2015年7月31日金曜日

「法的安定性」をめぐる議論

「法的安定性はどうでも良い」発言の件で、磯崎総理補佐官と首をきらない首相や与党が、野党とマスコミにより攻撃されている。民主党に揚げ足取りの材料を与えた罪が磯崎氏にあるのか、民主党の揚げ足取りを明確にする為の磯崎氏の芝居(注釈1)なのかわからない。

法的安定性なる法学用語は、法の解釈や適用における予測可能制のことであると、本には書かれている。つまり、法的安定性が抜群であれば、その法を用いて出す裁判官の判決は事前に予測できる。裁判官は高給を貰って、当たり前のことを言うだけの大変素晴らしい職業となる。

磯崎氏の発言を全部聴けば、「国民の安全と国土保全の確保が第一で、それと比較して、法的安定性は二番目の問題だ」を、劇場向きに過激にいったのだと思う(注釈2)。つまり、国民の安全と国土保全の確保が今緊急の課題になっているのかどうか?、更に、国民の安全と国土の領有権確保が、その法案で本当に出来るのか?などの議論をすべきだと言っているとしたら、至極当たり前のことを言っただけになる。

憲法9条で、国際紛争を解決する手段として武力を用いない(第一項);その目的を達する為、陸海空軍を持たない、国の交戦権を放棄する(第二項)、と日本国は宣言している。一方、自衛隊という軍隊を持ち、自衛隊法があり自衛の為の戦争は可能だと言っている。法的安定性はいったいどうなっているのだ?

安倍内閣の出す安保法案についての法的安定性云々に神経質になっても、元々の安全保障関係の憲法の条項や、既にある関連した法律などが創る法律体系の安定性を議論しなければ、例えば怪獣を問題にしないで、怪獣の爪先だけを問題視するようなものではないのか。

要するに、この国は官僚独裁の国だから、国会は官僚によって書かれた脚本を与党と内閣が演じる人形劇の様なものではないのか。野党は、人形と戦っているつもりなのか、戦っているという姿勢を見せるためだけのものなのかわからない。国会での議論を聞いていると、法的安定性という言葉をお経の様に唱えているような錯覚に陥る(注釈3)。
 以上、素人の観戦報告です。

注釈:

1)この動機は、野党が攻撃容易な材料を与えて、野党議員達に戦ったという実感を与えて、時間稼ぎをする。まあ、60日経てば良いのだという与党の考えに基づく戦略。

2)日本語は山本七平氏の指摘を待つまでもなく、非論理的な言語であり議論に不向きである。相手に意志が伝わり難い為、発言は過激になりやすく、このような失言トラブルは非常に多い。

3)論理展開における非効率を克服するために、お経の様に唱えることで意志伝達の目的を達することも多い。町のあらゆる場所に標語を掲示したり、国家の方針を示すのに四字熟語を用いるのはその為である。忠君愛国、尊王攘夷、八紘一宇、一億玉砕、鬼畜米英、聖戦完遂、挙国一致、などを、色即是空とお経で唱えるように、国民に唱えさせるのである。

2015年7月30日木曜日

日本の役員室には幽霊がでる: The Wall Street Journal

「日本企業では役員室に幽霊がでる」と題するウォールストリートジャーナル(WJ)の記事が、今朝のモーニングサテライト(テレビ番組)で紹介された。早速読んでみたので、自分のコメントと伴に紹介したい。

WJの記事は、東芝の不正会計問題が経営者達の造る日本独特の社会構造に関係があるのではないかと指摘している。記事の表題は、それを揶揄したものである。

記事は最初に、日本郵政の社長で元東芝社長の西室泰三氏(その後会長に就任し、10年前には会長も退任、以降は相談役;下図参照)が、未だに東芝に強い影響力を持っていることを紹介している。

それによると、日本郵政が準備した記者会見において西室氏は、会長を辞めたいと相談に来た室町正志氏(注釈1)に、相談役の立場から強く慰留したと喋っている。その結果、室町氏は会長にとどまり、今回臨時社長に就くことになった。

他国では、退任した元役員達は、孫と過ごし、ガーデニングやゴルフを楽しむのが普通だが、日本の役員達は決して元の仕事場を離れないのである。

経済アナリストは、この先輩達のネットワークが何時までたっても社長の上におおいかぶさることが、日本企業の変化が遅い原因であるとコメントしている。実際、日本の大企業の80%以上は、執行部に居たもの達が相談役などで雇用されているという。つまり、同じ様な問題を多くの企業が抱えているのである。

何故、この様なことになるか? 何度もこのブログで書いて来たが、日本社会の特徴が根本にある。つまり、日本では、討論で物事を決める西欧文化を十分真似る事が出来ず、人と人のネットワーク重視で物事が決っていくのである。勿論西欧でも人間関係は大きな役割を果たすだろうが、社会において論理の方が人間関係よりも重視されるため、必然的に頭のボケる年齢になると、執行部から去ることになるのだ。

つまり、ボケた連中が日本の指導層に居座ることが、日本を停滞に導いているのだ。これは企業だけの問題ではなく、政治の領域でも大きな問題である。年寄りと二世三世が牛耳るのは、実力の世界である筈の芸能界でもにた様なものだから、この社会構造は日本そのものである。日本の停滞は遺伝子的なものとでも表現できる。

そう考えると、ダイヤモンドオンラインに掲載されている「東芝、不正の土壌は“国との蜜月”か」も、驚くこともないと言うことになる。

注釈:

1)この表で室町氏が突如会長として現れるのは、そして、佐々木氏が社長を辞めた後、会長ではなく新設の副会長のポストに座ったのは、西田氏と佐々木氏の確執が原因である。 詳細は、http://biz-journal.jp/2014/05/post_4866.html

2015年7月28日火曜日

ドイツのナチ協力者裁判は酷すぎ

今朝の中日春秋は、ナチスの施設で経理係として働いていた94歳のドイツ人男性が、ドイツで殺人罪ほう助の罪で禁固4年の判決をうけたことをとり上げている。時の政治組織の末端に位置するこの老人の裁判結果に関連して、「時流に流された歯車の歯の責任をどう問うべきか。これはいつまでも考え続けなければならぬ問いだろう」と、自分の考えを披露する事なしにコラムを終わっている。コラムを担当しながら、自分の思想を披露しないのは、卑怯な態度であると思う。

ナチスのユダヤ人虐殺は、日本では人道の罪で裁かれたと聞くことが多い。本当はそうではなく、普通の殺人罪として裁かれて来たとウィキペディアに書かれている。(https://ja.wikipedia.org/wiki/ドイツの歴史認識)実際、上記ドイツ人オスカー・グレーニング氏の裁判に関する昨日の新聞記事にも、普通の殺人ほう助と言う罪名がかかれていた。

この件、私には疑問点が多く浮かぶ。過去ナチスが行なったユダヤ人虐殺が、延々と殺人罪で裁かれてきたと思う。しかし、それを指揮したヒトラーを国の指導者として選んだのは、ドイツ人である。ドイツ人が収めた税金によりドイツの公務として殺人が行なわれたのだから、上記オスカー・グレーニング氏が殺人ほう助で裁かれたのなら、当時のドイツ人納税者が殺人ほう助で裁かれないのは何故なのか?その件に関してドイツ人一般とオスカー・グレーニング氏との違いは、単に、必要な金を税金で収めたことと、その金の使われた方の計算をしていたことの違いであり、そして、殺人現場からの距離の違い、の二つだけではないのか。

また、ナチス時代に適法と解されていた行為を変更された法解釈により事後的に処断することは、遡及処罰にあたる。刑法の遡及適用は、民主主義下の刑法の基本である罪刑法定主義を否定することになる。また、一般の殺人罪ほう助でも、94歳の男性が70年以上経ってから裁かれるというのは、異常である。ドイツには、殺人罪や殺人ほう助罪に時効はないのか?

私には、超法規的に同胞の血を、ヨーロッパ諸国を始め戦勝国への謝罪の儀式に使うだけのためだと思う。そんなことをするのなら、ドイツ国民全てが罪を認めて、テレビの前で頭を下げるとか、土下座するべきではないのか。報道機関に長く務めた中日春秋氏は、素人の私と違って、同様のことを瞬時に頭にうかべただろう。しかし、何も書かないのだ、この種の日本人は(私も日本人)。

一昨日ブログに書いた、東京裁判の時の米国人ブレイクニー弁護士は、担当したケースの日本人被告が殺人罪に問われるのなら、原爆投下時に米国の大統領であった人も、殺人罪に問われるべきではないのか?と、弁護したのである。

社会の第一線の然るべき立場の人間は、既存の権力や風潮に抵抗してでも、可能な限り自分の考えを述べるべきである。それは彼らの義務であり、知識階級がその義務を果たすことが、民主主義の成立条件であると思う。そして、日本においてそのような文化が欠損していたことが、あの戦争に踏み込んだ主なる原因の一つだったと思う。

2015年7月27日月曜日

戦後70年談話と”積極的平和外交”に対する懸念

安倍総理の戦後70年談話のための有識者懇談会は21日、最終会合を終えた。 最終的には安倍総理が判断する事だが、その内容がどうなるか、侵略や謝罪といった文言が入るかどうかが注目されている。既に私は、今年1月にこの件について、「村山談話を基本にすべき」と本ブログに書いた

歴史に関する安倍総理の考えはいろいろあるだろうが、日本国民の利益を代表する立場であることを十分考慮して、談話の中身を詰めてもらいたい。一番気になるのは、侵略とか謝罪とかを政治家の視点ではなく、歴史家的視点で語りたいという欲求が安倍総理にあるかもしれないと言う点である。総理に要求されているのは、歴史の究明ではなく、現実主義的視点で、未来に向っての国民の安全と国家の繁栄を考えることである。

哲学者の鶴見俊輔氏が先日亡くなった。氏は「くに」と「国」を使い分けしていたということを新聞記事で読んだ。私流に解釈すると、「くに」は民と土地、更に文化などを含めた、過去から継続した存在であり、「国」はその「くに」を統治する政治機構である。つまり、安倍総理は飛行機とその中の乗員乗客などを含めた日本という「くに」のコックピットである「国」の長なのである。

そのように考えると、以下の様な談話を出す場合に、過剰な抵抗を感じることはないだろう。(注釈1)

”昭和の始めに、日本国が誤って大陸を侵略し、朝鮮半島、中国大陸、及び自国民に多大の損害と苦痛を与えた。連合国の占領を経て、大日本帝国政府から全く新しい体制になったとは言え、その延長上にある現在の日本政府の指導者として、被害を受けた半島及び大陸の民に対して、謝罪の意をここに表明する。”

また、もう一つの気になる点は、安倍総理の積極的平和主義である。それは、中国の南シナ海での違法と思われる海洋進出などを、周辺諸国及び米国と協力する形で、牽制することを意味しているように感じる。しかし、日本の領土を護る場合には、日本の軍隊である自衛隊は使えても、南沙諸島を中国から護るベトナムやフィリピンに協力する形で、自衛隊を使ってはならない。

集団的自衛権行使を可能にすることには賛成であり、それは日本防衛に役立つ筈である。しかし、日本の集団的自衛権行使を可能にする法制に関して、米国の思惑と日本の思惑は微妙に異なるだろう。

安倍内閣の支持率が今日ニュースで流れていた。読売新聞の調査で、支持が38%と大きく低下し、不支持が50%を越えていた。集団的自衛権行使が可能になれば、安倍内閣は米国の下働きを喜んでするのではないかと、国民は疑っているのである。

日本は軍事力を用いて、自国以外が関与する国際紛争に関与することがあってはならない。それは、米国を喜ばすことになっても、日本国民の安全に寄与しないと思う。

安倍総理の積極的平和主義が戦後70年談話に入ることを、私は大いに懸念する。

(以上は、一有権者としての考えです。批判等歓迎します。)

注釈:
1)昨日の記事で、ドイツが戦後とったヨーロッパ諸国からの信頼回復の方法を、ドイツの狡賢さとして書いた。つまり、ドイツの全ての負の遺産をナチスとヒトラーに帰属させて、ドイツ国民一般の罪滅ぼしとしたことである。上記提案はこのドイツの考え方に似ている。

2015年7月26日日曜日

東京裁判で日本人被告の無罪を主張した米国人

昨夜の池上彰氏のテレビ放送(そもそも戦争とはSP)で、東京裁判についての解説があった。これは連合国が行なった裁判形式の報復であるが、”裁判”だけに日本人や米国人の弁護人をつけて、戦犯達を弁護させた。

その番組で、米国人のブレイクニー弁護士が滔滔と、戦争は犯罪ではないと演説している様子が映されていた。その中で非常に驚いたのは、“日本軍人が為した行いが犯罪なら、原爆を落したことも犯罪ではないのか。それを落した人間は解っている、それを命令した指導者の名前も解っている”、と続けたのである(注釈1)。あの場面で、あの発言が出来る人が、あの時の米国軍人の中にいた事は、あの時の米国の強さと米国社会の健全さ(米国政府ではなく)を示している様に思った。

裁判では、裁判長と思しき人間が、一言「却下」と発言して、その弁護人の主張は退けられた。

あの裁判で、インドのパール判事が、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で、被告人全員の無罪を主張したことはよく知られている。そして、この弁護士の話も有名だと言う事だが、私は知らなかった。

米国社会は、個人が独立して意見を公表するという、民主主義の前提となる文化を持っていることを、ブレイクニー氏は実証した様に思う(注釈2)。

日本では、人々は周囲の雰囲気、或いは、空気に支配され、民主主義国の体裁をとりながら、自分の信念に従って意見を述べる場面をあまり見ない。そして、物事は全体主義的にきまっていく。

ブレイクニー氏のように自分の信念に従って、意見を述べることが出来る文化が日本にあれば、あのように戦争の泥沼にズルズルとはまり込まなかっただろう。

補足:

1)その部分をウィキペディアから再録:「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」

2)個人の自立が民主政治には不可欠であることを示したのが、小沢一郎の日本改造計画という本であった。昨今の自民党は見事に一枚岩である。個人が信念に従って自分の意見を公表することなど、現在の政治の社会だけでなく、古来日本の何処にもないのだろう。

ドイツの狡賢さと日本の愚かさ

池上さんの番組(7/25;そもそも戦争とはSP)を観た。大戦で失ったドイツの信用回復への取り組みを紹介している。日本はこれまで、戦争についての責任追及をおこなってこなかったことを、私もブログで非難してきた。あの戦争の歴史を知らないままでは、大失敗のあの戦争から何も学べないし、周辺国との不要な摩擦に苦しむ可能性大だからである。

ドイツはその点ずる賢くやっている。ナチスを徹底して糾弾し、現在でも少しでもナチスに関係がある人を見つけ出して裁いている。ドイツ国民がつくった政府である、ヒトラー政権に協力することは、当時違法とは言えない筈である。先日も、93歳になるユダヤ人収容所の門番を逮捕して、裁判にかけたという。事後法で裁いている筈だが、そんなことはおかまいなしである。

狡さとは、つまり、ドイツ人全てが引き受けるべきことを、ヒットラーとその協力者にだけに事後法を用いて押し付けているからである。メルケル氏は先日来日した際に、その取り組みを自慢げに日本に勧めているが、日本はホロコーストの様なことをやって居ない(補足1)。

どっちもどっちだ。つまり、日本の様に何の検証もしないで、何の教育もしないで、近隣とトラブルの種を放置するのも問題だ。しかし、事後法で国民の一部を厳しく罰するのも、おおいに疑問である。

戦後70年、安倍総理が何か談話を発表したいそうである。その内容がどうなるか、国内外で注目されている。安倍総理は、積極的平和主義を看板に掲げて未来志向の演説をしたいようだが(補足2)、やり方を間違えば国益を著しく損なうだろう。国民の一人として、安倍総理もあの戦争を十分消化吸収していない可能性が高いと危惧するからである。つまり、ドイツは現在ヨーロッパに於いて殆ど脅威と看做されていないが、日本は未だに東アジアで脅威と看做されているのである。

未来志向は、現在の足場がしっかりしていることが条件(補足3)である。安倍さんは、そのことが十分解っているのか心配なのだ。

補足:

1)韓国メディアから日本に対する暴言が飛び出した。http://www.j-cast.com/2015/07/23240979.html
「日本だけは地球上で必ず絶滅させなければならない、唯一の人種」だそうである。韓国のニュースサイト「デイリー・ジャーナル」のコラムでこう書いたのは、以前も秋篠宮家の次女、佳子さまについて「慰安婦にするしかない」などと暴言を書いた記者だった。

2)積極的平和主義は、自由や正義といった人間にとっての普遍的な原則に基づいて、平和(世界的秩序)を構築するという、米国の理想主義者の政策に酷似している。しかし、それはジョンソン(息子)大統領の時に失敗が確定したことではなかったか。日本はそのような覇権国家のような真似をする地位にはない。国民の一人として言いたいのは、自国の国益と防衛に利する政策を、時にはずる賢く一歩一歩着実に進めて欲しいのだ。

3)集団的自衛権行使を可能にしたとしても、日本の足場(日米安保条約)は沼地のようなものだと思う。米国は、世界の警察官(覇権国)の地位を降りる予定であると言われている。中野剛志著「世界を戦争に導くグローバリズム」pp136-138参照。

2015年7月24日金曜日

移民受入賛成と反対の論理

【§1】移民受入れの経済的意味 

団塊の世代が後期高齢者となり、若手層の人口減が進み、生産人口の減少と要介護人口の増加が懸念されている。今のままでは、年金の破綻が確実視されている。また、日本国の経済は全体としての活力を下げ、経済的には二流国への転落の可能性が高いかもしれない。

  経済力が低下することは、国家の安全保障に支障をきたす一つの原因である。例えば、日本と中国の大きな経済的関係は、中国の尖閣諸島への行動を躊躇させる力となる(注釈1)。同様に、世界の安全は、全体としての経済発展と国家と国家の間の密接な経済関係により増加するだろう。

  経済が小さくなっても、一流国として残れば良いという考えもあるだろうが、それでは上記二つの問題、年金問題と安全保障、の解決には役立たない。その解決を諦めたとしても、一流国として残る為には最低限、1人あたりの収入を現在の値に維持することが必要である(注釈2)。しかし、他国が真似出来ないレベルの高度な技術力、開発力、ブランド力などがあれば、ドイツなどと同じような経済的地位を確保できるだろうが、ドイツの工業力と比較すると、その敷居はかなり高いと思う(注釈3)。

  イギリス人、デービッド・アトキンソン氏(注釈4)が語っている。“日本人に「なぜ日本は世界第2位の経済大国になったのでしょうか?」と質問をすると、ほとんどと言って良い位、技術力だとか勤勉な国民性という答えが返ってくる。しかし本当の理由は、日本の人口が先進国中で米国に続いて第二位だからである”と。

  つまり、世界での高い経済的地位を確保する為には、日本の人口増加が必要であるとの結論に至るだろう。それには、出来るだけ早い段階で、東南アジアなどから優秀な日本に同化出来る人、例えば日本で看護実習過程を終了した人を、希望すれば移民として受け入れ、経済規模を維持すべきだろう。

  【§2】移民受入れ反対の論理

日本では移民受け入れには大きな抵抗がある。それは、日本人の風習や考え方が他国の人々のそれらとかなり異なっているからである。つまり、日本社会の大きな財産として、大多数の人々が互いに善意で接するものと考え、それを前提として行動しても困難に出会う確率が低いことである。また、阿吽の呼吸で解決してきたことが、移民の流入により、訴訟で解決しなければならないなどの変化が社会に生じるだろう。

例えば、財布を道路に落した場合、高い確率で交番(ポリスステーション)に届けられ、落とし主が警察に届ければ、最終的に中身に変化なく受け取ることが出来る社会である(注釈5)。この場合、現金が含まれていた場合、その10%程度の礼金を支払うという慣例がある(注釈6)。 

もし社会におけるトラブルが多くあり、それへの対策や解決の為の経費が多くかかる場合、それはGDPの増加となって統計される。従って、パブリックスペースで他人を信用出来ることは、社会に上記GDP分の富が蓄積されていると看做すことが出来るのである。

  以上のような社会の富が、移民の流入により失われる可能性があると考え、それを理由に移民受入れに反対する人が多いと思う。私も、治安の低下などを心配して、移民受入れに反対の書き込みをしたことがある。しかし、その考えは時代錯誤かもしれない。つまり、現在、日本経済、スポーツ、芸能など多くの分野で、大陸出身の日本人がいなければ成立しないし、多くの異なった考え方を知ることは、国際化した世界で生き残る条件だと思うからである。 

【§3】移民受入れの政治的側面

日本は江戸時代までは、日本国というまとまりのある国家ではなかった。幕末期に、主権国家としての体裁を整えた先進国との接触で、危機意識をもった下級武士や下級公家達が、明治維新という大きな改革を為しとげ、主権国家としてのまとまりのある国を作った(注釈7)。支配階級である武士の既得権益を全てとり上げ、西欧文化の学ぶべきところを取り入れた、奇跡的な改革である。西欧に激しく抵抗した筈の攘夷運動が、武士達の特権をとり上げて西欧的国家をつくりあげるという方向に、運動のベクトルを転回したのである。 

この革命の主人公は、下級武士や中間(ちゅうげん:最下層武士)という、鬱積した不満を抱える層であった。彼らは、従来の支配層とは異なって、全てをゼロベースで考えることが可能であった。諸大名、徳川将軍、そして天皇さえ、将棋の駒のように考える自由な発想があった。 

現代日本に、そのような人もエネルギーもないだろう。国民の多数が、憲法9条(注釈8)が国の安全を戦後70年間守って来たと、悲しくなるくらい幼稚に信じている国である。外国軍艦が領海侵犯を繰り返していても尚、日米安保条約に記載されている通りに、日本も備えるという最低限の対策に対してさえ、反対が多数である。しかも、自民党の元幹部の殆どもそのような反対派に含まれる。国会では、憲法違反とか、自衛隊員の危険性増加につながるという反論があるのみで、本来行なうべきこの国の危機的情況とその解決策に関する議論など何もない(注釈9)。

  つまり、日本が封建社会から近代主権国家として進化して得た筈の遺伝子を完全に破壊され、このままでは主権を忘れた家畜的国家に留まりつづけ、最悪の場合は自分では生命を維持出来ずに淘汰される可能性があるのだ(注釈10)。移民の受入れは、経済的な意味だけでなく、この国家としての遺伝子を再獲得する為に役立つなどの政治的意味もあるだろう。 

注釈: 

1)中野剛志氏は、この考え方を国際政治における理想主義に分類し、誤った考え方であるとしている。(注釈9の本、82頁)確かに、現状の日中経済関係は、中国の大戦略を変えるほどのものではないと思う。

2)「金ではない、幸福度だ」という意見はあるだろう。しかし、道徳とか倫理を維持するのも、経済力あっての話である。「貧しいが幸福度の高い国」と宣伝される国があるとしても、それをそのまま信じるのはナイーブだろう。 

3)先日、池上彰さんのテレビ番組で、日本とドイツの代表的企業を比較していた。トヨタやホンダ対ベンツとBMW、キャノン対ライカ、ノリタケ対マイセン、オリンパス対ツァイス、セイコー対ランゲ&ゾーネなどが比較の対象となっていたが、私はどのペアをとってもドイツが上のように思った。

4)元経済アナリストのアトキンソン氏は、移民が受入れられないのなら、観光立国を目指すべきだと説く。しかし、ギリシャでも、観光立国では国の経済が成り立たないことが証明された今、日本でそれが可能だとは考えられない。元々観光業振興は受身的な経済政策であり、世界経済が曇れば観光立国には雨が降るだろう。

5)遺失物と拾得物の詳細な統計として、島根県警察が公表した頁を見つけた。http://www.pref.shimane.lg.jp/police/keimu/kaikei/ishitsubutsu/lost_found_items.html  この頁では、現金を例にとると、拾得金額(A)は遺失金額(B)の92.8%である。落とし主に返還された金額(C)はAを分母にすると、63.6%であり、Bを分母にしても59%あるので、拾った人はほとんど正直に警察に届けていることが解る。

6)遺失物法に規定があり、落とし物の価値の5-20%の礼金を支払う義務がある。

7)井上勝生著「幕末・維新」岩波新書

8)“日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。”

9)中野剛志著「世界を戦争に導くグローバリズム」集英社新書 この本には、日本の置かれた情況が解り易く書かれている。

10)米国は差し当たり日本を将棋の駒のように使おうとするだろうが、淘汰し消滅させることはないだろう。しかし、隣国と隣国の隣国が手を組めば、日本は消滅させられる危険性がある。つまり、日本併合である。例えば、以下のサイトを観てほしい。http://www.j-cast.com/2015/07/23240979.html

2015年7月22日水曜日

東芝の醜態と日本の人事

東芝の不適切会計処理は幹部が無能な会社の醜態である。高い目標をチャレンジと称して部下に指示し、その目標達成の方針を具体的に示さない、無能な権力者をトップに持ったことが原因だろう。

「一流の人間は一流の人間を選ぶ、二流の人間は三流の人間を選ぶ」と言う言葉(多分英語の翻訳)がある。一旦二流の人間をトップにつけたら、その会社は潰れる方向に走り出す。NHKニュースで利益至上主義に走って云々という批判があったが、日本らしい。私企業が利益至上主義に走るのは当然だ。

一方、その利益をあげる為には、トップがあらゆる意味で時代を読み、アイデアを広い範囲から拾い上げ、具体的な形で組織全体の方針として決定して、組織を経営しなければならない。そして、その責任はトップがとると言う形でないとダメだろう。「チャレンジ」とか「利益あげろ」と旗を振ったり、大声で叫んだりするだけで、その具体的方針を理解可能な形で下に示さないで、尻を鞭打つ上司を持った部下は気の毒だ。

日本はトップから最下位まで、層状に人が配置され、層を挟んでの議論は極めてすくない。日本語で「意見する」は「文句をつける」或いは「反対する」と同義であるので、上の層に向かっては沈黙は金である。そのようなシステムでは、人材を全社員から選ぶということはできない。

通常、おしゃべりは人間関係の潤滑油かもしれないが、議論は口論になり人間関係を破壊する。真面目に議論しない集団に発展などある筈がない。

(しろうとの戯れ言です。)

2015年7月21日火曜日

相撲協会は国際化への決断をすべき

大相撲はモンゴル勢の活躍で何とか興行出来ている。大相撲の外国人依存についてであるが、それを病的体質と考えるか、大相撲の新しいフェーズへの躍進へのステップと考えるかという選択の問題であり、もうそろそろ結論を出す時期に来ているのではないだろうか。病気なら治療を要するし、新しい躍進へのステップと考えるなら、相撲協会の体質から国際化すべきである。

先日のNHKの実況放送中に、解説者として参加していた、元小結の舞の海秀平氏が、「NHKの放映が大相撲の命綱である」との発言があった。NHKの放映は、モンゴル勢の迫力ある相撲がなければ、成立しないだろう。現在の相撲の視聴率は、例えば、照の富士と白鵬の優勝争いなどがなければ、半減するだろう。

国民の殆ど税金といっても良い視聴料で成り立っているNHKの放送でも、低視聴率の放送を続けることは不可能であろう。国技といっても、自称であり、国家が認めた訳ではない。つまり、外国人依存を病気と考える視点を貫けば、その先には廃業しかないような気がする。

考え方によれば、モンゴルやアフリカ、東欧の力士が、日本の力士達に混じって活躍する姿は、国際協調の象徴と看做すことも可能である。差し当たり考えるべきは、国籍問題である。白鵬は、大相撲に多大の貢献をしながら、モンゴル籍のまま一代年寄になれない。北の湖理事長はこのあたりで決断すべきである。日本が二重国籍を認めない以上、母国の国籍を捨てざるを得ない。それはあまりにも過酷な条件である。

昨日の白鵬と逸ノ城の取り組みで、寄り切りで逸ノ城を土俵の外に追いやった直後、相手のあごを右手でぐいっと突き上げた。審判長が苦言を呈するのは当然であるが、協会側も問題の根源をもう少し緊迫感を持って考えるべきである。これまでにも、白鵬の行いに関して、横綱に相応しくないとの評が多く、大相撲の看板に微妙な曇りが生じている。何かにトラブルがあった場合、多くの場合、当事者双方に言い分がある。今後そのようなトラブルを避けるには、双方に解決すべきことがある筈である。

元横綱の朝青龍の時も、トラブルが多くあった。相撲内容は、白鵬以上に素晴らしいもので、異常な引退には落胆した。今後も、モンゴル勢の活躍が期待される中、相撲協会ももう少し国際化という視点で協会の制度を考えて欲しい。横綱審議委員会の委員も、広い範囲から選ぶべきであると思う。

2015年7月19日日曜日

戦後70年・日本の肖像を観た

(1)NHKで放送されているニッポンの肖像戦後70年を観た。そして、学生達が60年安保に反対した理由を、ゲストの田原総一朗氏の証言が教えてくれた。それは、「安保反対デモに私も参加していたが、吉田安保(改訂前)と岸安保(改訂後)を読み比べた事はなく、その違いを知らなかった。私だけでなく、他の参加者も大多数は知らなかった。旧安保では、米軍は日本の何処にでも基地が置けるという様な酷いものであり、結局岸政権の安保改定は正しかったのだ」というものだ。

東条内閣の閣僚(商工大臣)であった岸信介への嫌悪感が、安保改訂に反対した理由のようだ。国民には戦争への強い嫌悪があり、岸信介は戦争を引きずっている様に見えたのだ。

因に、岸信介の描いていた憲法改訂への筋書きは、岸の退陣により二度と表には出てこなかった。その後の総理である池田は元々吉田茂の後継者であり、経済政策だけだった。岸信介は国民の一歩前を進む政治を目指したが、弟の佐藤栄作、中曽根康弘の長期政権でも、国民の後を追うことに終始したのだ。

民主主義体制における一流の政治家は、国民と伴に考える態度で、国民の一歩前を歩くだろう。

戦争直後の経済優先は、正しい選択だっただろう。しかし、佐藤栄作や中曽根康弘の時代には、日本は経済回復へのレール上を既にひた走っており、憲法改定を議論すべきだった。憲法改訂の必要性は知っていたが、議論を開始する程度の決断さえ出来ないレベルの政治家(=政治屋)だったことになる。

(2)太平洋戦争は、日本統治の権威が、天皇と政府と軍の間の空間に浮遊し、明確な意志のもとに遂行されたのではないと思う。殆どの日本人は、戦争に巻き込まれたという感覚を持っており、従って誰も責任をとる気持ちなどなく、日本独自の戦争総括は一切なされていない。国民は煽動され、官憲に支配されて、戦地に向かった。戦争が終わった時の国民の感覚は、巨大な自然災害が去ったというものだったと思う。外国を交渉すべき相手と考える明確な政治主体があれば、あの戦争はなかったのではないのか。結果として、昭和版尊王攘夷運動を、全国民に強いたのではなかったのか?

外国(人)を交渉相手と言うより、まるで天災をひき起す未知の生物のように捉えた、幕末の尊王攘夷運動の延長上にあの戦争があったという考え方がある(原田伊織著「明治維新と言う過ち」)。長州の”志士”達の考え方とは違って、江戸幕府はしたたかに外交を行い、江戸庶民は外国人にも気後れを感じさせなかったらしい。井上勝生著の「幕末・維新」には、「(欧米人に対する)嫌悪と警戒のイメージは、近代の文明開化以降に生み出されたものである」(第三章、p101)と書かれている。

幕末から昭和までの歴史資料を、全て掘り出して、出来るだけ多くの歴史学者、社会学者、政治学者などに研究議論してもらい、この期間の歴史の総括を行ってもらいたいものである。

(素人の素朴な感覚で書いたものです。批判等歓迎します。)

2015年7月18日土曜日

新国立競技場のドタバタ劇の舞台裏=ある想像=

新国立競技場の予想建設費の高さから、設計やり直しの必要性が世論の指摘する所となり、それに押されて安倍総理がそのように決断した。この件、政治が機能することの確認を国民に示した点で、安倍総理は点数をあげたと思う。

2012年にデザインを国際公募した際に「1300億円程度」という条件があったが、採択されたデザインを基に試算された総工費はふくれ上がり、6月29日の文科省の正式発表では2520億円になっていた。

公募作品の審査にあたった安藤忠雄さんの会見があったが、その内容は”私には責任がない”という言い訳だけだった。しかし、デザインの条件である1300億円程度の経費が、結果として殆ど無視されていた作品を選んだことになり、その責任はある筈だ。勿論、設計とデザインは違うという言い訳があり得るが、経費が倍になったのでは1300億円程度という条件は死文化する。問題になりだした当初は、もっと高い経費が報道されていたので、最終的にはもっと高くつくと疑う人は多いだろう。

絵を書くだけなら、夢のようなものを書ける人は多いだろう。ただ、建物の外形だけでなく、内部構造とその経費の概算を含めた、その道のプロが参加するコンペだった筈である。

無責任国家日本の典型的出来事であるが、それから学ぶことはないだろう(学ぶ可能性がないの意味)。昨日のテレビ報道では、八ッ場ダムの設計段階と実際にかかるであろう経費の間にも、一桁の差があったという話があった。その際の経験から何も学ばなかったし、今回の様な失態があるのだから。

否、もう一つの別の考え方が正しいだろう。つまり、この件も八ツ場ダムの件も、その計算した経費の変化するプロセスは、その件の中心に位置する関係者には予定のもので、それにより誰かが大きな利益を上げるのだろう。

更に、それが実際の政治と(いままで)矛盾しなかったことは、上記中心に位置する人物達の権益と、政治的決定の間に密接な関係があることを示しているのだ。つまり、確信犯なのだから、学ぶことがあるとしたら、初期のもみ消しに失敗したという点からだけだろう。

補足:ザハ・ハディド氏が代表を務める英国の建築事務所の担当役員ジム・ヘベリン氏は17日、競技場の工費増について「デザインが原因ではない」「東京における建設工事費の急騰が背景にある」とする声明を発表した。 http://www.sankei.com/sports/news/150717/spo1507170044-n1.html デザインに欠陥がないのなら、建設費の吊るし上げをゼネコンが図った可能性もある。2年で建設費が倍に高騰する筈がない。2520億円かかるという設計と見積もりの妥当性を詳細に調査し、公表すべきである。兎に角、高額になった原因を特定すべき。(7/20)

2015年7月15日水曜日

権力と権威:天皇という宗教的権威の役割

(1)国家の権力は、国民等を国家の指示に従わせ、その為の法等を制定する能力である。一方、政治的権威は、国民が権力を信用して自発的に従う様にさせる能力、或いはその能力の印である。安定な統治は、政治的権力と政治的権威が同居する場合に実現する。(別表現:政治的権力は政治的権威を抱き込んで完成する)

武士の出現以来、天皇が戦闘などで力を証明した者に対して、政治的権威を儀式的に与えることで、日本の統治システムは機能してきた。その伝統は周知の様に一部現在まで残っている。この、政治的権威を与えるという、天皇の持つ“儀式的権威”は、宗教的なものとして確立されており(注釈1)、昭和前期まで揺らぐことはなかった。政治的権威は、天皇から権力者に授与されるのが普通であるが、時として、天皇も実際上の権威を持つ場合があり、その場合は天皇に危険が伴うことも多い(注釈2)。

天皇から権力者に与えられた政治的権威の例として、江戸幕府まで続いた征夷大将軍がある。政治は、征夷大将軍が行なうので、天皇は当然政治的責任をとらない。そのことが、千数百年間日本の頂上に天皇が存在し得た理由だろう。

この日本に特有の政治的権威のあり方、つまり継続的な天皇の権威付与能力は、日本国という継続した政治枠を国民が信じることを可能にした。また、その事と関連して、人種的には幾つかの民族とその混血から成り立っているにも拘らず、日本人は単一の民族からなりたっていると思い込むことを可能にしている。

(2)時代とともに移動する政治的権威の中心に天皇が位置するシステムは、権力と権威が容易に分離し得ることを意味し、日本の歴史が複雑な経緯を示す理由でもあったと考える。例えば、幕末の時代、外国との和親条約や通商条約の締結がスムースにいかなかったのは、時の天皇が条約締結の詔勅を出さなかったからである。ほとんど形式的な手続きと幕府が看做して来た、天皇の許可つまり詔勅を得るプロセスが、幕府による日本統治のアキレス腱だったのである。

このプロセスが円滑に進まなかったことは、政治的権威が部分的であっても天皇により奪回されたことになる。そして同時に政治的権力も、長い歴史的時間スケールから考えれば一瞬にして、江戸から天皇を中心とする京都と幕府の存在する江戸の間に、空中浮遊することになったのである。

風により舞い上がった凧を奪い合う様に、朝廷、幕府、薩長を中心とする外様雄藩などがその権力をめぐって争うことになった。日本中で、攘夷や黒船などの言葉が“空気”を支配し歪め、雄藩や朝廷も足元が定かでなくなったようだ。そして、最下層に近い者ほど、○1地面に近いために足元がしっかりしていること、○2それまでの不満を大きなエネルギーに変換して持つこと、○3下層故に持つ何でも出来るという強み(道徳も品も武士道も無視し得るという)を持つこと、などから、結局実権を握ることになった。それが、明治維新の進行だったと理解する。

勿論天皇側の意見としては、「米国やロシアなど異民族が、日本国に深く入り込むことにもなりかねない通商条約を結ぶのは、“征夷”大将軍の仕事ではない」ということになるだろう。また、現実の政治において、天皇が権威を主張出来たということは、既に幕府の実質的権威と権力が低下していたということだろう(注釈3)。

(3)天皇が権威を取り戻し、薩摩などの外様雄藩の力を利用することになれば、権力者としての徳川幕府の地位が揺らぐ。しかし、天皇周辺が政治や外交に殆ど知識を持たないため、混沌とした時代に入りかけた。それに着目して、徳川慶喜は天皇を抱き込む戦法に切り替え、それが殆ど成功したかに見えた。実際、一橋、会津、桑名で政治の中枢となった京都の実権を握った。

その体制に対抗する意味で薩長同盟が結ばれたが、最新兵器と西洋式軍隊で最高の武力を持っていたとしても(注釈4)、それのみでは権威も権力も得られなかっただろう。正統性がなければ薩長の志士達でも権力を得ることは難しいのが、天皇という権威の持つ底力だと考える。その壁を破ったのが、孝明天皇の暗殺だったかもしれないのだ。この件についても注釈3に引用の竹田氏のブログに解説されている。

この権威と権力の分裂状態は、日本文化に定着してしまっているのではないだろうか。つまり、どのような組織でも、力のある者でも権威を持たない(得られない)場合が多い。権威は人間性という訳の判らない価値(宗教的価値)で評価された者に与えられる。(或いは、人間性ということばが権威の印となる。)(注釈5)
この権威と権力の分離の目的は、幕末の皇室がその方針とした様に、そして島国であるが故に許されて来た、何事も先に進まないようにする、究極の保守主義なのだ。

(7/17am 語句等一部修正;8/12朝一部修正)

注釈:

1)日本人の宗教は神道であり、それは汎神論的自然崇拝である。つまり、太陽、山、海などの自然を神として崇めるのが本来の神道である。建国の英雄を神にするのは、天皇家の発明によるものだろう。その神道を利用した権威により、武士の時代でも、天皇家は政治的権威を与える権威を獲得した。また、現在も日本国民の統合のシンボルとして存在する。明治からの国家神道は、戦争時に国民にたいして命の無償提供を強いるメカニズムとして、この新しいタイプの神道を利用したものだと思う。

2)天皇が政治的権威を保持することは、政治的権力を浮遊させることになり、危険が及ぶ。武士階級の出現以前は、当然天皇家も権力と権威を掌握する為に政治の前面に位置していた。この場合は危険の前面に位置することになる。天皇の暗殺事件については、旧皇族の竹田氏の頁を引用します。 http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu40.html

3)外様雄藩を政治から遠ざけるために、老中等幕府要職から遠ざけることは、諸刃の剣となったと思う。ただ、戊午の密勅と安政の大獄の後、幕府軍が京都にくることを天皇は恐れたということである。

4)薩長が鳥羽伏見の戦いなど戊辰の役で勝利を収めたのは、一度外国との戦いに破れ、西欧式武器と兵法のあり方を実地で学んだ事だと思う。元込式のライフル銃(スナイドル銃など)とライフル式の大砲(アームストロング砲)、そして軍艦などを購入し、西欧式の近代歩兵等からなる常備軍を創ったことである。その先頭にいたのは高杉晋作だろう。

5)かなり前になるが、相撲の取り組みのあと、モンゴル出身の朝青龍が勝ってガッツポーズをして、相撲協会の顰蹙(ひんしゅく)をかったことが記憶に残っている。最近では、同じモンゴル出身の白鵬が、勝ったときの懸賞金の受け取り方が、ガッツポーズ的でいけないと非難された。選挙でも、自分は知識能力ともに豊かであり、自分に委せれば上手くいくというタイプの、自己宣伝は日本のなかでは奥ゆかしさに欠けるとして嫌われる。かれらが組織のトップになるには、人間性を得るという脱皮のプロセスを経なければならない。

2015年7月12日日曜日

強行採決という不思議な言葉

安全保障法制に関する国会審議が続いているが、それに反対する民主党や維新の党は、採決させない戦略をとっている。民主党の岡田氏は「採決されないように頑張る」と公開の場で発言して憚らない。その台詞が不思議な台詞であることに気付いていない様だ。国会は法案を提出し、議論し、採決する場である。この国会の機能のうち、採決という機能を果たせない様にすると言っているのだから、普通の感覚を持っている人は呆れて当然である。

今日のテレビ番組で米国人のケビンメア氏が「強行採決という言葉の意味がわからない」と発言していた。日本は民主主義の国であり、国会の採決で多数が賛成すれば、その法案が通るのだが、賛成や反対を強制する訳ではなく、採決そのものの何処に強制が入るのか解らないのである。

議論はより良い法案にする為に必要だが、会議構成員の多数が議論が十分だと思った所で、議長がそれを確認して、採決するのは当然である。提出した法案に反対する側の意見に見るべきものがないのなら、短時間の議論後に採決しても良い筈である。

強行採決と言う言葉は、日本が民主主義という制度を取り入れながら、全員一致を目指すべきという不文律があるから存在するのだろう。採決するかどうかについて、全員一致、或いは、大多数の同意がなければ、議論を止めてはならないと言うのはおかしい。また、別途法案を提出するのは良いが、別途採決すればよい。また原案の修正案なら、それを含めて採決すればよい。

また、国民は国会議員に法案制定と行政を委せたのだから、必ずしも国民が理解出来る様に議論する義務はない。国民は国会の様子を見て、次回選挙の参考にするというのが民主主義の機能だろう。

憲法違反でないかという問題も、憲法学者の意見を聞く事は良いが、それは採決の際の判断材料にすぎない。憲法違反という判断は裁判所のみが出す権限をもっており、憲法学者にはない。

“苛め”による自殺を防止するにはどうすれば良いか

”苛め(いじめ)”による中高生の自殺が続いている。その原因の一つとして、“苛め”が社会において十分理解されていないこと、及び、法的にも定着していないことがあると思う。

”苛め”は法律用語として存在しなかったが、2013年いじめ防止対策推進法(平成25年法律第71号)が制定され、“いじめ”の定義がなされた。その第二条にある定義は:“この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人間関係にある他の児童等が行なう心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行なわれるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものを言う。”

この定義の第一の問題は、苛めを心理的なものと肉体的なものに分類はしているものの、それを包括した形で定義していることである。しかし、児童であれ大人であれ、「物理的に影響を与える行為で、対象となった人が心身の苦痛を感じるもの」は刑法の対象である「暴行」であり、この定義にはその重要性が十分意識されていない。

今回の岩手・矢巾町の男子中学生のケースでは、教師との連絡ノートに自殺をほのめかす書き込みがあったものの、教師は紋切り型の応答しか出来ていなかった。その後のテレビ報道などでは、学校長などの謝罪会見や教育委員会の意見などが放送されていたが、具体的には生徒の死を無駄にするだろう。何故なら、“苛め”の本質的理解がなされていないからである。

今回のケースでも、自殺した中学生の悩みの種は、“苛め”という暴行であった。暴行をしても警察が関与しないのであれば、学校は治外法権の区域となってしまうが、そんな初歩的なことをこの国指導的立場にある人たちやマスコミの人達は知らないのだろうか?

ここで、“いじめ”を私なりに定義しておく。「いじめとは、ある共同体において、特定の構成員を孤立した状態及びそれに近い状態に置いて、集団での心理的圧迫や肉体的暴行を加える行為である。」 つまり、“苛め”は、共同体内で行なわれると言う点が特徴である。

このように現在”いじめ”と言われている行為に、なるべく近くなるように定義すれば、自ずとその対策が見えてくる。心理的圧迫には、個人のその集団からの離脱を勧めることを含めたカウンセリングを、暴行には警察を利用することで、解決される。

もちろん、解決とは言え、当事者“双方”に負担となることは当然である。その負担が苛めを減少させることになると思う。全ての中高生達にも、たとえ平手打ちでも法的には暴行になり得、刑法208条に従って刑事事件として処罰される可能性があることを教えるべきである。また、苛めが絶えないのなら、そのような問題校には、一時的に警察官を常駐させることも考えるべきである。

苛めによる自殺が示唆する、根本的なもう一つの問題点は、個人と共同体(ここでは学校のクラス)の関係を、被害者を含めてその構成員が重く考え過ぎていることである。幼少期には仕方がないが、中学生以降は個人の自立を教育の一つの主眼とすべきである。大人の社会を含め、日本では個人が共同体に依存する割合が高すぎるのではないだろうか。

2015年7月11日土曜日

台湾からの慰安婦に対する補償について(翌日編集後)

Discussion on the comfort women case has been presented at http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/09/comfort-woman-was-not-sex-slave-fake.html

(1)今夕、CBCテレビでの報道特集(17:30〜)で台湾人慰安婦の証言が放送されていた。二人の方からの証言しか報送されなかったが、涙を流しつつ話された内容とその様子から、信憑性の高い話だとわかる。証言の数が少ないのは、台湾政府認定の慰安婦は合計58人であるものの、生存者は現在4人しかいないからである。

二人は、看護師としての仕事だといって騙されて戦地に連れられ、そこで慰安婦として働かされたのである。この二人の方の場合、吉田清治の捏造によるチェジュ島での慰安婦狩りのような方法ではないが、強制連行にほとんど等しい方法で戦地に送られたと思われる。証言された二人の方には、強い日本国に対する反感は既になくなっている様子であり、その点から考えても証言の信憑性は高い。また、慰安婦問題に関与している若い方々も、この問題が政治問題化すべきではないと答えておられる。

日本側の対応としては、1995年12月に総理府と外務省の共管法人としてアジア女性基金が設立され、大韓民国・台湾・フィリピン等の元慰安婦だという女性に、日本国民から集めた「償い金」を総理の手紙と共に届けた。

しかし、台湾の慰安婦の方の内、アジア女性基金からの償い金を受け取ったのは13人のみであり、残りの人は受け取りを拒否した。それは国家から謝罪と償い金を出すべきだというかんがえからだった。

台湾との間に現在国交はなく、従って、この問題は未解決である。方法論的に難しいかもしれないが、元慰安婦の方々が生存されている間に、国家としての謝罪と償い金を手渡すべきであると思う。

国家間で既に解決済みとされる他の国とのこの問題も、もう一度精査すべきだろうと思う。例えば、上記のような強制連行と看做されるような方法で集めたのなら、その経緯を戦争時犯罪であるのか、それとも、現場の司令官の命令でなされたことなのかの疑問に答える形で、調査の上公表すべきである。もし国策としてなされたことなら、国家間での解決されたこととは別に上記のような対応をとるべきだろう。

(2)上記証言を完全に否定する証言もある:http://blogs.yahoo.co.jp/asmsyszz/53959942.html) 月200円という高給を目当の志願だったという。慰安婦だと聞こえが悪いので、帰ってくる時看護婦として働いていたと嘘を言ったのだという。その後、看護婦だということで応募したら、慰安婦だったという風に証言するようになったという。

何を信じたら良いのかさっぱりわからん。どちらにしても、この様な問題を戦後70年まで放置した政府の責任は重い



(3)慰安部問題を考え始めた時期の私の考えは既に、ヤフーの智慧ノートに書いている。それ以後、このブログでも何度も書いた。初期の意見は(1)と似た立場のものであったが、その後の読書やブログなどを読み続けて、(2)の台湾の方の発言を信じるようになった。そして、英語での投稿も行なった。昨日のテレビ報道で再び、心が揺れて、(1)のようなコメントを書いた。台湾の慰安婦の証言を初めて聞いたからである。もちろん、記憶は創られることもあることは十分知っているが、落ち着いた話し振りからは創られた記憶や作り話のようには思えなかった。しかし、(2)の同じ台湾の男性からの証言や、これまでの韓国の慰安婦の証言のインチキから、再びこの問題について意見を換える必要がないと思う様になった。

この日本の株式相場のような大きな揺れは、そのまま残した方が良いと思うので、このセクションを書き直したところで、最終稿とする。 (2015/7/12)    

中国の株暴落で390兆円消えたという嘘

最近3週間程で中国株(上海での上場)は、30%も値下がりした。昨日かなり持ち直したが、取引中止の銘柄が再び取引を初めて見なければ、本物の回復かどうかわからない。この株価の暴落を、マスコミは390兆円消えたと表現しているが、それは嘘であるという指摘が経済評論家の小笠原さんのブログでなされている。
http://blog.livedoor.jp/columnistseiji/archives/51635950.html

株価が上がったからといって、GDPに算入されるわけではないとか、過去上がった時に儲けた人がいるとか、を根拠としてあげているが、今一つ解り難い。そこで、もうすこし解り易く説明したいと思う(成功するかどうかは解らない)。

より正しい表現は、「上場している株式全体への市場の評価が390兆円分減少した」である。株式の値打ちは正確に決定できる類いのものではないし、”実際の価値”は誰もわからない。 平均として投資家が、これまで考えていた程の値打ちが無いと考えて株を売り払い、その金で他の株を買わなかったのである。(注釈1)

つまり、それまで(安い値で買って)株を持っていた人が株を売り払い、その代金が株式市場から去ったことを意味している。具体的には、その”390兆円”が証券会社の口座に残るか、或いは銀行に移るだろう。つまり、株を売買する人たちの証券会社の口座残高や銀行口座の預金残高が、全体として390兆円分上昇している筈である(注2)。

  株の取引は売買だから、ある人がある株を売れば、必ず別の人がその株を買う。株がある程度高くなってから株式市場に参入した人の中には大損をした人はいるだろうが、2年程前の安値の時から参加している人は、市場から退場した人もそうでない人も、大もうけしているのである。

大衆は他人が幸福になる姿よりも、不幸になる姿を好む。従って、テレビはこれで財産がゼロになったという、悲しむ姿を映し出す。 

株価が低下したとしても、マクロに見れば全て上記の様に帳簿上の数字の変化であるが、いろいろな形で経済に影響するだろう。海外の人や企業が売った場合は、最終的にはその金額は元から例えばドルに両替されて海外に流れるだろう。会社の場合は子会社などの株式評価額が減少して、資産額に変化を生じる(注3)かもしれない。すくなくとも担保価値が減少して、銀行が融資に応じない場合も出てくるだろう。兎に角、社会に浮遊するお金の額が減少するのだから、景気に良い筈はない。

  ただ、390兆円消えたという表現だけで、その報道を済ませてしまうのなら、誤解を招く。 (午前11:40修正)

注釈: 
1)安くなった株を買う人が当然取引には必要だが、その額は他の株を売った金額より平均として少ない。株価の下落は、株の現金化が進むことである。 
2)信用取引の場合には、証券会社の投資家への貸し付け残高の減少となる。 
3)帳簿価格は低く抑えてあるだろうから、帳簿上の資産額低下にはならない場合が多いだろう。 正しい表現は、「上場している株式全体への市場の評価が390兆円分減少した」である。株式の値打ちは正確に決定できる類いのものではないし、”実際の価値”は誰もわからない。平均として投資家が、これまで考えていた程の値打ちが無いと考えて株を売り払い、その金で他の株を買わなかったのである。(注釈1)

2015年7月8日水曜日

世界経済の懸念

ギリシャの財政破綻懸念が大きなニュースとなっているが、それよりも懸念されるのが、中国の経済停滞だろう。株価はこの三週間ほどで30%下落している。しかし、それでも尚株価と年間純益の比率は19倍(上海総合)位と、日経平均(7/7: PER=16.12(1))米国ダウ平均よりかなり高い(2)。

中国は世界の工場と言われて来た。しかし最近、人件費の増大により、工場は低い賃金を求めて東南アジアの方などに向かいつつある。オリジナルな技術や発想、或いはブランド力を持たなければ、経済発展を維持できないのは、日本も既に勉強すみのことである。中国にはこれと言ったブランドも技術もない。

中国の経済発展と旺盛な消費や投資に対する意欲が、世界経済の成長に寄与してきたが、それに黄色信号がついた様に考えられる。専門家ではないので、責任はとれないが、最近の原油価格(3)や金及び白金などレアメタルの価格(4)下落は、世界経済のかげりを意味しているのではないだろうか。金相場は炭坑におけるカナリアと同じ役割を、金融市場において果たしていると良く言われる。金価格の最近の急激な下落、そしてそれがギリシャ危機がより深刻になっても止まらないことは、上記推測を支持しているようにおもう(5)。

補足:株はその企業の将来を買うので、PERは成長が見込まれる場合大きくなる。中国に更に大きな成長が見込まれる場合、平均19倍は大きくない。それは、日本のファーストリテイリングの株価(PER=47.78)をみれば解る。ただ、気になるのは米国でのアリババの株価がかなり下がっていることである。アリババは中国のネット通販の会社であり、中国での消費が低下すれば株価は下がるからである。 引用元:

1)http://nikkei225jp.com/data/per.html
2)7/8モーニングサテライト
3)http://chartpark.com/wti.html
4)http://xaujpy.com/
5)炭坑のカナリアといわれるのは、普通訳の判らない金価格の上昇かもしれない。このところの金価格の下落は、中国などでの株から金へのお金のシフトが起こっていないことを示している。インドや中国などからお金が消えているのだろうか?(7/17追加)

2015年7月7日火曜日

ギリシャの国民投票:雑感

民主主義は英語デモクラシー(democracy)の訳語で、大衆(demos=common people)の意志で政治を決める体制である。発祥の地古代ギリシャで、民主主義は衆愚政治に堕落するとの結論を得ていた筈だが、その後、近代文明の恩恵の下で再び世界中で高い地位を得た様に見えた。

戦後の近代技術文明を背景にした経済発展が進行中には、民主主義は政治システムとしてまともに機能しているかの様に見えたが、経済発展が停滞期に入った現代では、再び民主主義は衆愚政治という本質を表わす様になったのだろう。昨日のギリシャでの国民投票の結果は、それを象徴しているように思う。あらゆる国家で、民主主義政治=衆愚政治の確認が今後行なわれるだろう。その様な変化が現れない国があれば、そこには陰の権力(注釈1)が存在する筈であると思う。

我国の政治にも、衆愚政治の兆候が現れていると思う。大衆の政治への期待と政治家の実力のズレは大きい。日本の政治家で高い地位を占める人の殆どは政治家の家系に産まれた政治貴族、つまり政治屋である。昨日の世界遺産登録の際の韓国とのやり取りについて書いた様に、政治屋は二枚舌を駆使して誤摩化すことが政治の技だと思っている。このままでは衆愚政治の弊害が財政問題においても顕在化し、ギリシャの二の舞になる可能性大である。

政治家でも何でも、社会の第一線で働く者は選りすぐられたプロフェッショナルでなければならない。しかし、大衆には骨董品の評価がまともに出来ない様に、政治家の本物と偽物の区別も出来ないから、大衆迎合的なことを言う政治屋を選挙で選んでしまう。日本にも三権以外の政治的権力として、霞ヶ関の官僚機構があるらしいが、行政と密着している関係で、高い見通しの良い視点からの分析や思考が出来ない為、まともな智慧を出さないだろう(再度注釈1)。

ギリシャ問題として現在話題になっている財政問題などは(注釈2)、上記のように経済発展しているときには、棚上げや据え置きで一時しのぎが出来る。何故なら、棚上げした財政問題は、経済発展や通常同時に起こるインフレにより、相対的に小さくなるからである。その様な情況下では、幸せや金のバラマキで大衆迎合的に振る舞えるので、政治屋と謂えども、それなりの成果を演出できるだろう。

現在、米国が中心になって押し進めた経済のグローバル化により、先進諸国のものだった経済発展は途上国に移動してしまった。そして、研究開発能力や新しい発想を産む文化を持たない自称先進国は、所謂“先進国病”という、デフレ経済に悩むことになる。中央銀行が、利下げや債権購入という形で量的緩和という点滴治療をしても、それは単に時間稼ぎに過ぎない(注釈3)。

時間が経過すれば、輸入品の価格上昇などから始まる悪性インフレにより、国民は自分の預金の価値の低下を実感することになる。一定の資産をもっていて株などに投資していた層は、量的緩和の金が株式市場に流れ込んだために、株高という形である程度の配分を得ているだろうが、それも恐らく半分程度は世界的金融機関や投資ファンドが手に入れている筈である(注釈4)。そして、日本国民の大半である労働者の収入は決して増えないだろう。

財政の健全化は、節約か新たに稼ぐ方法を探して国家の経済を拡大するか、方法は二つしかない。ギリシャの首相は他のユーロ圏諸国を脅迫する方法をとっているが、それはまともな方法ではない。収入以上の暮らしを維持するという夢からさめず、財政再建案を受け入れない方に票をいれるのは、大衆は衆愚であることの証明である。

注釈:

1)マスコミを第4の権力ということがあるが、それは他国の戦略の下請けになるか、衆愚政治の旗振役になるか明確ではない。ここでは政権と密接に関係した民間シンクタンクなど、或いは、政府内機関を含めて広い意味での官僚機構などである。(当方素人につき、コメント歓迎します。)

2)財政問題が深刻なのは、先進国の中で日本が筆頭である。国民の貯金を全て召し上げて解決するしか方法がなくなるだろう。

3)通貨安にして、国内の人件費やエネルギーコストをドル換算で下げて、競争力を回復するという捨て身の手法である。それは国民の老後の頼みの綱である預金の額をドル換算で下げることにつながる。当座は気付かないかもしれないが、最終的には悪性の物価上昇、そして(又は)実質賃金低下と言う形で、全ての国民の経済力低下を招くことになる。しかし、この国にはi-padやgoogleなどを産み出す力がないのだから仕方がない。それは大学教育の健全化、経済における規制緩和、更に、個人の自立や健全な競争の文化(の導入などの手を打たなければ)を待たなければ、米国のような力の獲得はない。資源小国である日本は、世界に類を見ない何かがなければ生きていけない。それは伝統的な職人の技術かも知れないし、日本の美的感覚などかもしれない。それを生かし育てるは政治の役割である。本物の政治家を何とか育てなければ、現状維持も難しいだろう。

4)日本の代表的企業の株主を見ると、トヨタ自動車の30%、日立製作所の45%、ソフトバンクの46%(昨年後期)は外国人の所有である。全体でも日本株の35%程度は外国人が持つ。更に、日本の個人投資家には素人が多いが、外国人機関投資家は将にプロである。多量の信用取引で、巧みに株価操作を合法的に行なっている様だ。

既存政治屋に乗っ取られた維新の党 

維新の党は、橋下徹現大阪市長と松井府知事などの大阪府一部議員の間で2009年に結党された維新の会が出発点である。その後中央政界との合併で現在の政党となったが、大阪都構想の住民投票における否決とそれに伴う橋下氏の政治家引退発言でその中核を失った様に見える。

橋下氏らが当初目指した政治改革は、既存の政治屋では出来ない。何故なら、選挙民にも応分の負担を強いる改革であり、それは大衆に迎合する姿勢だけでは為し得ないからである。一方、現在国会で多数を占める政治屋は、主に疑似世襲制の政治貴族であり、彼らが最優先するのは国会などにおける議席と地位であるから、本質的に大衆迎合的である。国民にも応分の負担を強いる可能性の高い国家の政治改革は、精々二枚舌を用いて出来る範囲に限られ、決して正面から取り組むことはできないからである。

維新という名が、幕末の薩長の下級武士を中心とする勢力により達成された“明治維新”に由来するのなら、最終的に従来の権力組織の江戸幕府に相当する霞ヶ関の政治貴族達は、排除すべき対象である筈だと思う。

勢力を拡大して改革に至る時間を短縮するべく、既存政治屋達との連携をするには、相応の実力があってのことであり、実力不足の維新の会としては完全なミスだったのではないだろうか。

本来の連携すべき相手は、社会に広く分布している政治に関心を持つ一般市民だと思う。彼らは、政治貴族が創った政治と一般市民との間の壁が障害になって、政治に参加出来ないでいると思う。彼らの現職は、例えば、商社、証券金融会社、製造業界などで、世界を舞台に広く活躍している社員や、大学等研究機関の研究者などだろう。時間はかかるが、もう一廻り大きな台風の目を育てて欲しかった。台風は、大気圏の広大な範囲、つまり大衆、の中に充満したエネルギーを吸い込むメカニズムである。既存のあらゆる組織は、一部の利益を代表したものであり、大衆のエネルギーを逸らしはするが、それを吸収することは出来ない。

もちろん、それは非常に困難な作業である。現在は幕末期と違って、命をかけてまで社会改革に身を投じることが、一度しかない人生において価値あることと判断する人など極めて稀だからである。橋下氏はその数少ない一人であるが、日本の中には10人や20人は居るだろう。それらの人を発見するまで、地方の維新の会で活動した方が良かったのかもしれない。

全国規模へと連合する時期は、他の数カ所の地域に維新の会と似た組織が出来た時である。現在でも、そのような組織は本物かどうか解らないが名古屋にしかない。橋下氏が全国展開するのは、都構想という看板政策を実現するためだったのだろうが、早すぎたと思う。橋下氏も十分そのことには気付いておられ、関西維新の会としての立て直しを考えておられるようである。

2015年7月6日月曜日

二枚舌は身を滅ぼす:軍艦島を世界遺産にする為に韓国の言い分を100%認めた日本

昨日、軍艦島などの明治日本の産業革命遺産として世界遺産に申請した諸施設が、ユネスコの審査委員会で認められて、世界遺産に登録されることになった。この件、韓国が「戦時中に朝鮮半島からの数万人が強制労働に従事させられ、94人が死亡した」と主張し、その登録に反対していた。

その審査を有利にするため、ユネスコ日本代表部の大使が「多くの朝鮮半島出身者が意思に反し、厳しい環境で働かされた」と発言し、韓国の反対をそらせる事に成功し、登録が決定した。その後、外務大臣は日本国内に向けて「上記発言は、強制労働があったと言った訳ではない」と注釈している。このようなグレイ領域に話を持ち込んで誤摩化すのは、政治屋の常套手段である。

もっとも大切なポイントであり、且つ、ほとんど無知な西欧人(注釈1)が見落とすだろうこととして、当時韓国は日本国の一部であったことがある。つまり、ここでの朝鮮半島出身者は当時日本国民だったのである。そして、政府の命令で(つまり合法的に)半島から軍艦島のある九州へ移動させられたことを、意に反してと表現して良いのか?という点を日本政府は誤摩化しているのだ。

あの戦争の際、法令に従って徴兵され、南方の島で無惨な死をとげた多くの軍人に対して、“意に反して”兵役につかされたとは言わないのだ(注釈2)。上記ユネスコ大使の発言の“意に反して”とはどういう意味なのか、それに関与した日本政府は深く考えていないのか、誤摩化しているかのどちらかである。

つまり、“意に反して”は、私的な感情のレベルでの“意に反して”なのか、それとも“違法に”というレベルなのかという大きな幅がある言葉なのだ。あの発言を聞いた西欧諸国の人は、“異国の人間を違法に働かせた”つまり、シベリアで日本兵が経験したような”強制労働に従事させた”ととるだろう。それが韓国の狙いであり、その俎板の上にまざまざと乗ってしまったのである。俎板に乗った鯉が、そんな筈ではないと言っても、何の力にもならない。

また、特別に「朝鮮半島出身者」と限定して、「厳しい環境で働かされた」と発言したことで、同じ環境で働いていた日本人とは、労働環境も条件も全く異なるとの印象を強くあたえ、朝鮮半島出身者にだけ特別に厳しい差別的労働が与えられたと解される。軍艦島には普通の街中と同じように学校から種々の店があり、竹田恒泰さんの言葉によると、韓国人用の遊郭まであったということである。
あのような発言とは全く違うではないか? 世界に誤解を与えてまで、世界遺産指定が欲しいのか?本当に愚かな人々だ。

注釈:
1)ドイツのメルケル首相がドイツがナチスの罪を認めた様に、日本も韓国人に対して犯した従軍慰安婦などの罪を潔く認めて謝罪する方が良いと安倍総理に言ったと記憶している。その際、日本では相当批判が沸いた。
2)韓国もそのあたりは解っているので、徴兵された兵士の待遇に関しては何も言ってこなかった。
補足:
先ほどの「昼おび」という番組で、ユネスコ委員会での発言について、その部分についての正本である英語の文章が報道されていた。Koreans were forced to workとなっていて、forced laborという文言は無かったという。検索したときのネットの反応は違うだろうが、forced to workは”強制的に働かされた”であるから、強制労働と等価であると思う。何故、外務大臣は強制労働という意味ではないと言えるのだ。何故、そこまでして登録しなければならにのだ。何故、聞く耳など持たない韓国などと交渉しなければならないのだ。

2015年7月5日日曜日

安保法案制定を邪魔する無能な元自民党幹部達:今朝の時事放談(7/20タイトルのみ変更)

時事放談のゲストは野中広務氏と古賀誠氏であった。今朝のテーマも安保法制であった。そして、二人の意見は“集団的自衛権行使を可能にすることに絶対反対である”という従来のものであった。それは、日本が戦争に巻き込まれるという考え方であり、彼らには中国の脅威など頭の片隅にも無い様である。

“安保ただ乗り”(注釈1)が出来れば、それが一番であるし、私も賛成である。しかし、今後もそれは可能であると、無邪気に考えて良いのか?また、野中広務氏は、集団的自衛権行使を可能にする現政権の方向は、大政翼賛会の政治に戻るものと発言しており、そこには時代の変化などの考察など何もない。

安保法制の議論は、中国の脅威をどう分析し、それにどう対処するかが本来の姿である筈。民主党なども「違憲かどうか」という議論しか出来ない程度の頭脳しかない(注釈2)。憲法を学者風に厳密に解釈すれば、憲法13条を考慮したとしても、自衛隊は違憲であるから、個別自衛権行使も憲法違反である。

もし安倍政府の新安保法制に反対であるのなら、その根拠として、1)“日本国が新たに考えるほど、中国の周近平政権に脅威はない”というもの、或いは、2)日本国の領土保全と日本国民の安全確保は、この様にすれば出来る、などの理由がなければならない。野党は、中国の脅威を否定することが難しいので、集団的自衛権行使は憲法に違反するとか、自衛隊員の危険が増加するとかを、問題にしたりするのである。

自衛であれ、戦闘が始まれば、自衛隊員の命に危なくなるのは当たり前である。戦闘が始まらないように、強力なボスを背後にしっかり置くべきだという安倍政権の新政策を否定する根拠にはならない。

野中氏も古賀氏も元自民党幹部である。先日新安保法制に反対を表明した、山崎、亀井氏、藤井、武村の四氏の反対表明を含め考えると、自民党は安全保障をまともに考えてこなかった事が解る。無責任で国会議員の椅子だけに関心のある政治屋達が、社会党などのスパイか政治屋か解らないような人達と、国会で議論しているように見せかけて、この半世紀日本の政治をおこなってきたことになる。あきれてしまう。

二番目の問題として議論していたのは、新幹線での焼身自殺である。野中氏は、現在の政治への不満があったと、その原因に言及した。しかし、このテーマの議論は数分であり、付け足しであったようだ。

注釈: 1)安保ただ乗り論(https://kotobank.jp/word/安保タダ乗り論-159143)は、勿論ただではない。日本国民は兵士を出さないで日本国の安全保障を計ると言う意味である。この表現には、米軍基地の土地を提供している沖縄の反感はあるが、歴史的用語なので用いた。
2)今朝の新報道2001では前原氏が対案を出すとか言っていたので、民主党の一部にはこの批判は当たら無いかもしれない。

2015年7月3日金曜日

花岡事件について(NHK夜9時のニュースを見ての感想)

太平洋戦争時に、日本国内で不足する労働力を補充する為に、中国人を動員することを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定し、1944年に重労働の為に中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。

花岡事件は、1945年6月30日に秋田県の花岡鉱山で動員された中国人労務者が蜂起し、集団脱走をはかり、その後鎮圧された事件。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。

秋田県花岡川の改修工事などの為に鹿島組で戦争末期に使役についた中国人約1000人のうち、事件までに137人が亡くなった。彼らは過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図ったが、憲兵、警察、警防団の出動により、多数の労働者が拷問などを受け弾圧(殺害)され、総計419人が死亡した。

連合国によるBC級戦犯横浜裁判では、鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑等へ減刑されている。

今年大館市の十瀬野公園墓地で中国人犠牲者の慰霊式が、日中の関係者100人以上が出席して開かれた。大館市長や父が花岡鉱山に連行された遺族代表の王敬欣さんが慰霊の言葉を述べた。

この事件、日本側の担当者が戦犯として裁かれ、そして、日中が平和条約を締結したからと言っても、それでおしまいという訳にはいかないだろう。安倍さんの戦後70年談話を控えて、この談話のあるべき内容について考える為の材料にしなければならない。

2015年7月2日木曜日

少年Aの手記出版は許してはならない

少年Aは、14歳の時に神戸市において複数の小学生を残酷な手法で殺し、その1人の遺体頭部を酒鬼薔薇聖斗という偽名での犯行声明とともに、その小学生が通っていた学校の正門に晒した事件の犯人である。元少年Aは少年院で数年間過ごした後出所し、現在32歳ということである。その元少年Aが14歳のときの犯行を題材に太田出版という会社から手記を出版し、現在ベストセラーとなり、出版社は増刷しているという。遺族はそのことで、「子供を2度殺された思いである」と語ったと言うことである。

少年Aは、法律の規定に従って少年院に入り、その後更生したと看做されて社会に出たとしても、冷酷無比な殺人犯であったことは消えない。元少年Aが、その犯罪を題材にした手記で印税を手にすることは、被害者の小学生を殺した18年後に、その遺族をも殺す行為に近い犯罪であると思う。遺族の苦しい気持は、察するにあまりある。

出所したから過去の犯罪は無くなった訳ではなく、少年Aはその犯罪の被害者とその遺族とを一生意識して生きる義務がある。それが出来るということが、更生という言葉の意味であると考える。従って、言論の自由も、その犯罪に関する部分は制限されて当然である。

刑期を終えた後とは言え、殺人犯がその犯罪を題材に手記を書き金を稼ぐことなど、社会は許してはならない。検察(或いは被害者の親族)は、その行為を遺族に対する何らかの犯罪と考え、少年Aと手記出版に協力した出版社らの刑事告訴を考えるべきだと思う。それが不可能なら、多くの法令が絡んでくるかもしれないが、そのような行為とそれに協力する者を罰する様、法改正すべきである。また、元少年Aには少なくとも経済的利益が入らないように、法曹界に居る者は遺族が民事訴訟をおこす様協力すべきであると思う。

今夜のクローズアップ現代でも、言論の自由は如何なる場合でも守られるべきであると、不可解なことを言っていたひと(森とかいう映画監督)が居た。それならば、「あの殺人は、ぞくぞくするほど刺激的であった」などと衆人の前で発言したり出版したりする自由もあるのか?本の内容を校閲する制度も機関も無い以上(補足1)、言論の自由を根拠にその出版を弁護するには、上記のような発言の自由もあると、断言できなければならない。

もしそのような自由があるのなら、少年時代に残酷な犯罪を行ない、少年院出所後に、その手記を書いて金を儲ける(或いは著名な小説家になる)という計画も成り立つかもしれない。そのような計画を冷静に実行出来る人間なら、少年院でも模範囚として暮らすことも可能だろう。何をバカなことをと言うひとは居るかもしれないが、それには”異常な才能は異常な心理状態と同居する可能性は高い”と答えておく。

日本では、禊をしたら何もかも水にながせるという考え方がある。被害者の心の傷は水で流す様には、癒されない。殺人を犯した人間は、法令に従って罪を償ったとしても、一生殺人犯であり続けるのだ。

補足: 1)”犯罪を犯した者の著書に関して”の検閲制度が無い。(7/3補足)

「乱取り」と「明治維新の過ち」

表題の中の「乱取り」は、原田伊織著「明治維新という過ち」(毎日ワンズ、2015/1)の中にあったショッキングな過去に存在した出来事を表わす単語である。広辞苑(第2版)を見ると、「乱取り」という言葉には二通りの意味がある。一つは、“柔道で各人が自由に技を出し合い練習すること”であり、「乱取り」は現在この意味で日常よく使われる。しかし、広辞苑の最初に現れるのは、“敵地に乱入して掠奪すること”という説明であり、こちらがオリジナルであることが解る。

以下、「明治維新という過ち」に書かれた「乱取り」に関する記述をまとめる。“戦国時代から安土桃山時代の戦いは、武士の指揮に従って農民が戦い、兵士の大多数は農民であった。その戦いの後で、勝った側が負けた側の村を襲い、掠奪、強姦、なぶり殺しなど倫理の欠片もない行動に出る。最も金になったのが、女子供などの人であった。掠奪された人は国内で売買されるだけでなく、薩摩などからポルトガルの黒船に載せられて、東南アジアに売られたと言う。これにはイエズス会も加担しており、豊臣秀吉がバテレン追放令を出した目的が、直接的にはこの南方への奴隷売却を怒ったからである。”

このバテレン追放令の理由は、ウィキペディアにも書かれている(https://ja.wikipedia.org/wiki/バテレン追放令)。生きるためとはいえ、凄まじい人間の姿である(注釈1)。原田伊織氏がこの話を引用したのは:”(1)所謂“明治維新”が実現したのは、薩長(特に長州)の下級武士や中間以下の者達が武士道の欠片も持ち合わせなかったため、執りうる手段の範囲が、江戸や京都での無差別テロから天皇の拉致などまで、大きく広がったからである;(2)その倫理観の無さは、下級武士達が貧しさの中で持つに至った醜悪なる本性である”、という自説の傍証の一つとして利用する為である。つまり、薩長の”維新の志士”たちがあの様なテロが出来たのは、武士道などを持ち合わせていない下級武士だからであり、その源流へと遡ると戦国時代の半農半兵的な者達による乱取りにぶつかる、と言いたいのである。

「明治維新という過ち」は、幕末から明治維新に関して、あのような残酷騒動(薩長の京や江戸でのテロリズムや戊辰戦争)は不要であったという視点で書かれている(注釈2)。また、半藤一利氏の本「幕末史(新潮文庫、2012/11)でも、第二次長州征伐から戊辰の役は不必要な戦闘であった可能性を示唆している(第6章、4番目のセクション、“開国が日本の国策となった日”(p217〜225))。

最終的には革命「明治維新」に至る“騒動”が、元々ペリー来航から始まった”諸外国とどう付き合うか”という問題が出発点である。幕府の外交能力は、井上勝生著の「幕末・維新」によると、相当高かった(注釈3)。日本国であの様な騒乱になったのは、「皇統の維持」と「開国して諸外国と通商すること」が矛盾すると“生理的”に捉えた孝明天皇の攘夷に拘る姿勢が、薩摩などの外様大名、長州などの下級武士、岩倉具視などの平公家に、騒乱を起こす為の舞台を与えたことが大きな原因だろう。しかし、仮に孝明天皇が、最初から幕府を頼りにする姿勢を持ち、徳川と諸藩及び公家の協力で改革を進める案に同意したとして、また、一橋慶喜の様な知的に優れた人が14代将軍になっていたとして、近代日本の姿は世界史に出現しただろうか。

つまり、武士の特権を全て廃止するという革命なくしては、近代工業国家日本は成立しなかっただろう。また、そのような革命は中途半端なことでは不可能だったと思う。主題となっている歴史的出来事の延長上に生じた、現代文明社会の恩恵を受けている人間が、過去の一時点での歴史的出来事を記述する際に、悪の烙印を押す様な表現は適切ではないと思う。

また、薩長の行なった京や江戸でのテロリズムや守旧派の殲滅作戦が、悲惨だとして現代の感覚で批判することは、間違っていると思う。逆に、結果としての現在の高度に工業化された状態を成功とする判断を基に、安易に、明治維新のときのテロ行為を肯定したりすることも同様に間違いだと思う。つまり、歴史はその本質として評価が非常に困難であり、少なくとも後世の視点で裁く、つまり、評価するのは、全く愚かなことであるということである。例えば、“乱取り”や“切腹を行なう武士”が理解できないのなら、明治維新の時代に生きた人々の心情やミクロに見た歴史の夫々の出来事は理解出来ないだろう。

「明治維新の過ち」の著者は、そのタイトルに調和する様に、乱取りを完全な悪とし、明治維新の中で大きな働きがあった、西郷隆盛、大久保利通などの薩摩の下級武士達、長州の若い下級武士達が、その悪を継承しており、それがあのような命の浪費の原因であったかのように書いている。有用な知識を与えてくれた「明治維新の過ち」であるが、非常に感情的に幕末の倒幕運動を記述している様に思う。

幕末と明治時代に起こったことは、封建社会から絶対君主制(立憲君主制という人もいる)への革命である。勿論、数々の悲惨な出来事はあったが、結果としての犠牲者は、非常に少なかったというのが歴史家の考えだと思う。例えば、近代史の専門家である井上勝生氏の「幕末・維新」の前書きには、”地勢上、有利な位置にある日本においては、発展した伝統社会のもとで、開国が受け入れられ、ゆっくりと定着し、そうして日本の自立が守られた、というのが本書の一貫した立場である”と書かれている。 

ズブの素人であるが、私の考えを書くと、江戸幕府の解体とその時の上流階級である”武士”の廃止という至難の作業が、攘夷という時代錯誤の天皇の頑強な意志と、尊王という看板を掲げる下層階級の武士や下層の公家(平公家)達との、時として敵対があったものの(注釈4)意識しない連携で、奇跡的に最少の犠牲でなされたということになると思う。しかし、薩長政権には統一国家の旗頭に天皇を頂く以外の方法は浮かばなかった。出来上がった”万世一系の天皇之を統治す”という明治政府は、その後の大国主義(皇国史観)的国策をとる破滅への道を創ることになるが、それは孝明天皇の無謀な攘夷思想と同じ遺伝子の国家であったからである。それは、日本人民にとっては近代化の代償としての不幸な側面であったのだろう。この一般における皇国史観は、吉田松陰などに影響を与えた水戸学に源があると、”明治維新という過ち”に指摘されている。

(最終編集は7/5; 更に勉強してもう一度このテーマ"明治維新”をとり上げる予定。)

注釈:
1)人口を決めて来たのは、食料生産量であった。つまり、人口の調節は、下層民の餓死によりなされて来たのである。この事実を理解できなければ、乱取りも切腹も、そして歴史も理解できない。しかし、我々現代人には到底理解不能だろう。人口の歴史的推移:http://www.hws-kyokai.or.jp/gazo-toukei/g-1-1.jpg)。
2)前回の「明治維新とは何だったのか?」では、「明治維新という過ち」の中での、歴史に関する現在の通説が、明治時代に実権を握った長州の山形有朋らにより書き換えられたものであるという記述について、肯定的に書いている。今回の記事は、”過ちだった”という同書が行なった評価の面で幾分否定的に書いた。
3)井上勝生著「幕末・維新」(岩波、2006/11)は、近代史を専門とする歴史家が歴史の入門書として書いた本であり、解り易い良い本だと思う。幕末の外交は、その第一章でかなり詳細に解説されている。幕府の外交担当官の能力は、アメリカやロシアなどの諸外国の外交官以上だったと書かれている。
4)孝明天皇は慶喜の幕府を頼りにしたが、尊王攘夷派は倒幕派という本当の姿に変身して、孝明天皇が邪魔になった。