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2015年9月5日土曜日

沈黙の文化と言論の文化

世界には二つの文化が存在すると思う。一つは日本を含めアジアに広く存在する沈黙の文化であり、もう一つは西欧の文化に代表される言論(能弁)の文化である(注釈1)。近代文明は言論の文化の下に築かれたので、それを日本などが取り入れるには、同時に言論の文化の成果としての諸習慣もとりいれなければならない。その結果、日本等アジア諸国の文化がキメラ的構造をなし、西欧型のオープンな社会が出来難い理由の一つだと思う。

沈黙の文化と言論(能弁)の文化の差が何により出来たかは、その地域で発生した言語と深く関係すると思う。しかしその問題は難問であり、しばらくはそのままにして、その現象面を先に考える。両文化の差は、社会に於ける構成員間の利益調整の方法における差として現れる。

沈黙の文化では、利益調整が必要なケースを事前に減少させる様に、身分の上下を作る。その場合、上の者が圧倒的に有利になるが、そのままでは社会の破壊につながるので、上の者には人徳が必要だということにする。つまり、個人の内部で利益主張が正当かどうかを考えることで、トラブルの種を減少させるのである。

言論の文化では、利益主張をお互いに出し合って、その論理の正当性を双方或いは仲裁人を含めて検証する。そのプロセスの蓄積は自然と法を産みだすだろう。この場合、利益の正当性を個人の内部で深く検討するという教育や習慣が社会に根付いていないので、君主と臣民のような上下関係があれば、その君主は暴君になる可能性が大きい(注釈2)。

神のあり方も全く両文化で異なる。沈黙の文化では、開祖が深く思考して涅槃の境地に達したとしても、それを信者に伝える手段が限られる。経文があったとしても、涅槃の境地に辿り着く道案内に過ぎない。従って、信者ひとりひとりに厳しい修行と深い思考が要求される。つまり、色即是空は真理の言葉というより、真理に近づくための案内のことば(或いは標語)であると思う。

一方、言論の文化圏では、悟りを開くのは開祖であり、それは言葉で弟子や信者に伝えられる。聖典となった開祖の言葉を信じて実行することが、天国への道となる。宗教の真理は、教祖の言葉で全て伝えられるため、教祖は神に一致する。例えば、キリスト教のヨハネによる福音書冒頭には、言葉は神であったと書かれている。このような宗教が成立するにはことばが完全でなくてはならない。そして、ことばと信者の間に、偶像(仏教では阿弥陀像など普通に存在する)があってはならないと言う事になる。

しかし、言葉には限界があれば、信仰にも書かれた真理にも限界がある。そして、異なる聖典が現れ、宗教対立が起こることになる。

以上基本的な両文化の特徴を書いたが、このモデルを基に国際的問題を含めていろんな問題の本質を解析できると思う。

注釈:

1)沈黙の文化をgoogleで検索すると、日本文化を沈黙の文化と紹介する文章はたくさんある。しかし、この様な言論(又は、能弁)の文化との対比の形で議論した例は、私の検索範囲では出てこなかった。

2)自分がその利益を受ける正当性を(心の)内部で考えることが、沈黙の文化の特徴だと書いた。これは、例えば、正当性を気にする中国や日本の王朝の特徴と関係があるのではないだろうか。史記や日本書紀という歴史書は、歴史上の出来事の記憶のためではなく、その王朝の正当性を示すことを目的に書かれたという。(岡田英弘著、歴史とはなにか)
 更に、過去の歴史において、この文化の違いがアジアの大国であった中国と西欧の覇権国であった英国や米国(現在も)の覇権構造(の違い)に反映したと考えられる。今後の覇権国のあり様(日本の選択する相手国)を考えるヒントになるのではないだろうか。

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