な政治家を米国の工作により潰されているということになる。対米追従は、日本国の改善すべき体質か不治の病かのどちらかである。どちらになるかは、今後有能なる政治家を我々国民が選挙で選ぶことが出来るかどうかにかかっている。私は、以前にも書いたが、一票の格差の完全撤廃がその為に必須であると思っている。
 この本も、発表後1ヶ月の間の3回刷られているが、その後の印刷は無い様で、テレビなどのマスコミにはそれほど取り上げられていない。(一度、テレビでみたことはある)その後、時間が経てば図書館の奥に消え、何時もの様に国民は何も学ばないだろうと思った。
 
注釈:
1)他の5名は、芦田均、竹下登、梶山静六、橋下龍太郎、鳩山由紀夫である。
2)必ずしもエージェントとまでは言えないものが多いと思う。例えば、米国の文化や政治の崇拝者や、米国との関係で経済活動をしている人など。
3)国会が紛糾することで、元々無知であった学生(注4参照)に反対の空気醸成と運動高揚の為の時間を与えるだろう。
4)西部邁は高校時代にはマルクスなど全く勉強していなかったという。一浪後東大に入り、三鷹寮に入寮して一年生の年末に共産主義者同盟(ブント)に加入している。秀才でも、国際政治などには詳しくはなれないだろう。大勢の闘争に参加した一般学生に至っては、尚更のことだろう。
5)戦前の日本共産党の指導者で60年当時は「反共右翼」としての活動を行っていた田中清玄から資金援助を受けていたということである。(wikipedia参照)にもこのことは記述されている。
6)東京地検特捜部は、GHQの管理下で日本国内に隠匿された物資を探し出す部門として組織された「隠匿退蔵物資事件捜査部」が前進だということである。(102頁)
7)鳩山由紀夫氏は、日ソ共同宣言に調印しソ連との国交を回復した鳩山一郎を意識して、無理な独自路線を走ったのではないだろうか。なお、長期政権を作った元総理大臣は全て、対米追従派ということである。
 

2014年1月4日土曜日

日本国憲法には変な文章が並んでいる。

 主権国の憲法は、国家の理想と目標を、遠くまで将来を見渡し定めるものであると思う。そこには当然歴史が”背景として”存在するが、それは数十年のものではなく、長い民族の歴史でなくてはならない。  そのような視点で見ると、日本国憲法に奇妙に見える条文が多い。つまり、直前の戦争が大きな重みで各条文に”背景でなく主題として”存在し、主権国家が独自に制定したもので無い様に見えるのである。 先ず、前文の最初(注1)に「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」という文章がくる。まるで、不良学生の反省文みたいだ。そして、日本=「不良学生」という考え方は一貫しており、9条で最も強く表れている(注2)。9条:「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」のは当然だとして、日本は「武力による威嚇又は武力の行使は永久にこれを放棄する」のだから、“不良学生”日本はただ平和を誠実に希求しておれば良いということになる。秩序回復などの場面は、“不良学生”の出る幕ではないのだ。そして、第二項は「普通の独立国には、交戦権という国際的に認められた権利がある。その権利を日本国は“不良学生”だから放棄する。」と読める。
 何故交戦権が国際的に認められているのか?それは、他国は必ずしも、第一項にある様に、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」ていないからではないのか?“不良学生”は日本だけではないのだ。正義と秩序を基調とする国債平和を誠実に希求していない国があっても、日本国は“不良学生”なのだから、殴られても応戦してはいけないのだ。
 他にも、判り難い文章が多い。たとえば憲法27(注3)の勤労の権利と義務の条文などもまともな文章ではないと思う。何故、このような条文が憲法に必要なのか?定年退職して働かないのは、憲法違反なのか?勤労の権利があるのに、応募しても会社が雇用しないのは憲法違反ではないのか?だいたい、権利と義務が同居するのはどういうことなのか。「児童は、これを酷使してはならない。」とある。大人は酷使して良いのかと言いたくなる。また、この「何々は、これを何々」という文章が多いが、「(何人も)児童を酷使してはならない」というような文章に何故しないのだろうか。
結論:憲法は、数年間数内閣に亘る議論を通して、改正すべきだと思う。
注釈:
1)「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
2)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
3)第二十七条  すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
○2  賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
○3  児童は、これを酷使してはならない。

2014年1月1日水曜日

私の初詣

一月一日
 午後にではあるが、内々神社に夫婦で初詣に行った。子供達が配偶者を連れて一泊したが、彼らを敢えて誘わなかった。別々の道を歩みだした子供達には、彼らに相応しい神社へ詣って欲しいとおもったからである。
内々神社の祭祀対象は巨岩で、祭神は建稲種命 日本武尊 宮簀姫命ということである。歴史は古いが、現在住んでいる場所の近くにある大縣神社(尾張二の宮)のように大きくはない。しかし、私に相応しいような気がして、わざわざ遠くまででかけることになった。神社の前(鳥居は修理中らしく撤去されていた)で一礼のあと境内に入り、手を洗って口を漱ぎ拝礼の列に並んだ。15分以上まってようやく最前列に来たので、鈴は鳴らさず、二礼二拍一礼した。敢えて、願い事やお礼の言葉は心に浮かばない様にした。その後、境内で太い木の株を燃料に用いた焚火で少し体を暖め、境内出口で一礼のあと、帰路についた。
 神社は元々山など自然を崇拝の対象としているが、何時からか英雄を神として祀るようになったという。岡谷公二さんの本(神社の起源と古代朝鮮)によると、古代神道には社(建物)さえ無かったという、多くの証拠があるそうである。そして、多くの神社のなかで最も歪められた形のものが、靖国神社だと思うようになった。
 古代の趣が濃く残る神社に詣りたかったので、内々神社へ足が向いたのだろう。