注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2014年2月25日火曜日

最近の金価格の上昇について

[金価格についての理系人間の私的メモです。読み流してください。]
 2011年夏には1オンス(31.1035g;ca.1トロイオンス)当り1900ドル付けた金価格は、その後急激に値下がりして昨年5月には1200ドルを割った。しかし、金価格は最近急激な上昇を見せ、現在1300ドルを超えている。この動きについて少し考察した。金は昔から、国際的な通貨(の裏付け)という主役的な意味を持っていた。1971年に米国ニクソン大統領が、国際的基軸通貨である米ドル札を不換紙幣にすると宣言したことにより、金(きん)の地位が脇役になったと見るのが普通の(オーソドックスな)見方である。このニクソンショックの時、金価格は一オンス当り35ドルであったが、現在は一時より安くなったとは言え1300ドルを超えている。金の材料としての主な用途は、宝飾品としての他に電子製品などにおけるメッキ用に使われている。(注1)屢々金(AU)と比較される白金(Pt)は、化学触媒、燃料電池などの電極材として重要であり、工業的利用価値は金のそれより遥かに高い。また、金の<埋蔵量+現有量>は約20万トン程度あるが、白金はその10分の1程度しかない。しかし、白金の値段は金より10%程度高いだけである。従って、金はまだ金融界で特別の地位を保持しているのではないだろうか。
 金の価格であるが、1オンス35ドルでリンクしていた頃は、日本円で1グラム当り400円程であったが、1983年に10倍程度になり、その後ドルが安定したためか1000円程度の価格が長く続いた。そして、2005年から急激に値上がりし現在4500円程度になっている。これをBRICSなどの経済発展により、伝統的な金への憧れによる需要増と見るナイーブな見方も可能であるが、基軸通貨たるドルの不安定化の兆しと見るシアリアスな見方もある。
 上に過去20年間の金価格を図示した(http://chartpark.com/gold.html)。ここで注目されるのは、昨年からの急激な金価格の低下である。米国の評論家や有名な投資家は、金の金融上の役割は終わっており、従って安全資産としての価値はなく、今後も値下がりするだろうと言う意見を発表している。その一方で、この金価格低下は金先物を米国(連銀或いはその意をくむファンド)が売って金価格を下げることで、ドルの基軸通貨としての地位を護るためと捉える人もかなりいる。(http://tanakanews.com/130416gold.htm)少なくとも、世界中の主な国家の中央銀行は、外貨準備として金を大量に保有しており、最近も中国などがその量を増やしている様である。次の図は各国中央銀行の金保有高である。
 米国は外貨準備として金を8000トン以上持っていることになっている。ドイツ、フランス、イタリアも2400-3400トン保有しており、外貨準備に占める金の%は70-80あり、日本の数%とは比較にならない。(注2)ここで、ドイツが外貨準備として保有している3400トンであるが、その多く(2/3程)は実は海外に置かれている。米国が預かっているのが1500トンほどあるが、ドイツはそれを自国に移送したいと申し込んだ。 しかし、交渉の結果、自国に移送できる量は米国に保有する量の数分の1以下だったという。ドイツの金は当然、上表中の米国の金保有高である8000トンには、入っていない。従って、米国が通常”預かる”ということばで表現されるようにドイルの金を保管していたのなら、その全てをドイツに移送することも簡単な筈である。このような情況から、本当は米国連銀の地下倉庫は、殆ど空ではないかという疑いを持つ人が多いようである。(http://www.fromthetrenchesworldreport.com/the-frightening-truth-about-germanys-physical-gold-move-pours-out-on-cnbc/318503)これと似た現象として直ぐ思い出すのは、米国国債を米国に買い戻してもらうことは非常に困難であると言う事実である。「借金を返せと言って返してもらえないのは、使ってしまっているからである。それでは、預けてあった金もなかなか返してもらえないことは何を意味するか?」は小学生でも答えが出せる問題かもしれない。
 上の表は2012年における、各国の債権及び債務額である。日本は未だ世界一の債権国であり、米国は世界最大の債務国である。米国は、基軸通貨を発行するので、世界に流れたドルに対応するだけ、海外からドルと交換した海外資産や金を持っている筈である(注3)し、初期には持っていただろう。しかし、それ以降、毎年の経常赤字を裏付けのないドル札で決済してきたのではないかと疑われている。この場合、ドル札は担保なしの借用書に過ぎないので、基軸通貨としての地位が怪しくなれば、米国の金融崩壊ということになると思う。つまり、この数十年米国は、ドル札という紙切れで世界から消費材を買い込み、贅沢をしてきたのかもしれない。
 最近、中国が多量に金を買っていることは知られているが、それと関連してか 元を金とリンクさせて、金本位制に向かう可能性を示唆する経済学者が表れた。米国の金融緩和策(QE3)のテイパーリング(tapering)が始まってから、そして、米国の株価が上昇しても金価格が上昇することは、その経済学者の予言を裏付けている様な気がする。それらが本当なら、金の最近の価格上昇は全く異なった意味をもってくるのである。
注釈:
1)金のナノ粒子が触媒能を持つという研究が発表されている。まだ、研究段階である。
2)日本は外貨準備を殆どを文字通り外貨でもっているので、米国金融への忠誠度は高い。
3)この米ドルが世界に流れるプロセスについては、実は勉強していないので、間違っているかもしれません。

2014年2月23日日曜日

菅直人のインチキ発言について

 菅直人元総理が週刊新書というテレビ番組(土曜日名古屋で放送)に出て、脱原発の宣伝をしていた。数々の詭弁がそこにはあり、彼がインチキ政治家というかアホ丸出しの元政治家であることを再確認した。ケインズの乗数効果を知らなかったなんていうレベルではない。

発言1:福島第一原発4号機プールの水が抜けていたら、東京には住めなくなっていただろう。
 限界の吸収線量を何ミリシーベルトと仮定して、どのようなシミュレーションをした結果なのか、一つも発言がない。
 また、この発言のインチキは、「最終的に水が抜けなかったのは、不十分とは言え、建設当時の基準で耐震設計がされていたし、その後の対応がそれを避けるべくなされた」という事実を軽視していることである。つまり、車にはハンドルとブレーキが用意されており、運転手もハンドルが効かない場合はブレーキを踏んで、危険防止できるということを無視して、「もし車がこのような崖から落ちたら、人はベッシャンコになって死ぬ」と、車の危険性を宣伝し、脱車社会を主張するようなものである。
 今後の脱原発を議論する場合、その福島の教訓を元に、原発の耐震補強やつなみ対策をすることができるということを忘れてはならない。

発言2:「これから新たに原発のゴミを出さない」ことが、原発のゴミ問題の一丁目一番地である。
「いまある原発のゴミをどうするか」という司会の田瀬さんの質問に対しての意見である。自分の意見を持たないで、元総理という看板だけでテレビに出るなと言いたい。

発言3:原発停止後も化石燃料輸入量は殆ど増えていない。

 省エネの努力は何処でも行なっている。化石燃料の輸入量は、電力会社に限って言えば大幅に増えているという統計がある。(http://eneken.ieej.or.jp/data/3986.pdf)
「娘が結婚して出て行ったので」を言わないで、「我が家でも電気料金はここ数年でかなり減少した」と、省エネ努力を宣伝するような類いの発言である。
 
発言4:自分が立てた省エネハウスを見せ、年間30数万円で太陽光発電システムの電力を売却しているという。それを、脱原発への寄与だといっている厚顔無恥。
 先ず第一に、あのような豪邸を誰でも建てられる訳では無い。そして、300万円の投資を太陽光発電に出来る人は少数だろう。固定価格での買い取り制度は、それらの投資をする能力の無い我々から余分に電気代を支払わせ、彼らの太陽光発電装置の償却に充てる制度であることをわすれているのかと言いたい。脱原発への寄与だと言うのなら、売却をゼロ円でしろといいたい。  

2014年2月20日木曜日

国民国家という基盤構造と日本国に組み込まれたウイルス

1) 国民国家はNationStateの翻訳だという。そして、その定義についていろいろウイキペディア(http://ja.wikipedia.org/wiki/国民国家)に書いてあるが、要するに主権が国民にある国家だと思う。
 ただ、主権在民というが、国民は主権の存在をそれほど実感できないと思う。何故なら、被選挙権は国民が25−30歳に達すれば誰にでもあるというが、実際には意味のある立候補が可能なのは、上級官僚や外交官、政治家二世、マスコミ人など非常に狭い範囲に限られている。また、投票したとしてもそれは大海にコップの水を加えるに等しい。そして、与党になりうる既存政党にはかなりの歴史があり、それが政党に特有の遺伝子のようなものを持っている。その政党から選ばれた者が、内閣を形成する。内閣の政策は、殆どの場合、それぞれの政策に詳しい専門家集団である官僚機構により企画される。官僚機構にも当然のことながら、その歴史と独自の欲望とに由来する官僚組織の“遺伝子”が存在し、提出される企画案はそれに支配されている。それらの遺伝子が形成されたのは、戦後新しい日本が米国占領軍により作られた数年の間だろう。一方、国民の大多数は、第三の権力と言われるマスコミにより操縦される知的家畜に過ぎない。マスコミは政府及び一部の支配階級により操縦されている。この政治のいったい何処に、国民主権の反映を見るのか。
 どこかに相当の国民の声が生じたとしても、既成の内閣と官僚組織の中に、結局は細分化され雲散霧消してしまう。例えば、大阪に生じた声とそれによる成果が目に見えるものだったが、結局所謂”民意”はマスコミにより雑音の中に誘導され、喧噪の中に消えてしまうだろう。そして、米国の意志により作られた日本国政府に埋め込まれた、これらの“遺伝子”は日本国が滅亡するまで継承されて行くことになるだろう。それは、理解不能なアジアの先進国日本を、二度と戦争の出来ない(西欧に逆らわない)国にするというウイルス的なものであり、“国民国家”という元々粗雑なDNAの中に埋め込まれたのだろう。
 ここで一寸話が飛ぶが、岡田英弘さんの「歴史とは何か」から引用したい。この本は、橘玲氏の括弧日本人という本の引用で知った。歴史を高校の授業以来勉強してこなかったこともあるが、読後目から鱗が落ちるような想いがした。この本の最終章は、国民国家の歴史とその欠陥などについて書かれている。そこには、「米国が最初の国民国家であり、世界中に類例を見ない特殊な国家である」(文庫版177頁)と書かれている。また、「アメリカ人は、先ず憲法が出来て、それを中核にして国民国家が出来るのが当たり前だと思っている。それは非常に変わった考え方だ。」(同、178頁)そして、「言うまでもなく、民主主義は理想的な制度でもなんでもない。欠陥だらけの制度だ。その欠陥の最たるものは、この考え方が明白な虚構に基づいているということだ。」(同、179頁)ここで、虚構というのは、「人間は、神の前に皆平等に創られていて、それぞれが自由な意思で決断し、自律的に振る舞う能力を持っているということ」である。また、「国民国家という形態が普及した主な原因は、軍事だ。国民軍は、ほとんど無限に多数の兵士を徴兵でき、短期間で大軍を動員できる。国民軍が戦争に強いもう一つの理由は、国民の財産である国土を、外国人の侵略から防衛するのだからである。君主制の軍隊の兵士が、給料を稼ぐ為にたたかうのとはえらいちがいだ。」(同173頁の記述を短縮)
 兎に角、国民主権が直接国政に反映してこそ、本当の国民国家と言える。しかし、岡田教授の指摘のように、日本のそして世界の国々の基本にある、国民国家と言う体制の遺伝子は、容易にウイルスが組み込まれる粗雑なものだろう。日本国が、現在の国民の方向を向いていない内閣と官僚機構により運営されているとしたら、そして、どうにもならない時には、国民の命を消耗品のように扱うのなら、国家の遺伝子が国民国家という名称が成立しないレベルまでに、そのウイルスにより書き換えられていることになる。  或いは国民国家という名称は、もともといろんな国家のあり方を載せるためのプラットホーム(パソコン用語の)に付けられた、美しい商標名であると考えることも可能である。そうすると、いろんな国家体制が上に載ることで、初めて国家として機能するようになる。日本は、「闇の権力機構」なる本に書かれている米国により創られた、キメラ的なソフトが載っているだけの国家であり、常に周りの大人の顔色を伺う肥満児という歪な姿で存在している。
 
2)これから日本はどうしたら良いか?
 現在の遺伝子を徐々に入れ替えるためには、道州制を採用し、その政府と官僚組織をその地方の住人で作ると良いと思う。地方に蒔いた種の中には、強い苗に育つものもでてくるだろう。その日本国に自然に育った苗を大切に育てることが良いと思う。中央政府でしか出来ない事以外は地方に委譲して、中央を大幅にスリム化する。安倍首相は憲法改正して独自軍を持つことを考えているだろう。しかし、政治家と官僚組織の遺伝子がそのままでは、益々危険な国になる可能性大である。憲法改正して独自軍を持つには、隣国との友好関係を演出できる指導者の下でないと無理である。それまでは、内部から国を変えるべきだと思う。
(2/20投稿、2/21/12:50最終稿)

2014年2月17日月曜日

米国の原則は世界に通用するのか?

 米国の国際政治経済における原則は、自由&機会均等そして民主主義と反テロリズムだろう。米国は、シリアのアサド政権は国民を虐殺し弾圧しているため懲罰の対象であり、それを支持するロシアも悪であるとしている。その決めつけは、エジプトやタイなど発展途上国の情況(注1)を見れば、一見幼稚な態度に見える(注2)。米国は戦略的な国であるから、この単純な思考の図式は、従って、一般(愚民)向けのものだろう。
 一方、TPP交渉が山場にきており、日本に大幅な譲歩が”強制”されるかもしれない。こちらも、例外なき関税撤廃(自由&機会均等)やISD条項(法&正義)という同じ論理で、環太平洋経済の米国の論理による支配の企みような気がして来た。つまり、表向きの単純な言葉の裏には、米国の利益追求という目的が強固に存在すると考えるべきだろう。世界は、EUとかTPPで静かにブロック化が進んでいるのかも知れない。そして、それはグローバル化の前段階なのか、それとも(経済)戦争の前段階なのか判らない。
 政治評論家の田中宇さんや副島隆彦さんらは、米国の本質を裏側に存在する産軍共同体の企みで解釈している様に私思う。自由と機会均等や民主主義と反テロリズム(注3)などの言葉で表の政策を企画し、実際にはイランやアフガンを攻撃して軍需産業を維持繁栄させている。その考え方では南沙諸島や尖閣諸島の紛争も東アジアを分断するために、第二次大戦後installされたものと言うことになる。実際、中国の横暴に備えて軍備増強するフィリピンなどに軍備用品を販売しているようである(モーニングサテライト2/17)。TPPのISD条項もその図式で考えれば、何でも裁判で解決する米国にとっては、一般に有利である。例えば日本企業の活動を日本以外で(裁判の)まな板の上に載せ、強者の論理で裁くことが出来、日本企業にとっては相当恐ろしい存在に見える。米国の本当の権力中枢、つまりこのような企画をする方々にとっては、日本国は愚民の延長上の存在だと思う。そして、上記”自由と機会均等や民主主義と反テロリズム”という善悪の物差は、彼らの目的を果たすための武器ということになる。つまり、イエズス会が植民地政策の前衛隊としての役割をしたという歴史をコピーして、”神の救い”を”自由と機会均等&民主主義と反テロリズム”に変換した政策かもしれない。
注釈:
1)エジプトではムバラク政権を倒して、民主国家が出来ると考えたのは単純だった。また、タイでは現政権と”選挙をすれば現政権が勝つだけだから、選挙に反対だ”という勢力との抗争が起こっている。民主主義といっても、所詮豊かな国の”カッコつけ”のようなもので、幻想的理想政治だと思う。
2)アサド政権が反乱を企てた民衆を非人道的な方法で鎮圧しているのは、非常に悲しむべき事態だと思う。しかし、それを現代の豊かな大国の論理で介入して良いものだろうか。もし、アサド政権を潰す様に介入した場合、更に多数の死者がでる可能性が高いと思う。混乱は国内で収拾することがもっとも基本的であり、現在政権を執っている側が出来るだけ被害を少なくするように混乱を沈静化することだと思う。大国の代理戦争の犠牲になって苦しんだ国民が、アジアにあったことを忘れてはならないと思う。
3)テロに訴えるしか方法の無い国民は世界に多い。例えば、ウイグルやカザフスタンなど。政治的には弱者を押さえつけて、民族民衆レベル(国家レベルでなく)の反抗はテロとして押さえつける、つまり、反テロリズムと言えば正義のように聞こえるが、所詮強者の論理である。     

2014年2月13日木曜日

イルカやクジラの捕獲に反対する理由として思い当たること

 和歌山県太地町などで、イルカなどを捕獲して食用にする伝統が続いている。それに対して、米国の駐日大使より”非人道的”という言葉を用いて、反対する意見が出された。一方、内閣は「長い伝統として残っていることに、他国があまり干渉すべきではない」という理由で、日本にその伝統を改める予定がないことを明確にした。また巷では、アメリカが昔鯨油をとるためにクジラを多量に捕獲していた時期があることを取り上げ、駐日大使の発言に不快感を示すつぶやきが多かった様に思う。このイルカ漁に時には犯罪的と思われる手段で反対するのが、シーシェパードという国際組織である。(イルカ、シーシェパード)で検索すればその活動や、それに対する日本人の反論(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1055846280)などが数多く表れる。私は、日本人として太地町の方々の生活を護りたいが、このブログの中で「太地町に保証金を出して、イルカ漁を止めたらどうか」という意見を書いた。

 ここでその根拠の一つとしてイルカの高い知能について最近知ったことを書きたい。それは、イルカは人間と同じく“自分という意識”を持つ動物であるということである。この”自分と言う意識”を持つ動物は、他に人間と類人猿しかいないとされている。ヒヒなどのサルには意識はないようである。もちろん、犬にもネコにもこのような、“自分という意識”がない。自分と言う意識は、自動的に“他人”にも同様の意識があるという考え方の発生を意味する。つまり、犬やネコは“自己”と“その他外部”という二つの世界しかないが、人間など“自分という意識”を持つ動物は個体毎に”自分の空間”が存在することを知っているのである。今後、感覚器官とその情報を処理して運動する、コンピュータを搭載した高度なロボットが作られるだろう。しかし、ロボットと人間の違いを考えると、それは現実以外を想像することにある。「我想う故に我在り」ということばが成立するには、”自分(=我)という意識”が不可欠である。

 これについて記した本は、「内なる目」(ニコラス・ハンフリー著、垂水雄二訳、紀伊国屋書店)である。“自分という意識”を確認する最も判りやすい実験は、鏡に映った自分の像をどう見るかを試すことである。犬やネコは、決して自分の像であることに気付かない。(注1)しかし、2歳以上の人間やチンパンジーなどに加えてイルカは、自分の像であることに気付くのだそうである。自分の像であることに気付くことは、他の似た姿の者も自分と同じ心(内なる自分)を持っていることを知っていることになる。
 因に、我々20世紀生まれの人間は、通常2歳以前の記憶がない。(注2)長期の記憶と“自分という意識”の関係については、上記本には何も書かれていない。また、幼少期の家庭や教育(の環境)が人間としての成長に非常に大切であることとの関連についても、これから考えてみたい。
(Feb/13/2014)

注釈:
1)これは学習の問題ではなく、遺伝子のレベルの問題なのである。
2)ここで、20世紀生まれの人間と書いたのは、単に21世紀生まれの人間は発達が早いだろうと言うだけの意味である。
(Feb/14/2014追加及び語句修正)

2014年2月10日月曜日

冷静に議論の出来ない知的日本人

 日本語に「波風をたてる」と言う言葉がある。 これは”騒ぎを大きくする”とか、”煽り立てる”という意味で使われる。また、「波紋を呼ぶ」ということばも、頻繁につかわれている。それは、”人々を刺激する”位の意味である。人々の間の議論というか会話の状態について言及する言葉として、これら水面の状態を表す言葉を用いる日本の伝統?に興味を持った。
 例えば、JOCの竹田圭吾氏が五輪出場選手にたいして、メダルを獲得してもそれを噛まないこと;国歌が演奏される時には、声を出して歌うこと;負けたときに「楽しかった」とか「良い想い出になった」などと言わぬこと、などとTwitterで要請を出した。それに対して賛否両論がネットに掲載されていることを ある記事が報じている。 竹田さんの意見に賛成だが、私が興味を持ったのはこの記事の最後の文章である。つまり、上記「波紋をよんでいる」という言葉で、この記事は締めくくられていることである。これは波紋の中心に位置する人、ここでは竹田氏、が意図してネットでの議論を起こした訳ではないので、この「波紋を呼んでいる」という表現が用いられる。一方、意図して起こした場合には「波風を立てる」という表現が用いられる。後者の表現は、良くないこととされ、負の価値が含まれている。
 上記表現は、「水面には波が無く、静かであることが美であり善である」という美意識があり、且つ、「人々の間に議論が無いのが平和であり、理想である」という価値観があることを意味している。つまり、日本文化の中に「議論は口論であり、口論は紛争に通じる」という、議論の価値を否定する価値観が存在するのである。
 ここで、もう一人の 竹田氏が絡んだ”波風”を紹介する。このネット記事によると、竹田恒泰氏(注1)が2013年10月放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(読売テレビ)において、在日韓国・朝鮮人による「通名」に言及し、それが、いわゆる「在日特権」に当たるとの認識を示したことについて、池田信夫氏が反論した。そして、「この自称皇族は頭がおかしい。マスコミが相手にするのはやめるべき」とTwitterに書き込んだという。池田氏のそのツイッターを見た竹田恒泰氏が、「公開質問状」を出したとその記事は報じている。その部分の表現を上記記事から採ると、「ツイッターでのつぶやきから始まったバトルは、公開質問状を池田氏に叩き付ける事態にまで発展した」と表現されている。
 まさに、波風がたちさわぐ状態になっているのである。もちろん、ネット・ショーとみることもできるが、それが大衆に受けて、且つ、彼らに冷静さを欠いた人間というマイナスの評価が下らないことから、これが典型的な日本人の生態であると考えられる。  このような現象が、二人の知的な方々の間でさえ起こるのは何故だろうか?それは、日本語が論理的な表現に向いていないため、ある現象に対する解釈の論理が容易に相手に伝わらないのが原因だと思う。そのため、議論しても意見が噛み合ず、より高いレベルの理解に向かうのではなく、互いの対立点(又は、線)のみが益々際立ち、最終的に感情的になってしまうのである。(ここまで読んで、またこのおちか?と不思議に思われる方の為に、補足として注釈2を追加します。)非常に重要なことの議論においても、このような場面が多くあり得るため、「沈黙は金、能弁は銀」なる諺、或いは、戒めとして残ったのだろう。幼少期から、議論とそれをしながらでも冷静さを保つ訓練を、学校等ですべきだと思う。どれだけ効果があるか判らないが。(注釈3)
注釈:
1)竹田圭吾氏の息子さん。明治天皇の直系元皇族。そう言えば、明治天皇の詠まれた歌に以下のものがありました。
よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
2)日本語に論理がないというのは、山本七平氏(日本教について、文芸春秋文庫版20頁)の言葉にもある様に、いまや常識だと思う。その上、多神教的であり日本文化に明確な善悪が存在しない。それと関連して、日本人は他国に比べて極めて現実的、世俗的(橘玲氏、(日本人)に引用されたイングルハートの価値マップ)であるため、善悪より損得、論理より感情を優先してしまう傾向がある。そのような文化の下では、冷静な議論が出来ないので、波風を立てないのが平穏な日常(世俗人には最も大切)を送る大切な掟となる。
3)改めて考えてみれば、複数の対等な人間が対話や議論を通して、一人の考えよりも高いレベルの思想を創り上げるということは、ほとんど不可能なことかもしれない。世界のどこでもどの時代でも、数える程の例外を除いて、一人の考えが殆どすべてを支配するのが普通であると思う。狭い知的社会に存在する科学活動は、議論を通して思想を構築する数少ない例外だと思う。
(2014/2/10/19:30;2/12/16:00:2/15/am,注釈2、3追加と若干の修正; 2/22語句の修正有り)

2014年2月9日日曜日

論理的でない日本語=part2

 日本語は、論理を含めた情報伝達の手段として出来がわるい。 論理展開に向かない言語を持つことと、感性や感情を優先する文化は同根である。為政者間及び為政者と選挙民との間の(論理に基づいた)議論は、近代民主主義の必須要件であるため、この問題は深刻である。少なくとも、そのような言語環境に居ることを自覚することが、例えば、先の戦争の時の様な政治的な混乱を防ぐためには大切であると思う。今回、日本語の出来が悪いのは何故か?について、新たにヒントを得たのですこし書く。

 日本語は世界のどの言語とも繋がりのない言語である。内外の学者が類縁語を探したが、見つからなかった。(注1)日本にもっとも地理的に近い韓国の言葉も、語順は似ているが、類縁関係にないとのことである。日本民族は、言語の骨格が出来上がる時期を含めて長期間孤立していたのだろう。(注2)日本語が完成度の低い状態にあるのは、漢字の輸入が原因であるという説がある。それは、「漢字と日本人」(文言春秋)の著者である高島俊男氏の主張である。高島氏の解説では、未発達な状態にあった日本語に、大きな体系をもつ漢語(漢民族の言葉、中国語)を部分的に(つまり漢字を)移入したために、日本語の発達が止まってしまったというのである(上記新書24頁)。

言語の発生と進化を記した文献がみつからなかった ので何とも言えないが、おそらく、言語の自然で軽微な変化或いは他言語を取り入れた形での改良はありえても、進化、つまり最終的に骨格まで換わる様な連続した変化は余程の事が無い限りおこらないと思う。おそらく言語の発生及び進化は、例えば、民族の生存を賭けた様な極限情況や、奇跡的な宗教体験と知的凝集の結果として非連続的に起こり、後世からそのプロセスを推察することは不可能なのではないだろうか。従って、漢字を輸入したことで言語の進化が停止するような大きなデメリットはなく(下に書く様な不便はあるものの)、表現の幅がひろがったメリットの方が圧倒的に大きいと思う。

 兎に角、漢語の輸入により多くの新しい概念を組み入れ、且つ、漢字の一部をとってカタカナを、草書的な表現から仮名を発明して、日本語は文字を持たない言語から三種類の文字をもつ言語に進歩した。明治以降、“国民国家”(注3)として新しく日本国を建国する際、国語として日本語も整備した。その際、多くの西欧的概念を二字熟語として加え語彙を増やしたが、その結果、多くの同音異義語が出来た。(注4)そして、日常会話において、前後の文脈から多くの同音異義語から一つを選択するという神業的な作業を行なわなければならなくなったのである。

 日本語では同音の漢字が多いので不便だが、漢語においては漢字は、一語一音節一字であり、不便はあまりないらしい。実際に漢語に用意された音節の数は、1500程度あり(注5)、日本語の100程度より遥かに多い。(同上書33頁)また、英語では3000音節程度あるとのことであり、音節数の比較だけでも言語としての完成度の差は歴然である。(注6)
<br>  漢字が日本語にとって重要になればなるほど、それを抱き込んだ日本語はキメラ的な言語に変化して来た。そこで、漢字を追放しようという運動もあったが、それは不可能なことである。もしそれを行なえば、日本語の利用価値はなくなり、命が無くなるのである。(同上書、第四章)我々日本人は、キメラ的であろうと、日本語を用いて生きて行くしか無い。今後、我々が他に取り得る道があるとすれは、日本語の根本的改良よりも、例えば英語と日本語のバイリンガルになることではないだろうか。

例えば自然科学系では、論文は英語で書く。その際、日本語の原稿を用意して、それを翻訳するという方法では、上手く論文が書けないことが多い。下手な英語でも、最初から英語で書いて改良していく方が、最終的には短い時間で投稿できるのである。バイリンガルは部分的には進んでいるのだ。

注釈:
1)チベット系のレプチャ語、ビルマ語、インド南部のタミール語などとの類似が研究された。しかし、同根説は成立しなかった。
2)大陸から帰化した人は大和朝廷が出来たときからかなりいたと言うことである(歴史とは何か、岡田英弘著)。従って、孤立といっても文化が変化しないレベルのものである。
3)二月三日のブログ参照(岡田英弘著、歴史とは何か、文芸春秋)
4)「せいし」とワープロで打つと、正史、静止、精子、生死、制止、製紙、正視、姓氏など多くの漢字表現が表れる。同音異義語が多く出来たのは、西欧語を漢字を用いて熟語にする際、漢字の元々の意味を利用したためである。それらのうち、かなりの二字熟語は中国に逆輸入されたが、中国語では漢字は一語一音節一字なので同音異義語にはならない。また、江戸時代までに出来た熟語は漢字の意味を重視せずに作られたため、同音異義語が少ない。
5)四声と言われる調子が異なる発音を異なる音節とする。
6)この音節数の違いが、日本人が英語を習得する上で大きな障害になる。特に英語の聞き取りが困難な理由だろうと思う。つまり、日本人は通常strengthという単語を、ストレングスという5音節の発音で習得する。本当は、strengthは一音節であるという。つまり、一音節で発音する単語を5音節で習っていては、英語を話し聞くことが出来る訳が無い。日本の英語教育の間違いを、この音節に言及して議論したことは無いのでは?
<日本語の出来が悪いという文章を書いた筈だったが、その文章の出来が極めて悪いので、悪質なジョークの様な記事でした。そこで、本日手を入れました。(2015/6/1)>

2014年2月7日金曜日

ゴーストライター

1 クラシック音楽に於けるゴーストライター事件が、ショッキングなニュースとして報道されている。昨日はゴーストライターであることを明らかにした新垣氏が、TVの画面に現れて記者会見を長時間行なっていた。そして、今までテレビ等に出ていた作曲家佐村河内氏は隠れてしまった。佐村河内氏は聴力が全くない作曲家ということで、外国メディアに現代のベートーベンと言われていたとのことである。障害者手帳を持っていたというが、新垣氏は会話を普通に行なっていたと証言しているので、その取得についても真相が明らかにされるべきである。オリンピックで高橋選手が佐村河内氏の曲を用いて演技を行なうので、このインチキ行為が世界中に宣伝されることになる。日本人として非常に恥ずかしい思いをしなければならない。
 新垣氏がこの時点でこのような事件を明らかにするのは、恐らく自分の音楽家としての能力に対する一般社会からの認知度が低く、一方、音楽家として無能な佐村河内氏が世界に宣伝されている情況下で、不満が極限まで進んだ結果だろう。高橋選手に申し訳ないので、このタイミングでこのインチキを明らかにしたとの発言があったが、それは嘘だろう。むしろ、告発の拡声器としてオリンピックを利用したかったのだと思う。高橋選手は、せめてオリンピックが終わってからにして欲しかった筈である。新垣氏が自分も共犯者であるという姿勢で会見に出ていたが、心の中では自分は被害者だと叫びたい気持ちでいっぱいだろう。その自分自身の心を偽る弱さが、このような事件を産んだ一つの原因だろうと思う。
2 この件が(http://ja.wikipedia.org/wiki/ゴーストライター) 著名人が本を出版する時のゴーストライターとは異なり、非常に悪質なものであり、峻別するべきであると思う。芸能人やスポーツ選手などが本を出す場合、本を書くことはそれほど簡単なことではないので、ゴーストライターの関与は誰もが気付いていたか、知っていた。恐らく、出版社がゴーストラーターとして力のある人のリストを持っているのはないだろうか。そのような場合、著者役の著名人と出版社の担当は、選んだゴーストライターを囲んで、本の内容に関するプラン、仕事を仕上げた際の報酬などの打ち合わせした後、ゴーストライターが淡々と原稿を作るのだろう。そして、2、3回の打ち合わせを同じメンバーで行なって、短期間で仕上げると思う。このようなプロセスなら、最後までゴーストライターは表にでないだろう。何故なら、そのライターは自分の思想を本に書く訳ではないし、出来上がった本は自分には価値のないものだからである。この様な場合、何か他の要因がなければ事件にもならないだろう。ただ、政治家の本の様な場合、現実の政治へ選挙などを通して影響するため、その後の政治の流れによっては事件に発展する可能性はある。
3 上の件と今回話題のケースとの違いは、ゴーストライター役が自分本来の舞台で、自分の能力を絞って作品を創作した点である。つまり、新垣氏は音楽における自己実現(注1)の一環として作曲したと思う。この理解が正しいのなら、新垣氏はまるで沙村河内氏の奴隷のような存在と言える。(注2)また、交響曲1番には、被爆地のヒロシマという名前が与えられており、日本の歴史に捏造のラベルを貼るような行為で、非常に腹立たしい。
 この件にかなり近いのが、科学論文などで共著論文が出された際、その業績を上司が独り占めするような場合である。有名なケースでは、(http://islands.geocities.jp/mopyesr/zatsu/adrenaline.html) 高峰譲吉によるアドレナリンの発見がある。本当の発見者は助手の上中敬三かも知れない。最近のケースでは、(http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/channel/suzuki2/index.html) 鈴木カップリング の発明により、鈴木名誉教授がノーベル賞をもらったが、テレビ報道された記者会見などを視聴した範囲では、鈴木氏から受賞論文の筆頭著者である宮浦氏の協力に関する言葉を聞いたことがなかった。もちろん、鈴木氏の指揮の下に行なわれた研究だろうが、社会から与えられた栄誉の差はとてつもなく大きい。
因に、少なくとも1990年頃までは、助手(現在の助教)以下が英語で研究論文を書く場合、講座の教授が間接的な寄与であっても、その名前を著者リストに入れ、その論文に関する連絡先(corresponding author)とする場合が多かったように思う。
  4 ゴーストライターにはいろんなケースがあるが、被害を受ける人の有無に関わらず、一律に人間社会から厳しく排除すべきだと思う。(注3)何故なら、芸能人の場合でもゴーストライターに書かせ、著者名を偽って本を販売することは厳密には詐欺であるからである。また、それが全ての捏造を無くする唯一の方法だと思う。全ての人が真実を目指すことが社会の信用を高め、その信用が社会のインフラとなる。社会における高い信用が日本の最大の財産であることを、全ての人が再度確認すべきである。

注釈:
1)欲求段階説参照
2)今日(2月9日)の報道によると、交響曲第一番の曲風が過去の作曲家のものを真似たところがあるとの疑惑が、昨年音楽家により指摘されていたとのことである。そうすると、今回の暴露劇の動機は他にあるかもしれない。
3)儒教圏にあるためか、日本では人の社会を層状構造として捉え、その上下間の壁を護るという考え方がある。それが、会社や小さなグループでも上下関係が定着しやすい原因だと思う。それと調和するように、複雑な敬語の体系と論理の無視が。日本語の中に存在する。このような社会では、個人を批判することはある段階まで、不徳として批難される。一方、人の行為を批判するのではなく、人そのものを批判しラベルを貼る習慣があると思う。(行為を批判するには論理が必要だからである)
(Feb.7投稿;Feb8,注釈を追加;Feb9, テレビ報道の内容を考慮して改訂)

2014年2月5日水曜日

NHK経営委員である長谷川三千子氏を批判する

 長谷川三千子氏は このサイトにある様に、 NHK経営委員に不適任である。憲法に反する思想の持ち主であるからである。憲法にも改正すべき点はあるだろうが、現憲法の精神を尊重するのは、公務にある人間の義務である。
 上記サイトは、朝日新聞社に乗り込み拳銃自殺した右翼の方(野村秋介氏)の追悼の会に寄せられた、長谷川氏による追悼文を問題にしている。(注釈1)朝日新聞社に乗り込んだその方は「俺は朝日と刺し違える。そう公約したのだ」と言って、最後に「すめらみこと、いやさか(天皇陛下万歳のヤマト言葉的表現)」という言葉を繰り返した後、拳銃自殺したとのことである。長谷川氏は、追悼文においてこの拳銃自殺を賞賛し、神(つまり天皇)に命を捧げた尊い行為であるとしている。従って、長谷川氏は明らかに、天皇を神と崇める思想、つまり、象徴天皇制を唱った現憲法の第一章に反する思想の持ち主である。また、この自殺は新聞社への脅迫行為である。更に、その方の自宅は、銃刀法違反で捜索されている。従って、引用されている追悼文の内容は、刑法犯にあたる人を誉めたたえる行為でもある。
 明治憲法においては、天皇は第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と国家元首であることが記され、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、内閣総理大臣ではなく天皇が軍を統帥(統率)するとある。この記述が軍の暴走を許し、先の大戦の大きな原因となったのは常識であると思う。天皇は神であるとする長谷川氏の追悼文は、氏が明らかに現憲法を否定し明治憲法を善しとする思想の持ち主であることを示している。憲法9条や96条の改訂に賛成のものでも、第一章を改訂すべきという人は少ないだろう。民主主義国家を日本が名乗り、その民から徴収した金でNHKを運営するのなら、長谷川氏の様な方を経営委員にするのは、国民を無視する行為である。この様な人事を内閣がするのなら、直ちに、内閣がNHKの経営費を負担し、視聴料を無料にすべきである。(もちろん、その為には放送法を改訂してNHKを内閣の広報機関とする必要がある。)
 また、この様な時に「私的な意見なので問題はない」という擁護が内閣から出ているが、これは内閣要員が言語を正しく用いず論理を誤摩化しているか、正しく用いる能力がないことを示している。「私的な意見で問題がない」のは、私的な空間にその意見を閉じ込めることが出来る場合に限られる。(注2)NHKという公的”報道機関”の運営委員であるから、委員の思想がその運営に影響するのは当然であり、長谷川氏の思想が公にされた以上内閣の擁護の論理は成立しない。つまり、公的要人の”思想”は私的な領域だけでなく公的空間に広がって存在する。(注3)
 この国はおかしい方向に進んでいる。トップの頭がおかしいと舟は蛇行して、氷山にぶつかるだろう。タイタニック号を思い出す。

注釈:
1)正論(1月6日発売)で、長谷川氏は、仕事は男性、育児は女性という「性別役割分担」が合理的との意見を公表したらいしい(読んでないので未確認)。公明党の高木氏はその様な考え方を持つ人は、「首相の考える男女共同参画とは相いれない」と批判した。
2)私的な問題が公的空間に持ち出されて大きな打撃を受けた方に”みのもんた”氏がいる。成人になった息子の犯罪は、みの氏が責任を問われることではない。
3)「ナチスの行為は批判されるべきだが、ヒットラーの思想は私的であり問題ない」という論理は成立しない。何故なら、ナチスの行為はヒットラーの思想がその原因だからである。長谷川氏の思想は、公的報道機関NHKの運営に影響する筈である。

2014年2月3日月曜日

歴史とは何か---岡田英弘著の同名の本を読んで

(以下に岡田英弘著の「歴史とは何か」の感想を書く。「である」口調で書いた文章は、著書からの理解を書いたものであり、現在正統と看做されている歴史として認識されているものとは限らない。)
 歴史は、「“政治的集団”(皇帝や王などに率いられた集団;国民国家など)を形成した人々の活動や様子について、各種資料から “真実”を抽出把握及び解釈して、因果関係と伴に、(世代を超えた)時間と(地図上の広い)空間という座標上に、叙述展開した思想である」と定義できる。(注1)世界中の出来事に関する記録を集めれば、単に記録の山が出来るだけである。その記録から“真実”と思われる出来事やその意味を取り出すには幅広い知性と訓練された技術が必要である。“真実”と定義したのは、その時の知性を集めて得た出来事とその意味であり、本当の意味での真実は誰にもわからないので“真実”と” “をつけた。従って、それらの因果関係と時間的地理的関係は、解釈する者やその立場により異なるので、歴史は科学ではなく文学である。(82頁)この文学であるとの理解があれば、他国の歴史に対して、歴史認識が正しいとか間違っているとかの批判は本来あり得ない。何故なら、正しい歴史などこの世にないからである。(注2)
 歴史を構築するとき、そして、歴史書を読む時に注意を要するのは、歴史の主人公とでも言うべき人の“政治的集団”が、地方豪族のトップである王、そしてより広い範囲を治めた皇帝、そして、国民国家などと時代と伴に変化し、場合によっては混在していることである。例えば、東アジアにおける唐や高句麗の歴史を考える場合、それらの“国”を適正に解釈しなければ、本質的な誤りを犯すことになる。近代になって現れた、国民国家という人の“政治的集団”は米国の建国(1789年)やフランス革命をきっかけにして広まった(158頁以降)。その国民国家が現れてまだ、200年程度しかたっていない。中世以前の帝国の歴史を分析しようとするとき、”帝国”を現在の国民国家のような感覚で認識すると、何かと誤解をしてしまう。中国と周辺諸国との朝貢関係を、宗主国と従属国という国家間の関係と一様に受け取るのは間違いであると著者は指摘する(202頁)。この理解は、「琉球は昔中国へ朝貢していたので、琉球政府が消滅した現在本来中国領だ」という暴論を退けるのに役立つ。(注3)
 ところで、歴史書としての起源と看做されるものは、中国の司馬遷が書いた史記とヘロドトスが書いたヒストリアイである。二つの歴史書はその性格が全く異なっており、そして、その後の中国周辺とヨーロッパの歴史書はその影響下に書かれており、二つの歴史書は東西の歴史書の遺伝子の由来としての意味も持っている。史記は中国における前漢(紀元前2世紀ころの中国)の武帝が天命により皇帝になったことを主張する為の物語である。周辺諸国の歴史書は史記のような帝国の正統性を示すという書き方をしている。日本の歴史書である日本書紀も、史記の遺伝子を継承し、天皇を頂点にして建国された日本国の正統性を示す為に編纂された。つまり、7世紀後半、百済を滅ぼした唐の圧力の下で統一をいそいだヤマト朝廷が、外国への力の誇示と国内での結束を高める為に編纂した歴史書である。秦の始皇帝より古い時代から始まる歴史を書くので、神話の創造とそれを利用した歴史の創作がおこなわれた。一般的に言えることであるが、歴史書はその動機や特殊性を念頭において読まなければならない。日本書紀の中にある、神武天皇の祖先が高天原から下って地上の王となったという物語を真に受けて高天原探しが始まったのは、この東アジアの歴史観と歴史書の性格を見誤ったことが原因である。(注4)また、天皇家が大陸のどこかから半島経由で日本列島に至ったという説も何の根拠もなく、古事記の歴史書としての性格を間違って評価し解釈したことによる。(96頁)
 一方、ヒストリアイは紀元前5世紀ころのペルシャとギリシャの戦いについて調査記述したものである。ヒストリアイの序文に、「複数の政治勢力の対立・抗争により世界は変化する。それらがやがて世の人々から忘れ去られるのを恐れ、それらをかき述べる(要約)」とこの書物の性質が述べられている。そして、ヒストリアイが歴史(英語のhistory)の語源となり、歴史という文化の出発点として受け取られている。現在の歴史書に関する標準的な理解はこのヒストリアイのものである。ヒストリアイの歴史観は、善(ギリシャ、ヨーロッパ)はやがて悪(ペルシャ、小アジア)に打ち勝つというもので、それはキリスト教的歴史観と一致する為にグローバルスタンダード的な歴史観となった。この歴史観と十字軍の関係についての記述も興味深い。
 以上の他に、歴史の定義と関連して重要な記述がある。それは、歴史が把握されなかった文明とその特徴である。例えば、インド文明やイスラム文明で、極最近まで歴史というものが文化の中に把握されていなかった。それは、輪廻転生の考えが支配的な文化の下では、出来事を因果関係とともに時間軸に沿って展開することが不可能だからである。また、イスラム文明では、未来は神の領域にあるため、文化は(上記の歴史の定義の中にある)時間と空間以外に広がっているためである。更に米国が、歴史のない文明として挙げられている。米国は13州が英国から独立したのが18世紀末で、その後米国に移民として入り、自分の意志で米国民になった一世が今なお存在し、二世三世が多くなったのは20世紀の中頃である。従って、文明に歴史を展開する十分な時間軸がなく、“自国の歴史”という感覚がない。そのため、米国民というアイデンティティーは独立宣言と合衆国憲法前文だけであり、その文面をイデオロギー的に意識する。
 現代、キリスト教的歴史観とアメリカ的自由主義がグローバルスタンダードとして君臨する時代である。しかし、近い将来、西欧とアジアの間のトラブルが国際社会の大きな問題となる時代が来るだろう。その際、上記国際標準の由来などを始め、歴史に関する知識と感覚が益々重要になると思う。
(今後修正する予定。2014/2/03;ed.2/04)

注釈:
1) 著者の定義、「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」(10頁)を私の理解した部分を追加して定義した。
2) 韓国が日本の歴史は面白くないという不満の表明があっても良い。しかし、歴史は文学であるから、歴史認識が間違っているという批判はおかしいと思う。実際に被害があれば、損害賠償を要求すればよい。日韓基本条約締結後であるから、条約違反というクレイムはあり得ても、歴史認識が正しくないというクレイムはあり得ない。
3) 朝貢は、周囲の王が中国の皇帝に会い、貢ぎ物を差し出すことである。中国の皇帝が使者を使わして朝貢を要求し、それを歓迎したのは、自分が正統なる中国の皇帝であることを証明する証拠として利用したかったからである。そのため、多くの場合、貢ぎ物より多くのものを朝貢した王は持ち帰ったのである(別の文献)。形式的にその地方の支配者であることを認める冊(任命書)やその印としての印章は、必ずしも宗主国と属国の関係を示すものではない。
4) 日本の騎馬民族征服王朝説などは、日本書紀などにある神話を、西欧の合理主義的観点で解釈した為に生じた。