2015年10月31日土曜日

維新の党の分裂騒ぎの本質

昨夜のBSフジの番組プライムニュースは、維新の党の分裂騒ぎについて、片山虎之助、松野頼久、小沢鋭仁の当事者3人(別々に登場)と政治評論家の伊藤惇夫の4人をゲストに招いてその本質に迫るべく議論した。

最初に登場した片山氏との議論は、代表の任期切れや政党交付金の処理、それに大量除名騒動の話が主であった。片山氏は自分たちの主張である松野氏の任期切れの根拠を説明しようとしたものの、明らかになったのは、維新の党の規約とそれに沿った運営が近代政党としての体裁を整えていなかったことである。片山氏は、この件のゴタゴタをテーブルの上に全部出す役割だったかの様な印象を残して持ち時間を終了した。

伊藤氏の発言で印象に残ったのは、この分裂騒動の裏に総理官邸の姿がちらつくと言ったことである。つまり、この騒動を仕掛けたのは総理官邸(の影)と橋下氏側であると言うのである。伊藤氏はこの時点で、評論家として番組に参加したものの、反安倍政権と反橋下維新という姿勢を明確にした様に見えた。

次に登場した松野氏との議論は、代表任期の件と大量除名の件において手続き上瑕疵があったかどうかという2点と、今後の民主党との関係を含めた残留組の活動方向についての話があった。代表任期の件では日本中代表松野で通っていると松野氏は主張していたが、今やこの件は党規約と党の慣習とを元に裁判所が判断することである。

重要な点は、松野氏が民主党と伴に野党を結集して、自民党に対決できる政党をつくることが今後の残留組の方向であると言った点である。これは維新の党の結党以来の姿勢ではない。つまり、日本維新の会と結いの党が合流してできた維新の党であるが、一旦は維新の遺伝子で統一した様に見せながら、江田氏らが自分たちの遺伝子を復活させて党を乗っ取る行動に出たのが、ドロ沼化した分裂騒動の本質である(補足1)。

そのことを明確にしたのが、3人目に登場した小沢氏である。小沢氏が、“自民党などの既存政党を超える、本当に国民の為の政党を目指すのが、維新の党の方向であった。共産党や民主党と組んで、自民党と対立する勢力をつくるというのが、本来の維新の方向ではない。”と言い、更に、名前を出しては言わなかったものの、江田氏らと合流したものの、両雄あい立たずの状況が顕在化したのが、分裂騒ぎの本質であることを明らかにした。

最後に、伊藤惇夫氏は政治評論家としてこの番組に参加した筈なのだが、そのような役割を果たしていなかった。彼は、反自民という政治屋的発想で話をしておれば、飯が食えるというタイプの人ではないだろうか。小沢鋭仁氏が、江田氏らと橋下氏らの姿勢の違いがこの騒動の本質であるという話をしている間、まともなコメントが何もできなかった。なぜなら、伊藤氏にこの件で見えているのは、総理官邸の影だけだからだろう。

補足:
1)橋下徹氏と松井一郎氏らの維新の会の考えと江田氏らの既存勢力との合流に無理があったことについては、当ブログでも7月7日の記事で書いている。 つまり、本文でも書いたが、この騒動の本質は江田氏、松野氏、柿沢氏らの政治屋的遺伝子が、「維新」の遺伝子とは基本的に異なっていることにある。

2015年10月29日木曜日

慰安婦騒動に対する無策:外務省の連中は何もしない税金ドロボーだ

日本の外務省も政府もやる気のない人たちの集まりだ。慰安婦像などを米国など海外に造られて怒ってはいるが、外に向けての諜報活動や広報活動など実効的な対策を何もしていないのではないのか。それとも、韓国の主張する通りなのか? それなら安倍総理が謝罪するべきである。

例えば「韓国が言っている、comfort womenとななんだろうか」と思って、現在世界中の一般市民の多くが、アクセスする情報源は、英語版wikipediaではないだろうか。そう思って見ていると、その冒頭には、旧日本の占領地域から慰安婦は集められ、証言によると自宅から誘拐されたり、騙されたりして、日本軍が管理する慰安所に集められたと書かれている。日本からは集められたとは書いてない。おまけに、わざわざ、人数は少ないがオランダやオーストラリアの西欧人も連れて行かれたと書かれている。

長文の解説のずっと後ろの方に、秦さんらの説も一つの反論としてあげられているが、マイナーな意見という印象をうける。つまり、何もしらない世界中の人たちが、この記事を読んで、日本が行った非人道的な行為に腹立たしく思う人が毎日増加し続けていることになる。

そのような状況で、誰が日本の主張など信じるのか? https://en.wikipedia.org/wiki/Comfort_women

このような記述をそのままにしておいて、韓国や中国を批判しても、潔くない日本という印象を世界中に広めるだけだと思う。wikipediaに対して日本の私的な団体(なければ作れば良い)が働きかけるとか、日本の例えば外務省の役人たちが、私人として直接執筆に加わるとか、やるべきである。外務省の役人たちは、国内的にはエリートのようなふりをしているが、給与相当分の働きをしていないのではないか。外交官試験を合格し、外国大使などとして破格の厚遇を国家からうけるのだから、相応の働きを公私にわたって日本のためにするのが人間として当然だろう。もちろん、外務省だけに限らない。国家の上級公務員全てに言えることである。

私も、ブログに英語でちょっと書いたりしたが、閲覧数はもちろんWikipediaとは8桁くらい違うだろう。ほとんど何の役にもたっていない。定年退職者一人では情報も作戦も限られていて無理だ。
1) http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/10/republic-of-korea-had-better-open-their.html 2) http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/09/comfort-woman-was-not-sex-slave-fake.html

正直言って、この文章を書いている時には、韓国の連中よりも日本政府の関係者に腹が立ってくる。

日本のマスコミの福沢諭吉による評価

日本のマスコミは、社会における役割を正常に果たしていない。一億玉砕を紙面に踊らせながら、戦後は論調がコロッと変わって、自分たちが神輿を担いだにもかかわらず、その主を批判するのに何のためらいも見せない。朝になれば、昨日の事は夢の中と言わんばかりに、韓国や中国に日本攻撃のネタを捏造し提供する。節操も何もない。

それは半島や台湾併合の後のことかと思えば、そうではないらしい。再度眺めた「明治維新という過ち」(原田伊織著、毎日ワンズ)の中に、福沢諭吉の次のようなことばがあった。「新聞記者は政府の飼い犬に似たり」

西南戦争の際、新政権が西郷隆盛の官位を剥奪した瞬間に、新聞各紙が西郷非難を始め、世論がそれに迎合したことを、福沢は怒って言ったセリフだという。

政治に節操を求めるのは、魚屋で野菜を呉れというようなものかもしれない。また、節操を保つ政府に命を託すことは、学者に政治をさせるようなものである。

しかし、そこにマスコミの出番があるのではないか。国民には“歴史の動きとその真実”を知る方法がないが、マスコミは現場に出かけてその正体の陰か気配を掴んで報道することが可能である。それが出来ないのなら、存在価値など何もない。

言論の自由とか、民主主義とかいうのは、日本では全く借り物である。100年暮らしても、その地が自分の故郷でないと言い張る一族のようなものだ。それはその一族に問題があるのか、それともその地に問題があるのか、どちらかである。

2015年10月28日水曜日

日本は過酷な植民地支配をしたと宣伝する韓国にどう対処すべきか

韓国朝鮮日報のネット版に、「日本植民地時代の朝鮮、生きることは地獄だった」と題して、国立劇場で上演されている舞台「切れ端」(ユ・チジン作、キム・チョルリ演出)のレビュー記事が掲載されている。 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/10/27/2015102701203.html その中で記事は、「希望などというものはまったく見えない日本植民地時代のすさまじい人生がそこにある」、と感想を書いている。

日本植民地時代と書くことで、過酷な日本の搾取を想像させ、韓国の若い人たちの反日感情を煽るのが目的だろう。そして、日本の若者にも日本は朝鮮半島で過酷な植民地支配をしたと宣伝したいのだろう。

歴史をよく知る日本人が、「日本が過酷な支配をした訳ではないはずだ」と記事の書き方を非難すれば、「日本植民地時代というのは、年代を示しただけで、日本に併合されていたこととその頃の朝鮮の地獄のような生活との関係を強調した訳ではない」というだろう。

それに、日本は朝鮮半島を植民地支配したというのは、正確ではない。大韓帝国を日本が条約に基づいて併合したのである。それは、ヨーロッパ諸国がインドシナなどを植民地支配したのとは全く違う。日本は半島にインフラ整備や大学設置などに多額の投資をしたはずだ。もちろん、その時代の大韓帝国では、生きることは地獄だったのは事実かもしれない。そのような背景があったからこそ、娘が自分の親族に慰安婦として業者に売られたりしたのだろう。

とにかく、韓国は国を挙げて、日本を「ホロコーストのドイツと同罪」の国と、歴史を捏造したいのだろう。それにより、同じような利益を得る国が複数あることを、日本はよくかんがえなければならない。

国策として、大学の一つ分くらいを、近代の韓国や中国と日本の関係を研究する機関をつくるべきだ。あるいはより適切なのは、日本の有志が寄付をして、そのような機関を支えることである。もちろん、日本が残酷なことをした事実が出てきても、それを発表すべきである。完全にオープンに、詳細を全世界にあきらかにすべきだと思う。

専門家という悲しい存在

人間の知性は本来、槍のような方向を持って発達するものだろうか? それとも、全身の肌で自分を取り巻く世界を認識して、それを知ろうとするような全方向的に発達するものなのだろうか。私は後者であると思う。なぜなら、知性も生命を維持するためのものだから、生命を脅かす可能性のある全方位に向けられる筈だからである。

しかし、専門家として大きな業績を残しても一歩外の分野に出ると、ほとんどナイーブな状態の人が多い。先月、安全保障法案に反対する運動がテレビで頻繁に報道されたが、その中に何人かのノーベル賞受賞者を見た。戦争反対という幼稚なスローガンを掲げるその人たちは、一面から見れば世界の知性であるが故に、複雑な思いを持った人も多かっただろう。

人は互いに自分の得意な分野で活躍することで、この文明社会を作った。巨大で複雑な経済構造と高度に発達した技術文明は、ダブルヘリックスの様に互いに絡みあって発展し、地球全体を覆うようになった。それを可能にしたのが夫々の分野で高度な知識を持った専門家集団である。

現在、社会の基本的単位は国家である。その社会を多くの専門的ブロックに分けたモデルを考えれば、国家全体の力を増強するには、各専門ブロックにおいて、出来るだけ高いレベルに到達することである。

国家の間は、現在も将来も基本的には野生の論理が支配する。経済面では、特にそうであるので、(繰り返しになるが)そこで生き残るためにはより高いレベルの専門家養成が必要になる。人間の頭の容量は限られているので、より高い専門的知識の達成には、知的分野を狭く区切って、より多くの専門分野への分割が必要となる。

その結果、国家は早期(幼年期)からの専門教育に向けた教育を導入することを画策するようになる。文科省がスーパーサイエンスハイスクールの指定を行い、そこでは従来の高校カリキュラムを超えた授業を行うのも、その一環である。大学が1990年代から次々に教養過程を廃止し、専門教育に集中するような姿勢を見せたのもその一つであるだろう。更に、最近のことであるが、国家は多くの大学の文系学部を縮小して、技術系に向ける様に強要している。

その社会の専門領域への分割化は、知的分野だけではなく、あらゆる分野に及ぶ。例えば、ほとんどすべてのスポーツが余技から専門的職業に変化し、その結果、スボーツの幼児教育が盛んとなった。その成果として、例えば体操などでは、人間の極限に挑戦するような、高度な技が現れるようになった。

果たしてそれで良いのだろうか?

専門家は槍を持つ方向には極めて強い。しかし、側面からの攻撃には考えられないほど弱い。そして、そのレゴブロックのように、社会に組み込まれた専門家は、果たしてその方向で自分の人生を全うして良いのだろうか? その疑問が一人一人の中で強くなれば、専門の内部崩壊を招くだろう。また、社会の専門ブロック間の信頼と連携には、広い知識を持つ人材が必要である。専門ブロック間の不協和音は、社会に矛盾を生み出す。

更にもう一つ重要な点であるが、ある独立した社会あるいは国家には、多くの上記専門のブロックの他にもう一つ、社会の各ブロックを制御し全体の動く方向をきめる“制御ブロック”が必要である。それは、人間で言えば頭脳であり、コンピューターでは中央情報処理装置(つまり、CPU)とメモリーであり、国家では政治(行政、立法、司法)である。国家と国家の競争には、主に国家のエネルギーである経済と頭脳である政治の二面がある。経済の面は、理系の高度な専門家群が必要であるが、政治の面では、高い教養とセンス、多分野に知識を持つ人間が必要であると思う(補足1)。新しい局面が突如訪れたとしても、ゼロから対応できるような想像力豊かな人材である。

専門へのブロック分けは、一つのモデルにすぎないのであり、人間も社会も本来切れ目のない連続した存在であることを常に念頭に置くべきである。教育における理系偏重は、非常に不自然であると思う。また、大学の専門教育を細かく分ける現在のあり方は、適応性の狭い人間を大量につくることになり、将来に禍根を残すような気がする。

補足:
1)政治はPoliticsという言葉が示すように、政治家には国家内や国家間の関係を多くの角度から眺める能力を要する。日本は、大学に一つも政治学部のない珍しい国であることを、政府要人は知っているのだろうか。政治学部ができて、優秀な人材が出てきたら、自分たちが失職することを恐れているのだろうか?

2015年10月27日火曜日

明治の改革は誰がやったのだ?

今年も途中からNHKの大河ドラマを見ている。吉田松蔭の妹を主人公にした明治維新のころの歴史ドラマである。それを見た成果は、幕末史を考えるきっかけになったことである。

前回の放送では、萩の乱(1876年)のころを描いていた。幕末の主人公であった筈の長州や薩摩の下級武士たちが、新政府になってから邪魔者にされ、その不満が原因の戦争であった。同じ類の西南の役は、その次の年に起こる。明治維新の功労者の第一を挙げるとすれば、不平を抱きながら死んでいった多くのこれら下級武士と彼らを率いた西郷らであり、明治政府重鎮として残った人たちではないと思う。彼らは明治維新前半の功労者である。

上記前半の経緯、薩長らの尊王攘夷から倒幕への方向転換は、尊皇攘夷が皮で倒幕が中身と考えれば簡単に理解できる。しかし、明治政府を担った人たちに、なぜ明治維新の後半部分の改革が可能であったのかが判らない。

明治政府の要人の多くは元武士でありながら、同じ武士でしかも倒幕の戦いで同士であった者たちから、徴兵令発布で仕事を奪い、そして、廃刀令で武士の誇まで取り上げるという改革が、どうしてできたのだろうか。黒船来航が1853年、大政奉還が1867年、版籍奉還が1869年、廃藩置県が1871年、徴兵令が1873年、廃刀令が1876年である。黒船来航から数えても23年で、平成になってから今日より短い。大政奉還から廃刀令まで僅か9年である。

どこか外国からの支援というか干渉というか、そういうものはなかったのか?

幕末から明治維新前半までには、歴史書に外国人はよく出てくる。フランス公使ロッシュ、イギリス公使パークス、その下にいたアーネスト・サトウ、さらにスコットランドのトーマス・グラバーなどである。しかし、戊辰戦争(1868-69)が終わったあとの大改革では、外国人があまり出て来ない。

そう思ってネットで検索すると、いろいろ出てくる。明治維新の元勲は長州人ではなくイギリス人だとか http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1286023489/ 明治維新はロスチャイルドが仕組んだとか、 http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-fc31.html 明治維新の真実(1) 「勝てば官軍・・・」結果、歴史を消し去った!、http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=301675 などである。

それらの話の中に歴史の真実があるのなら、NHKのドラマ「花燃ゆ」で難しい顔をしながら、東山紀之演じる木戸孝允が新政府としての決断をする光景は、全くの作り話ということになる。つまり、武士の情けなど露ほどもない英国人が後ろでシナリオを書いていたのなら、非常にわかりやすい。

そのような借り物の改革なら、歴史をそのように教えるべきである。独自に成し遂げた革命でないことを十分意識すれば、その後誤った道に迷い込まなかったかもしれない。ましてや、正しかったなどという強弁は出て来なかったはずであると思う。

我々の世代(ベビーブーマー)が、高校までに習った日本史の授業では、明治の改革に深く外国人が絡んでいたという話はなかった。明治の改革から120年ほど経ってもなお、薩長の下級武士が明治維新を成し遂げたという神話を信じているようでは、国際社会でいつまでたってもまともに振舞えないだろう。

補足:廃藩置県の年に、岩倉、木戸、伊藤などが外遊するというのは、指示を仰ぎに出向くのならともかく、使節という言葉通りならおかしい。日本の大学には大抵文学部史学科があるが、そこの教授連中はその疑問に答えることをしないで、何をしていたのだろうか?(10/29追加)

2015年10月24日土曜日

一億総活躍社会、GDP600兆円、マイナンバー

表題のGDP600兆円は、安倍改造内閣の新しい方針であり、いろんな方面で議論されている。2020年までに達成するなんて不可能だという意見が、嘲笑的に語られる場合が多い。しかし、何の充てもなく総理がそのようなことを言うだろうか?

長谷川豊氏(フリーアナウンサー)の記事もその一つである。 http://blogos.com/article/135811/ ここまで書くのなら、自分の案を少しくらい書いたらどうかと言いたい。知恵がないのなら、言葉をもうすこし慎むべきだろう。

私も名案があるわけではないので、紳士的な言葉でGDPの“伸びしろ”をほんのすこしだけ推測してみる。

まず、現在国民の貯蓄は国家の債務よりも多く存在し、その多くは退職している老人(貧乏人の筆者を含む)が持っている。それらを孫や子に遺産として残すという発想は古く(補足1)、更に、それを生前に行わせようと(生前贈与の減税)するのは愚策である。それらの人々の将来は暗いのだから、せめて自分たちの娯楽に、そして最後には介護サービスに派手に使えば良い。すうとすれば、かなりのGDP押上になる。

一億総活躍社会の一例として、町内会を法人化して、介護や葬儀などを相互に見るという方法が良いと思う。つまり、一人暮らしの老人も町内会が有料で面倒をみるのである。担当した人には当然給与を支払う。これには、市町村のNPO法人とその業務に詳しい人の協力がいるが、団地には知的な人も多く、かなりのところで可能ではないだろうか。そうすれば、相当大きなGDP増になる。

更に町内会法人による、食材の自宅配送や家事代行サービスなども良いかもしれない。

GDPと人口の話はよく出るが、今後の現場でのいろんな合理化で、人材確保できると思う。例えば、各種窓口業務が今後ロボットの導入や、スマホなどの利用促進:銀行業務なら所謂フィンテックhttp://www.nikkei.com/article/DGXZZO76056900T20C14A8000064/ などによって賄われ、多くの余剰人員ができる筈である。

パソコンやスマホの普及による業務合理化は当然地方行政にも及んでいる筈である。従って、行政の合理化はもっと進め、人員削減し小さな地方行政を実現するべきであると思う。もちろん、コンビニを地方行政に組み込むなどの工夫もあるだろう。

マイナンバー制の導入もGDP増加に有利である。どこの国でも租税回避行動を多くの国民は取る。マイナンバーはそれを防止することが大きな目的の一つであると思う。その課税漏れ把握のプロセスで、浮き上がってくるのが、隠れた経済活動である。

この額はどれだけあるかわからない。富士通総研の柯隆氏がテレビ番組で言っていたのだが、中国では現在発表されているGDPの確か20%程度あるということである。中国よりは遥かに少ないが、相当な額が日本でもあると思われる。もちろんこれらのすべてを表に出すことはできないだろう。みかじめ料や売春は違法行為だから、所得税をとることはできないからである(補足2)。

最後に、GDPは社会が産み出した富の総計だという考え方もあるが、人々が生きるに必要な経費の総額であるという考え方もある。後者の考え方に立てば、GDPは大きければ大きい程よいということにはならない。例えば、国民のイライラが高じて暴力事件が多発するとすれば、それは医療費や薬代、裁判費用などが増えて、GDPは増加することになる。

補足:

1)その発想は、昭和初期までの大家族制社会のもので、カビが生えている。

2)カジノを場所限定で解禁すれば、観光業と賭博行為の連結によりGDPはかなり増加するだろう。最近、政府は田舎での白タクを一部許可するらしい。要するに、便利で快適(イライラの解消も)な暮らしが可能なように、多少規律をゆるくすればGDPは増加する。

2015年10月22日木曜日

中国という厄介な国と無責任なヨーロッパ

中国は南沙諸島の岩礁を埋め立てて飛行場を作り、新しい軍事基地としつつある。中国が作ったこの人工島は、日本のシーレーン防衛上重要な海域にある。 それが自衛隊とフィリピン海軍が共同軍事演習し、且つ米軍がフィリピンに再駐留する理由である。 http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2800W_Y4A420C1EAF000/

また、今日の朝日新聞ネット版では、米軍がこの人工島の12海里以内の航行を予定しており、それは自国の領海という中国の主張を認めず、航行の自由を行動で示す狙いがあると報じている。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151022-00000010-asahi-int この動きも、今後の歴史的混乱を防止すべく、オバマ大統領が決断したものであると考えられる。

中国の拡張主義的体質は、中華思想として伝統的であり、且つ、共産党という国境の無い思想を国家の中枢に持っていることと関係している(補足1)。 抗日70周年記念式典での習近平の「中国は、歴史上一貫して他国を侵略しなかった」という挨拶は、この南沙諸島での行動を誤魔化す為の言葉である(補足2)。また、“人民解放軍”が反ファシズム戦争に勝利したかの如く、歴史を作ろうとしているが、それは中国の伝統的歴史書の書き方である(補足3)。

この中国周政権の危険な企みを防止する、日本、フィリピン、ベトナムなどと米国の行動に対して、ヨーロッパ諸国は冷淡そのものである。英国訪問中の周近平に対して英国は最高のもてなしをし、周近平も最高の表現で中国と英国の緊密な関係を演出している。南沙諸島の件などどこ吹く風である。

また、ドイツも中国との関係を緊密化している。メルケル首相はほぼ毎年中国を訪問し、その結果中国での新車自動車売り上げは日本よりはるかに多いそうである。http://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2014/07/0707.html まるで、環太平洋諸国が中国と問題を抱えていることを利用して、経済面で有利にたとうとしている様に見える。AIIB設立にも、英国やドイツは非常に協力的であった。

この経済最優先で、政治先送りの行動は、世界の政治的安定に責任をもつ欧州の態度としては卑怯なものと言えるだろう。米国の世界での地位が低下している現在、ヨーロッパ諸国はそれを幾らかでも補う態度をとるべきであるが、それと逆行するような姿勢である。

このヨーロッパのアジアに対する無関心は、そして、日本に対する冷淡な姿勢は、日本が東南アジアに親日的な国が多いという理由と同根かもしれない。

補足: 1)中国人は、どこの国に移住しても中国人であるという確固とした意識がある。また、現代中国では極度に変質しているとは言え、共産党思想は元々インターナショナルなものである。

2)抗日70周年記念式典での挨拶の中で、「70年前の今日、中国人民は14年の長きにわたる、想像を絶する艱難辛苦に満ちた闘争を経て、抗日戦争の偉大な勝利を手にした。」更に、「平和のために、中国はずっと平和発展の道を歩んでいく。中華民族は一貫して平和を愛してきた。発展がどこまで至ろうとも、中国は永遠に覇権を唱えない。永遠に領土を拡張しようとはしない」という文章があった。 http://www.sankei.com/world/news/150903/wor1509030048-n5.html 習近平が代表となって挨拶している以上、中国人民とは共産党傘下の軍人を指すはずであるが、抗日戦争に勝利したのは国民党であり、中国共産党ではない。中国より遥か南方にあり、しかもフィリピンやベトナムが領有健を主張している岩礁を埋め立てて広い島とし、そこに軍事基地を設置する行為は、明らかに領土を拡張しないとする上記挨拶文に矛盾する。

3)岡田英弘著、「歴史とはなにか」参照:司馬遷の「史記」は前漢武帝の正統性を、神話の時代から嘘でも何でも入れ込んで主張した物語である。その“歴史書”は、武帝の立場を正当化する武器とする為に作られた。 同様に、先月の抗日70周年式典での習近平の挨拶の中の歴史解釈は、中国共産党周政権の正統性を主張し、且つ、武器とするために作られたのである。

2015年10月21日水曜日

大学の改革は内閣の仕事ではない

内閣は、大学への助成金を手綱に使って、大学にくだらない介入をしている。大学はそれに答えたような形で、組織をいじくる計画書を書く。一体何が変わるというのか?

行政が大学の経営に口出しをして、社会に役立つ人間をつくろうとするのは、非常に貧弱な発想の結果である。大学には自分の力で改革して、自己責任で生き残るようにして貰えば良い。

そのために、大学への交付金は何年か先に全廃して、現在使っている交付金相当額は全額奨学金にするという案はどうだろう。当然、授業料はアメリカ並みに高額になるだろう。しかし、優秀な学生はそれを支払うだけの奨学金を手にすれば良い。

優秀な学生に恵まれず、卒業生が企業から見向きもされない様な大学は滅びれば良い。更に、大学をいじくる内閣の担当者が不要になり、予算の削減ができる。更に、交付金をチラつかせた大学への天下りもなくなる。

大学は必死になって、優秀な教官を世界中から探して採用するだろう。そして、自分の大学からの安易な採用をやめるだろう。その結果、教官の質は上昇するはずである。

大学は知の創造の場でなければならない。少なくとも後半2年間は、学生と教官が真剣な議論を講義の場でするようにならなければ、To teach is to learnにはならないし、教室は居眠りの場になるだろう。大学院では世界を相手に、実戦に参加できる能力をつけなければならないのだから、その準備を大学でするのは本来大変なはずである。

役立つ人間を作るのは、分野の再編や予算の重点的配分ではない。日本全体の学生が必死になって勉強しなければならないと思い、教官とともに努力するような雰囲気の大学をつくることである。

もちろん、上記のような学生が必死に勉強する大学にするという考え方は間違いかもしれない。ゆったりカリキュラムで、優秀な人材を育てる策を思いつく大学もあるかもしれない。要は、自由な競争を大学に持ち込んで、優秀な人材を育てた大学が生き残れば良いのだと思う。

そのような激しい競争は、過去に高校の段階であった。全く無名だった高校(例えば、京都の洛南高校)が、全国有数の進学校に変身したのである。そのような競争を大学に持ち込めば良いと思う。

高校の競争は、有名大学に入学させるための詰め込み教育だろうし、それは必ずしも最終的には良い人材を社会に送り込むことにつながったかどうかは明らかではない。しかし大学の競争は、社会で活躍できる優秀な学生を輩出するというものであるから、社会には即プラスになる筈である。

そのような優秀な大学に入学できる高校生を多数卒業させる優秀な高校は、現在の偏差値を上げる教育のスタイルを変えなければならないだろう。日本の教育環境が一変する可能性が高いと思う。

補足:上記は学問の分野などを一切考えないで、一つの考え方を”見本”として示したものです。大学補助金は全廃ではなく、現在の半分程度にすべきとか、工学と理学では教育のあり方が違うとか、いろんな意見があり得ます。

2015年10月19日月曜日

日本人の宗教感覚について

1)日本人に自分の宗教を問えば、「自分は無宗教です」と答える人が多い。しかし最近、西欧人から、「無宗教と答えるのは誤解を招きます。西欧では無宗教という言葉は人でなしと同義語ですから」と教えられ、仏教や神道を答えとして準備している人は多い。つまり、日本人の多くは骨の髄まで宗教的なので、自分が宗教を持っていることにすら気付いていないのだろう(補足1)。

上の話は、日本人と西欧人との間で、「人間から宗教を完全に剥ぎ取った時に、どのような動物があらわれるか」について、認識の違いがあることを示している。日本人は、人間から宗教を剥ぎ取ったとしても、善意とそれに裏打ちされた社会性が残っていると考えている。一方、西欧人はそうは考えていないということである。

例を挙げて更に説明する。日本人はよく、「人間というものは、他人に迷惑をかけてはならない」という風に、人間の本来の姿を定義する。その中に既に、宗教的規範が含まれているのである。この本物の人間、つまり”真人間”に対する概念として、”人非人”つまり人にあらざるヒトがある。人非人とは、人間としての本来の姿を持たないヒトを意味し、”道徳性も社会性”も剥ぎ取ったヒトの定義である。それを西欧風の感覚で表現すれば、「人から”宗教”を剥ぎ取った場合、道徳など持たない反社会的な動物になる」ということになる。

しかし、日本人は自分の宗教を感じていないのであるから、人である以上道徳性も社会性も剥ぎ取ることはできないのである。つまり、非常に深い信仰心を持った民族であるということになるのではないだろうか(補足2)。それが文化の一側面だとすれば(日本人は文化だとは考えない)、日本人は非常に稀な文化を持っている民族だということになる。日本を旅行した外国人からよく聞く感想は、「どこでも日本人は親切である」というものである。日本人は、利害関係が無い外国からの客人には、人として自然に親切にするのである。

つまり、日本人は「人間は本質として善意の存在である」と信じている。更に、「自然は人間の理解を超えた神のような存在であり、人間はその恵みと脅威の下で小さい存在として生きなければならない」が付け加えられる。それが、日本人の信じる宗教である(補足3)。

仏教の位置であるが、それは個人によりまちまちである。しかし、それは本質的に日本人固有の宗教の上に僧衣のごとく着用される宗教であると思う。日本人のキリスト教の信者も、おそらく、日本人固有の宗教からは自由ではないのではないかと想像する。

2)上で、日本人は自分の宗教を感じていないので、それだけ信仰深い民族であると結論した。しかし逆に、自分の宗教を感じるとはどういうことなのだろうか。

服を着ていると感じる人は、暑くなれば服を脱ぐだろう。 しかし、服を着ていると感じていない人は、暑くなっても服を脱ごうとはしないだろう。つまり、西欧の人々が自分の宗教を感じているということは、服を脱ぐように神を裏切る可能性を感じていることになる(補足4)。

服を脱ぐように、宗教を脱いだ人。そのような可能性のある人と、過去に日本人は出会ったことがあるのか?これから出会うとすれば、どう準備するのか? もう一度原点に戻って、この大きな問題を考えた方が良さそうである。

事後補足:日本人は善意と社会性を人という概念の中に組み込んでいる。しかし、西欧人はそれらを宗教の中の一要素に入れている。それは言語上の定義の違いと考えても良いが、定義以上のものをもっているというのが上記文章の意味である。何故なら、それら善意と社会性の前提は、宗教の違う人に出会った時には適用されないからである。(10/20/am)

補足:

1) その宗教は、山本七平氏のいう様な日本教ではない。
2) 日本人は、「人は社会性をもっているから人間と呼ばれる」と考えている。別の表現では、日本人は他人に対して善意で接するのが人間の原点であると考え、感じている。ちなみに、社会性が遺伝子レベルまで及んでいるのが、昆虫の“真社会性”と呼ばれる性質である。極端な言い方をすれば、日本人はミツバチの様に、社会性を種の本質のように信じている民族である。もちろん、その本質から外れた人も居ることは知っているので、その由来は遺伝子ではなく宗教(日本教)である。
3)神道と儒教の影響で作られたのかもしれない。
4)聖書の中に、裏切るという言葉をよくみる。宗教で裏切るとはどういうことなのかと不思議に思ったことがある。一神教とは、常に裏切りと背中あわせの宗教なのかもしれない。

2015年10月17日土曜日

沖縄県民は独立を目指すか?それとも、翁長知事を不信任とするのか、選択の時期である。

沖縄県民は隣国の助けを借りてでも独立を目指すか?それとも、翁長知事を不信任とするのか、選択の時期である。

翁長知事が国家の防衛政策に反対するかの様な行動をとっている。沖縄県民はそれを支持するのだろうか? 沖縄の基地負担が多すぎるという考えはあるだろう。それは、日本国民としての不満なのか、それとも沖縄を分離独立させてでも、基地を無くしたいというレベルの不満なのか。

翁長知事の辺野古基地建設に反対する姿勢は、既に日本国民としての不満というレベルを超えている。国連人権委員会で、基地移設を人権無視と演説する翁長知事を、どう県民はおもっているのだろうか。翁長氏は福州市名誉市民として、自分の努力を認めて欲しいという思惑があるだろうと疑う人もいるだろう。一般県民も同じ考えなのか。その態度を今や明確にすべき時に来ている。

日本国内でも、米国基地の近くに住む人たちは、沖縄の人たちと同様の不満や不平等感を持っているだろう。原発周辺の一部住民もその危険性を考えて;また、日本の工業化を支えてきた鉱山や工場の近くの住民は、公害などで大変な犠牲を強いられてきたために;更に、近くに突然高速道路などができた地域の住民たちは、騒音や空気汚染に悩んで;其々大きな不平等感を持っている(た)だろう。

他地域住民と比べてなんらかの不平等感を持つ人間は、この日本中では多数派である。しかし、その不平等感をなんとか埋め合わせるべく、当事者間での議論を通して、日本国内で解決してきたと思う。

しかし、上記のように国連にまで話を持ち込んだことを考えると、現在の沖縄県知事の基地反対の強固な意志は、既に沖縄県が日本から独立を目指す方向に進んでいることを示している。そして、基地問題の解決が目的なのか、それとも沖縄独立が目的で基地問題をそのために利用しているだけなのか、わからない状況である。

つまり、普天間基地の危険性除去という基地移転の動機が、翁長氏が知事になってから、基地周辺住民の安全確保をいわば“人質”の様にして、沖縄の基地廃止、或いは同じ意味だが反日本政府へと、県の姿勢が変わっている。そう思う根拠の一つは、辺野古基地の環境にたいする影響の過小評価が、前知事が出した埋め立て承認における「瑕疵(かし)」である(今朝のウエイク;中京テレビ)としていることである。つまり翁長知事の主張は、現在の枠組みで考えれば、普天間基地の危険性除去よりも、辺野古のサンゴなどの保護に万全を期すことが、より重要であることを前知事が見過ごしているということになるからである。

沖縄の地政学的位置から、沖縄以外に基地を移すことが困難であると国家が主張するのなら、せめて周辺住民の安全性確保のためにどこかに早急に移転するように要求することが県知事のできる範囲の最善の行政であると思う。

それに同意しかねるというのは、独立を主張する事にほかならない。そうなら、翁長知事は正面から独立を主張し、県民に訴えるべきである。もちろん、その際に政府がすんなりと認める訳がないだろう。その際は、隣国に味方を頼むのも一つの選択だとして、県民に問うたらどうか。沖縄県民は、事態はそこまで進んでいることを知るべきである。

2015年10月16日金曜日

政府は私企業に余計な要求をすべきでない。

NHK夜9時のニュースによると、安倍政権が企業の内部留保が多すぎると文句をつけている。テレビ放送された麻生副総裁の発言は、異常である。「金を溜め込んで企業は一体何をしようというのか?」というのが、私企業に対する自由主義国であるはずの財務大臣兼副総理の公的発言である。

自由主義国では、私人も私企業も経済行為は独自の判断で行なって良い。もちろん、その姿勢を私人や私企業が非難するのも自由である。しかし、政府要人が政府を代表して、あのような発言をするのは、おかしいとしか言いようがない。

もちろん、要請はありえるだろう。しかし、要請をする場合、日本語には“お願い口調”の言葉つかいが用意されている。あのように非難するような口調では要請にならない。つまり、あの口調は社会主義か共産党一党独裁国家の要人の言い方なのだ。

内部留保が350兆円あると言っても、借金も同程度以上ある。日本の代表的優良企業のトヨタ自動車でも、資本48兆円の2/3は短期及び長期負債(借金)である。成長企業として代表的なソフトバンクは総資本の80%以上が借金である。もし、金利が急上昇するような事態になれば、恐ろしいことになる。

勿論、昔から貯金を溜め込む習性の企業もあるが、それらには投資する知恵がないのである。知恵がない不利を、貯金でカバーしていると言えなくもない。知恵のある企業も国内で投資する企業は少ないのではないだろうか。国家が直接的に、内部留保を減らせという前に、企業がその気になる環境を作るにはどうしたら良いかを考えるべきである。

「このような規制を撤廃するから、このような投資チャンスがある」という様な、要請なら分かるが、「一体企業は金を溜め込んで何をしようというのか」と政府要人が脅し口調で言うのは、さっぱりわからない。

企業が投資をできないのは、更に理由があると思う。それは、国家経済の将来が読めないことである。つまり、1000兆円を超える赤字を持つ政府が運営する国家には、将来何が起こるかわからない。増税と経済収縮、あるいは、年100%を超えるようなインフレなど、異常な事態が将来発生することを恐れるのは、我々年金生活者だけではなく、企業も同じではないだろうか。一億総活躍社会というのは、「年金が将来払えないかもしれないので、年寄りも活躍してください」に聞こえる。

2015年10月15日木曜日

毎日新聞は中国の影響下にあるのだろうか?

毎日新聞がネットに配信した昨日の社説は、翁長雄志(おなが・たけし)知事による辺野古の埋め立て承認取消についての好意的解説であった。そこに、”今回のことは、安倍政権が県の主張に耳を傾けず、移設を強行しようとした結果ではないか。県の取り消し判断はやむを得ないものと考える。”と書いている。翁長知事が国の主張に耳を傾けなかった件については何も書いていない。従って、この書き方は県政は国政に優先するという、とんでもない論理に基づいている。 http://mainichi.jp/opinion/news/20151014k0000m070179000c.html 

翁長知事側は、前知事による埋め立て承認に「瑕疵(かし)があった」ことを取消理由としている。もちろん、重大な瑕疵があれば取消の根拠にはなり得る。しかし、その様な瑕疵がどこにあるのかついて、この社説は何も明確には書いていない。その代わり、「翁長氏が知事に就任して10カ月の間、安倍政権は辺野古移設計画を進めるにあたり、県の意向をくみ取ろうとする姿勢に乏しかった」と、その瑕疵と関係のないことを書いている。

更に、社説には次の様な記述がある。 ”県は、取り消しの通知書とともに、15ページにわたって理由を記した文書を政府側に提出した。「普天間が他の都道府県に移転しても、沖縄には依然として米軍や自衛隊の基地があり、抑止力が許容できない程度にまで低下することはない」など、辺野古移設への疑問が列挙されている。”

つまり、「」内の”普天間基地を県外に移設しても抑止力があまり低下しない”のに、前知事は辺野古への移設を承認したことが、瑕疵にあたると言っているのかもしれない。もしそうなら、沖縄県は内閣よりも防衛には詳しいので、国の防衛構想はまちがっていると言っていることになる。

国家の防衛は、日本国民1億3000万人の安全と国土の保全のために、内閣が責任をもってあたるべきことである。一つの県には、そのような国家の最重要課題について、政策の可否を判断する能力も資格もない。瑕疵があるのは、翁長知事の取消決定ではないのか。

毎日新聞は何を考えて、このような社説を書くのか?この件私には、福州市名誉市民の翁長知事が、中国の意向を受けて沖縄独立の道を探っているように見える。毎日新聞や朝日新聞も、同じような勢力が経営方針に影響を及ぼしていると感じる。

2015年10月14日水曜日

辺野古申請書の瑕疵はどこにあるのか?毎日新聞社説を読んで

毎日新聞がネットに配信した今日の社説に、翁長雄志(おなが・たけし)知事による辺野古の埋め立て承認取消についての解説があった。そこに、”今回のことは、安倍政権が県の主張に耳を傾けず、移設を強行しようとした結果ではないか。県の取り消し判断はやむを得ないものと考える。”と書いている。翁長知事が国の主張に耳を傾けなかった件については何も書いていない。従って、この書き方は県政は国政に優先するという、とんでもない論理に基づいている。 http://mainichi.jp/opinion/news/20151014k0000m070179000c.html 

翁長知事側は、前知事による埋め立て承認に「瑕疵(かし)があった」ことを取消理由としている。もちろん、重大な瑕疵があれば取消の根拠にはなり得る。しかし、その様な瑕疵がどこにあるのかについて、この社説は明確には書いていない。その代わり、「翁長氏が知事に就任して10カ月の間、安倍政権は辺野古移設計画を進めるにあたり、県の意向をくみ取ろうとする姿勢に乏しかった」と、その瑕疵と関係のないことを書いている。

更に、社説には次の様な記述がある。
”県は、取り消しの通知書とともに、15ページにわたって理由を記した文書を政府側に提出した。「普天間が他の都道府県に移転しても、沖縄には依然として米軍や自衛隊の基地があり、抑止力が許容できない程度にまで低下することはない」など、辺野古移設への疑問が列挙されている。”

つまり、「」内の”普天間基地を県外に移設しても抑止力があまり低下しない”のに、前知事は辺野古への移設を承認したことが、瑕疵にあたると言っているのかもしれない。つまり、沖縄県は内閣よりも防衛には詳しいので、国の防衛構想はまちがっていると言っているのかもしれない。

国家の防衛は、日本国民1億3000万人の安全を考えて、内閣が責任をもってあたる筈である。一つの県には、そのような国家の最重要課題について、政策の可否を判断する能力も資格もない。瑕疵があるのは、翁長知事の取消決定ではないのか。

毎日新聞は何を考えて、このような社説を書くのか?

2015年10月13日火曜日

教育の目的と方法:疑似体験的教育

前回、教育を情報の流れという側面から捉えて、初等中等教育と高等教育のあり方を考えた。ここでは、初等中等教育で特に重要な項目について(補足1)、その方法として”疑似体験的教育”を提案する。

教育の目的は、初等中等教育では子供たちにこの社会で生きる上での必要な一般常識とノーマルな感覚、及び職業を得て生きる特定の場所に応じた特別教育を与えることだと思う。そして、高等教育においては社会のリーダーや極めて専門的且つ高度な知的技量を要する職業に対応できるよう、知識と問題解決能力、更に創造力をつけることである。教育の目的は、紙に書けば自明のことであり、今更議論するようなことではないと思う。以下に初等中等教育において、市民として最低限の知識を如何に教育するかについて記す。

大事なことは、教育の中で重要な位置を占める、社会、常識、知識、平和、善などの言葉には、幾つかの或いは何段階かの定義があり得るということである。例えば知識といっても、言葉で表現して紙の上に一通りの表現方式で表せる部分は限られている。学生や生徒を出来るだけ正しい理解に近づけさせようと思えば、1方向からの情報移転という方式では無理であり、双方向や輪になった議論などを通さなければならない。換言すれば、最初にその知識を人類が獲得した時を”疑似体験”する様に、習得させるべきなのである。それにより、知識をそれに付随した感覚とでもいうべきものとともに習得することが可能になる。

その様な知識を得る疑似体験には、その環境である世界とその状況の想定抜きにしてありえないし、そこに登場する人間は善悪の感覚を持っているはずである。本物の知識は、そのように背景とともに習得され、それは生きた知識となる。その様な“教育”は、初等中等教育から重要な項目については行うべきだと思う。

例えば、「戦争は悪か?」という問題を疑似体験として思考させれば、戦争に対する知識や悪とは何かいう知識が同時に習得できる。更に、国家とは何か、社会とは何かという知識抜きにしては、戦争は理解できないので、「戦争は悪か?」という問題を議論して一通りの答えにたどり着く間に、社会、国家、そして市民についても、その概念とあり方が最終的には理解出来るはずである。言葉は、相互に関連して一つの世界をつくっているので、単語だけを知識として教えても、その本質にはたどり着けないのである。

善や悪、命の大切さ、などの人間に強い感情を引き起こす問題については、疑似体験的な教育はなされているだろう。しかし、その場合でも疑似体験を家庭のレベルで行うか、民族のレベルで行うか、地球規模で行うかで理解される内容が全く異なるだろう。つまり、遠近の違いを正しくとって、この世界全体を背景にとって思考しなくては、正しい理解には到着しないし、現実の問題には役に立たないだけでなく、大きな障害になる。歴史の教育においては、もちろん時間軸を広くとり、背景とその変化も正しくとりいれて、疑似体験させるべきである。日本では決定的にこの種の教育が欠けていると思う。

最近の国会周辺で起こったデモをみると、一般市民の中にもその様な思考ができる人が少ないのではないだろうか。

補足:
1)前回のブログ記事で紹介した、池上氏と佐藤氏の”教育の究極の目的について”の内容であらわれた、「良き市民」(池上氏)とか、「信頼の重要性」(佐藤氏)などは、この特に重要な概念ということになる。

良き市民を作る教育と知的エリートを育成する教育の違い

§1.
安倍内閣の政策、「教育再生」が議論されている。そして、それが間違いだらけだと言うことで「新教育論」というコーナーが文藝春秋最新号に設けられるなど、日本は今教育のあり方を問う時期にあるらしい。昨日文藝春秋最新号を買って、すこしだけ覗いてみた。

11月号240ページから始まる記事は、佐藤優氏と池上彰氏の対談をまとめたものである。その冒頭、「教育の究極の目的とは何か」で二人は以下のように発言している(要約)。
池上:私は良き納税者を育てることだと想います。さらに言えば、良き市民を育てていく。それこそが、教育の目標ではないでしょうか。
佐藤:教育の究極の目的は、「信頼の醸成」です。人間社会にはこういう悪があり、あなたも環境によっては悪人になる可能性があるということを覚えさせておき、それを前提にして、信頼の醸成の重要さを教えるのです。

二人の議論は、この後大学での教育のあり方について話が進んでいく。 後の方に有益な議論があるだろうが、今回は教育の本質について考えるので、さしあたりこの部分だけ議論の対象とする。

  最近、「膨張するドイツの衝撃」という西尾幹二さんと川口マー恵美さんの対談本を読んでいる。その中に日本とドイツの教育についての話が出ており、それが印象に残ったので一部を以下に記す。
  川口:日独では許育の目的が違っていて、日本の教育というのは新しい問題が出てきたとき、「こんな問題、どうやってとくのか解らない」ということが無いように、「あれにも対応できます、これにも対応できます」というふうになっている。ところが、ドイツの教育というのは、解らない問題がでてくることを前提にしています。「さて、それをどこからどうやって解くか」と、ゼロからの解決法を考え出させる。それが教育の目的になっています。

西尾:簡単に言うと、ドイツの教育制度はエリートにとっては有益です。しかし、エリートとそうでない大衆との落差があまりにも大きすぎる。わたくしの体験談をお話ますと、ドイツの科学関係の役人(工学部出身)と対談したことがありますが、彼らのもっている文学や哲学に関する知識は実に該博でした。そんな会話は、日本の財務省の官僚や技術系の友人などとはできません。

この二人の議論も教育を考える上での重要なヒントになると思う。以下に、池上氏と佐藤氏の議論に現れた”教育の究極の目的”と合わせてヒントとし、教育の本質とそれがどうあるべきかについて自分の考えを記す。

§2.
幼稚園から大学院までにおいて、先生と生徒(ともに一般的表現)との間で行われる対話や作業を教育という言葉で語るのが普通だが、その意味するとことは大きく変化する。そしてまた、当然変化すべきである。日本では大学院まで小学校と同じ「教育」、つまり教科分けされた各科目において、その分野の知識をつけることを主な目的として”授業”(一般的表現)を行い、生徒も親も知識を計る各種テストや資格試験に対応できるような授業を期待しているようである。(補足1)

この幼稚園から大学院までの各段階での“教育”のあるべき姿を考える。教育の大部分は情報のやり取りでなされる。そこで、教育を被教育者を中心にした情報の流れの方向で議論する。中学までは、主たる情報の流れは教師から生徒の一方向だろう。しかし、高校から大学に向かうに従って、その方向が双方向になり、大学院では学生の中から湧き出るという風に変化すべきなのである。

つまり、生徒を中心とした情報の流れが、①先生=>生徒、②先生<=>生徒(補足2)、そして③<=生徒=>という風に変わるのである。この①の段階が通常議論の対象となる教育であり、③の段階が創造である(補足3)。③の段階を終了したものは、ある問題が提示された時、それが解決できる問題かそうでないかの判別ができ、解決できる問題については、ゼロから解決できるだろう。(ドイツの教育)①の段階を完全に修了したもので、②の教育を経験した者は、良き市民となり良き納税者となるだろう。良き市民は、社会に信頼という財産を蓄積できるだろう。(池上氏、佐藤氏の定義を満たす教育)

このように中学、高校までで①のタイプの教育を修了し、大学で②のタイプの教育(講義)を受け、大学院では③のタイプの知の創造(研究)が専門分野でできる様に、教育機関がそれぞれの段階を受け持つことを意識して対応すべきである。以上から、「教育の究極の目的は何か」と言ってみても、小学校と大学では目的は異なるので一言では言えない。幼稚園から大学院までのいわゆる教育機関と呼ばれるものを通して、あえて目的を定義するとすれば、それは「社会に有用な人作り」としか言えないだろう。

つまり、池上氏と佐藤氏の「教育の究極の目的」は、もともと高校レベルまでの教育について語っているのではないだろうか。二人の議論は、そこから米国の名門大学MITでの教育の話しに移行するが、それは「教育の究極の目的」として語られた部分からははみ出ていると思う。

西尾氏と川口氏との対談の中のドイツの教育であるが、西尾氏のいうように大衆の教育レベルが低すぎるとしたら、ドイツでも小学校から大学まで、同一の「教育の究極の目的」を探し、その答えに基づいて②のタイプの教育しているのではないだろうか。つまり、川口マーン氏がドイツの教育として指摘されたような教育を小学生のころからすれば、大衆一般の教育レベルは上がらないだろう。また、日本のような問題と答えを一組にしておぼえるような教育では、優れたエリートは育たないだろう。

補足:

1)人々は教育の自由とか大学の自由とか口ではいうが、日本の大学は学生や親の上記のような要求から自由ではない。

2)ハーバード大のサンデル教授の講義の様子を見れば、大学の教育がこのようでなければならないとわかるだろう。

3)この被教育者の周りの情報ベクトル場を考えた場合、③は情報が生み出されて被教育者から流れ出ることを示している。ベクトル場的に考えれば、知識ベクトルの被教育者のところでの発散がプラスの値を持つことになる。(小学校では発散はほとんどゼロで、高校以降で輪になって議論が起こる場合は、情報場の回転が値を持つことになる。)

SEALDSのデモやユネスコを利用した国際的デモ:

SEALDSのデモやユネスコを利用した国際的デモ: 明確な意思をもった少数の隠れた結束はおそろしい

政治デモは、ある主張においてマイナーな政治勢力が自分の主張を世に問う際、街頭に出て視覚的に大衆に訴えることである。民主主義でオープンな社会である現代日本では、その様な方法で政策を国政などに反映しようとするグループは、所詮マイナーな勢力であることを十分知っており、組織的に感情に訴える方法をとる。民主主義社会の現代日本では、誰でもインターネットで自分の主張を論理的に冷静に訴えることができる。従って、街頭で行うデモの多くは国民全体の視点で見た場合、有害無益であると思う。(補足1)

インターネットで自分の考えを訴えるには、その資料を、冷静に文章を中心に作らなければならない。もちろん、動画で語りかける様に訴える方法もあるが、少なくとも訴える側とそれを受け取る側で、同じ感情が相互作用的に巨大化するという現象はない。

最近の日本のSEALSを名乗る人たちが、安倍内閣の安全保障法案を潰すために、国会前などで激しいデモを組織した。その際、「戦争をさせない」とか、「憲法9条を守れ」とかの短い標語をあげていただけで、そして、間断なく出されるシュプレヒコールは感情に訴えるだけで、当然のことながらそこには論理などない。現代のデモは、政治思想を共有するものがあつまって何かを訴える様子を、テレビを巨大なスクリーン付き拡声器として利用し、1億3000万人と3000人との間の壁を大衆の錯覚を利用して越えようとする行為である。

1億という数字は、数字に過ぎず視覚の対象ではない。3000人を目の前にすれば、その巨大な圧力は数字を圧倒する。目の前の無関心な人たちを含めた総数の人間とその3000人を無意識に比較して、国民の世論としての大きな位置をテレビで見る人の頭に誤って植え付ける。一部反日勢力は、それを利用して小さい火種を大きな火事にしようと扇ぐ。

明確な意思をもった人の隠れた結束ほど、おそろしいものはない。少数といえども、烏合の衆の中の禿鷹の様に、国家を破滅の方向に導くかもしれないのだ。全国ネットのテレビを抱き込めば、そして、新聞を支配すれば、その計画は実現する可能性が高くなる。

昨日報道された、従軍慰安婦とか南京大虐殺とかを利用してユネスコで宣伝する世界的な政治的企みも、規模が世界的という意味で新しいタイプの国際世論誘導である。世界記憶遺産に登録するというが、それは遺産ではなく、現在進行形の反日の政治活動である。世界経済の限られたパイを分配する人数を減らすために、ヨーロッパの一部勢力と中韓が結託して、ユネスコを丁度朝日新聞の様に利用しておこなわれているのだ。日本政府は、全力をあげてこの企みを失敗させなければならない。

補足:
1) 表現の自由などは当然確保しておくべきである。多くの政治デモは無益であるとの認識を持つことは、本当に我々の想像を超えたデモ、デモ以外に方法がない主張のデモを守ることにもなる。

2015年10月10日土曜日

習近平がトラとハエを叩く理由

中国の抱える問題:民主社会へのもがきの歴史 §1。冨坂聡氏の本「習近平と中国の終焉」を読んだ。それを元に自分なりに考えた中国近現代の本質について考え、まとめてみた。冨坂さんの中国を見る視点は、中国は経済だけでなく政治においても近代化を目指す努力をしてきたというものである。ところが、それらは全て失敗に終わっている。一つの体制から新しい体制へのスムースな移行は歴史が明らかにしている様に、無理な様である。

文化大革命の冬の時代が終わり、春の雰囲気が鄧小平を中心とする中国にもたらされていた。その時の総書記は胡耀邦であり、総理は趙紫陽だった。この3人の所謂トロイカ体制は、国民の支持を集めて強大な支配力を有していた。

この春の時代に民主化要求デモが学生を中心に起こったが、それは天安門事件と呼ばれる武力弾圧で抑えられた(1989年)。急激な民主化が起これは、反体制派はそれを利用しようと動き出し、政権側に大きな打撃として作用するからである。そして、春を招いた鄧小平が結局民主化の芽を摘み取ることになったのである。(補足1)

鄧小平後も同じ体制が今日まで続き、民主化は益々遠くなってしまった。保守主義は新たな挑戦が不要であるという点で、偉大な指導者を必要としない。また、保守政権が続くに従って、政治体制変換の困難さは益々大きくなる(補足2)ので、偉大な指導者が現れなければ体制の変換は試みさえ、なされないだろう。

§2。この体制にたいしてチャレンジをしたのが、薄熙来である。2007年の第17全国代表大会で、若い習近平と李克強が次期政権を担う地位につき、重慶市書記にしかなれなかった薄熙来には、政権を担う可能性はほぼなくなった(補足3)。そこで挽回を図ったのか、歴史に名を残したかったのかはわからないが、薄熙来が行ったのは重慶市での打黒である。

打黒とは黒つまりマフィア撲滅である。中国では、地方の権力者とマフィアが一体化して利益を独占する現象「警匪一家」が普遍的な問題である。その言葉が示す様に、警察と匪賊(マフィア)が一家の様な状態であり、本当の意味で撲滅するには、逮捕だけでなく裁判を異なった場所で行う必要がある。この異地裁判も一般的であり、薄熙来も徹底的にそれを行い、民衆からは将来の国家主席という期待が出てきた。

もう一つの運動は唱赤である。赤は革命歌を意味し、毛沢東礼賛の歌を唄おうという運動である。薄熙来は北京の長老たちに送ったつもりだったかもしれないが、それがネット社会の若者たちから思わぬ賛意を得て、全国に拡大し始めた。「打黒唱赤」:打黒は、格差と腐敗に満ちた現状を批判するものであり、皆が貧しく一般民衆には大きな格差がなかった毛沢東時代を懐かしむ唱赤と調和した(補足4)。ネット社会の若者は、大躍進運動や文化大革命などの大失敗と、その際の数千万人と言われる犠牲者のことなど十分知らないのである。

それを北京の次期政権を担う習近平らはどういう目でみていたかは想像に難くない。そして、薄熙来は北京の反撃で撃墜された。それを許したのは、皮肉なことに薄熙来も腐敗から遠ざかっていた訳ではなかったということである。それと対比されるのは、胡耀邦が死去した時の新聞記事に書かれた文章、「胡耀邦が自分の子供達に残した遺産で、金目のものはわずかに冷蔵庫だけだった」である。

§3 「トラ(老虎)もハエ(蒼蠅)もまとめて叩く」中国の習近平国家主席が中央紀律検査委員会の演説で言ったとされる言葉だ。その言葉がなぜ出てきたか、それは薄熙来の打黒運動を無視しては政権が大衆に受け入れられないからだろう。習近平は政権を握る側であるので、そのような捨て身の戦法を自分の信念として言い出すはずがない。というより言い出せない。なぜなら、習近平も薄熙来同様、海外とのつながりが強いトラだからである。

習近平の地位の上昇にともない、一族の利権も拡大した。そして一族の多くが外国籍を取得している。姉はカナダ国籍、弟はオーストラリア国籍、娘は在米でありグリーンカードを取得していると言われている。前妻はイグリスに逃げ、習近平夫妻だけが中国に残っている。

それらの事実が明らかにされる切っ掛けは、米國のインターネットに掲載された習近平一族の蓄財の様子を暴いた記事である。 http://www.bloomberg.com/news/articles/2012-06-29/xi-jinping-millionaire-relations-reveal-fortunes-of-elite 上記ブルームバーグの記事(2012/6/29)は、現在中国本土では見ることはできない。 “虎も蠅もまとめて叩こう”と思えば、自分の一族こそ真っ先に叩かなければならないことがこの記事でわかる。

自分たち一族も例外ではないが、高い地位にいる者のほとんど全員が同様に蓄財しているので、ネット記事を閲覧できないようにしさえすれば、自分の権力掌握までに同じ手法で誰でも失脚させることが可能で、非常に便利である。それと同時に上述のように、ネット時代の若者市民たちの間に広がった動きを逸らす為には、薄熙来の打黒運動を継承せざるを得ない。

一つの体制からスムースにもう一つの体制に移ることは、極めて困難である。幕末期の日本は、諸外国の強力な圧力と天皇という受け皿があり、奇跡的に薩長の下級武士たちにより最小限の犠牲で革命が行われた。両方ともない中国に革命が訪れるとすれば、大きく巨大化しているだけに恐ろしいシナリオしか書けないのではないだろうか。

補足:

1)その春の時代の1968年、学生による民主化要求デモが北京で起こった。清華大と北京大という二つの名門大学の学生が合流して天安門広場に向かった。このデモに対して、毅然たる態度が取れなかった胡耀邦総書記は解任され、その約二年後胡耀邦は死去した。そして葬儀の日までに、学生たちを中心に天安門へ献花に向かう人数は10万人に達した。そしてそれが、再び民主化要求デモとなり、全国に広がった。最初統制がとれていなかったが、その後デモ隊に改革派自由主義者が含まれる様になった。趙紫陽総書記は平和的解散を呼びかけたが、強硬派が大勢を占めるに至り、首都は麻痺状態になった。鄧小平は戒厳令が布告し、学生たちを武力弾圧した。

2)これは、憲法9条とそれに違反している自衛隊の共存、それを批判するだけで仕事になる野党と、ひたすら政権にしがみつく与党という日本の構図が長年変化しないのと似ている。そして国民は気づいていないだろうが、この野党も与党も一組で保守派だったのである。安倍政権は久しぶりに出てきた改革派政権であり、それに反対する民主党は従って保守派である。

3)中国共産党の人事構造:共産党党員は8260万人、党大会代表2270人、中央委員205人、政治局委員25人、政治局常務委員7人、トップが総書記(35頁)。憲法に「中国共産党が国家を領導する」と規定されているので、共産党総書記が国家主席になり、政治局常務委員会が事実上の意思決定機関である。しかし、形式的には国家の最高意思決定機関は全国人民代表大会(全人代;その内200人ほどで全人代常務委員会を構成する、日本の国会に相当)であり、国家主席、中央軍事委員会などは全人代で決定される。2012年の共産党第18回全国代表大会(18代)で政治局常務委員の順位トップになった習近平が、国家主席になったのは翌年の全人代の時である。行政機関は国務院であり、そのトップである国務院総理(首相)は、国家主席の指名により、全人代で決定される。(以上、ウィキペディアを参照のこと。共産党組織と政府組織が複雑に絡んでいる。明確に説明して欲しかった。)

4)ピケティの本で「格差」が話題になったが、西側資本主義社会でも格差が拡大しており、再度マルクス主義を見直す動きもある。“貧しきを憂えず等からざるを憂う”(論語=>http://togetter.com/li/480521 )のは、人間の共通した感情だろう。 冨坂聡氏の本の内容を理解及び記憶する為に書いたメモです。批判等あればコメントしてください。

2015年10月8日木曜日

ハイパーカミオカンデの現時点での建設着手は愚挙

ノーベル賞を追い風にして、スーパーカミオカンデより巨大なハイパーカミオカンデの建設計画が進みそうな雰囲気だ。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151007-00000005-jct-soci しかし、800億円(注釈1)という事業費に価する研究ができるのか疑問だ。また素粒子物理学が、今後人類に実際に役立つ知識をもたらすかどうかも非常に疑問である。

人類は、”知”特に科学の発展とともにより高度な文明を築き、より豊かで平和な世界を実現してきた。その文明発展と科学は、20世紀まではほぼ並行して進んできたが、20世紀後半その関係は崩れた。つまり、核物理学の誕生と発展は、原子爆弾や水素爆弾などの開発につながり、科学と文明の並行性は必ずしも真理ではなくなった。

核物理学の延長上にある素粒子物理学は、梶田東大教授のノーベル賞受賞決定後のインタビューでの言葉にあったように、知の地平線上の向こうにある様な分野であり、そこからは人類に向かって何が出てくるのか全くわからない。もちろん、自然な知の発展として、今後素粒子物理が発展していくことは、人類の先に発展をもたらすか破滅をもたらすかわからなくても、運命として受け入れるべきだろうし、受け入れるしかないだろう(注釈2)。

しかし、他の知の分野を置き去りにして、素粒子物理だけを特別に多額の予算で推進する理由はない。文科省や浜松ホトニクスという極めて狭い範囲の利益を推進することだけでは、人類の利益と比較して極めて小さい。さらに、ノーベル賞狙いだとすれば、バカバカしくて話にならない。

実際に利益を生まない分野への投資に関しては、ある分野の予算増は他の分野の予算減につながる。ただ漠然ともっと信号が強くなれば、良質のデータが得られるというだけでは、800億円と計算されている事業を始めるには動機不足である。素粒子物理学が知の地平線の向こうではなく、明確に見える角度に上がってくるまで、待つべきである。

注釈:
1)国立競技場のケースを考えれば実際は2000億になるかもしれない。
2)知恵の木の実を食べたイブとアダムは神に罰せられることになるという創世記の文章を思い出す。

2015年10月7日水曜日

ノーベル賞研究は、人の役に立たなくて良いのか?

ノーベル賞研究は、人の役に立たなくて良いのか?(補足1)

1)今年のノーベル生理学医学賞3人の受賞者の一人として、大村智・北里大特別栄誉教授が含まれていた。同じ日本人としてたいへん嬉しいことであり、日本の科学、医学、工学の層の厚さを改めて、海外にも知らしめることになった。受賞対象となる研究は、土壌内細菌から採取された化合物を元にした新しいタイプの抗生物質の開発とのことである。

この時の取材で、大村先生は「人の役に立つこと」を目指してきたと話されていたと思う。その志通り、開発された薬は幾つかの伝染病に対する恐怖から、アフリカに住む数億人の人々を解放した。大勢のアフリカの子供達の中の大村先生の笑顔が、それを何よりも明確に証明していた。この受賞は、人類への貢献という意味で“平和賞でも良かった”という、野依前理化学研究所長の言葉が示す様に、日本のイメージを大いにあげることになり、国家への貢献にもなった。

その次の日に、改めてびっくりすることになった。東大梶田隆章教授のノーベル物理学賞受賞である。カナダの研究者との共同受賞となったその業績は、素粒子物理学において画期的なニュートリノ振動の発見である。これも日本の科学研究のレベルの高さを証明し、日本のイメージをあげた。 また、多額の投資となったスーパーカミオカンデの見返りとしても、小柴名誉教授の賞を含めて二つのノーベル賞は十分であり、従って国家への貢献も多大であると思う。

ただ、この研究は近い将来の人類に何か役立つか?と問う人が大勢いるだろう。その質問には、だれしもノーと答えるだろう。

2)“国費を投じて行う研究だから、人の役に立つべきである”という考えが、時として基礎科学への攻撃の矢となって放たれることがある。しかし、国家のイメージを上げるという意味において、両方の研究は異なった角度からではあるが、大きな貢献をしたのは確かである。そして、それは日本人に限れば、活力と自信を与えるという意味でも、既に役立っているだろう。

最初に利益があると思われたことでも、最終的には大きな損になったりすることが多い。また、最初何の役にも立たないと思われたことが、思わぬ救いとなったりする。それが人類の歴史ではなかっただろうか。今回のノーベル賞の対象となった二つの研究とて、その例外ではないと思う。

すべての人間の行為は、人類が作ったこの複雑な社会の中において、神のみが知る経緯で歴史の中に刻まれると思う。しかし、一つだけ人類が保持してきた思想の柱は、「知は人類の唯一の特徴である」ということである。その知において、多大なる貢献をした者に対して、栄誉が与えられるのは当然であると思う。もちろん、ノーベル賞が完全にそれに沿っているとは思わないのだが(補足2)。

補足:

1)ノーベル財団は私的な財団なので、だれに賞を与えるかは財団が私的に決定することである。従って、この問いそのものに意味はないのだが、現在世界的権威ある賞として公的性質を帯びているとの前提で、この文章を書いた。

2)生存者のみを対象にしているので、最高の知的貢献をした者という意味では、漏れている人の方がむしろ多いと思う。また、アインシュタインの相対性理論などにはノーベル賞は与えられていないことでもわかる様に、授賞のルールにも揺らぎがあるだろう。
 当初ノーベル賞は業績を上げて能力を示した研究者に、今後の活躍を期待して与えられていたという。それを聞くと、疑問の多くが氷解するだろう。ノーベル賞と雖も、あまりにも大きい意味を背負わされると”しんどい”(荷重越えな)のだ。

2015年10月5日月曜日

嘘の文化

1)先月、世界を驚かせたのはフォルクスワーゲンのインチキソフト搭載車である。このことと今後ドイツなどに与える大きな影響については先に書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42429646.html これは、「正直は利益が少なく、コストがかかりすぎる」という考え方が、世界中に社会的病根として定着しつつあり、そこからくる一つの症状だと考えられないだろうか。もしそうなら、世界的にも深刻な話である。

人類の歴史は、公の空間から嘘を撲滅することによりスタートしたと考えられるのではないだろうか。つまり、逆に嘘が完全勝利すれば、社会から信用がなくなり、まともな取引も契約も何もできず、人間は野生に戻るしかない。

仏教の五戒や旧約聖書にある十戒などを見るまでもなく、嘘を罪として意識するのは、野生の猿の一種から人間への門であったはずである。

厄介なのは、その人間社会で効果的に嘘をつけば、経済的にも社会的にも大きく優位に立てるということである。誰も気づかない嘘を利用すれば、時として大きな利益に結びつく。そして、最後まで解明されない嘘は、それにより得た利益は才能の産物であるとして社会に認知される。

大嘘の有名な例であるが、ワーテルローの戦いで戦局をいち早く知ったネイサン・ロスチャイルドが、ナポレオンが勝つというウソのうわさをロンドンで流したことがあげられる。ロンドン市場の株を空売りして暴落させ、底値で買戻すと供に買い増して大儲けし(補足1)、英国ロスチャイルド家の基礎をつくった。しかし、これも勘が良かっただけだという説もある。http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/nathan.html  (補足2)

2)最初に戻って、問題は社会に“嘘に対する事前の拒否反応”が徐々に少なくなっていることである。それは社会にとっては、重大な病気の前兆である。この様な兆候は、個人のモラルの低下と同時に起こるだろう。しかし、何故このような社会になったのだろうか。その原因を少し考えてみた。

世界各国の社会において、情報化とグローバル化が、テレビやインターネットの発展により進んだ。特に後者インターネットは、インチキを暴くのに大きな力となった。社会がそして人間が、裸にされる(&成れる)ような時代となったのである。そして、巧妙に嘘をついていた人たちの悪巧みが暴かれるのは良いが、「そんな得になるなら自分たちも」或いは、「それが人間というものだ」と思う人が増加し、その傾向が社会のモラルを低下させてしまったのではないだろうか。

つまり、法やモラルの整備前に社会の情報化が進み、あらぬ嘘を書き立てたり喋ったりして儲ける、評論家やアナリストが繁殖してしまっている。全人口の1%でもそれらの偽或いは誇大化情報に十分興味を示せば、相当な収入が得られる(補足3)。

また、大企業の嘘や国家の嘘が大きく報じられると、社会に与える効果は大きい。嘘のなかでも止むに止まれずつく嘘は、まだ、社会に与える影響は少ない。また、嘘をついた人間に下らない奴だという烙印を押せるような嘘もまた、それほど大きな影響を社会に与えない(補足4)。それは、人間だれしも嘘の一つや二つは、人間関係の潤滑油としてつくものだからである。しかし、最初に挙げたような嘘は、世界一の売り上げを誇る会社の嘘であるから、悪質且つ社会に与える影響は大きく、暴露されたからには強く処罰(損害賠償や制裁金として)されるべきである。

もう一つは、国家による嘘である。個人や私企業による嘘とは、意味が大きくことなるが、それが分かる人は少数派である。国家の集まりとして世界を見た場合、そのメンバー間の関係は未だに野生の状態に近く、嘘を法によって罰する権威は何処にもないのである。

世界の諜報機関により不正が行われている事はスノーデン事件を待つまでもなく、今や常識だろう。また、歴史的には、満鉄爆破事件やトンキン湾事件など、嘘が大きな戦争のきっかけとして使われることもおおい。それが周知されることにより、個人の道徳と同列に論じたり受け取ったりされると、社会のモラルに深刻な影響をもたらすだろう。(補足5)

国家による嘘が悪として罰の対象になるのは、世界政府が出来た後のことである。つまり、戦争という国家間の暴力行為が、暴力として罰せられるようになる時以降のことである。

嘘は社会の基礎をシロアリのごとく破壊する。その修復のために、社会に大きなコストを強いる。社会は悪質な嘘を撲滅できるだろうか?

これも国際社会の発展方向にかかっていると思う。社会と同様に、情報機能(インターネット、放送、出版)にも裏と表などの多層構造が持ち込まれ、その間に壁が築かれることが望ましいと思う。また、国家の嘘を撲滅するには、国連が戦勝国連合的性格から脱却して世界政府的な方向に成長し、権威と権力を持つように発展する必要があると思う。

一般的に表現すれば、社会の変化とともに新たに生じた嘘に対するには、それを暴く機能と罰する権威とを新たに意識して育てることが大切であると思う。そして、同時に物理的にも心理的にも、嘘にたいする抵抗力を個人と社会に育てることが大切である。

補足:

1) 空売りは、借りた株を売ることである。ある時点で買い戻さなければならないので、株価が下がると考えた時に空売りをして、下がったところで買い戻す(借りた株を返却する。貸株料は、預金利息程度)ことで利益を上げるのである。ここではナポレオンは負けるので、ロンドンの株は底値から高騰する。底値で買えば、高騰した株は大きな益を持つ。

2) ロスチャイルドに反感を持つ者としては、元からインチキの噂を流したことにすれば、ロスチャイルドに打撃を与えることができる。一方、本当に嘘なら理想的な嘘だったことになる。

3) 9.11が米国の陰謀であるという説がある。また、明治維新が誤り或いは失敗だったということを本にしている人もいる。グレイゾーンの嘘と言えるが、儲けにはなっている。

4) 最近の例では、前者としては、傾きかけた会社の粉飾決算(T社)などが挙げられるだろう。また、後者の例として、会社の金を博打につぎ込み、会計報告の際に誤魔化した場合(O製紙)などがある。

5)歴史書を読むよりも、インターネットで調べる方が遥かに短時間で能率的に知識が得られる。ネット社会は、体系的でなく断片的な知識を持った人を大量につくる。

2015年10月3日土曜日

日本は世界からどう評価されているか? BBCの世界世論調査から

1)GlobeScan という民間調査機関がイギリスのBBC (英国放送協会)のために世界24カ国で、各国の印象について世論調査している。2013/12/17から2014/4/28にかけて行った調査結果が、公開されている。その概略を以下に紹介する。

世界へのプラスの寄与をしたか、マイナスの寄与をしたか、それ以外の項目から選ぶ形式で、口頭または電話などで調査は行われた。調査が行われた国は24ヵ国であり、回答総数は245000人あまりで(各国おおよそ1000人位の数)、ブラジル、中国、インドネシア、ケニア、トルコでは都市部で、それ以外のアルゼンチン、オーストラリア、カナダ、チリ、フランス、ドイツ、ガーナ、インド、イスラエル、日本、メキシコ、ナイジェリア、パキスタン、ペルー、ロシア、韓国については全国で調査が行われた。

全世界平均で、プラスの寄与と答えた人の%からマイナスの寄与と答えた人の%を引いた値を、簡単に紹介すると、(ドイツ42、カナダ42、英国35、フランス28、EU20、日本19、ブラジル19、南アフリカ8、韓国4、米国3、インド2、ロシア-14、イスラエル-26、北朝鮮-38、パキスタン-42、イラン-44)の順でである。これを世界各国の好感度指数と考えると、ドイツとカナダの好感度が高く、パキスタン、イラン、北朝鮮の好感度が低いということになる。

日本の値は2年前は+36で、これら調査対象国中3位であったが、この2年で急落した。そのほかに、EU, 米国、インド、ロシアなどが急落国である。全体的にこの2年間でプラスの値が落ちているのは、世界の不安定化を示している。

中国はこの10年間ダラダラと35ポイント程低下しているのが注目される。明らかに政治的な出来事が反映しており、国際政治の中であまり話題に上がらないカナダは一貫して高いポイントを保っている。

2)日本に対する各国の印象を下図に示す。
中国と韓国の低い評価は予想通りであるが、ドイツが西欧諸国で最も低いのは意外であった。これについては、西尾幹二氏と川口マーン恵美氏共著の「膨張するドイツの衝撃」(ビジネス社、2015/7)と題する本で、西尾幹二氏が分析している。このBBCの統計も、この本で知りネット検索で見つけたものである。

ドイツ文学が専門の西尾氏によると、ドイツの新聞記者たちはほとんど反日であり、そして彼らに人気のある日本の有名人は、大江健三郎や小田実などの反日日本人だという。その心理は、ドイツは日本を第二次大戦における犯罪の同伴者に引き込みたいのだと分析している。つまり、ナチスの犯罪と同程度の犯罪を日本国が犯したということにしたい為、中国や韓国、そして上記反日日本人を利用しているのだという分析である。更に、自動車や工業製品などでの競合も、それを助ける環境だろう。

ドイツは2011年から中国と二国間政府サミットを定期的に開いているとのことである。最近もフォルクスワーゲン社の中国進出がニュースとなって流れていた。日本人はこの事実と西尾氏の分析を十分心得ておく必要があると思う。

もう一つ興味があるのは、自国が世界に貢献しているかというポイント(50)が日本で非常に低いことである。同時に、世界にマイナスの貢献をしているというポイント(5)も極めて少ない。これを(50-5)で表すと、中国(85-7)、韓国(68-26)、ドイツ(68-19)、インド(56-22)、フランス(70-22)、パキスタン(44-29)、カナダ(81-13)、英国(71-23)、ブラジル(66-18)、米国(66-27)、ロシア(77-6)、イスラエル(40-18)である。

この数値から、明らかに中国とロシアはナショナリズムが高揚していることがわかる。日本の数値は、逆に国家の重要性を考えていない人が大きことを示している。更に、イスラエルとパキスタンにおいて、自国民による自国のプラス評点が低く、マイナス評点がかなりあるのは、国内政治の深刻な乱れを示しているかもしれない。データの詳細は、http://downloads.bbc.co.uk/mediacentre/country-rating-poll.pdfを参照してください。

2015年10月2日金曜日

世界大学ランキングと大学改革

昨夜のNHKニュースによると、世界大学ランキングが発表され、日本の大学がベスト200の中から3大学落ちて、残るのは東大と京大のみになったという。この大学ランキングは、elsevier社(学術雑誌の出版社)のデータを元に大学の評判なども加味され計算されたもので、なんの権威もない。https://www.timeshighereducation.com (ここのRanking参照)

文科省の人と大学を経営している人は気になるだろうが(補足1)、そんな意味のない変化に一喜一憂するより、自分の国のそして自分の大学のレベルアップ考えて、それを地道に実行すべきであると思う。

そう言ってみても、日本の大学が米国の有名大学よりレベルが低いのは確かなので、改革すべきであることには変わりはない。改革は簡単で、大学の運営を大学自身に任せて、補助金を10年か20年ほどの期間内に全廃するだけでよいと思う。大学だけ社会主義社会のままにおいて、改善が進むはずがない。もちろん、その金のかなりの部分を奨学金として、優秀だが経済的困難のために大学等に進学できない人に与えればよい(補足2)。

大学のレベルが低いのは、日本社会のすべてに関係する共通の原因、つまり日本文化の特異性にある(補足3)。つまり日本は入口社会であり、出口社会ではないということである。大学について具体的に説明する。日本の大学は入学することが大事であり、あと就職の時期まで適当に単位を取ればよいという、教育大陸から就職大陸への移動ボートのような施設である。海に落ちなければよいのだ。大学を法人化し、更に大学院大学という名前に変えて、何が変わったのだろうか?文科省の関係者に一文を新聞などに載せてもらいたい。理事としての天下り先が増加したことと、何かと不自由になったことくらいだろう。

日本社会が入口社会であるという特徴は、先の大戦の時の軍隊の階級にも、更に戦後の官僚たちの出世にも言えるという。例えば、東大法学部を卒業して財務官僚(大蔵官僚)になる人の地位は、公務員一種試験(昔の公務員上級甲種試験)を何位で合格したかで、30年後の次官人事まで決まると、青山繁晴氏が指摘している。https://www.youtube.com/watch?v=JaPmp1xoCEw (最後の方)それは、各省も同様だという(補足4)。

つまり、講義の充実や、輩出する人材をいかに磨くかなどの努力がなされていない日本の大学が、世界ランキングで低く評価されて当然なのだ。

因みに、日本が幕末から明治にかけて近代国家の基礎を奇跡的に造ることができたのは、薩長などの下級武士たちが実権を握り、身分(人生の入口)制度をほぼ完全に破壊したからである。しかし、日本ではその後入口がすべてを決めるという制度が復活して、再び転落の危機にある(補足5)。

補足:

1) 予算獲得時のヒヤリングに影響するので、気にするだろう。

2) 大学を完全に私立にすれば、大学の淘汰がおこる。なぜなら、授業料が高騰して大学に入るメリットが相対的に減少し、大学進学率が減少するからである。大学進学率の減少は、統計的には優秀な大学卒業生の数を増加させる。。(柯隆氏が日本記者クラブでの講演で指摘している。 https://www.youtube.com/watch?v=lbSMgEU2pwA)更に、不要な大学教育をしないので、不足している若年労働力が増加するだろう。 ただ、大学の私立化は、文科省の理事としての天下り数の減少につながり、官僚たちは反対し、政治がまともに機能しない日本では、すすまないだろう。

3) 西欧と比較しての特異性である。グローバル化といっても、その本質は欧米の文化の拡大であるから、欧米文化と懸け離れた日本文化は特異ということになる。

4) この種の発言を引用すると、必ず例外をあげて反論する人がいる。しかし、青山氏は本質論をいっているのである。

5) 入口社会の原因は、内部での競争を避ける文化が原因である。原因分析などは簡単であり、方々で行われているだろう。

2015年10月1日木曜日

神を殺したフォルクスワーゲンのドイツ、偉大な自然を信仰する日本

1) フォルクスワーゲンの心の底からのインチキ: 

フォルクスワーゲンの排ガス検査ごまかしソフトの搭載は極めて悪質であり、フォルクスワーゲン社のみならずドイツ国に与える影響も極めて大きいだろう。これまでの、法令には従順なドイツ人というイメージは大幅に修正されるほどの、非常に悪質なインチキであった(補足1)。 

野原の一本道を夜中に車で通る時、人通りのない交差点でも「信号が赤なら必ず青になるのを待って通過するのがドイツ人だ」という話が、日本で広く知られている。しかしそれは、大いなる誤解だったのだろう。

10年前に走行試験用にソフトを作った部品会社が、実際には車に搭載して販売しないようにと伝えたという。また、4年前にすでに社内でこの件が問題視されていたのだが、おそらく退任したCEOは知ってもみ消したようである。問題が発覚して直ちに辞任したのは、それをしめしている。 

ドイツは学問、芸術、工業など、あらゆる分野のトップランナーと言える位に高く評価見されてきた。しかし現在のドイツは、その重みを担うだけのものがないことを暴露してしまったのではないだろうか。“奢る平家は久からず”である。

フォルクスワーゲンの姿勢と対照を成すのがマツダの姿勢である。日本ではジーゼルエンジンを搭載した乗用車ではトップランナーであったマツダは、米国へのディーゼル車の輸出から撤退したのである。昨日のテレビでは名誉ある撤退と言っていた。日本ではクリーンディーゼルと言って見ても、米国マスキー法の基準には届かないのである。

2)人格神を失ったドイツと自然神を持つ日本、両方とも持たない中国

「神は死んだ」とドイツの哲学者ニーチェは書いた。しかし、その代わりをドイツは、そして、西欧社会は得ていない。ドイツで死んだのだから、同じ神が他の欧米諸国で生きている筈がないからである。 

ニーチェがこの考えに至り、著作に書いたのは19世紀末である。この時期は、熱力学の完成など自然科学の発展と蒸気機関の発明などから始まった産業革命が進んだ時期に一致する。また、同じドイツでの量子論の出現(1900年)(補足2)とその発展は、熱力学とともに現代文明の基礎であり、「神は死んだ」という思想は、この科学的発展が哲学者の思考に影響した結果だと思う。

そして、現代西欧文明がこの神を超越することで成立しているとしたら、今回のフォルクスワーゲンの件が示したような、同じタイプの問題をその他の政治・経済の分野で幅広く持っている可能性が高い。なぜなら、神から離れた人間に残されるのは、混乱、迷い、欺瞞だからである。

一方、日本には自然神を信仰する神道がある。元々の神道は太陽など偉大な自然に対し、自分の生命への感謝と今後の安寧への祈りを捧げる信仰である。従って、聖典も“ことば”もないが、神は死にはしない。その結果、神に対して不正はないかと常に自省することになる。因みに、神社や神宮に人や英雄を祀るのは、神道を変質させ政治利用したものだ。

つまり、自然神を持つ日本人は、「お天道さんに申し開きができない」という、嘘を恥じる心が、如何に神の存在感が希薄になったと言っても、現在でも残っているのである。一方、「神が死んだ」欧米や、儒教や仏教などの宗教のみが存在し神を持たない東アジアの他の国々などでは、嘘が富をつくり、嘘が歴史をつくる傾向がつよいのである。

勿論、この世界に住む人間は99%同じ性質と考えを持つ。それは、表現は異なるがほとんど同じ言語構造を持つ(補足3)ことでわかる。残りの1%の中に、世界における多様な文化が存在する。嘘という日本語がある限り、日本人も嘘を付くのである。おそらく他の国々におけるのと同様、嘘は金になり富を生み、嘘は出世の緒だろう。

ここで言いたいのは、神の存在感が薄くなったとはいえその僅かの差が、右へ行くか左へ行くかを決めるということである。

補足:

1) ドイツのメルケル首相が安倍総理に「ドイツの戦後の姿勢と同じように、東アジアにおけるあの戦争時の過ちを謝りなさい」と言ったと報道された。つまり、先の大戦の責任をすべてヒットラー一人の所為にして封じ込めたドイツに見習えといったのである。これも、傲慢で狡いドイツの嘘かもしれない。つまり、ヒットラーは民主的手段で選んだリーダーだったからである。日本は中国を西欧に見習って侵略をしたのは事実だろう。しかし、あのような非人道的な行為はしていないのであり、ドイツのような街の歩道にまで、ナチの犯罪を示す必要はないのである。そして、日本はドイツと違って、慰安婦の像などのインチキを攻撃する権利を持つのである。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42294934.html 参照のこと。

2) ドイツのプランクにより発表された量子仮説(1900年)は、ドイツおよび他の西欧諸国の科学者(シュレジンガー、ディラック、ハイゼンベルグ)らの研究により発展し、量子力学として完成した。これは、熱力学とともに現代工業技術文明の基礎である。彼ら、当時のノーベル賞受賞者の科学的業績は、ノーベルの発明を凌ぐものであり、ノーベル賞の価値と知名度をあげた。

3) 連続的なこの世界をほとんど同じ概念(ソシュールの言語学ではシニフィエというらしい)で分割して言語(同じく、ランガージュというらしい)を作っている。つまり、通訳があれば互いに会話が可能である。話が通じないのは、むしろ、国内の反日分子たちである。むしろ、話が通じないのは、国内の宇宙人達である。どうも、宇宙のどこかから指令を受けて動いているらしい。

<10/2 語句の修正>