2015年3月30日月曜日

昭和天皇実録に関する議論:戦前の天皇にどの程度権力があったか

昨日のテレビ番組“そこまで言って委員会”で、出版が始まった昭和天皇実録とその内容、特に先の大戦における天皇の立場、についての議論があった。 

大日本帝国憲法下での天皇の権力について:第1条の天皇主権の条文、第4条の天皇は国家の元首であるとの条文、第11条の「天皇は陸海軍を統帥する」という条文などで、権力が天皇に集中している印象を受ける。ただ、統治は憲法に基づいて行なわれ(第4条)、第55条の「国務各大臣は天皇を輔弼しその責に任す」という条文が根拠となり、実際は各大臣に行政が任せられていたことから、帝国憲法下の天皇に関するパネラー達の理解は、「権威はあっても権力は行使されなかった」というのが支配的であった。

  ただ、津川雅彦氏と竹田恒泰氏は、戦争責任が天皇に向かうことを過剰に警戒してか、帝国憲法下の天皇権力を過小化する主張をしていた(注1)。竹田氏によれば、天皇が政府決定に関与したのは、ポツダム宣言受諾の時と、226事件の時くらいだったという。前者は御前会議での所謂“ご聖断”であったが、後者は天皇の暴徒鎮圧の意志が軍首脳に伝わり、結果として軍を鎮圧に導いたという間接的なものだった。従って、在位中の権力行使は合計しても1.5回程度であったということである。更に、竹田氏は旧皇族らしく「昭和憲法の下の天皇も帝国憲法下の天皇も実はたいして違わないのだ」と、主張していた。現憲法下でも天皇の国事行為として大臣の任命などがある(注2)が、帝国憲法第1条と第11条を考慮すれば、違いは明白であるにも拘らずである。

一方、実際に政府決定に強く関与したことがあったという事実や、帝国憲法第55条の条文の意味は、各国務大臣は天皇に“助言する”だけなのだから、最終的権力は天皇にあると解するのが言語上正しい筈である。この文字通りの理解で天皇の戦争責任を主張したのが、日本共産党や日本社会党である(注3)。 

実際は、これらの意見の中間、つまりパネラー大半の理解である、”憲法上の天皇の権力と内政や外交において実際に“行使された権力”の間に、大きな差があった”というのが現実に近いと思う。

  私の考えだが:昭和天皇個人に戦争責任を問うべきではないが、天皇という地位が軍の暴走の根拠として利用されたという事実により、戦争責任があったと思う。そして、新憲法で天皇にそのような権力を置かないという形で、”天皇と言う地位”が責任をとったのだと考えればよい。この考え方は、美濃部達吉の天皇機関説的な戦争責任の解釈なのだろう(注4)。

  一方、占領軍が戦争責任を問わなかったのは、「権威があっても実際上権力行使は無かった」という理解によるのではなく、占領軍の政治的思惑によるものであったと思う。 

昔から、権力者はあらわな権力誇示を嫌う。例えば、江戸で幕府をひらいた徳川家康は、全く権力の無かった天皇から征夷大将軍という地位を貰って、自分の権力を正当化した。このときの天皇は将に、“権威あれども権力なし”の状態だった。英国にも、「国王は君臨すれども統治せず」という慣習法としての憲法があるという。つまり、本当の権力者は如何に失政の言い逃れをするかについて腐心してきたのだ。それが責任論を複雑にする理由だろう。 

注釈: 
1)津川氏は「権威はあったが、権力はなかった」とパネルに書いたと記憶している。竹田氏は“昭和憲法下の天皇とたいして違わない”(以下の文章参照)という表現を用いていた。 
2)竹田氏は、現憲法下でも天皇が大臣任命を拒否する特別の場合があるかもしれないと言っていた。しかし、憲法4条に規定する天皇の国事行為は、憲法1条の「天皇は日本国民統合の象徴である」を具体化するためのものと私は考える。従って、竹田氏の言うveto(拒否権)はあり得ない(象徴に国家元首のvetoはおかしい)と思う。竹田氏は憲法学者を名乗るなら、明確にこの件雑誌等に書いてもらいたい。 
3)元共産党議長の宮本顕治氏の国会での発言が放送されていた。パネラーでは田嶋陽子氏が、帝国憲法の字句通りの解釈を行なっている。
  4)この点、専門の方の意見を聞きたいと思います。 
(2015/3/30;am10:55;同日17:20語句修正)

2015年3月25日水曜日

三重女子中学生殺害事件の軽い判決:裁判官は刑罰の意味が分っていない

昨日の表題事件の判決は、異常に軽いとしか言い様が無い。裁判官などの関係者は、現代までの社会の変遷も考えて、犯罪処罰の役割を根本から再考すべきであると思う。情報化社会にあって、犯行に及ぶ18歳未満の者は、少年法の存在を承知の上で重罪を犯す場合も多いと聞く(注1)。精神的発達の早い昨今、少年法も改正を早急に議論すべきである。

犯罪処罰の役割であるが、それは1)社会の枠組みを防衛すること、2)被害者とその家族の報復権の代行、の二つであると思う。前者には、社会の他の構成員に対して戒めを与える意味と、現犯罪者を放置した場合に予想される更なる犯罪の防止、という二つの意味があるだろう。後者について:国家と言う枠組みがなければ、被害者家族は自然的権利として、武器を持ち報復を試みるだろう。その権利を国家に引き渡すことで、社会は安定を維持する。加害者の少年(当時は高校三年生)の「更生の可能性」は次の問題であると思う。裁判官は、判決を下す上での罪状の次に最重要な要件として「更生の可能性」を考えて、上記2)の報復権を無視しているのは、専門バカだからだろう(最後の節参照)。

古代のハンムラビ法典でも、聖書にある戒律でも、死に至らしめた者は自分の命でそれを償うのが基本である。それら、「目には目を、歯には歯を」の原則は、それ以上の刑罰を戒める為につくられたのである。つまり、古代から犯罪は直接的被害の他に被害者親族や社会にも被害を与えるので、目には目以上の罰を下すのが多かったことを示している。それが、「更生の可能性」という謎のことばで、刑罰を「目には睫毛を」レベルに引き下げる慣習が出来上がった。それは、素人の私にはわからない理不尽なものに思える。

勿論、社会が複雑になり、その中で生きる人間の不適応症状を全て、ハンムラビ法典流に重罰に処すことは、社会を不安定にし、社会の活動を下げる可能性もある(注2)。その場合には、加害者側の犯罪に至る状況を考え、情状酌量の余地ありという形で刑罰を定める際に考慮される。

しかし、「更生の可能性」という謎のことばは理解できない。更生の可能性は死刑か有期刑か(終身刑は日本にはない)という判断のみの問題であり、懲役5-9年という短期の懲役刑を課す場合の減刑理由であってはならないと思う。“100万円の借金を踏み倒したのだが、若くて更生の可能性があるので、80万円の返還を命令する”のような不合理を感じる。

裁判官が判決後犯人に向けていった言葉は、「他人の痛みが分る人間になってほしい。事件と向き合うことが被害者への謝罪とあなた自身の立ち直りの第一歩だ」であった。この言葉は判決の一部をなし、私的な言葉ではない筈だから、その考えが判決の上で考慮されたことを意味している。これが、「更生の可能性」という謎の言葉の正体なのだ。現在の日本における裁判の根本的問題を示していると思う。 何故なら、
1)他人の痛みが分るかどうかは問題ではない。他人の痛みがさっぱりわからなくても、法律に禁止されたことをしないことが大切なのだ。(注3)
2)死亡した被害者に謝罪は出来ない。
3)立ち直るかどうかは、裁判官の仕事の範囲にはない(注4)。

裁判官も日本病に罹っている。

注釈:
1)少年法が定められた昭和23年当時よりも人間的にも精神的にも成長が早く、欧米では既に18歳から成人として扱う国が多く、日本でも少年法の改正が議論されている。尚、18-19歳の量刑は、成人と同じである。
2)その例として、セクハラ裁判がある。あまりにも女性側の敏感な視点で裁かれると、男性は町の中に出られなくなる。少なくとも満員電車には出来るだけ乗らないとか、エレベーター内に女性を見た時、他に男性がいなければ乗り込まないなどは常識的になっており、男性の社会での活動効率を下げている。
3)ニューヨークだけでも10万人くらいのサイコパスの人がいると言う。日本人にも100人に1-2人居るだろう。それらの人は元々被害者の痛みなど分らないし、その意味で更生の可能性などないのだ。そんなこと、裁判官はしらんのだろうか。
4)私は理系の元研究者であり、法学に関しては素人である。文系、特に法学系の人に批判してほしい。ただし、法理論的にではなく、1人の人間として、自分の哲学を披露する形で。

2015年3月24日火曜日

マイナンバー制:恐れる人たちと恐れる理由

マイナンバー制:恐れる人たちと恐れる理由 1)マイナンバー制とは、全ての国民に番号をつけることで、行政の能率化を図る制度である(注釈1)。それを国家が国民を管理する為の制度であり、国民の自由が侵害される可能性が高くなるとして、恐怖感を覚える方が多い様である。例えば、以下の一般の方のブログには将来の徴兵制や日常の行動を管理するためにも使われるというような書き方で、恐怖を煽っている。http://blogs.yahoo.co.jp/overthewind999/64881862.html そして、土曜日に投稿されたこの記事は、face bookでのシェアが今朝10時の時点で既に3500以上を記録している所をみると、多くの日本人の共感を得ているように思える。

なぜ、日本人はこのような意見に賛同する向きが多いのだろうか? 
全ての国民の名前等を戸籍簿に記載するのは、当たり前のことになっている。そして、マイナンバー制が始まれば、その戸籍簿に番号をつけ、納税などの際にその番号を記載することになるのだろう。更に、何かの契約がなされた時に、その番号が記載され、税務処理などが非常に効率よくなるだろう。マイナンバー制は行政の立場からは便利なだけに、独裁国家などの体制下では国民には厳しい制度となる。しかし、日本国は独裁国家ではない。

“便利なもの=危険なもの”という等式は、包丁でも自動車でも同じである。ただそれを便利に使い、危険を防止するのが人間の智慧でありその集積としての文明である。マイナンバー制に関しても、全ての国民が政治を勉強し政治に積極的に参加することで、その危険性は少なくなり、行政の能率化による利益を国民全体が得ることになる筈だ。

2)ただ、国民は主権者であるということになっているが、政治にたいして或る種の壁を多くの日本人は感じている。そして、自分達が政府のトップに位置する内閣構成員を選んでいるにも拘らず、日本政府をあまり信用していない。それには、二つの理由が考えられる。その一つ目の理由であるが、それは過去と現在の政治家に対して、強い不信感をもっていることである。具体的には、先の戦争時に、国民の命を消耗品の様に扱った大日本帝国に対する記憶が残っていること、また、その時代の政治家の子孫である、現在政府を代表する国会議員達、所謂世襲議員、のレベルがあまりにも低く、国会での答弁も官僚達のメモを読むだけであること等を、国民は良く知っているからだろう。

無能で政治家としてのプライドのあまりない(ただし、威張るという意味では、プライドは高いが)議員にとっての政治責任は、国会議員の席を担保とするだけのものであり、一般国民の自己破産よりも遥かに軽い。そして、議員という地位にあるにも拘らず、国会やテレビで厳しい議論の洗礼を受けることはなく、国会の議席は子供に譲るまで守ることができる。それが許されるのは、対面で厳しく追及することを、日本文化はあさましい姿と評価するためである。年功序列、永年勤続表彰制度などの存在から判るように、地位あるものに時間は常に味方をするのが、儒教社会である日本の特徴である。

その結果、そのような社会では、芸能界やスポーツ界で名声を獲得するまでは、議員へ立候補は常に“敷居が非常に高い”こととなる。この政治参加への高い敷居が二つ目の理由である。(注2)

3)このような現状を克服する処方箋は多分一つしかない。それは各界で活躍している知識人達で既にマスコミなどで知名度が上がっている人の多くが、議員として立候補することである。そして、議員としての地位を、公衆の前での議論で維持するという習慣を日本社会に持ち込むことである。その例は既に、大阪の橋下徹氏が示している。
もし、橋下氏の意見が偏っているのなら、それを論破する知識人が同じ土俵に立てば良い。そのような場と政治慣習が出来れば、多くの人材がそこから出るだろう。松下政経塾という試みも萌芽の段階では良かったが、オープンなものにバージョンアップしなければ、中途半端な政治家を産むだけである。

注釈:
1)米国のsocial security numberやカナダのsocial insurance numberなど、多くの先進国は既に類似の制度を取り入れている。
2)他に、違法な領域を抱えた人は当然反対する。所得税などの脱税の多くは、マイナンバー制で防げる。

2015年3月23日月曜日

チュニジアでのテロ:テロは西欧的視点からの対策だけでは解決しない

チュニジアでの観光客を狙ったテロで、日本人の方3名を含め21名の犠牲者が出た。豪華客船での地中海クルーズで立ち寄ったチュニジアの首都での悲劇だった。イスラム過激派の仕業であることが明確になり、改めて地球上の広い地域でテロの危険性があることを世界に教えた。地中海の美しい景色を豪華客船の上から観賞しての楽しい旅行とのコントラストがあまりにも強く、日本にいる我々にも大きなショックを与えた出来事であった。(補足)

イスラム原理主義とかイスラム過激派とは何なのか?何故あのような行為をするのか?などという議論がテレビで盛んに行なわれている。その思想的なことや歴史的なことの理解は、事件のプロセスやメカニズムを知る上に大切かもしれない。しかし、もう一つの見方がある。それは事件をひき起すエネルギーである。

この過激派が出現する領域に共通しているのは、貧しさである。不公平とも感じられる国境を跨いだ富の大きな差は、この地域が西欧科学技術文明との経済的接触を持ったときより生じたものである。豊かなサウジアラビア、カタール、アラブ首長国連邦、クウェート等の産油国とそれ以外で一人当たりのGDP(つまり一人当たり所得)は約一桁違う。http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html

2013年の統計によると、豊かなカタールの1人あたりGDPは約10万ドル、クウェートやアラブ首長国連邦で約4.5万ドル、サウジアラビアやバーレーンなどは約2.5万ドル程度である。一方、イラン、イラク、チュニジア、リビア、アルジェリア、エジプト等は約3-6千ドル、アフガニスタンは700ドル、ソマリアやシリアは統計に無かった。

日本の1人当りGDPは3万8千ドルだから、産油国は日本と同程度から世界トップレベルまでの豊かさである。一方、テロや国際紛争で新聞紙上にしばしば出てくる国々は、一桁低い所得であり、国家としての形が保てないシリアでは極貧状態である。

先進国でも貧富の差が問題になっているが、中東やアフリカの貧富の差は遥かに深刻だろう。そのような状況があるからこそ、命を捨てて怒りをぶちまける行為が可能なのだ。西側先進諸国の視点から警備強化や政治的安定性確保を対策と考えるだけでは、テロは解決しない。

そして、もう一つ気になることがある。それはテロにも金がかかるということである。自動小銃は数十万円する。その価格はテロが起こる地域の一人当たりGDPと同じレベルである。何か黒い影を感じるが、それについては既に書いた。

補足:犯人の内2人はその場で射殺されたという。テロ犯人の死と日本を含む西欧先進諸国から豪華客船で立ち寄った人たちの死。このコントラストも凄まじい。(書かないでおこうと思ったが、どうしても書きたかったので補足します。)


一足早く咲いた河津桜:原種に近い桜であり、花と同時に葉をつける。この方が自然であり、ソメイヨシノよりも私は好きである。

2015年3月22日日曜日

プーチンのクリミア併合時の核配備発言について考えたこと

ロシアのプーチン大統領が、15日のテレビ番組でクリミア併合の際、核兵器の臨戦配備の用意があったと発言したことに、日本のマスコミは過激に反応している。今朝のサンデーモーニングでも、寺島実朗氏のプーチンに対する憎々し気な発言を聞いた。読売新聞の社説は「世界の平和に責任を持つべき国連安全保障理事会の常任理事国としての見識が疑われよう。」と書いている。 http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20150317-OYT1T50184.html

  しかし、”国家の重大事には核兵器を使用する”と言う発言が不見識という裏に、”絶対に核兵器は使わないというのが見識ある発言だ”という考えが、社説を書いた人の頭にあるのだろう。その発言に現実性があるのなら、「米英仏露中らは何故核兵器を保持しているのか?」と聞きたい。また、現実性が無いのなら、新聞が現実離れした解説などを掲載する意味があるのか、と聞きたい。

それに続く文章で、「核拡散防止条約(NPT)は、ロシアを含む加盟国に、他国の領土保全を武力で脅かさないよう(注1)求めている。今回の発言がNPTの精神にも反するのは明らかだ。」というのは言葉の上ではその通りであり、それは「NPTがあるから、核兵器は封印されている」という考え方を基礎にしている。しかし、NPTを信じ、それを持出してプーチンを批判するのは、どう考えても幼稚である。もし、読売新聞の本社説担当が幼稚でないなら、読者から金をとりながら社説で読者を愚民化する新聞だということになる。

ここで、「NPTを大きな力にしていく以外に、日本のそして世界の外交に将来があるのか?」と問われれば、各国首脳のだれもが回答に困るだろう。核兵器を持った国の首脳は、終始冷静でない振りをしながら(注2)、心の中はプーチンの考えと殆ど変わらないだろう。一方、核兵器保持国以外の各国首脳は、終始冷静な振りをしながら、その心に持った複雑な何かは、夫々違うだろう(注3)。しかし、その何かを表に出さないで夫々が推測しながら、自国の安全を第一に考えて発言や行動をすることで、国際政治は動いていると思う。冷静に見える日本の首脳も、何かを持っているだろう。表の冷静さが本物でないことを、そして心の中に何かが実際に存在し、それが幼稚でないことを国民として祈るのみである(注4)。

イスラエルは核兵器保持国であると思われている。しかしイスラエル首相は、公式には当然核保持を否定するだろう。そして、イスラエル国民は核兵器を持っているかどうかは知らないだろう。イスラエルは背後に暗室を抱えることで、核抑止力を持っている。ドイツはEUの一員として、フランスなどの核保持国との間に強い政治的経済的関係を築いている。将来状況によっては政治的統合も可能性があると思う。

日本には何があるか?日米安全保障条約はあるものの、米国が覇権主義を放棄すればそれは自然に消滅するのではないだろうか。米国が覇権を維持している間に、独り立ち出来るように、近隣との関係を築くのが大切であると思う。それ以外にいろいろ考えることは可能だが、国民もマスコミも、貧乏人が資産公開するような愚かなまねを政府に強要すべきではないと思う。

注釈:
1)クリミヤ併合については、西側報道だけでは違法のものかどうかわからない。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/03/blog-post_14.html参照してください。
2)NPTは核保持国の特権を守る体制である。しかし、他国が核兵器を持つ様になったとしても、優位性は変わらない。しかし、他国と協調する姿勢が政治の上で大事である。
3)核兵器を保有しない弱点を、NPTだけで克服できないことは既に承知している。それに代わる条約や裏で用意する対策は、国によっていろいろであるが、万全であるとの姿勢はそのまま抑止力の大事な一角をなすだろう。
4)米国との安保条約の他に何もないのなら、中国などの核の脅威は将来国民に大きな不安を生じる時があるだろう。その他に、イザと言う時に短期間に核兵器を保持する能力を確保することが、大事だろう。オバマが日本が保有していたプルトニュームを返還させたことは、米国が日本に対しても尚警戒感を持っているということを示している。その警戒感を逆に利用して、米国に我国との核抑止力を含めた同盟関係強化を演出する様に要求すべきである。
(3/22 注釈2−4を追加)

2015年3月21日土曜日

年金資金を株式投資に多く向けるのは危険だ

GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)による株式投資枠拡大により、株価が後押しされ、株価は高値更新している。 http://www.vsm-hk.com/topics/2014/89/この件、いろんな問題・疑問がある。それらは:
1)公務員的な人たちが運用して、利益を上げることなどできるのか?
2)そもそも、今回の株運用枠拡大は、利益を上げる事を目的に行なったのか?そうでなく、株価上昇で景気浮揚を演出するためではないのか?
などである。

1)は、GPIFの前身とも言える年金福祉事業団(年福事業団)によるグリーンピア事業の失敗から生じた疑問である。このはあまりにも有名であり、未だに記憶にはっきりと残っている。http://biz-journal.jp/2014/04/post_4637.html
上記サイト(BusinessJournal)で、失敗をしても責任をとらない官が、リスキーな株投資(国内株25%; 外国株25%)を行なうことはおかしいとの主張が掲載されている。単に物価連動性の債権(国債)投資で行なえば、GPIFという組織もいらないので、安全且つGPIFの人件費が節約できるという主張には、説得力がある。

次に、2)の疑問だが、それはGPIFの運用改革を議論した政府の有識者会議(注1)は2013年11月、アクティブ投資の拡大やROE(注2)に着目したファンドを活用するように提言し、実際に委託先の運用会社はROEの高い株を選んで投資していること由来する。

ROEは純利益と自己資本との比率を%表示したものだが、何故この指標を基準に投資先を選ぶのか、私は素人ながら不思議に思う。何故、営業利益率(業種別に率は代わり得る)か総資本利益率(ROA)を選ばないのだろうか。ROAは全資本(つまり会社の規模を金額で表した数値)あたりの利益率であり、それが大きいことは、そのまま会社が順調に会社の規模に相応しい稼ぎを上げていることを示している。

ROEが高いケースとして、自己資本が少ない、つまり、財務状況の悪い会社で、最近の円安などを背景に差し当たり稼いでいる会社の株がある。そのような会社の株も、この指標に頼れば投資対象になる。逆に、たっぷり稼いで利益剰余金を貯め込み、次の投資先を睨んでいるような健全運営の会社は選ばれない。

一部の非常に健全な財務状況の会社がGPIFの投資対象にしてもらうために、純資産のかなりの部分を株主還元(注3)することで減らして、ROEを上げようとしているケースがあるようだ。株主還元の増加は株価を更に押し上げるので、今回の年金基金の株投資枠増加の目的が、株価上昇による好景気演出なら思惑通りということになる。おまけに、塩崎氏や甘利氏のように多くの株をもっている金持ち議員たちには有利だろう(注4)。

個人ではなく公共の金であるだけに、安全運用を心がけるべきであると思う。そのような場合、この円安で差し当たり利益を得ている会社の株に投資するのは、経済状況が大きく変われば、大きな損失を出すことになる可能性がたかい。

そして、そのときにはグリーンピアの時の様に大損を出しながら、だれも責任をとらないだろう。年金を大幅に下げられた上、誰も責任をとらないということになったら、我々高齢者庶民はどうしたら良いのか。

注釈:
1)有識者会議などという、結論ありきの人選で会議を開き、それを責任逃れの保健にするという行政のやり方は卑怯だ。
2)ROEは自己資本利益率の略で、会社が上げた純益と貸借対照表の純資本の部にある額の比である。一方、ROAは資本全体との比である。別種の指標である、営業利益率は本業の儲けと売り上げの比率である。
3)配当の増加、及び自己株式(会社が自分の株を買い上げること)の取得である。
4)週刊新潮の今週号には、閣僚の持ち株について書かれている。(3/22;注釈2を追加、細部の修正)

2015年3月19日木曜日

近代史を教えない理由(2)

1)明治維新により国民の間の階級制は廃止されて、近代的な国民国家になった(注1)。戦前までの政府は立憲君主制であり、それは、大日本帝国憲法第1条に、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書かれていることから明らかである。普通選挙が大正14年に導入されたことから、民主国家であるという誤解をする人も多い(注2)。

そして、先の対戦中軍部が旧憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠に、独裁体制を敷いた。そのことが、特別に悲惨な結果を招いた原因である。

明治維新から先の敗戦までの歴史を学ぶと、国民の中に国家という枠組みに対する反感を生じる可能性がある。国家の為という言葉を根拠にして、軍部独裁政府は多くの犠牲を国民に強いた。若い優秀な後継者を特攻隊などで亡くした家族、空襲で命を落した人々の家族、インドネシアやフィリピンのジャングルで補給もないままに放置されて戦死した兵士の家族、全てが国家とは何だったのかと考えるだろう。

そして注目したいのは、あれほどの悲惨な戦争の後にも拘らず、大戦前の国家の指導者層と大戦後の国家の指導者層に変化がなかったことである。国家の枠組みを維持するため(注3)かもしれないが、過去のあやまちは国民になるべく知らせたくなかったことが、近代史を国民から遠ざけた理由だろう。

2)西欧列強が日本国の周辺に勢力を拡大して来た時代故、国民の生命と財産を守る為に国民国家の枠組が必要であったのは確かだろう。しかし、兵士を無料で調達する手段として機能するその国家体制の下、指導者が不十分な能力しか持っていなかったため(注4)、多くの命を結果として無駄に消費したことも事実であった。

大惨事の総括は、戦後の早い時期に終えるべきであったが、時の為政者は1952年のサンフランシスコ平和条約後、戦犯全てを同等に赦免する決議を国会にて行なった。その事実を踏まえ、1978年には戦争を指導した者も、命を国家に捧げた戦死者が祀られている靖国神社に合祀され(注5)、日本は過去の過ちをまるで天災の如く“忘れること”にした様に見える。

岸信介元総理はA級戦犯として捕らえられ東京裁判に望むとき、「われわれは戦争に負けたことに対して日本国民と天皇陛下に責任はあっても、アメリカに対して責任はない」、そして、「侵略戦争というものもいるだろうが、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある」(http://ja.wikipedia.org/wiki/岸信介)と言ったという。

しかしその言葉を、戦争の全プロセスの分析総括により、実証するという責任を戦後の内閣は果たしていない。その総括には国民全てが参加すべきであり、その為には先ず学校で近代史を必須科目として教育すべきだったと思う。その結果を踏まえて、隣国との戦争中の関係を再考するのは決して無駄なことではないだろう。
(歴史や政治は専門ではありませんので、コメントなどお願いします。)

注釈:
1)国民国家とは、国家内部の全住民をひとつのまとまった構成員(=「国民」)として統合することによって 成り立つ国家。
2)戦前の政治体制が民主主義国家であると考える人も多く居る。学校でしっかりと近代史を教育していないことが原因の一つであると思う。例えば:
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1139529816
3)冷戦時代、インターナショナルという歌を多くの大学で聞くことになった時代、その思想に馴染まない国民国家の枠組みは破壊すべきと考えた若い人が多かった。
4)人間社会(特に日本国)では、実務能力よりも対人関係を人事で重視する傾向が強い。そのため、無能な者が上の地位につき、その組織を崩壊させることが多い。今も昔もそのことに変わりはない。”一流の人は一流の人を雇う。二流の人は三流の人を雇う。”という英語の言喭がある。
5)このことは戦争犯罪の存在を否定し、東京裁判で処刑された人も神として靖国に祀る根拠となった。この件で桜井よしこさんを批判したブログ参照:
http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/08/blog-post_29.html

日本の学校は、何故近代史を教えてこなかったのか?

15日のテレビ番組サンデーモーニングで、戦後70年経っても尚、近隣諸国との歴史問題に苦しむことになっている問題が議論されていた。その根本的な原因の一つとして、寺島実朗氏により指摘されたのは、国家のリーダーから一般国民に至るまで、日本の近代史を学んでこなかったことである。一方、日本国民の多くは、あのような悲惨な結果に終わった戦争の原因について知りたい筈である。

日本の近代史を全国民が学び直すことが大事だが、その前に一体何が日本国民から日本の近代史を遠ざけて来たのかを考えるべきである。そうしない限り、近代史の学習も中途半端に終わってしまうだろう。

日本の近代史から国民を遠ざけた人たちは、終戦後の為政者や官僚達だろう。その理由は、彼らの多くが濃淡はあるものの、あの戦争に責任があったからではないだろうか。学校で、近代史を教えないことにするのは、高校入試や大学入試に出題しないことで、簡単にできる。何時か何処かから、そのような通達や何か(注1)が出されている可能性大である。それは探し出せないかもしれない。何故なら、この国では、阿吽の呼吸でほとんどの重要亊は進んでしまうからである(注2)。

別の角度から眺めると、以下の様に解釈することも可能である。日本人の心の中にある、惨事や凶事の原因を探さない習性、或いは他人にその責任を押し付けることを潔しとしない習性(注3)、つまり、それらを包含した日本文化にあると思う。何か惨事があったとして、その原因を論理的に探し、個々の人間や諸因子に帰することを嫌うのである。全てを、まるで天災のようにして終わらせてしまう。

以上二つの近代史を避ける原因の分析は、一つの姿を別の角度から記述したのであり、同一のものである。

何か大きな出来事があったとして、日本での原因分析は常に極めて非論理的であり、実質的に分析されないと言っても良い位である。そして、何時も行なわれる儀式は、関係機関の重要な地位にある人たちが揃って頭を下げることである。

それは広島に原爆が投下されたことも、理化学研究所の論文捏造問題の時も全く同じである(注4)。広島の原爆記念館の碑文、「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」は、国民全てが被爆者に頭を下げている光景を思い浮かべれば、すんなりと理解できるだろう。原因は追求しないのだ。追求して原因が出て来ても、その後の処理が出来ないからである。

続編は書く予定。

注釈:
1)直接そのような通達は決して出さない。通達を出すとしたら、例えば”歴史的解釈が定まっている、古代から中世をしっかり教えるように”という類いのものである。逃げ口上として、”時間があれば、近代史を教えることも大切である”という文言が追加されているかもしれない。
2)国会で主に議論するのは、路チュー問題とお金の問題である。
3)原因を追求すれば、必ず責任者が出てくる。個人の責任を追求することを極端に嫌うのが、日本文化の特徴である。筆者がそのことを強く感じたのは、2005年JR福知山線で起こった列車事故に関する報道であった。最終的な報告書にはふれられているが、”列車の運転手に適正がなかったこと、そして、その運転手を何故業務につかせたか?”についての議論があまり重要視されなかった様に感じた。 4)論文捏造問題に関して、理化学研究所の機関としての責任を追求するバカな人たちがマスコミにも多い。それは、「犯人が悪いのではない。時代背景が悪いのだ」と同じ考え方である。そのパターンを受け入れると、世の中に悪人はいなくなる。
<3/19; 同日午後0時修正>

2015年3月15日日曜日

キリスト教と民主主義の布教

大航海時代に入り、西欧諸国からキリスト教の宣教師が世界各地に布教活動にでかけた。その目的は、結果から推測すると純粋に宗教的なものではなかった。つまり、スペインで創設されたイエズス会などは植民地支配に重要な役割を果たしたからである。米大陸は殆どポルトガルとスペインの植民地になった。

同じパターンの作戦が現在も行なわれているのではと最近考えた。ただし、布教の対象はキリスト教ではなく、人権や正義、そしてそれを基礎にした民主主義である。

民主主義が最高の政治形態であるとして、発展途上国に経済的、軍事的、諜報的な援助とセットで送り込む。その結果、支配していた独裁者にたいして、それまで抑圧されてきたと感じている人々は人権と正義を心に抱いて立ち上がり、独裁者は大衆の歓声の中で姿を消す。独裁国家であった国々が、民主主義思想で破壊された結果残されるのは、混乱と軍事的な西欧諸国への依存ではないだろうか。

経済的発展段階に従って、相応しい政治形態をとるという唯物史観の見方が正しいとすれば、発展途上国に民主主義革命をおこすことは混乱を招くだけである。アラブの春は、ひょっとして、そのような出来事だったのではないだろうか。それらの“作戦”が最終的には英米を中心とした西欧諸国の好ましい国家に導くというのなら、植民地政策の中でキリスト教が果たした役割と酷似しているように見える。我国が西欧諸国と歩調をあわして、国際政治に参加するには、そのことを十分承知すべきだと思う。

日本にも民主主義がもたらされたが、国民の中に努力して勉強をし、積極的に政治に参加するという人は未だに少ない。ギリシャ時代よりも遥かに複雑になったこの世界で、しかも、20歳(場合によっては18歳)以上の全ての国民が同じ権利で参加する民主主義が、表向き機能するには何らか別の骨組みが裏に必要であると思う。それについては既に書いた。

サボテン:環境によってはこのような植物が最適なものとなる。

2015年3月14日土曜日

クリミヤ訪問の鳩山氏の件:批判するだけか?

元総理の鳩山由起夫氏がクリミヤを訪問して、ロシアとの合併を正当なものと肯定する発言をして非難されている。官邸や与党自民党は立場もあり、非難するのは当然である。また、元総理という立場を考えると、普通肯定することはなかなか困難である。

しかし、そのような報道だけでは、本当にロシアとクリミヤの合併が国際法的に認めらるべきか否か、国民は判断をしかねる。その理由は、例えば刑事事件に関する裁判を考えれば判る。つまり、どのような犯罪でも検事と弁護士が両方の立場を代表して議論し、その議論の“綱引き”を見て、裁判官は判決を出す。

今回の件では、国民は裁判官であり、検察は日本政府である。そこに弁護士としての何かが現れて、クリミヤとロシアの合併は合法的であるという議論を展開しなければ、弁護士なしの裁判のようになる。この件については私はブログで議論している。先ず、ウクライナのクーデターが何によってもたらされたか?それは、欧米からの工作ではないのか?と言う疑問があった(田中宇さんのブログを見てそう思ったと記憶している:詳細は過去のブログを参照のこと)。 

それは兎も角、クーデターにより一旦国家としての継続性が失われたのだから、そこでクリミヤが住民投票で独立を決めたとしたら、それは有効ではないのか? その後の、ロシアとの合併は住民投票が有効なら問題は無い筈だ。つまり、欧米の”力に因る現状変更”という論理が成立しない可能性がある。

つまり、住民投票が正当であるかどうかを、鳩山氏は確かめたかったのではないだろうか。もちろん、今となっては一個人が出かけていって判る訳が無い。鳩山氏の馬鹿げたパーフォーマンスであるという結論は見えている。しかし、挙国一致で彼を非難するようなだらしのない姿は、戦争前の日本の姿に重なり気味が悪い。

2015年3月12日木曜日

文明により改造、家畜化される人間

(1)人間が農業を始めたことが文明発展の大きな一歩だった。(注1)農業は生物学的には、野生生物をその遺伝子の変異と交配を利用して改造し、利用することである。動物の場合は、野性動物を家畜化して利用することになる。家畜化された動物にはおおくの場合、原種が自然の中で生きている。豚の原種としては猪、犬の原種としてはオオカミが対応するだろう。生活環境が激変しても、人間だけ不変であると考えるのは科学的ではない。人間も文明発展により変化する筈である。これを家畜化と呼ぶには違和感が残るが、現象の本質的理解には役立つ。(注2)

動物は、家畜化によりその性格が大きく変化する。例えば、オオカミは獰猛な性格をしているが、家畜化された犬は性格が穏やかになり、人間に忠実に奉仕する様になる。その変化の原因は、食物として野性動物を捕獲する必要がなく、人間から定期的に食物が与えられるからであると考えられる。同じ変化が狩猟採取生活から農業により定期的に食物を手に入れることが可能になった人類に起こる筈だ。勇猛果敢な性格から、農作業に適応して協調的な性格に変化した筈である。

ダーウィンらの進化説によると、生物の形質は突然変異と自然選択で変化する。家畜は人工的生殖と人為選択で変化するため、形質変化は早い。人間の場合、直接的なものの他に、生殖への人為的なファクターが入り易い。例えば、結婚に至る諸条件が社会の変化により影響され、その結果、子孫は新しい条件(環境)に適応するように変化するだろう(注3)。

まとめると:文明の発展の第一段階である農業の発明により、食料の定期的な調達と定住生活、及び、集落をつくることによる緻密な人間関係の発生という、生活環境に大きな変化が起こる。そして、家畜の形質変化よりは緩慢ではあるが、その環境に適応すべく人間の性質が変わると考えられる。その変化は遺伝子からのもので、オオカミから犬への変化に対応する。

(2)その後、鉄器などの製造技術が産み出され、経済は都会を必要とするようになった。大都会では見知らぬ人が密集してすむことから、法律と警察司法制度の整備がなければ安心して生活できない。大きくなった人間の集団は、国家としての形をとり、人々は階級に分類されるようになる(注4)。その階級をまたぐ人間関係は、農業が定着したときの人間関係よりも複雑になる。そこで生きる為に必要なのが、善悪と正邪の倫理観である。そして人は、より組織化された社会という生存環境に適応した存在に変化(進化)しただろう。

近代技術文明は、人を飢えや疫病から解放し、寿命を倍以上にした。しかし、マルサスの予想に反して、人口爆発よりも人口減少の時代を迎えた。この先進国に共通した繁殖能力の減少は、文化的なものであり生物学的な形質変化ではないかもしれない。しかし、数世代経れば、形質変化となるだろう(注5)。

20世紀までの社会では、私(プライベイト)と公(パブリック)という二つの峻別された空間で人が生きるように訓練された。また、多くの人が“会社人”という公私の中間に位置する空間も体験するようになった。この場合、人はそのような場所に出かけていって、公や会社という舞台に立つ。

公の空間では私の空間と比較して、感覚よりも論理が優先される。論理を学び、万人に共通の価値観を探し、それをルールとして作り守る智慧を得るようになる。そしてそのような能力に優れた者が社会で重要な位置を占める。生物としての人も、そのように変化(進化)する筈である。

(3)近年の電子機器の発展は、人間の生息環境に激変をもたらしている。映画などの娯楽も各家庭でTV画面を見て楽しむことができ、世界の情報はリアルタイムでパソコン上に表示される。食料もネット注文で配達され、ゴミは百歩ほど歩くだけで処分できる。最近は仕事も家で出来る人が多くなりつつある。あと10年ほどで、殆どの人は、テレビと携帯電話やパソコンを用いて、全てをこなすことが出来る様になる可能性が高い。

そして、公という空間が無くなり、殆どの人は“私の空間”に住む様になる。奇怪なる髪型や服装で町に出る人が現在以上に増加するだろう。電車内も地下街も表通りも、私の空間になるだろう。そして、“人には夫々の都合や考え方がある”という人類が培った文化も徐々に消えて、人々の考え方は自分勝手になり、利己的に振る舞う様になるだろう。(注6)それは国家という単位でみれば、民族主義(右翼)者が増加するだろう。その変化はグローバル化した経済により小さくなった地球が、燃え易くなることを意味している。

そして、それは終末の時を迎える準備かもしれない(注7)。

注釈:
1)ジャレド・ダイヤモンド著、「銃、病原菌、鉄」参照。 2)森岡正博著、「無痛文明論」、トランスビュー刊、2003 3)例えば、“もてる”タイプが社会の状況により異なる。近代文明社会では、女性の好みは、力強いタイプから社会的地位が期待できるタイプへ移るだろう。  そんなに速く進化が起こる筈はないと思う人が圧倒的多数だろう。しかし、注釈5)にもあるように、2−3世代で進化は起こりうるのだ。要するに、進化論は信じるに足るとしても、そのメカニズムは殆ど判っていないのだ。 4)社会構造と経済構造の関係は、唯物史観が説得力を持つ。つまり、下部構造(経済的構造)は上部構造(政治・文化的構造)を規定するという説である。 5)そんなことあり得ないと言う人が大半かもしれない。しかし、鳥類にはそのような早い進化の例がある。ガラパゴスフィンチという鳥がいる。この鳥は干ばつにより得られる餌に変化が生じたため、2-3世代でくちばしの長さが10%ほど延びたという。これは自然科学者が長期観察で発見した最初の進化であるとされている。http://ja.wikipedia.org/wiki/ガラパゴスフィンチ 
6)豊かな生活が努力なしに与えられれば、人は傲慢になる。それが最近の中学生殺人事件など凄惨な事件が多発する理由である。世界に充満したエネルギーは、人を益々私的に、別の言葉で言えば、単分子化またはガス化するだろう。それは自然科学の真理としてよく知られたエントロピー増大の原理が予測することである。それは当然、遺伝子的にサイコパス的な人を増加させるだろう。 (3/13;最後の部分の修正、注6追加) 7)戦後70周年の記念談話に中国首相が注文をつけている。戦後の東京裁判やその後のサンフランシスコ平和条約、1972年の日中共同宣言、78年の日中平和友好条約と積み重ねて来た戦後の処理は、いったい何だったのか。衆愚を虚偽とごまかしにより導き、隣国を核兵器により脅し、自分達の利益を得ようとする自分勝手な姿に、世界滅亡の予兆を感じる。核兵器を持つべきと考えて将来の日本の指導者として期待されていた、中川昭一元大臣の後を継いだ奥方の情けない姿を見るにつけ、日本から逃げられるものなら逃げたい。(カナダのバンクーバーが良い。)(3/16追加)

大震災から4年の日に思ったこと:自然は征服できない。

東日本大震災から4年、復興は未だ遠い。その原因は、政府は土建屋の意向も汲んで、自然を征服するという考え方で復興計画を作成したからだと思う。低い土地には盛土をして津波が届かないようにし、海岸線には高い津波も届かない様な護岸壁をつくるという愚かな政策である。

しかし、東日本大震災のような地震は数百年に一度の地震であり、あと数百年間、不便な高いところから老漁師も海に出なくてはならない。観光地としての価値も無くなり、後悔するだろう。土建屋は工事が当分確保出来て幸せだろうが。

一方、近い未来に大地震が予想される東海地方の海岸に高さ30mの護岸壁を作るという話を聞かない。盛土をして家屋を高台に移転するという計画も聞かない。本当に国民の命を大切に思う政府なら、今後津波が数百年起こらない三陸よりも、近未来に起こる和歌山、三重、愛知、静岡、高知などの海岸地帯の住民の命を考える筈である。

もっと安価に住民の安全を考える方法として、ブログで十階程度の中層マンションを作ることを提案した。屋上に非難スペースを作り、万が一(たぶん来ないだろうが)の被災時には、高層階の住民は下層階の住民と部屋を共用するという規約を設けて住めば良い。

自然を征服するなんて、創造物に過ぎない人間に出来る訳が無い。自然には従い、災害からは逃げるのが最も適切な対応なのだ。私には判らない。政府は無能者と利己主義者の集まりなのか?政治家が幾ら金をポケットに入れてもらっているのか?さっぱり判らない。(注1)


昨日の雪(小牧市)。この時期これほどの積雪は、この25年間記憶がない。

注釈:
1)政党助成金は企業団体からの政治資金調達を防止する目的で出来たのではないのか?最近の安倍総理や岡田代表の件には呆れる。

2015年3月8日日曜日

18歳選挙権、自衛隊の武官統制で何を狙う?

安倍内閣の最近の姿は、年金基金などを用いた作為的な高株価を背景に、戦後日本の停滞した姿を一挙に、そして、強引に塗り替えようとしている様に見える。自民党の先輩達、長期政権を担った池田、佐藤、中曽根の各総理の時に、何とか実現すべき筈だった独立国家日本の回復を、彼らのより能力的に劣った内閣で一挙に済まそうとしているように見える。

今までの自民党政権を担った人、特に長期政権を実現した人は、完全な対米従属路線をとりながら、日本国の独立国としての枠組再構築(注1)をしないままに放置したと言えないだろうか。例えば、吉田、池田、佐藤、中曽根、小泉、などの諸政権である(注2)。田中角栄のように、独自の外交を展開した人は短寿命内閣しか実現できなかった。

巧遅は拙速に如かずという言喭があるが、たぶん佐藤内閣までに、不十分な形でも良いから、国家としての枠組みを再構築すべきであったのではないだろうか。勿論、米国の“絶対に日本を軍事国家にしない”という政策の壁を乗り越えて、そして、疲弊した経済を復興させるという課題への配慮をしながら、まともな憲法を持った国家にすることは至難の技だっただろう。しかし、その芽を作るくらいのことは長期政権を担った昭和の総理に、命を懸ける位の覚悟があれば出来たかもしれない(注3)。

安倍総理はそれらの課題を一挙に解決しようとしている様に見える。今まで安倍総理の政策に不安を持って来たが、その一つの理由は”巧遅は拙速に如かず”という言喭が、消費期限を過ぎていると感じるからである(注4)。しかし、安倍さんは上記の国家としての骨組み再構成に挑戦する総理としては、最後の人かもしれない。安倍総理を批判するのは容易であるし、何度もごまめの歯ぎしり的に、ブログに批判記事を書いて来た。しかし、それは間違いかもしれない。

国家としての枠組みを整備する最大の壁は、米国である。安倍総理が中国との敵対的にも見える姿勢をとり、米国共和党側との協調姿勢をとる(注5)裏には、米国を支配する人々(現大統領ではなく)の賛意を得るギリギリの作戦かもしれない。

つまり、18歳からの選挙権付与は憲法改正のためであり、自衛隊の武官統制は、自衛隊の米国軍との連携強化を進めるにあたっての文官の抵抗を削ぐために思える。

注釈:
1)国家としての基本要素は、人民、領土、実効的支配である。実効支配の為には、防衛軍が必要である。自衛隊は防衛軍であるが、その保持は憲法が禁止している。自衛隊が軍隊ではないという憲法解釈は、憲法を文字通り読めば無茶苦茶な解釈である。
2)戦後4年以上の長期政権を担ったのは、吉田茂(7年2ヶ月)、佐藤栄作(7年8ヶ月)、池田勇人(4年4ヶ月)、中曽根康弘(4年11ヶ月)、小泉純一郎(5年4ヶ月)である。
3)安保反対のデモの時代(岸、池田、佐藤内閣)には、出来そうにないかもしれない。吉田内閣のときの1950年に警察予備隊が創設され、そして1954年に自衛隊と改称された。警察予備隊が出来た時に憲法を改訂(9条第二項)するだけで、一応の独立国家の芽が出来上がる。最高裁判所がまともに機能して、自衛隊違憲判決を出していたなら、憲法は改訂されていたと思う。最高裁は判断を避けるという自己保存的手段をとってきた。
4)国家の枠組みは、国家として誕生(或いは再生して)から一定の期間内に済まさなければ、近隣諸国の干渉により困難になる。近隣諸国は日本国が無力な存在の方が都合が良いからである。人間も幼少期に済ますべき教育がある。それを済まさないと、社会の中で問題を起こす可能性が高くなる。
5)イスラエルのネタ二アフ政権と融和的姿勢をとるのもその一つだろう。

2015年3月5日木曜日

真善美について:定義

1)真とは

真とは真理のことである。“真理とは、言語を用いて整合的に記述した世界(過去から未来への時間的変化も含む)の、夫々の要素の命題(注1)を言う”。

“真理の定義なんて、何を今更”と考える人が大半だろう。しかし、“ことばを媒介しないで、真理は定義できない”ということから、上記のような定義に思い至った。そして、過去から未来に亘って世界に居るのはたった1人、自分だけであるとしたら、言葉は不要であり、従って真理も虚偽もないだろう。

ここで、これら命題の全体としての集合は、ことばの定義になっているとも言える。つまり、ヨハネによる福音書にある様に「はじめにことばがあった。全てはことばによって創造された。」ということになる。(1)地球は西から東に回転する;(2)太陽は東から上る;(3)北は北極星の方向である;(4)上る或いは登るは、下方から上方への移動を言う;などの命題も互いに整合的であり、真理(或いは真実)である。これらの命題は、東西南北、太陽、地球、上下、時間などの言葉の定義とも関係している。従って、言葉が存在すれば、真理という概念は必要がないと言えそうだが、虚偽(うそ)との対立概念としての必要性はある。(注2)

以上から、真理全体は人が世界の中の一員であることを確認・記述する行為として、言葉を用いて創造された命題の集合と言える。

2)善とは

善とはある社会にとって良きことである。善人と悪人については既にブログで議論した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/12/blog-post_5.html ウイキペディアでは、善を“社会的な規範において是とされる存在、行為” http://ja.wikipedia.org/wiki/善 という定義が紹介されている。

善を宗教的な概念と考えることもあり得る(注3)。この場合は、その宗教の聖書に善と記述されたことが善であり、悪と記述されたことが悪になり、善悪の判別は容易である。

社会を特定した場合その中での善は、その社会の枠を換えることによって、悪に反転することがある。また、時間の経過により、善は悪に反転することもあり得る。人類全てを対象にした仮想的な社会を想定すると、善は“人としてのあり方”という抽象的な概念となり、上記のような反転などの揺らぎがなくなる。その場合、善なる思想や行為は、倫理学の対象となる。

3)美とは

美とは視覚や聴覚によって“良きもの”と判別した印(ラベル)である。これについても既に議論した。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/blog-post_56.html

広辞苑の「美」の哲学的定義によれば、“知覚・感覚・情感を刺激して内的快感をひきおこすもの”となっている(第二版、1845頁「美」)。また、美味という単語にあるように、味覚(感覚の一つではある)にまで美という概念を持ち込むこともある。更に、美しい人生の様に、ほとんど“良い”と同じ意味で用いる場合もある。これらの用い方は、個人の好みを越えて“美”が成立しないので、美の定義領域の広げ過ぎであると考える。

例えば、視覚によって美と判別される“形、色彩、動き”は、より良い機能、より深い真理、より大きな善、などを人の心の中に想起させ、快感(注4)として受け取られるものである。つまり、美とはそのような景色、絵画、写真などを形容する“一次元座標のプラス軸につけたラベル(注5)”である。

注釈:

1)つまり、A:地球は丸い;B:地球は太陽の廻りを廻る;C:地球は惑星の一つ;D:地球上に人類は生息する;E:太陽は太陽系の中心に位置する;F:太陽は恒星の一つ;G:地球は太陽の内側から数えて3番目の惑星など、地球に関する記述(命題)は無限と言って良い程多く存在する。それらは互いに矛盾すること無く、体系をなして現実に対応している。
真理の哲学的定義として、真理の整合説(他の命題と整合的な認識が真理であるとする。)や真理の対応説(「思惟」と「事物」が一致ないし対応していることが真理であるとする。)があるが、上記真理の定義はそれら既存の定義に矛盾していない上に、より進歩したものであると思う(思い込みかも)。http://ja.wikipedia.org/wiki/真理
2)上記ウイキペディアには、真理の余剰説というのがある。
    3)英語で、善はgood悪はevilである。goodはGod(神)から派生した言葉であるので、最初は宗教的に定義されたものだろう。ただ宗教(民族宗教)は、元々社会を構成員する人々の結束を目的としたと考えられ、その場合の宗教的な善は社会規範としての善に一致する。(ユダヤ教はユダヤ民族の宗教として存在する)
4)快感とは、広辞苑では「快い(こころよい)と感じること」とある。また、“快し”とは、気持ちがよい、心中にわだかまるものがない、愉快である。気分が良いなどと書かれている。一言で言えば、「再現可能であればそれを望む感覚」と言えると思う。
5)X軸は日付でY軸は価格を表わすというグラフの場合、その日付や価格をラベルと定義する。従って、ここではマイナスの美が醜ということになる。

ーーーーコメント歓迎しますーーーー

2015年3月3日火曜日

日本経済の成長戦略:鍵は差し当たり教育改革では?

1)安倍内閣の成長戦略が議論されて久しい。第一の矢と第二の矢は、金融緩和と財政拡大であり、覚悟があれば誰が総理になっても出来る(注1)。第三の矢が的に当てられるかで、成否は決る。規制緩和などで、農業なども含む全ての分野での経済活動の自由度を増すこと、それに、労働市場の正常化、女性の力をこれまで以上に活用するなど、いろいろの案がある。

しかし、それはそれで一定の効果が期待できるが、本当にそれが出来るだろうか?もし、出来たとして日本は再び経済大国の路を歩めるだろうか?という疑問が残る。

例えば、労働市場の正常化では、同一労働同一賃金の原則の達成が期待される。実現すれば、中途雇用者も非正規雇用者も、正規雇用者と給与で差別を受けなくなる。また会社は、必要に応じた雇用が可能になり、自由度が増加する。また、労働者も正規雇用に拘る必要がなくなり、多様な働き方が可能になる。しかしそうなれば、例えば会社員の人生に於ける、会社の意味が変化することになる。例えば、退社後の“ちょっと一杯どう?”という文化が変わることになるのだ。また、同一賃金同一労働ということになれば、これまでの年功賃金制に変化が生じることにある。それは、30代に長期ローンでマイホームを得るという形の人生設計に、変化が生じることになる。

つまり、第三の矢は、日本文化の問題でもあるのだ。その点をもっと周知して、議論を国民の間に起こした後に、行なうのでなければ、途中で矢が折れてしまうだろう。ところで、最初の疑問に戻って、それらが実行されたとして、日本の経済がかつての繁栄を取り戻すか? 私はNOだと思う。

2)アベノミクスの中での定理として、“会社が元気になれば、やがて賃金が増加し、それが需要拡大を引き起こし、プラスの連鎖が生じて、日本経済が立ち直る”というのがある。そして、このトリクルダウンと呼ばれる定理は、成立しないという意見も多い。私は、その最初のステップである会社を元気にすることも、金融緩和という言わば頓服薬の服用を止めても続くかどうかが問題だと思う。つまり、日本のマクロ経済の問題として、この20年間の経済低迷を捉えることがそもそも間違いなのであり、もっとミクロな視点で考えるべきなのではないか。つまり、個々の細胞を元気にする健康法のような考え方が大切だと思う。それは、例えば上記例にも挙げた文化の問題とも言えるし、もっと具体的には人材の問題であるとも言える。

実行可能で、且つ、もっとも効果的なのは、国内に優秀なる人材を育てることである。その為の教育改革が、時間はかかるが大切な不況対策であると思う。

この種の問題を考える場合、強い経済の国、つまり米国を参考にすると判り易いだろう。例えば、米国の実体経済を支えている企業として、従来からあるエクソン、GE、ジョンソン&ジョンソンなどの企業の他に、株価総額一位と二位を占めるアップルやグーグルの他に、インテル、マイクロソフト、フェイスブックなどの新興企業が多いことは誰でも知っている。電子・コンピュータ技術からインターネットへの技術発展を背景にした、このような世界企業が、何故短期間の内に米国で生じたのか?それをもっと真剣に考えるべきである。これらの企業は、営業利益率(注2)が非常に高く、多少のドル高など問題にしないほど強靭な体力をもっている。

これらの企業が短期間の内に、米国で生じたことの原因を、アメリカンドリームという言葉で片付けがちであるが、本当は、優秀な大勢の学生達が大学で即戦力を身につけて社会に出てくるからだと思う。

今年一月に東大教授であった経済学の伊藤隆敏教授が、コロンビア大学に移られた。テレビ番組(モーニングサテライト)で、確か、東大の定年制に疑問を持ったのが一つの動機であったと聞いた。その伊藤教授が早速大学院での講義の準備をされている光景がテレビで放送されていた。その準備とは、講義で学生達と議論するために、受講者約40名の顔と名前を覚えることだった。

つまり、数年前に話題になったサンデル教授の白熱教室は、米国での常識的スタイルだったのである。日本の講義スタイルは、先生が教科書片手に喋り、時々黒板に式を書いたりするスタイルだった。学生達の理解度などは、テストするまで判らない。定期テストの前に一夜漬けではないものの2、3日かけて勉強し直してテストを受けるのである。日本の大学や大学院の講義は、高校の延長でしかない。専門分野に進んでも、本当に力をつけることが出来るのは、セミナーや学会で自分が喋ることになってからである(注3)。

人は社会的動物であり、周囲の雰囲気次第で、勉学でも仕事でも真剣度が全くことなる。大学教員の質と講義の真剣度、学生の大学における勉学態度両面から、日本の大学には改革すべき点が多いと思う。

中学校や高校での教育も、改革すべき点は多いだろう。橘玲氏の「知的幸福の技術」という本がある(注4)。その教育のセクションに、現在の底辺校のすさましい実態が書かれている。私はこのような状態で放置している政治の貧困に、昨今の残酷な事件と日本国全体の国力の低下の原因を見た気がする。その高校に奉職する橘玲氏の友人が、「自分の職場は教育機関ではなく、生徒の収容施設だ」と言ったと書かれている。

一般にはこのような現象をゆとり教育の所為にする。しかし、ここでもこの本当の原因は画一的な人生を要求する日本社会、つまり日本文化にある。高校教育を何故、殆ど全ての人が中学卒業後受けなければならないのか?退屈だと思う生徒は、一度社会に出て、後で興味が出た時に勉強すれば良い。おそらく、底辺校の生徒でも自分で動機を見いだせば、かなりの生徒は十分実力をつけるだろう。ただ、そのようなレールを外れた人生を日本社会は拒む。経済のグローバル化が将来の必然なら、徐々に文化もグローバル化しなければならない。

注釈:
1)金利が既にゼロ近辺なので、日銀が出来る金融緩和は国債買取などで行なわざるを得ない。これは放漫財政や、市場での流通量減少により正常な取引が出来ないことに因る価格異常(暴落)などの危険がある。また、不況にならない形での金融正常化が非常に難しい。
2)売上高に占める営業利益の割合が営業利益率である。これが高いことは、他の競争相手を寄せ付けない、オリジナリティーとブランド力を有することを意味している。
3)ことわざ、To teach is to learn. 教えること(前で喋ること)は、学ぶことであるを思い出す。
4)この本は決して教育に関する本ではない。人生に拘る多くのことを著者独自の視点で議論した面白い本である。

素人のコメントですので、ご意見ご批判期待します。