2015年8月31日月曜日

政治屋達の天国日本

1)豊田市と名古屋市のゴミ屋敷がテレビに話題になって久しい。そして、豊田のゴミ屋敷は先週25日(2015/8)に火事の火元となった。ここの住人は過去何度もぼや騒ぎをおこしており、この火事は普通の人には可能性の中にカウントされていた筈である。

ゴミ屋敷を放置することは行政の怠慢である。特に生ゴミを含むゴミを敷地内に乱雑に放置する豊田市のゴミ屋敷は、悪臭の問題、美観の問題などで周辺住民に多大の迷惑をかけている。苦情は市役所に何度も出されているだろうから、それに市長や市議会は対応する義務があった。

強制代執行を早期に実施して、ゴミ屋敷の住民に責任を取らすだけのことである。そこで反抗的な態度をとれば、刑罰の対象とすればよい。周辺の住民が協力してゴミ整理を行なう必要等はない。ご苦労様としか言いようがない。

何故、そのようなことが出来ないのかについては、近所迷惑はお互い様という古来の日本文化の美風もあるが、もう一つは行政の怠慢である。このケースは明らかに日本文化で説明のつく範囲を越えており、行政の怠慢が第一の原因だろう。

政治環境は国際的にも国内的にも急激に変化している現代、首長はトップにたって、地方自治体の将来を担わなければならない。それは柔軟性と創造性に富み、実行力を供えた人だけになしうる仕事である。

勿論、阻害要因として国政がある。それは地方の権限で、事業も予算も決められない情況になっていることである。地方創生を霞ヶ関で行なう様では、地方の発展などあり得ない。

以上、ゴミ屋敷の火事から大きく話は移ってしまったが、健全な地方政府の育成には、中央政府の小型化、道州制などの地方分権の大幅な取り入れなどが必要であると思う。

このままでは地方政府は単なる増殖する金食い虫の巣になるだけである。それは27日に書いた、愛知県の天下りのところで書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42367524.html

2)上記、豊田のゴミ屋敷火事についての記事の続編として、地方自治体の首長のあるべき姿について政治屋になったつもりで考えてみる。

政治屋にとって、次回選挙に勝つ事が現在のあるべき姿の全てを決める。豊田市の市長もこの点では合格だろう。実際、地方自治体の首長の多くは、法的な手段をとると冷酷な印象を有権者に与えるので、次の選挙のことを考えて何もしない場合が多い。直接迷惑を被る人でも大声をあげるひとは日本には殆どいないので、無視しても反撃はないのだ。一般に、何も言わない多数は無視し、明確に反対の立場をとる少数を無くすことが、政治屋としては賢明である。

例えば、何か改革を行なおうとすると必ずそれによって利権を失う勢力の強い反対にあう。従って、何も改革などしない方がよいと政治屋は考える。

社会の動きにその地方行政が遅れてしまい、不満が高まった場合には、選挙に落ちれば良いのだ。その方針をとる方が、結局在任期間が長くなり、名誉も利益も多くなる。何故なら、日本には何もしない罪は存在しないし、在任期間の長さに応じて褒賞など社会の評価もあたえられるのだから。

大阪府の太田房江元知事が手本だ。東大卒、元中央官僚の知性がありながら、何の改革もせずに知事を二期つとめ、退職金もたっぷり貰った。橋下徹が現れたのは単に一時の不運である。その証拠にその後自民党から国会議員にもしてもらった。

それに比べて橋下は政治屋反面教師だ。府民のことを考えて、改革を行なっても、”しんどい”だけなのに。この国は本当の危機がくるまで変わりはしないのだ。

財政改革のありがたみを感じる知性などない大衆は頼りにもならないけど、怨みに思う少数は恐ろしい。 結論? 金があれば、中国人同様、カナダかオーストラリアに逃げる方がよい。

3)週刊東洋経済の8月29日号に、「日本が世界地図から消滅しないための戦略」と言う本の著者、月尾嘉男東大名誉教授、へのインタビュー記事が掲載されている。古代都市国家のカルタゴやベネチア共和国は、長期にわたって安泰で、繁栄を謳歌していたのに、地球上から消えたしまった国である。現在の日本がこれらの国に似ているというのである。

カルタゴが亡んだ原因として、1)防衛を自国の力でおこなわなかったこと、2)経済大国であったが、文化大国ではなかったこと、3)ローマの政治家(大カト)が「カルタゴ滅びるべし」と、ローマ市民間に反カルタゴの空気を醸成したこと、だそうである。

日本がカルタゴの様にならない為には、独自に防衛力を持ち、一人前の政治文化を育て、隣国に「日本滅びるべし」と言わしめないことが肝心である。防衛を自国で行なう第一歩を踏み出そうとする動きを封じるべく、政治屋としての見本とも言える野党の党首達が揃って協力する光景に、日本国民は嫌悪感を感じないのだろうか。

典型的な政治屋として、小沢一郎氏が安保法制反対の輪の中心にいる。これが元自由民主党幹事長の姿なのだ。政治屋天国日本を象徴する光景ではないだろうか。

2015年8月29日土曜日

赤川次郎さんと中日新聞の反安倍キャンペーン

今日の中日新聞19面に、木村留美の署名入りで”赤川次郎さん政治に怒る”というタイトルの記事が掲載されている。副題は、”言葉 ばかにするな”、である。

冒頭の取材概略の中で、赤川さんの言葉として「政治家にとって言葉は命。命懸けの真剣勝負であるべきなのに、、、。現政権はことばを軽んじ議論を否定する政治を行なっている」と現政権を批判している。

赤川さんは、文芸誌スバル8月号掲載の対談で安倍総理の政策を批判して、「日本語がおかしいと思いませんか。積極的平和主義って何ですか。ことばをそこまでバカにしていいのかと腹がたちますね」と発言した。

その意味についてこの取材で、赤川さんは「積極的平和主義という言葉には、“戦争”を“平和”と言い換える怖さがある。平和というのは戦争のない状態ではない。言論の自由があり、自由に行動ができて、海外と外交で問題を解決できることが平和で、戦争をしていないから平和でない。平和という言葉を良く考えないといけない」と語ったことになっている。

上記「」内の言葉は、安倍総理の言葉以上に解り難い。平和という言葉を広辞苑(第二版)で調べると、(1)平らかに和らぐこと。穏やかでかわりのないこと;(2)戦争がなくて世が安穏であること、とある。政治を語っているのだから、広辞苑の定義では、「平和とは戦争の無いおだやかな状態」である。言葉を大事にするのなら、勝手に言論の自由、行動の自由、海外との外交云々と、”平和”の意味を無遠慮に拡大するのはおかしい。これだけで、この記事は政治的プロパガンダであることが証明されたことになる。

また、「積極的平和主義という言葉には、戦争を平和と言い換える怖さがある」という言葉も殆ど日本語になっていない。政治的プロパガンダであるという読みを利用して敢えて解釈すれば、“日本国は過去に戦争を起こしたのだから、積極的になれば戦争するに違いない”という反日思想に辿り着く。

この記事は、解り難い日本語の連続である。副題、言葉 ばかにするな、の意味が解らない。言葉が、ばかにするなと喚いたということなのか? 記者なら、もっと論理的な文章を書いて欲しいものだ。次の「政治家にとって言葉は命」というのも解らない。政治家にとって命は、国民の命と財産だろう。言葉はそのためにもちいるものだ。「言葉は命」という半分宗教的な言葉を用いて、読者を催眠術にかけたいのだろう。

作家も記者も、「言葉が命」ではなかったでしょうか?
言葉を曲げてまで、このようなプロパガンダをしなければならないのかと、呆れてしまう。

2015年8月28日金曜日

平成維新、橋下氏の失敗

昨日橋下氏と松井氏が維新を離党し、平成維新の火は消えた。国会にのこるのは、燃えカスだけである。

明治維新が薩長の下級武士によってなされたことに、橋下氏はもう少し学ぶべきだった。途中から”将来の攘夷”を言いだした慶喜により政権を乗っ取られ、一桑会が政権中央を抑えた様に、江田氏や松野氏という本質的に保守の勢力(何もしない勢力)に乗っ取られてしまった。

これをひっくり返すのは、もはや平成の時代には無理である。市民運動として展開しなければ平成維新は成功しないと、7/7のブログに書いたが、幕末と異なって十分食っていける社会の中には、そのような市民のエネルギーはなかった。

これで橋下氏は一般市民に戻るだろう。あの軽い番組に再び出演して、“しんどかった維新活動”を語るようなことになれば、彼の功績は完全に消え、国政をかき混ぜただけということになるだろう。

補足:これまでに書いた維新関係のブログ記事を以下にリストする。

(8)既存政治屋に乗っ取られた維新の党(2015/7/7)
(7)政治屋に支配されるだけなら、日本維新の会(国政)は解散すべき(2015/5/22)
(6)”平成維新”の失敗: 中央と地方の相互依存体質は革命がなければ変わらないだろう (2015/5/18)
(5)大阪都構想よりも橋下を選べ (2015/5/16)
(4)維新の党の人材不足 (2015/4/4)
(3)日本維新の会が、堺市長選に敗北したことが意味するもの (2013/10/13)
(2)平成維新を諦めた橋下市長(2013/10/13)
(1)ブレインを欠く橋下市長(2012/4/14)

2015年8月27日木曜日

愛知県も天下り天国か?

今朝の中日新聞一面トップに、愛知県の元副知事ら元県職員幹部3名を対象にした県外郭3団体トップのタライ回し人事が報じられている。下の図にその概略を示した。

これらの人事は、全て“愛知県人事課に推薦”を依頼して、各機関が採用を決定したことになっている。しかし、一部公募をしているものの、完全に人事課と元副知事らの間で作ったシナリオ通りであることは、県信用保証協会を退職して愛知環状鉄道社長に就任した西村真元副知事が任期を残して退職を申出ていることで解る。

西村氏は、6月末に愛知環状鉄道社長に採用されない可能性があれば、2年の任期を残して理事長を退職する筈がない。勿論、「別にやりたいことがあって退職したが、是非お願いしますということだったので、引き受けることにした」などの言い訳は山ほど可能である。更に、「下衆の勘ぐりだ」という腹立たしい反論も可能だろう。

この種の天下りは国家公務員でも同様だろう。外郭団体への天下り人事は、長年の慣例として行なわれ、現職公務員も簿外勤務規定として十分承知している。それは日本の公務員という種族の本質であり、その点は中国の公務員と全く同じである。(補足1)

つまり、県行政は全て官僚主導で行なわれていることを意味しており、知事も同様に何も”しんどいこと”はしない存在である。そして、大村知事もその政治風土に馴染んでいることを示している。(補足2)その責任を大村知事に取らせる為に次回の県知事選挙では、共産党推薦の候補者しか選択肢がなくても、大村氏以外に投票すべきである。

この様な人事がまかり通るもう一つの原因は、日本の組織のトップは何もしない制服のワッペンのような存在だからである。私企業ではトップに存在感が無い場合、巨大企業でもグローバル競争に勝ち残れず、その将来は危ういだろう。アップルの前CEOのジョブズ氏や日産を建て直したゴーン氏のようなトップなら(補足3)、高給を支払う値打ちがあるだろうが、上図のトップに要求されるのは何かの会での挨拶の能力くらいだろう。

中央であれ地方であれ、小さな政府が望ましいのは、行政府は共産主義社会のように能率が低いからである。その理由の一つが、その中にこのような何もしない高給取りが大勢巣食うことである。

補足:

1)”ワイルド・スワンズ”に、中国で公務員が一人でると、そのコネで一族が潤うという記述がある。
2)大阪市長になった橋下徹氏は、それまで高かった市バスの運転手の給与を阪急バスなどの民間バスの運転手並に下げた。このような”しんどい仕事”をして始めて、意味のあるトップなのだ。
3)創業者代表としてスティーブ・ジョブズ氏をあげましたが、他にも有名なビルゲイツ、google、インテル、facebookの創業者など偉大な創業者は米国に多数います。中国のジャック・マー、日本の孫正義氏、柳井正氏なども、ビッグな現代の創業者です。カルロスゴーン氏をあげたのは、経営建て直しには特別なリーダーシップが必要だと思ったからです。

2015年8月26日水曜日

オジギソウ、その2

今日、大きくなったオジギソウを使って、1)光の感知能力の確認と、2)葉の開閉と枝の角度の変化(おじぎ)が独立していることの確認を行なった。

1)オジギソウは昼でも暗闇の中に入れると、30分くらいで相当葉を閉じる。そして、明るいところに出すと、20分くらいで葉を開く。つまり、24時間サイクルのリズムの一つとして葉を閉じたり開いたりしているのではなく、実際に光を感知して葉の開閉を行なっている。 時間が相当かかることから、光の感知は光合成で行なっているのだろう。

2)下の写真は、枝に触ることでお辞儀をする実験の結果である。矢印で示した枝の真ん中ほどに下の方から触ると、枝全体が下の方向に折れる様に動く。葉の方は直接触る場合にくらべてあまり閉じない(補足1)。つまり、葉が閉じることと枝の角度が変わることは、同時に起こる訳ではない様だ。

3)10日程前のことだが、猛暑で直射日光が鉢全体に当たったまま、放置したことがある。その時、オジギソウは葉を半分程度閉じて、見るからに元気が無くなった様子だった。触っても、葉を閉じたり枝を下げたりしなくなっていた。急いで水を与え、鉢を日陰に移すことで、次の日には元気を取り戻させること出来た。 補足: 1)触り方については上下に触った。擦る様に触っても効果がないので、枝の付け根の部分で力を検知し、お辞儀する。圧力の検知に関するまとめは以下の図に示す。(27日午前追加)

曖昧語の罪;苛めは犯罪では?

曖昧語の罪;苛めは犯罪では?

1)何度も似た様な話を書くことになるが、苛め自殺のニュースに接すると、そして、その対策が全くなされていないことを知ると、書かざるを得ない。直近のものは今年(2015)7月12日に書いている。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2015/07/blog-post_12.html 殆どの場合、苛めの中身として暴行罪や強要罪といった刑法犯罪を含む。学校には治外法権が認められていないのに、
学校の教諭連中は何をしているのか? 逮捕権も物理的・法的力もないのだから、暴行の事実を知ったら、警察に通報すべきなのだ。
警察は何をしているのか? 暴行の噂でも聞いたら、学校であれ何処であれ、国内であれば、暴行や強要を犯した者を逮捕すべきなのだ。

日本の警察は被害者の声などに耳を傾けてはいない。まるで政治家のような態度で、非難を受けないように考えて動いている。耳を傾けるのは、”民意”であるが、それは国民の意志と言うよりマスコミの意志である。マスコミが唯一声を持つ存在であり、一般国民が呻こうが喚こうが聞こえはしないのだ。マスコミが作りだす教育や学問の自由などという言葉に警察は弱く、出来るなら、(バカな)マスコミの攻撃を受けたくないのである。

国会議員は何をしているのか? 子供達の成長が早くなったのなら、逮捕可能年齢も例えば12歳に下げるべきではないのか?選挙権を18歳以下にまで下げるのは、過去の時代よりも子供達が心身ともに成長が早いと考えたからではないのか? 単に憲法9条改正が可能な様に右翼的(ネトウヨ)になった若者を取り込みたいだけなのか?

2)この様な現象の背景には、山本七平氏が言う様に、日本語が論理的な言語でないことがある。悪知恵のあるものは、その曖昧な言葉を利用し、ナイーブな者はその曖昧な言葉にだまされるのである。“苛め”という遊びなのかふざけなのか暴力なのか解らないことばを使うことで、教員も警察もマスコミも火中の栗を拾いたくないのだ。

日本語にはこのような曖昧後がたくさんある。政治家が使うことばの中には、遺憾、慚愧、禍根、痛恨、痛痒だとかの怪気な漢語表現がたくさんある。お隣の国でも同様である。先日の緊迫した会議では、地雷爆発の件に関して北朝鮮が遺憾を表明し、韓国側は遺憾=謝罪として国民に解説できるということで和解が成立した。本物の和解でないので、同じ様なことを繰り返すだろう。

曖昧語の罪は、本当の会話が成立しないことである。話をしないことが喧嘩をしないコツであるという夫婦は世の中に多いかもしれない。もっと良い知恵を差し上げるならば、奥様が旦那様に何かを“詫びたことにしたい”ときには、“遺憾でございます”と言えばよいのだ。

2015年8月23日日曜日

基本的人権は社会から受ける特権である:性犯罪にはミーガン法で対処すべき

高槻市での悲惨な殺人死体遺棄事件の捜査が、新しい段階に進んでいる。犯人が逮捕され、あの残忍な事件が性犯罪であったことが明らかになりつつある。過去に、殺人にまでは至らなかったものの同様の犯罪歴があり、出所した後の犯行だったのようだ。

米国にはミーガン法というのがあり、性犯罪者は生涯社会に完全復帰させないという方針をたてている州が多い。日本には、このような部分的に基本的人権を制限するような手段はない。今回の様な悲惨な事件を出来るだけ減らす様に、急ぎ立法すべきである。

過去何度もこの種の犯罪が起こるたびに、上記法整備が議論されてきたが、なかなかそのような条例も法律も出来ない。その理由であるが、日本では基本的人権という言葉が或る種の宗教的意味を持つからではないだろうか(補足1)。

それを示す例は沢山あるが、8月の始めに日本中で非難された武藤議員のブログ記事批判のケースが解り易い。その後明らかになった未公開株云々のケースは言語道断であり明らかに司法の対象だが、それ以前に話題になったSEALDsを批判したブログの内容に何ら問題はない。(8月4日のブログ参照)

このブログ記事の批判の内容であるが、例えば、タレント物理学者の大槻義彦氏のブログの様なものが殆どである:そこでは、基本的人権はまるで宗教的教義のような様相で登場している。(補足2)

基本的人権は社会から、それを構成する人に与えられる特権である。その原則が理解されずに、この国では“基本的人権”が宗教的な意味を持つに至って居る。国家の内部での特権であるから、我々は国境を越えては基本的人権を主張できない。従って、国境をまたいで作業する人間、例えば軍人は、当然ながら戦争中に基本的人権を保持できない。武藤議員のブログはそれを言っただけである。

それで袋叩きに会うことを考えると、基本的人権はこの国では法的用語である以前に宗教用語であることになる。基本的人権は特権であるから、犯罪者はそれを失う。従って、基本的人権を一部制限する形で、性犯罪者を出所させることに何ら問題はない。

補足:

1)幾つかの基本的なルールがこの国を始め世界で認められている。基本的人権や民主主義などである。最近は環境保護も入るかもしれない。それらは、論理的に考えない人たちの間で宗教的意味も持ち始める。日本で特にその傾向が強いと思う。

2)大槻氏は以下の様に、武藤議員のブログを批判している。
“本当にこの若者、衆議院議員なのか?民主主義と基本的人権を否定して戦前の帝国憲法を擁護する。戦争に行きたくないのは当然ではないか!それを『極端な利己主義』ときめつけ、これは戦後教育のせいと断じる。それならお前は戦争に行きたいのか。『戦後教育』の失敗を言うなら武藤のような若者を作ってしまった失敗を問題にすべき。 基本的人権を否定して『日本精神』を懐かしむ。この日本精神こそ帝国憲法の精神だった。つまりこの男は現憲法を否定し、戦前の帝国憲法を賛美し、若者が戦場に行くことを願う。 それならば武藤代議士よ、即刻議員を辞職せよ。なぜならあなたは現憲法で選出され、そのもとで組閣された与党の『若手のホープ』と言われているではないか。その政治制度、統治制度を保障する現憲法を否定していては自己矛盾ではないか。
 今からでも遅くない。議員を辞職して憲法改正運動をして昔の帝国憲法にしてから、その元で堂々と当選するが良い。” 日本国憲法と大日本帝国憲法とで二者択一しか無い様な無茶苦茶な論理で武藤議員のブログを批判している。基本的人権と民主主義は論理を越える存在として登場している。つまり、宗教的教義として登場しているのだ。

2015年8月19日水曜日

民主主義の要諦

今日の中日新聞の11面に、鷲田清一氏の「デモクラシーの礎」と題する記事が掲載されていた。その内容は非常に興味深いものだったので、昨日同じ題の記事を投稿したこともあり、続編を書くことにした。

上記鷲田氏の記事は、「ドイツでは憲法(基本法)改正の際、国民投票という手段を採らない」という話の引用から始まる。それは民主主義の手続きに従って、ヒトラーを選んだ苦い経験によるという。つまり、ドイツの人たちは集団化したときの自分達(民衆)の判断を信用しないから、基本法改正の際に国民投票という手段をとらないのだというのである。

多数が何かをきっかけに制御不能の群集になるプロセスは、35年かけて研究した、エリアス・カネッティーの「群集と権力」によると、未知なものとの接触は人々を不安にさせ、それが極点にまで昂じたとき集団の中に回避する、生物としての習性によるという。それは、生物の群れ行動と同じ類いの行動である。

そこで、そのような集団的行動を避けるにはどうするかについて、鷲田氏は書いている。

「その習性を自覚することから始めなければならない。そして、“群集に見られるうわずった方向付けではなく、社会として守るべき価値とそれに基づく制度を合理的に選びとっていく、そのような議論を人々の間で辛抱強く続けるはほかない」と。

そう言う振る舞いを“公共(public)”と名付けた場合、「私達はその“公共”をお上に委ねるという習性から未だに脱し得ていない。公共は、自分達の資材や労力を提供する中でともに担い、維持すべきものとは未だなり得ていない」と続けている。

私は、このコラム記事の内容を素晴らしいと思う。そして、まったく同感である。我々が国政に意見を述べるには、それ相応の努力をして、見識を高めた上で、自分自身の意見として述べることが必要である。

前回の記事で、私は上野千鶴子さんの記事を批判した。それは、鷲田氏の書いたように、現在の我国の一般大衆は“公共”をお上に丸投げして、自分で見識を高める努力をしていない。そのような情況下で、上野さんは一方的に政治家に対して、“自分達の納得”を要求しているからである。

安倍内閣の集団的自衛権行使を可能にする安保法制は、米国との安全保障条約をより対等に近いものにしようとする、国際的には当たり前の法整備である。一方、アンケートによるとその法整備は反対多数である。この安保法制は、戦後70年間続いた安保ただ乗り政策に慣れた国民にとっては、確かに未知なるものである。そして、それからの逃避の為に集団化するのはエリアス・カネッティーの理論が予測する通りである。

結論として、我々は私的な資材や時間を使って、層の厚いパブリックな政治的空間を育て、その中で、なるべく多数の国民がこの国の過去および現在の姿と将来のあるべき姿について議論し、政治的思考力を高めるべきである。その上で、相応しいと期待できる政治家を選挙により選び、彼らに一定期間政治を委託するのが民主主義のあるべき姿である。個別の政策について国民の納得を要求するのは、ドイツの教訓に反するものだと思う。そのように考え、前回の記事では上野千鶴子氏のコラムを批判した。

2015年8月18日火曜日

「火花」(芥川賞受賞作)の感想

「火花」は、お笑い芸人の世界で格闘する、二つの漫才コンビの様子を描いている。その世界には特有の文化があるが、それは大衆社会の文化と相互作用し、大衆社会の端、格好良く言えばフロンティア(注釈1)として、その中に包含される。そのお笑いの社会の中で漫才師と漫才が産まれ、大衆社会の笑いの感覚と位相があった(注釈2)グループが売れてスターとなり、大衆の笑いと離れてしまったグループは忘れ去られていく。

主人公の徳永のコンビ(スパークス;spark=火花)と、主人公が漫才を始めて間もないときから先輩として師事してきた4歳年上の神谷のコンビは、スターにはなれなかったが、絶頂期には漫才ファンの中でかなりの知名度を持つようになる。徳永のコンビは十年後には、テレビにも出演するほどになり、その時には、両コンビの大衆社会での評価は逆転していた。しかし、徳永は漫才の才能は神谷に遠く及ばないことを知っていた。ただ、神谷は自分の追求する芸と大衆との距離を測ることに、無頓着なところがあったようである。

神谷は、漫才師は“人生そのものが漫才師である”という考え方を持っているが、徳永はそのような漫才師には最後までなれなかったし、ならなかった。漫才師を生きる神谷と、漫才師を職業とすべく生きる徳永の毎日は、読者の私には想像を遥かに越えるものであり、理解は出来ない。彼らの日常の描写は、恐らく過剰演出的なものがふくまれているのだろう。しかしお笑いの世界を一般に理解させるための誇張だと思って読み進んだ。

売れだしたものの、スターには遠く及ばないことを知った徳永の相方は、結婚して平凡な生活に戻ることに決め、徳永のコンビは解消され二人とも平均的な大衆の世界に戻る。売れだしたことが、逆に大衆社会との距離を縮め、コンビ解消に近づくきっかけになったのである。

一方、神谷は求道者のように漫才界に執着し、それが益々大衆の感覚から離反する原因になった。それは同時に、そして必然的に、人生そのものが破綻に近づくことになる。

漫才の世界もプロの世界であり、その中での物差は当然ある。しかし、プロ仲間の評判が高くても、大衆の世界で売れなければどうしようもない。プロとしてはそれ程の芸を見せなくても、笑いを得て成功者の中に入る者もいる。また、世代に特有の感覚もあり、漫才ファンが多い世代から離れたコンビは、その感覚のズレにより鮮度が落ちるように人気も落ちるだろう。そのズレを神谷の様なタイプはどうしても埋めにくいだろう。

漫才師のプロとしての技は、漫才界の文化の中で育つ。そして、大衆の中にスターを送り込むのは、漫才界全体であり、そのスターを鍛えるのは神谷の様なタイプなのだろう。主人公らが漫才界から去ることを決めた後に神谷が語ったことば、「淘汰された奴らの存在って、絶対に無駄じゃない。」は、そのことを言っていると思う。 つまり、漫才界は大衆社会の端にあって独自の文化を持つが、しかし大衆の価値(ここでは笑い)から離れては存在し得ない。

この小説の主題であるお笑いの世界についての上記のような理解は、たぶん他の社会のフロンティアにも共通してあてはまるだろう。つまり: 現在の高度に進んだ人間文化は、フロンティアの連続的拡大によって築かれた。科学、芸術、哲学、文学などに多くのフロンティアが存在し、そこには、その果実を享受した一般大衆社会からの栄誉に浴する少数の人達もいるが、大多数の人は大衆に知られることなく歴史の向こうに消えただろう。消えた人の中には、その分野の基準では、栄誉を得た人よりも優れた人も大勢いただろう(注釈3)

注釈:
1)フロンティアは英語frontierで、最先端、国境、辺境地帯、境界、未開拓分野などの意味。格好良く言えば最先端であるが、同時に辺境の意味も持つ。
2)同じものでもタイミング良くリズム良くさし出すことで、大きくうける。それを位相が合うと表現した。
3)”漫才ごときから何を大仰な”と言われるかもしれない。

2015年8月15日土曜日

安倍談話に対する村山元総理の救い難いコメント

村山元総理が、美辞麗句などあったが何に謝っているのか良くわからないと、安倍談話についての感想を述べた。「日本政府よ、お前は悪者なのだ。出所したとはいえ、何か喋るのなら過去の悪行を反省し、被害者に明確に謝罪する義務がある」といいたいのだろう。

美辞麗句など安倍談話にはない。淡々と戦争に至った背景を歴史に沿って述べ、日本が間違った点を「自らの行き詰まりを力でもって解決しようとし、新しい国際的秩序の挑戦者となった」と明確に特定している。そして、それを反省しなければならないとした上で、「中国、東南アジア、太平洋の島々で犠牲になった国々の無垢の人々の苦しみは、我国が与えたのであり、それを自覚することが戦後日本の原点である」(要約)と述べた。その内容は明解である。安倍談話に述べられている戦争の背景など村山元総理には難しくて解らなかったのだろう。

村山談話の「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」というだけでは、当時の日本政府が、国民と近隣諸国に大きな害を与えた悪者だったと言っているに過ぎない。

それでは、壮絶な戦いを行なった、多くの日本兵士達の死を、悪行への共犯行為だったと決めつけることになる。盗人にも三分の利(他に五分の利というのもある)と言うが、硫黄島や沖縄などで戦った兵士などには三分の利もないということになる。村山談話は、日本国民と旧日本軍や日本政府との完全分断を図った、戦勝国の企画・演出ではないのか。一体、何処の国の元総理大臣なのだ?

元総理なのだから、静かにしていて貰いたい。マスコミも、反対意見の報道は良いが、ただ面白ければ良いという報道は止めてもらいたい。

2015年8月14日金曜日

戦後70年談話について

エッセンス 安倍総理の戦後70年談話の内容概略及び特徴:日本があの戦争に突き進んだ原因について、西欧の植民地支配の広がりと、それに対応すべく進められた日本の主権国家構築と近代化、そして、その後の歴史の流れを俯瞰する形で、そのエッセンスを取り出した。そして、国際的に構築された平和の枠組みに力で挑戦するという愚を犯した点と、多くの無垢の民に多大な被害と苦痛を与えたことへの反省、そのような愚を繰り返さない為の今後の日本の方針とその覚悟を明確にした。

(A) 戦争の背景 世界恐慌を経てブロック経済化した世界において、日本が追いつめられたこと、そしてその行き詰まりを力の行使によって解決しようとしたと認めている。そして、満州事変、国際連盟脱退を経て、国際社会が第一次世界大戦という壮絶な犠牲の上に築こうとした、新しい国際秩序への「挑戦者」となっていったことを、「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました」と反省した。

(B) 先の戦争の反省 その上で、中国、東南アジア、太平洋の島々などにおいて犠牲になった何の罪もない人々、そして深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちに言及し、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実を認めるとともに、「それが戦後日本の原点である」としている。
「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならないと、先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国はそう誓いました」と、憲法9条の言葉を引用して、その精神を尊重することを表明している。

(C) 戦後  在留邦人や残留孤児の安全な帰国に対する、米国、豪州、欧州各国、中国の方々の協力、及び、戦後の焼け野原からの復興に対する、米国、豪州、欧州各国の援助に感謝の言葉を述べている。

(D)更に、将来の方向として  21世紀の日本人が謝罪を続けなくてよい様に、現在の世代が歴史の教訓に学ばなければならない。その為に、1)あの戦争に導いた、自らの行き詰まりを力で打開を目指す行為、2)経済のブロック化が起こらない様に、自由、公正、開かれた、国際経済システムの発展と発展途上国援助に尽くす、と覚悟を新たにしている。

 感想  以上、日本国内各層にも外国の方にも解り易い、非常に良い談話だったと思う。

日本語は真実を隠す:慰安婦という訳の判らない単語

1)日本語を母国語とする人間だが、日本語の出来の悪さにはウンザリである。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/07/iii2013.html 既に、書いて来たことだが、煩雑であり論理の展開には全く不便であり、議論に向かない。 http://island.geocities.jp/mopyesr/chieb/nihonkyo.html  従って、日本人は一定の知性を持つと無口になる傾向がある。そのため、能弁より寡黙が人徳の要件である。つまり、沈黙は金、能弁は銀なのだ。しかも、緻密でない銀は、直ぐ黒く錆びるのだ。自分の能弁に溺れて多弁となり失言・詭弁の罠にはまってしまう可能性が高いのである。

従ってこの国では、アンコウのように底にじっとしていて、獲物がくればパクッと食いつく様な人間が、高い地位に上ることになる。国内だけで全て片付くような地位なら良いが、海外に出向いての仕事では、“能弁こそ金”の国の強者に勝てる訳が無い。そして、土下座外交が日本の政治家の常となる。宮澤喜一と河野洋平の土下座外交がどれほど日本人を傷つけ、東アジアの外交関係を乱したかは、http://www.seisaku-center.net/node/191を見て欲しい。

名詞と名詞を、動詞、副詞、助動詞助詞、接続詞などでつなぐことで論理展開はなされるが、日本語ではそれが難しい。それが、原因なのか結果なのか解らないが、名詞或いは動詞に過大な荷を負わせて、文章を出来るだけ短くする。つまり、一つの名詞(又は動詞)に対して多くの意味、つまり、価値や“持つべき感情”などまで持たせてしまうのである。そのため、その名詞に対応するものの価値などが変化すると、名詞そのものを変化させなければならない(補足1)。それが、多くの使用禁止の名詞ができる理由である。

例えば、男と男性という名詞があるが、「40代の男が70代の男性を殺害した。」が正しい用法であり、その原稿を「40代の男性が70代の男を殺害した」と読むアナウンサーはNHKにはいない。日本語は文章全体の意味を始めに作って、そこに相応しい価値を含めた単語を集める必要がある。従って、上記文章を、“40代の男性が”と言ってしまった所で、失言が確定してしまう。

2)この名詞に価値まで含めてしまうという事を逆に利用する場合がこの国では多い。都合の悪いことを美しい言葉で飾ったり、貧弱なものを豪華に名付けたりするのである。

戦場売春宿に対して、戦時中の軍事政権が付けた名前が慰安所である。慰安所で働いた人に対して、慰安婦という優しい名前が付けられた。親に売られた娘達や既に売春宿にいた女性などにとって、厳しい仕事ではあったが、軍の上級将校並の給与を得ていたという。慰安婦であるから、イカガワしい仕事ではなく、危機にある国家の為に戦っている兵士を慰安する婦人という意味である。

西欧でも広く存在したhttp://kenjya.org/ianhu7.html にも拘らず、日本の場合だけナチスのホロコーストと同列におくという企みが国際的連携で行なわれているが、その緒を与えたのは慰安婦という特別な言葉である。お金を受け取っていたので、単にprostituteやそれに対応した単語で呼ぶのが普通であるが、集める方と応じる方の阿吽の呼吸でことが運ぶ様に工夫した結果の一つであると思う。勿論、世界は広く現在でも性奴隷sex slaveは存在しているだろう。戦時中日本の慰安婦は対価を貰っていたので、性奴隷ではない。この特別な名詞を作ってしまった為に、後世になって隣国の政治家や国内の売国者に利用されるのである。

その他、名詞に価値や感情を含める場合が多い。街中にある多くの店舗に外来語が用いられるのも、意味よりも感覚を重視する日本語及び日本文化の特徴故である。アウトレット、ビューティーサロン、リサイクルショップ、チケットショップ、など、何故日本語で言わないのかと思うが、美容院や古着屋では若い客が逃げるのだろう。

老人ホームにはたのしげな名前、例えば寿楽荘などが付けられるし、葬儀屋には平安会館などの名前が用いられる。分譲集合住宅にはマンション(豪邸の意味)が、マンションが平凡になった頃には、メゾンが用いられる。街中の狭い土地に建ちながら、グランドハイツとかヴィラ何何とか名付けられる。

3)結論:日本の言葉が感覚的で上記の様に極めて軽いことと、日本人が論理を展開し議論する文化にないことは、卵と鶏の関係にあると思う。西欧の誤解を招かない様に、政治や外交を職業とする人間は、論理と事実、そして国益を重視し、相手側の感情や脅しに流される事の無い様に訓練が必要かと思う。

補足:

1)動詞では、対象となる動作以外に幾つかの情報を含む。たとえば、”言う” という動詞の場合、宣う、仰る、仰せになる、述べる、話す、言う、喋る、申す、曰く語る、洩らす、口を出す、口に出す、などがある。話し手の、地位や立場、そして、話す場面と関連して、夫々異なった出番がある。(同日16:00追加)

2015年8月13日木曜日

鳩山元総理の愚かな行為

昨日鳩山元総理は、日本の植民地時代に独立運動家が投獄された、ソウルの西大門刑務所の跡地にある歴史館を訪問し、記念碑に献花の上膝まずき謝罪した(補足1)。

記念碑に献花することには、問題はないと思う。自国の独立を目指す行為は一般に評価されることであり、また、そのような外国要人の献花は慣習化しているからである。しかし、元日本国総理として土下座謝罪をする理由はない。あの様な事をして、日韓併合時に戦死したり、独立運動のトラブルに巻き込まれて死亡した日本の軍人や民間人にたいして、どう申し開きをするつもりか?何も考えずに、元総理という肩書きを持つ人は、外国でパーフォーマンスしないでほしいものだ。

此の人を総理にした、小沢一郎を始め当時民主党に所属した方々、ひとこと意見を発表すべきである。 今回の鳩山元総理の韓国における愚かな行為については、別サイトにも書いたので、これ以上は書かないでおく。

補足
1)この様な卑屈とも言える行為であるが、原理的に否定しているわけではない。政治的なパーフォーマンスなので、相手国が我国にたいして、生殺与奪の権を持っている様な場合、正しい場合もあるだろう。
(17:50 編集)

2015年8月12日水曜日

猫の駅長(タマ)が神社に祀られる:一体何のこっちゃ?

(1)和歌山電鉄貴志駅(和歌山県紀の川市)の駅長ということにして、一匹の猫(タマ)が客集めに利用された。その猫“タマ”が死亡したのがこの6月(2015年)であり、マスコミで広く報道された。例えば、文芸春秋9月号の巻頭のセクションで和歌山県知事がその業績を誉め、追悼文を書いている。そのタマが最近神社に祀られ、その神社を“たま神社”と呼ぶという。許容される冗談の域を過ぎた、愚かなことをする人々だと思う。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150810-00000093-mai-soci

そう思ってネットを検索すると、犬や猿、ウサギに亀、フクロウから伊勢エビまでを駅長と呼ぶところがあるらしい。http://www.nikkei.com/article/DGXDZO57782430W3A720C1W14001/ 日経電子版8月11日号に、このような傾向の調査結果が掲載されている。

この記事ではマスコット動物(注釈1)と呼んでいるが、辞令を貰って駅長になり、出世して社長代理になり、死んだ後には神社に祀られる猫を”西欧語マスコット”で表現するのは無理だろう。ペットとして飼われる“動物”と飼い主の“人”との距離が最近近くなり、飼われている動物をペットではなく、“伴侶動物”と呼ぶ風潮が高まっているという。動物が死ぬと人間同様葬式を営む人が最近増えているらしい。

そのような傾向に乗じて、猫に駅長の帽子を被せたら、結構人集めの効果があったので、辞表を用意して役員や社長代理に出世させた。死んだら、神社までつくるというのは、冗談にしても度が過ぎて、気が触れているレベルの話だと思う。一定数の度を超した猫好きはいるので、ある程度客は集まるだろうし、海外の人は極東で何が起こっても珍しければ喜ぶので、営業的には成功することは勿論判らんでも無い。

しかし、それは相撲などの“禁じ手”と同じだろうと思う。その成功を見て、サルや亀まで駅長にしてしまうと、海外の方もノーマルな文化を持っていない国だと思う様になるだろう。恥ずかしくないのだろうか。

この“駅長”という時の言葉の軽さは、良く言えば発想の軽妙さであり、悪く言えばこの国の言語文化の根の浅さを表わしている様に思う。駅長という言葉には相応の重みがある筈である。

(2)タマ神社の様に”禁じ手”を用いて客あつめをするのは、独創的などでさえなく、実は昔からあった。その話に入る前に、神道の変質について少し言及したい。

神道は日本文化の中心的存在であり、人々が恐れを抱く山(例えば御岳山)、海、太陽などを祭り、噴火、津波、干ばつなどの災害が人々を苦しめない様に祈る原始的な宗教である。社殿はもともと祈りをする場所であり、神を祀る場所ではなかった。従って、社殿の無い場合もオリジナルな神道では普通であった。神道には教義も聖典も無く、従って偶像崇拝も禁止していない為に、変質しやすい(注釈2)。実際、政治利用により大きく変質した。

日本列島に天皇家が進出するようになると、その英雄や天皇家の神器などを祀るようになった。現代日本人の視点では、神道は建国神話とともに、日本国をかたち作るのに役立ったと言う事になるのだろう。更に、歴史上の英雄、徳川家康や伊達政宗などを祀るようになり、“神道”は日本で大きく変質した(注釈3)。

その類いの神社が増えるに従って、参拝者を増加させるためか、怪しげなものが祀られる様になった。つまり、”禁じ手”を用いた経営立て直しの様なものである。例えば、愛知県にある田県神社のホームページのトップを飾るのは、社殿の中に祀られている大きなペニス模型である(注釈4)。子宝に恵まれるようにとか、安産祈願とかはこじつけに聞こえる。一族が今後存続します様にと願うまでは良いとしても、それ以外の安産祈願や合格祈願など自分の都合を何でも神様に願うのには、元々の神道の姿からは遠く、違和感がある。(神道をバカにしていると思う。)

田県神社から直線距離で3kMほどの場所に尾張二宮の大県神社があり、尾張開拓の祖神の大県大神を祀る。また、その娘である玉姫命も姫の宮という社に祀っている(http://www.ko-kon.net/hokan/ooagata.html 及び注釈5)。実は、この同じ玉姫命を田県神社も祀っている。田県神社が祀るもう一つの神は“御歳神”であり、これも葛木御歳神社(奈良県)という別の神社が祀っている。大県神社と葛木御歳神社は律令制下に置ける名神大社の一つである。https://ja.wikipedia.org/wiki/名神大社

田県神社は葛木御歳神社や大県神社と比較して格式に差があるところを、思いきった展示物で人気挽回を図ったのではないかと想像する。関心はあるものの、隠さねばならない性のシンボルまで祀る対象にするのは、やはり禁じ手だろう。偶像崇拝でも何でも許し、更に宗教的タブーも無い、いい加減な宗教だという印象を持たれることを危惧しないのだろうか。

あげくの果てには、客集めの猫までが社殿も鳥居もある神社の神体となってしまったのである。

注釈:

1)クロネコをマスコットにしている運送会社や、アヒルをマスコットにしている保険会社がよく知られている。この程度がマスコットであり、辞令をだして社長や社長代理にはしないだろう。

2)世界的な宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じ源を持ち、偶像崇拝をかたく禁じている。

3)神道のオリジンは朝鮮半島であると言う説がある。日本海側にある白山信仰はそれを裏付けているという。

4)田県神社のHPには、「特に大同二年(807)に編纂された古典『古語拾遺-御歳神の条-』の故事に基づいて男茎形を奉納し祈願する俗習がある」と書かれているが、何時頃始まったかについての記述はない。壱岐の郷ノ浦港近くの塞神社などにも祀られているので、動物駅長同様、特別珍しい訳ではなさそうである。

5)大県神社にも小さな社に女陰を意味する石が置かれている。何度も参内したが未だ見つけていないので、意識して探さないと見つからない。これらが何時頃から置かれたのか解らないが、これも単に客集めだろう。

(8/12;19:00改訂)

2015年8月10日月曜日

日本政府が近代史を国民から遠ざける理由

例えば、学校で近代史を教えない理由は、時間が不足するという単純な理由ではないだろう。そして近代史を国民から遠ざけていたことが、国民が過去の戦争を消化することを妨げ、70年間独自の防衛体制が出来なかった理由だと思う。

(1)70年たっても、独自の防衛体制が出来ていないのは何故か?

その理由の一つは、あの戦争があまりにも悲惨なものだったから、敗戦後国民が将にブラックアウト状態になってしまった。そして意識を回復した後も、国民は政府を信用せず、政府が自衛のために抑止力としての自衛軍が必要だといっても、その論理が国民に理解されないのである。

政府が国民の信頼を回復するには、あの戦争を国家として総括したのち、それを学校教育で教えて、あの筆舌に尽くし難い体験を国民に消化させる努力をしなければならないと思う。その努力を戦後70年間全くしてこなかったのである。

むしろ、政府は近代史にはなるべく触れないよう学校を指導してきたのではないだろうか。私はそう疑う。

(2)ある評論家の方がテレビで、当時米国大統領だったフランクリン・ルーズベルトが日本を成り上がりの大国もどきと考え、叩き潰したかったのだろうと、米国が日本を戦争に誘い込んだ理由を解説していた。

確かにあの戦争は、日露戦争勝利などで明治(薩長)政府が、そしてその中の軍部が、増長してしまったのが原因ではないだろうか。第二次大戦との関連では、張作霖爆殺事件や満鉄爆破事件など軍部の独走として理解されている。

戦争責任者の多くは、東京裁判で報復的に殺された。彼らが連合国側に裁かれる理由などないが、国内的には責任追及されるべきである。それが出来なかった事、及び、残った官僚や政治家のかなりの部分は、何らかの責任を抱えたまま戦後政府を担ったのではないだろうか。その結果、近代史に触れたくない、そして、触れさせないでおこうという空気が霞ヶ関周辺を覆ったのではないだろうか。

(3)明治憲法第1条は、“大日本帝国は天皇が統治する”とあり、第3条には、“天皇は神聖にして侵すべからず”、第11条には、“天皇は陸海空軍を統帥する”と書かれている。第3条の規定は、天皇の政治への関与はゼロ%か100%かのどちらかしかあり得ないことを示している(補足1)。前者とするために、第55条“国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず”がある。そして、「君臨すれども統治せず」というゼロ%に近い天皇の政治関与という制度を定めたのである。

明治憲法は、上記条文でも解る様に、行政(第1条と第55条)と軍事(第1条、第11~13条、第55条)が分断されている様にも見える(補足2)。そのような憲法の構成は、薩長等の武士が軍事力に重みを置いて、明治政府を運営する目的があったのではないだろうか。

権威と権力が同居せず、しかし時と場合によっては天皇の政治的軍事的意味が変化するようでは、まともな政治は不可能だと思う。新しい政治形態(明治政府)が落ち着いたところで、憲法を改正し、軍を天皇直属から各大臣の下に置くべきだったのだろう(補足3)。

近代史を徹底的に教育する場合、必然的に天皇と過去の戦争や政治の関わりが関心を呼ぶ。その結果、大日本帝国憲法の天皇に関する記述が議論される。それを嫌がる勢力も近代史を国民から遠ざける様に働いているのかもしれない。

補足:

1)神聖にして侵すべからざる天皇が、政治に手を染められる場合には、その政治は完璧なものでなければならない(=絶対王政)。衆議を経て政治を行なうなら、天皇のだされた方針が完璧でないなら、修正してもらう必要がある。それは、“神聖にして侵すべからず”に反する。

2)明治憲法第55条の規定により、各大臣の助言(輔弼)通りに統治が行なわれる。しかし、陸軍大臣、参謀総長、教育総監は陸軍三長官と呼ばれ、横並びで陸軍を動かした。https://ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国陸軍 従って、制度的にも軍は内閣に属するという関係ではなかった。

3)旧憲法下では、政治と軍事の両方にまたがる権威として、天皇が唯一の存在だったのである。明確な国家の意思が示されていたのなら、「君臨すれども統治せず」とは矛盾する。憲法は最高権力の在処が不明瞭であるという根本的欠陥を抱えていたにも拘らず、歴代政府首脳は憲法改正をしなかった。明治後期から昭和前期の政治家は何を考えていたのだろうか。多分、天皇を畏れて、そのようなことが口に出せなかったのだろう。そう考えると、どうしても幾ばくかの天皇の責任が出てくるのである。

2015年8月9日日曜日

非核三原則の嘘と核戦略

1)広島に原発が落とされて70年になる6日、記念式典での安倍総理の挨拶の中に、非核3原則が無かったとして問題視された。安倍総理は、長崎での挨拶には明確に言及すると約束した。

非核三原則は、佐藤総理が沖縄返還の際に米軍に対して核兵器の持ち込みを了承するという密約をしながら、国内に向けて表明したものである。6日のブログに書いた様に、中国が核実験に成功した1964年、佐藤総理は日本も核武装を考えるべきとの意見を表明していたのだ。

つまり、核アレルギーの国民に配慮しながら、沖縄返還を米国から勝ち取る為には、嘘をつくしか方法がなかったのである。国民が核アレルギーを持つに至ったのは、マスコミに責任の一端がある。マスコミは国家と国民の間を正しく橋渡しする社会的責任がありながら、それを果たさず核アレルギーを煽った。核アレルギーは克服すべき病的症状であり、沖縄返還などの国益に寄与する政策をも阻害するのである。(注釈1)

核兵器はパキスタンから北朝鮮更に中東などに拡散し、事態は逆方向に進んでいるにも拘らず、核廃絶という空しい看板を毎年塗り直している。自分達の理想論を振りかざして運動を続け、或る種の達成感を持つのは卑怯な行為である。何故なら、現実を無視した理想論は、次善の策を妨害するからである。(注釈2)

2)元NHKワシントン特派員で米国ハドソン研究所の日高義樹氏が最近出版した、「日本人の知らないアジア核戦争の危機」によると、北朝鮮は核兵器の小型化に成功し、2020年には数十発の小型核兵器を持つ見通しであるとのことである。これは、米国国防情報局(DIA)のマイケル・フリン中将という人の米国上院軍事委員会での証言である。

オバマ大統領は、核兵器削減を演出して自身のノーベル平和賞の曇りを防ぐためか、フリン中将を解雇した(60頁)。その代わり、オバマ大統領に近いクラッパー国家情報長官の「北朝鮮は核の小型化に手間取っている」という発言をとりあげた。

佐々江駐米大使は、後者の大統領直属の情報のみを受け取り(国防総省の情報を無視して)、日高氏に「北朝鮮が核兵器をもつことなどありえませんよ。あまりおかしなことを言わないで下さい」(忠実に再掲)と言ったと上記著書に書かれている(57頁)。

北朝鮮は自国の軍事力を宣伝する為か、核の小型化に成功していることをこの五月に表明している。つまり、クラッパー国家情報長官は、オバマ大統領の希望的観測を代弁しただけであると考えて良さそうである。在米日本大使館は独自に情報を集める能力がなく、大領領側の考えをそのまま信じる様では、日本外交の将来が心配である。

3)9日のサンデーモーニングで、司会者の関口氏は「日本でも核兵器を持つべきという人が居るのですよ」と、日本も核兵器を保持すべきと考える人を、天然記念物のような”極少数の奇人の類い”と決めつけた。「そんな人はこの長崎の惨状を知っているのでしょうか」「知らないと思います」という対話が、引き続き番組参加者の間でかわされた。まともなことを言っているつもりだろうが、世界的標準では、自分達が”天然記念物的”であることに気が付いていないようである。

続いて放送では、カーネギー国際平和財団の誰かが将来核兵器を持つ可能性のある国として、中東の国々の他に韓国や日本をあげていた。日本の場合、尖閣諸島などで緊張が高まっているのが、その動機であるとその人は分析している。世界の国際関係の分析者はそう考えているのにも拘らず、関口氏や岸井氏は自分達の核アレルギー発作を警戒してか(注釈3)、そのまま受け取ることを拒否しているだけなのである。

マスコミは、世界の政治状況とその変化をしっかりと捉えて事実を曲解無く報道し、その中で日本がとるべき道を考える為の材料を国民に提供すべきである。それがマスコミの社会的責務であると思うが、日本では核アレルギーであることが正義であるような空気がマスコミの空間を覆っている(注釈4)。

つまり、国民は北朝鮮の核兵器の開発情報などについても、政府もマスコミも頼りに出来ないということである。政府は、内閣から外務省官僚まで(頭のてっぺんから足の先まで)、防衛問題を米国に丸投げしている。

米国が丸投げに答えてくれるなら良いが、米国は自国の利益で動く上に、米国の政治も日本の政治と同じ様に混乱が多とのことであり(引用書の144頁参照)、あてになどしてはいけない。独自の防衛努力をしなければ今後日本国は滅びた天然記念物になる可能性大であると私は思う。

注釈:

1)核アレルギーは原子力発電所の再稼働にも影響している。空中二酸化炭素削減の国際的圧力が今後増加する。太陽光発電のコスト低下を研究することも大切だが、エネルギー源の分散は安全保障上も大切である。

2)核廃絶の可能性があるとしたら、宇宙からの電磁攻撃などで保管中の核兵器を爆発させるテロ技術、或いは、サイバーテロによる核基地の発射装置乗っ取りが容易になるなど、核兵器を持つ危険性が増加した時である。

3)最初に言及した様に、このようなマスコミの対応が国民の核アレルギーを煽っているのである。

4)山本七平氏は、”日本教について”においてマスコミが喧伝する”世界の核を廃絶せよ”という様な言葉を「空体語」と呼んだ。空体語と対をなす「実体語」は、この場合、核兵器を隣国が持つなら日本も持つべきだと考える、岸信介元総理や佐藤栄作元総理の様な現実的考えである。日本教では、空体語と実体語を天秤の両端に抱え、その支点に位置するのが一般の日本人(つまり日本教信者)だと考える。政治家の現実的考えである「実体語」に対応する「空体語」を、国民に提供するのが、マスコミや野党の役割だという信仰が日本にあるのかもしれない。

2015年8月7日金曜日

屋上太陽光発電、水素での電力貯蔵、そして水素自動車のシステムはどうだろう?

今朝、まどろみながら、表題にあるような水素で電力を貯蔵するスマートハウスと水素自動車を組み合わせた、ミライのハウスを考えた。

太陽光(&風力)で発電した電力を貯める方法として、蓄電池に電気のまま貯める方法、ダムに水を汲み上げる方法(揚水発電所)、そして電気分解を行なって水素ガスとして貯蔵する方法などがある。

この中で、水素ガスにして貯蔵する方法が自動車と組み合わせる可能性を考えると有利に思える。蓄電池では大きな初期投資と減価償却が、揚水発電を利用する方法は離島などには利用出来ないという欠点がある。水素ガスでの貯蔵は、ボンベとコンプレッサーで容易に出来る。

スマートハウス構想(注釈1)では、太陽光発電で作った電力の余剰分を昼間蓄電池に貯め、夜間それを使う。これに、電気分解装置と水素貯蔵装置を取り付けて、電力貯蔵は主に水素で行なってはどうだろうか。そうすれば、コストの大きい蓄電池は小型化できる。

既に水素で発電して走る自動車(注釈2)が市販されている。この水素自動車を使えば、昼間貯蔵した水素と(夜間使わない)水素自動車で発電出来る。また、自動車の燃料も、水素ステーションなどなくても頻繁に補充できる上、車に搭載する水素タンクも大きなものが要らないだろう。

以上まとめると、水素自動車とスマートハウスを統合すれば、水素自動車の燃料補充の簡素化と水素タンクの小型化、スマートハウスの蓄電池の小型化が可能になる。そして、住宅地の電柱も不要になるのだ。

注釈:
1)例えば、ヤマダ電機がその構想を事業化している。
2)トヨタ自動車のミライである。最初、ミライには明るい未来はないと書いたことがあるが(2015/4/2)、この夢が正夢なら、それは間違いだったことになる。

2015年8月6日木曜日

原爆記念日に考えたこと:日本の今後と核兵器

今日は広島に原爆が落とされた日である。原爆により14万人の一般市民が殺された。この大量虐殺(man slaughter)は、ナチスのユダヤ人虐殺と同じ類いの犯罪である。原爆資料館にある「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文は、この人類の歴史の一頁に関する無理解、更に、この事実を隠す意図すら感じさせるものである。

この件、人類の歴史上類を見ない犯罪であるにも拘らず、また、日本がその被害者であるにも拘らず、その様な評価を口にすることを禁じる“空気が日本を支配”しているようである。その結果、核兵器への不思議な拒否反応が存続するだけでなく、「核や原子力という言葉」自体に対して、まるで祟りを恐れる様に忌避する感覚が日本人を支配している。

この日本人の核兵器アレルギー現象は西欧人には非常に不思議だろう。何故なら、それは、例えば、強盗に親族がピストルで射殺されたという理由で、その遺族がピストルアレルギーになる様な現象だからである。論理的思考が働けば、今後そのような悲劇を避けるべく、自分達はピストルを持とうというのが普通である。

昨夜のNHKのテレビ番組、クローズアップ現代でも、生存者の被害情況等の聴き取りや、被害現場と資料の保存などに話が及ぶのみで、「何の為に、原爆被害について記憶を新たにしなければならないのか?」についての言及や議論は皆無であった。原爆投下の事実とその経緯や原因・誘因などについての論理的解析は、まるで宗教的タブーの領域にある様な感じである。

核兵器は上空から投下され、巨大なエネルギーで町を破壊したこともあり、日本人の多くにとって、それを落した犯人とそれを落させた犯人が意識の外に遠ざかり、原子爆弾を悪魔の意思が臨在した存在、例えば地震や大嵐と似た感覚で把握されているのだろうと思う(注釈1)。

現実的でかなりの能力をもった政治家の反応は違っていた。1957年に岸信介総理が、そして1964年には佐藤栄作総理が(注釈2)、核武装の必要性について言及している。しかし、その後の1967年の小笠原の返還交渉に当たっての国会での論議の際、野党の反対を避け円滑に話を進める為に、佐藤総理が非核三原則を米国に主張する旨答弁した。それ以後は、表の舞台で核武装の必要性について言及した政治家は非常に少ない(注釈3)。

核兵器は21世紀の国際政治の方向を決定する(注釈4)最重要な武器である。それは、世界が再び経済的に行き詰まる時に、威力を発揮するだろう。2008年米国情報機関により発表された”グローバルトレンド2025”は、「世界人口は現在(2008)の68億人から2025年には80億人になるだろう。この人口増加の為に、食料・エネルギー資源・水資源などの獲得競争がおこり、各国のナショナリズムが強くなり、大国間の衝突や紛争に発展するかもしれない」と予測する。

“自滅するアメリカ帝国(2012,文春新書)”の中で著者の伊藤貫氏は、その頃、ナショナリズムの悪夢を再び人類は体験するかもしれないと書いている。最大の経済と軍事力を持つ国を隣国に持つ日本は、どう生き残るだろうか?そして、この問題の鍵となるのが中国が大量に持つ核兵器である。

ナショナリズムの高揚は、適性民族の非人間化をもたらしたのが、ナチスの犯罪であり原爆投下であった。そのような事態が、世界政治の多極化、人口増加、資源不足、経済低迷、ナショナリズム高揚、西欧的規範の消失(国際法など;注釈5)により、再び我々人類を襲う可能性が高いのである。問題にたいして何の対策もとれないとしたら、広島と長崎で原爆の灼熱地獄の中で死んでいった20万人以上の同胞の犠牲を全く無駄にすることになるのだ。

私は昨日一冊の本を発注した。それは日高義樹著の「日本人の知らないアジア核戦争の危機」である。その日高氏は最近もう一冊重要な本を書いている。その「アメリカが日本に昭和憲法を与えた真相」のおびには、“平和憲法は日本への報復だった”と書かれている。

伊藤貫氏の著書の中に、最も重要な核兵器の歴史における働き(或いは効果)が記されている。それは、「第一撃で破壊されない核兵器を数発持つ国は、全ての核保持国からの攻撃を避けることが出来る」という点である。つまり、50年後或いは100年後に生き残る可能性の高い国は、日本ではなく北朝鮮であるということである。

注釈

1)この言語感覚は、日本に独特であり、アニミズム的宗教が支配していることが原因であると思う。自分を取り囲む物の内巨大なもの、例えば山や海、更に大木や大河などに魂や神の臨在を感じるのである。そして、一般に日本人は言葉にも臨在意識を持つ。不幸なことを口にすると、それが実現してしまうことを恐れる。そして、『縁起でもない事を言うんじゃない!』と言って叱られた記憶が誰にでもあるだろう。その支配力は論理よりも強いのだ。

2)1963年に核兵器の独占を目指した米英ソの3国は部分的核実験防止条約を提案し、池田内閣はいち早くそれに調印したが、中国やフランスは調印しなかった。そして、1964年に中国が核実験に成功し、日本は中国からの核兵器の脅威にも晒されることになった。佐藤栄作総理の発言はこの時のものである。

3)その数少ない一人、核武装の必要性を公にしていた自民党の俊才中川昭一氏は不思議な酩酊会見の後、死亡した。孫崎亨氏(“アメリカに潰された政治家たち(小学館2012)”の著者)に何か特別な理由はあるのか、聞きたい気持ちである。

4)国際政治の方向を決定する、核兵器の最も重要な性質は、第一撃で破壊されない核兵器を数発持つ国は、全ての核保持国からの攻撃を受けないだろうという点にある。つまり、ナショナリズムの嵐の中で生き残れるのは核保持国だけかもしれない。

5)国際法は西欧の政治文化の中で出来上がった。多極化で中国など西欧以外の国がヘゲモニーを執る様になると、そのような文化と無関係な行動をとる。戦争は。クラウゼビッツの説く形ではなくなり、モリオリ族の悲劇が再び戦争の形になるかもしれない。

2015年8月4日火曜日

SEALDSに対する自民若手議員のつぶやき、何処が悪い

SEALDSの若者が国会前でデモをして、安保法案に反対している。その理由は、「戦争に行きたくないからだ」だという。それに対して自民党の若手議員の1人が、「自分が戦争に行きたくないと言う理由で反対するのは、利己的だ」とか「戦争が嫌なら、中国大使館前でデモしろ」とか、つぶやいて批判されている(Twitter)。

この若手議員は、当たり前のことを言っただけだと思う。それを問題にして騒ぎを大きくしようとしている民主党など野党の連中は、非国民と言われても仕方ないだろう。「戦う気迫と姿勢が、戦いを防ぐのだ」という理屈が野党の方々には理解できない様で、そんな方々と国会で議論する与党の議員は気の毒だ。

つまり、戦争したくないのは誰も同じ。「チベットのように中国の属国にされた方が戦うよりましだ」と自分だけで考えるのならまだしも、それをデモで訴えるのは自分勝手といわれても仕方ない。

現代は主権国家の内部だけが唯一「法の支配」が行き届いているのであり、その境界を越えれば、命の補償も基本的な人権の補償もないのだ。北朝鮮に拉致された人のことを、わすれたのか? 

日本に帰れず死亡した人もいるだろうが、その残念な心の内を想像したことがあれば、主権国家の境界を防衛する意味がわかるだろう。SEALDSの「だって、戦争に生きたくないもん」というのは、拉致被害者のことも、「だって、自分の事じゃないもん」といって片付けてしまうのと同じなのだ。

従って、その主権国家としての壁を守るためには、国民は一定の覚悟を示さなければならない。戦う覚悟なくしては、覇権国家の下で呻吟するしかなくなるのだ。韓国が未だに反日姿勢をとるのは、将に軍国主義の日本に併合されたからである。(従って、韓国の悔しさには一定の理解を示す必要がある。)

補足:
議論すべき大切な事は:1)日本の置かれた国際環境の変化はどのようなものか;2)主権国家の体裁(戦後70年間、十分な形に整える事が出来なかった)を整えるとしても、それがどの程度緊急の課題なのか、そして、どこから手をつけるべきか、だと思う。

次回の選挙しか考えていない政治屋民主党

今日磯崎総理補佐官が参議院に参考人招致され、”法的安定性など関係ない”といった今話題の件で証言を求められた。磯崎氏は、発言の主旨は”国家国民の安全を図ることの重要性を強調することだったが、極端で不適切な表現になってしまった”とその動機と伴に謝罪している。

前後の話を聴いていれば、磯崎発言の主旨は理解出来た筈である。従って、この件はここで幕をひくのが適切だろうと思うが、民主党の枝野氏は、そのような発言をする人を補佐官にした任命責任をこれから追求するという。

枝野氏は、磯崎氏が危機感を抱いた”国家国民の安全”などどうでもよいのだろう。その現状はどうなのか、もし危機的なら今後どう確保するのか、そしてその目的を考えた場合に今回の法案は適切なのか、その3点を参議院で議論するつもりはないのだろう。今後、磯崎氏の任命責任追及を続け、大切な時間を使うというのだから。

恐らく民主党の本音は、上記3点について正面から話をすると、安倍内閣の安保法案に賛成しなくてはいけなくなるので、60日の間まともな議論はしたくないのだろう。

安倍内閣が強引に安保法案を通したと印象つけて、それに反対する票をごっそり貰いたいだけなのだろう。民主党というのは、元々社会党であり、社会党の元委員長はコミンテルンのスパイであったことから解る様に、反日の人が多い政党なのだろう。国家国民の安全の話などしたくなく、何処かの主席や大統領の様に、安倍総理を如何に総理の椅子から引きずり降ろすかだけに関心があるのだろう。

日本には安保法制などには反対で、平和!平和!憲法護持!9条を守れ!とお経を唱えるのが平和への道だと信仰している有権者が女性を中心に多数(補足参照)いるのだから、議席だけを考えるなら、(日本の国益、国民の安全などに関心のない)民主党の方針は良いのかもしれない。

補足:

7/30-8/1の記事閲覧数の男女構成と年齢構成である。
(拡大図は前記事参照) 素人ながら勉強をして、法的安定性の議論を行なったのだが、その記事の閲覧はほとんど60歳以上の男性であった。詳しくは別サイトの記事参照。民主党が狙うのは、この様な議論が出来ない、「戦争反対、平和憲法を守れ」と言っていれば、平和が守れると幼稚に考える層だろう。それには、枝野氏のような総理攻撃は有効である。

2015年8月3日月曜日

女性と若者は、政治に関心がない:ブログ閲覧数から分析した結果

下図は、ここ数日の姉妹サイトブログの閲覧数の分析結果(左円グラフ)と記事の題目(右側)を表わす。左側円グラフは7月30日から8月1日までの性別(左)、年齢別(右)の夫々閲覧パーセンテージを図示したものである。

人気の無いブログなので、一週間の閲覧総数は537しかないが閲覧傾向は明確である。注目すべきは、一週間の閲覧の97.7%が男性によるものであり、82.7%が60歳以上の閲覧である。記事のほとんどは政治関係なので、上の円グラフは政治に関心のある層を明確に特定している。勿論、仕事があるので、50歳以下の閲覧が少ない可能性が考えられるが、土日と平日との間でデータに殆ど差がないので、それは否定される。

このデータだけからでは、閲覧者のほとんどが知人で、その知人が60歳以上の男性が殆どであるというケースも除外できない。そこで、一切アドレスを知らせないブログサイトをつくって、同一ではないが政治に関する題目で記事を投稿し、一ヶ月ほど閲覧数の傾向をみた。その結果は、上記傾向と全く同じである。例えば、昨日のそのサイトの閲覧数は79であり、男性100%、60歳以上が96.3%であった。ブログ記事の題目は、“米国の日本政府等の電話盗聴について”であった。

更に、パソコンやスマホへのアクセス能力の男女差、年齢差も考える必要がある。しかし、40歳以下では、60歳以上よりはアクセス能力があり、知的な層では男女差もそれほど大きくはないだろう。

つまり、日本の女性は政治に関心がないのである。更に若い人も、学業や仕事に忙しいのか、政治に関心がないのである。

以上から重要な結論が得られる。つまり、政治への男女平等参画案や、18歳まで選挙権を引き下げる案は、政治の質の向上には全く役立たないし、むしろ逆方向の影響を与えるだろうということである。

2015年8月2日日曜日

ピストル解禁に関するこの質問にどう答えますか?

1)ある年ある日、日本でも米国同様にピストルを、成人になれば持てることになったとします。そのとき、あなたの家庭でもピストルを購入しますか?

米国では多くの人がピストルを持つ。その結果、射殺事件が多く起こっている。ただ、家の主も公園を散歩するレディーもピストルを持っていることが当たり前であることが抑止力となり、命や財産を守ることが出来た人や、暴漢から人間としての尊厳を守ることが出来たレディーが、何人居たとしてもニュースにならない。(未遂事件のことではありません。念のため)

おそらく、米国でピストル保持が禁止されれば、社会は混乱する可能性が高いだろう。社会は複雑であり、警官による射殺事件も多発している国である。具体的な問題となれば、国中が議論で沸騰するだろう。

日本の場合、ピストルを解禁することは現状では間違いだと思う。何故なら、ピストルを持つ事により発生する抑止力により、助かる命や人間としての尊厳よりも、事故的に或いは安易にピストルに頼ることで失われる命の方がずっと多いと考えられるからである。

もし、両者の差が逆転するのなら、そして、その傾向が当分変わらないのなら、日本でもピストルを解禁すべきであると思う。そして、そのような場合、我が家ではピストルを購入するだろう。

2)主権国家の内部では、国家の構成員である個人の権利と義務は明確に規定され、それに反する行為は行政により告発され、司法により処罰される。

しかし、国際社会においてある国家が、他の国家にたいして”犯罪的行為”(<=国家内の個人の行為に喩えた場合)を将になそうとしていたとしても、本質的に無政府状態であるため、強力な軍事力を背景にしなければ、それを防止することも罰することも出来ない。

そして、国際社会を構成する主権国家には権利も義務もない。国際法はあるが、軍事力を含めて力を持たない国家に対しては、絶対的な権威をもつものの、軍事力を持つ国家の間では紳士協定のようなものである。

つまり、国際社会は本質的にアナーキーであると考えられる。その考え方に基づいて、一定の軍事力を持つという国家の戦略を練ることにも反対する人が大勢日本の政治家には居るが、それらの人も「国際社会は本質的にはアナーキーだとは思いませんか?」と問えば、その通りですと答えるだろう。

彼らは、本人が気付いているかいないかに関わり無く(その意思があるか無いかに関わり無く)、”反日”の政治家ということになる。属国としての地位に甘んじれば、戦争をしないことは可能である。ウイグルやチベットのような立場でも、満足して北京の為に働く人になれれば、軍備など戦争になるので持たない方が良いだろう。

3)日米安保条約の下で集団的自衛権行使の権利を持つことは、米国の下で育てられた飼い犬が、これから愈々本格的に働くための準備だと考える人も多くいるだろう。上記反日政治家の方々も同じことを言うだろう。

日本は米国の庇護の下に育った子供のような存在である。一人前になる時には、親への協力も親との確執もあるだろう。もちろん、米国のヨーロッパと日本に於ける同盟関係は、ソ連の封じ込めと同時に、ドイツと日本を封じ込める為のものであったという面がある。所謂ビンの蓋論(注釈1)である。

何処の国の対日政策であれ、色んな角度から分析すべきである。しかし、もたらした結果から評価することが現実的であり、その結果は当面の戦略を考える上で最も重要であると思う。つまり、日本は日米同盟により利益を得て来たと考えるから、上記のような見方をするのである。勿論、ビンの蓋論が米国の本音であることも考えて、次の戦略候補として別のシナリオを立案しておくべきだと思う。それが、一人前になる前の親への協力と反抗の譬え話の意味するところである。

戦後70年たった今、日本国が一人前になることを明確に意識しているのが、安倍内閣であると思う。ロシアのプーチン大統領との関係も積極的に考えていることからも、対米盲従内閣でないことは明確だと思う。ただ、一人前になっていない今、積極的平和外交の“積極的”は看板だけで良いと思う。

注釈: 1)1971年、周恩来と会談した当時米国国務長官だったキッシンジャーが、日米安保条約による日本封じ込めの意義を説明する為に用いたと言われる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンリー・キッシンジャー

2015年8月1日土曜日

法的安定性とは何か?

磯崎総理補佐官の「法的安定性などどうでも良い」発言が攻撃されている。来週国会での参考人招致が決っており、注目される。この問題については昨日のこのブログに書いたが、昨日のテレビ番組「ひるおび」でも話題になっていた。またヤフーニュースにも報道されている。それら二つの報道での、「法的安定性」の解釈が、”ちょっと違うのではないか?”と考えて、再びこの問題について書くことにした。

理系のズブの素人が、法学上の問題について書くことには相当抵抗を感じる。そこで、最初に責任はとりかねると宣言した上で、思ったところを正直に書く。

「ひるおび」で宮崎 哲弥氏が本来の「法的安定性」の定義を遠慮がちに言っていたが、おそらく解り難い話になると番組が終わってしまうという危惧から、番組担当者がごまかすことにしたのだろう。視聴者をバカにしているのだろう。

ヤフーニュースの定義(ほとんど昼おびでの定義に等しい)に関した部分を抜粋すると:

―礒崎陽輔首相補佐官が安全保障関連法案について「法的安定性は関係ない」と発言したことに野党が反発しているけど、そもそも法的安定性とは何? 
 法律の内容や解釈を安易に変えてはいけないという原則だ。法律が頻繁に改正されて「朝令暮改」になったり、勝手気ままに運用されたりすると、国民は安心して生活できず、社会も混乱する。野球の試合中にルールが変われば、選手が困るのと同じ。だから法的安定性は重要なんだ。

と書かれている。

しかしここに書かれているのは、法学の論文に置ける「法的安定性」の定義とは異なる様だ。慶応大学法学研究科の発行する“慶応法学”2014年4月号351頁に掲載された論文、“法的安定性の概念:撞着語法か冗語法か” を読むと、昨日の”ひるおび”で宮崎哲弥氏がちらっと言った様に、「法的安定性」とは法の予測可能性を意味している。論文の9頁目に以下のような記述がある。

法的安定性に関する二つの概念を区別することができる。
狭義の概念: 法的安定性は、裁判所の判決の予測可能性にある。すなわち、裁判官は包括的な規範を機械的に適用する。
広義の概念: 法的安定性は、すべての法執行機関によってなされる決定の予測可能性にある。すなわち、法創造と法適用を明確に分けるシステムに見出されるものである。

この 2 つの概念の共通点は、明らかに、法的安定性とは、古くから形式主義が思い描いてきた― あるいはむしろ夢見てきた― 法の機械的適用である、 ということてである。したがって、法的安定性は、法が前提とする規範や行為の階層性に裁判官―あるいは、より一般化して、法執行機関― が従う場合に獲得てできるかもしれない理想なのである。


つまり、法が“明確に現実の対象を、例えば、違法と合法に割り振ることが出来るかどうか”が「法的安定性」の意味である。

上記ヤフーニュースの、“法律の内容や解釈を安易に変えてはいけないと言う原則”が磯崎氏の発言と関係しているとしたら、それは”憲法解釈を変えること”だろう。もしその主旨の意見なら、それは現憲法が法的安定性に欠けるからである。非難されるべきは憲法であり、磯崎氏ではない。

一方、磯崎氏が言った法的安定性は、現在審議中の安保法案に関する法的安定性だろう。つまり、若干玉虫色の法律かもしれないが、それをあまり議論していると、日が暮れて(つまり、逼迫した国際環境の下)間に合わないと言いたいのだろうと思う。

因に、法的安定性の的であるが、これは元々助詞の「の」に当たる。中国語の“我的同志(わたくしの友だち)”の的が、日本語に輸入されたのだと思う。つまり、現在制定を審議している“法律の安定性”が多少緩くても良いではないかと磯崎氏が言っているのだと思う。法的安定性の定義がしっかりしていないと、批判の矛先がぶれてしまうのだ。

ヤフーニュースの解説文を利用すると、“法律の内容や解釈を安易に変えてはいけないという原則だ”ではなく、“解釈がころころ変化するような法律を制定してはいけない”が、正しい「法的安定性」の解釈だと思う。両方似ている様だが、前者は既にある法律を対象にしているが、後者は今後制定する法を対象にしている。つまり、全然話が違うのだ。

補足: 
1)ヤフーニュースのアドレス:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150801-00000034-jij-pol
2)慶応大学の論文サイト:http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AA1203413X-20140423-0351.pdf?file_id=91497