2016年1月31日日曜日

人はどこまで残酷になり得るのか?:五木寛之さんの対談番組を視聴しての感想

1)1月30日のNHK教育テレビで五木寛之さんの対談番組があった。そこで、戦争直後平壌から引き上げるときの一家の様子を話しておられた。それはご本人の口から話すことができるまでに、長い期間を要すると思われる残酷な光景だった。その後間も無く亡くなられたお母さんを除いて、一家は日本に引き上げて来た。

「悪人ほど日本にたどり着き生き残ることが出来たのだ」という五木さんの言葉は知っていた。しかしその詳細は知らなかった。ソ連兵が家に踏み込んできたときのことを、その番組で初めて聞いた。彼らの姿は、ほとんど野獣のそれであり人間のものではない。

韓国側の米軍難民キャンプにたどり着くまでの詳細は、読売新聞のサイトに五木さんからの聞き取りを纏めた形で掲載されている。 http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150804-OYT8T50215.html しかし、そこには病床の母親がソ連兵に踏むつけられた時に血を吐き、気味悪く思ったソ連兵が布団ごと外に投げつけたことは、書かれていない。(追補1)

収容所に入れられ悲惨な生活を送る中、長男の五木さんはソ連軍の宿舎で仕事をもらい、食料を少しもらうことで生き延びた。ソ連兵との共存という悲惨な環境は、収容所に入れられた日本人も非情に変えた(補足1)。

一家(父親、長男である五木さん、を含め4人)は、一年ほどして38度線を越えることが出来、米軍の難民キャンプにたどり着いたのは1946年の秋である。その間の出来事を一言で集約すれば、まさに「悪人ほど生き残る」であった。

2)今回の主題は、「人はどこまで残酷になり得るか」である。「悪人ほど生き残る」という五木さんの言葉を突き詰めると、私は、「人間は全て野獣と同じ状態になり得る」と思う。一定の豊かさごとに、善という衣を“野性の心”に着けていくが、その生命を保障する豊かさがなくなると、元の野性に戻るのだと思う。ただ、不器用な人や決断力の鈍い人は、その生命の保障が無くなったことに気付くのが遅れ、その衣を脱ぎ捨てる前に、一歩先んじた人間に滅ぼされるのだと思う。

豊かになり生命の危険がなくなると、一枚一枚その善の衣を着る。しかし、その衣の中には依然として野獣としてのヒトが存在するのである。ヒトが人間と呼ばれ、人と人の間に温かい空間を作るのは、野獣一般とは異なる人の(本質ではなく)習性に過ぎない。

その善の衣を着た姿を見て、自分の姿だと信じるのは、善と悪を知る為にそう信じたいからだろう。アダムが”善悪を知る木の実”(普通、知恵の木の実というが、それは正しくない)を食べて、自分の裸の姿を恥じたのは、まさにこのことを言っているのだと思う。

歴史上にはいくらでも野獣と化した人の姿がある。過去の戦争の際、阿鼻叫喚の地獄と化したところは、数え切れないだろう。人はそれから目を逸らすのは、自分の裸の姿から目を逸らすことである。つまり、アダムの子孫だということである。自分はそのような悪人ではないし、悪はなさないと主張する人は、単に無知か厚顔なだけである。

補足:
1)その光景は、最近読んだ「大地の子」の中のある光景と全く同じであった。「大地の子」の主人公の在留日本孤児と養父母とが、国民党支配の長春が包囲された際、解放軍支配のチャーツ(関門)が開くのを待つまでの光景である。共産党軍はチャーツをなかなか開こうとせず、中立地帯は地獄の様相を示す。長春では結局15万人が餓死するのである。

追補:
1)この時のことは、「運命の足跡」(幻冬社、2003;15-24頁)に書かれていました。

日銀の危険なマイナス金利策

現在日銀当座預金には昨年12月末で250兆円のほどのお金が預けられており、法に定められた準備金以上の当座残高にたいして、0.1%の利息(附利)が支払われていた。これは日銀が市場経由で国債などを購入して、その代金が市中銀行を経由して日銀に預けられたのである。当座預金に、0.1%という銀行の定期預金よりも高い利息をつけるというのは常識的ではないが、国債の値上がりを防ぎスムースに買い上げる為に付けたのではないだろうか。

日銀は29日、一定以上の当座預金額に対してゼロ金利とマイナス金利を導入することにした。http://www.boj.or.jp/announcements/release_2016/ このマイナス金利は、物価上昇率年2%を達成する目的という。資金が市中に出回り、企業などに投資される額が増加して、景気刺激になるというが何かおかしい。

もし、貸出先があるのなら、既に当座にはそのような多額なお金が積み重なっていないはずです。そうすると、限度を超えた分にマイナス金利をつけると、銀行はわざわざ危険な企業に貸出をするよりも、日銀に返却して利払いを避けた方が良い。しかしそれでは、銀行の利益が一方的に減少することになる。おそらく、それらの金は海外への投資や外貨建ての債権などに向かうのではないだろうか。その結果円安に動くのである。つまり、単なる円安誘導策なのではと思う。

米国の中央銀行であるFRBは、多額発行したドルの回収を始めているが、それはかなり困難なプロセスである。膨らんだ円の発行残高を元の健全な形に戻すにはそれ以上の困難があるような気がする。円の信用が落ちるのが心配である。

金(マネー)が金(ゴールド)から離れたニクソンショックから、既に40年以上になる。それ以来マネーの価値は、それを発行する中央銀行とその国家の信用が維持してきたと思う。中でも米ドルは、最も安定した地位を保持し、基軸通貨として機能してきた。米国が強力な軍事力を持ち、国際政治の中で安定した地位を保つことと、安定な食料生産と資源調達力及び高い産業開発能力を持つ世界一の経済力とが、米ドルの価値を裏書きしている。

それに比べて、軍事小国であり、エネルギーと資源それに食料を海外に頼っている日本の政治と経済の安定性は、米国との政治的連携という形が崩れれば確保できない。(補足1)また、対外純資産残高が世界一であることで、通貨である円は短期では“有事の円”と言われるが、マネタリーベース(通貨発行高+日銀当座預金残高)が350兆円と大きくなった上に、当座預金(250兆円)からかなりの額が無理に追い出されれば、円の信用は大きく揺らぐのではないだろうか。素人考えかもしれないが、円に対する信用の急低下が、例えば国債の組織的売りなど、何かの切掛けで起こる可能性を恐れる。

1)米国がモンロー主義的な方向に進んだ場合、日本は極東で孤立する可能性が高くなる。世界政治と経済が混乱した時、世界にばら撒かれた円は暴落するのではないだろうか。

==素人の考えですから、間違いの指摘などコメント期待します。==

2016年1月28日木曜日

日本の弱点: 半藤一利著の昭和史(2009,平凡社)の感想

日本の弱点

半藤一利著の昭和史(2009,平凡社)を読んだ。昭和元年から昭和20年までの歴史であり、当然のことであるが太平洋戦争が主題である。歴史の流れの道筋が大変わかりやすく書かれている。歴史的事実については低空飛行で全域を見るような感じで勉強させてもらった。ここでは、最後の章「310万の死者が語りかけてくれるものは?」について、感想を書こうと思う。

半藤さんは5つの教訓を書き出している。それらは簡単に言うと:
1)国民的熱狂をつくってはいけない。
2)日本人は危機において、抽象的観念的議論に走り、理性的具体的議論ができない。
3)日本社会は蛸壺的小集団をなす傾向が強いが、参謀本部と軍令部という権力機構も小さいエリート集団が占めた。
4)国際的常識に欠ける。ボツダム宣言受諾の意思表明で戦争が終わったとおもっていた。
5)何か事が起こった時、対応はその場主義的であり大局観や複眼的思考がない。

これらはどういうことだろうか、そしてその原因はなにだろうか?以下に私の考えと感想を書く。

  1)の国民的熱狂であるが、国民はマスコミに煽られれば熱狂するだろう。これは、洋の東西を問わないと思う。真珠湾攻撃の翌日のF. ルーズベルト大統領の米国民向け演説は、まさに“卑怯者日本を叩け”の国民的熱狂を作るためのものであったと思う。国民の熱狂を、正しい方向に導くのが指導者の能力というものだろう。(追補a)

2)これは日本文化とその中で個人の持つ言語能力の低さと関連していると思う。何か事が起こったとき、言語を使った事実分析やその対策、その効果の予測などを、チームを組んで論理的に行う文化がないからである。その結果、“精神一到何事か成らざらん”というような精神論に逃げたり、“挙国一致、尽忠報国、堅忍持久”などの標語を作って、5)のその場しのぎ的対応しかできないのだと思う。

その原因の底には、儒教的倫理に縛られた日本社会の特徴があると思う。チームを仮に組んだとしても、そのメンバー個人の属する階層や年齢などで、用いる言葉や文章を含め互いの関係が予め定まっており、言語による思考と議論の余地が少ないのである。最終的には、チームの結論はトップの結論に等しくなってしまう。そして、出来の悪い政策や戦略を、幼い頃から暗唱した論語などの教科書からとった標語で飾ることになる。

また、頂点である天皇とその周辺は、国民からは遥かに遠くというより異次元の存在であったと思う。8月15日の玉音放送(これも変な言葉だ)は国民へのメッセージであった筈である。それがなぜ、あのような分かりにくい言葉であったのか? つまり、天皇は天皇の言葉しか持たない(補足1)。臣民は臣民の言葉しかもたない。大臣は大臣の言葉しかもたないのである。

天皇は英米との戦争に入る事、三国同盟を結ぶ事の危険性を十分ご存知であった。しかし、それぞれが別の言葉を話す会議では、そして、天皇が軍務を含めて行政のトップであるのかないのか分からないような政治体制の下(補足2)では、国家の暴走は最近のバス事故のように起こったのだろう。

終戦の詔勅は、天皇の言葉であり国民は翻訳して真意をくみ取る必要がある。従って、”米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス”が直ちに頭の中に入る人はむしろ稀であっただろう。

それが日本の言語環境だったし、今でもその本質はかわっていない。ルーズベルト大統領の炉辺談話とどうしても比較してしまう。

国の行政や軍のトップが、東亜新秩序や八紘一宇を叫ぶのに対して、臣下にどのように具体的且つ論理的な反論があるのか。このような標語は、臣下からは何も受け付けないと言っているのと同じなのだ。

3)蛸壺的小集団をなすのは、今でも同じである。戦前にはいうまでもなく、現在でも国家のトップ周辺を未だに明治維新に功労のあった長州族が抑えているのは何故か? それは組織が、能力や成果でその構成員を評価しないからである。それらの評価には、言語を用いた構成員の成果や能力についての定量的および定性的分析と、論理的な議論とを要するが、2)で述べた言語環境では無理である。そして今も昔も、出身地、姻戚関係、出身大学などでつくられる人間の繋がりと年功序列が、国家の指導層においても全ての人事を決めるのである。

その結果、例えばノモンハンの件で暴走した関東軍の指導者が、対英米戦争に繋がる南進論の中で指導的立場に戻るのである。(文庫版「昭和史」の、「ノモンハン事件から学ぶもの」の章pp510-536参照) 暴走の原因は、現場と企画部門の相互不信が原因である。その相互不信は、現場が本来命令する側である企画部門(参謀本部)の考えと能力(現場周辺の認識、解析、方針)に疑問をもっているからであり、その疑問は議論のない社会では決して伝わらないし、互いに解消しないのである。

4)5)は全て2)3)で述べたことによる。

半藤さんはこれらを総合し、一言で言えばと前置きをして「政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人々は、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか」(p507)と述べている。私は、自己過信というより自信を装った無責任であると思う。

補足:

1)“奏上されたものを裁可するとか”、“国務大臣は天皇を輔弼する”とか言う、天皇専用の言葉が用いられた。

2)天皇は御前会議では発言しないし、奏上されたものを裁可するだけであった。また、憲法第11条には「天皇は陸海軍を統帥する」とあるが、第55条には「国務各大臣は天皇を輔弼し、その責に任ず」とある。従って、例えば陸軍の指揮は、天皇を輔弼する陸軍大臣が執るのか、それとも天皇の下に作られた参謀本部がとるのかわかりにくい。あのような悲惨な戦争に突き進んだ原因は、““統帥権干犯を叫んで参謀本部と軍が暴走した”ことにあるとよく言われる。元々の原因は、憲法の文章が非常にわかりにくいことではないだろうか。この国では言葉はコミュニケーションの道具ではなく、人を押さえつける猿轡のように働く。そして、人は言葉に過敏に反応するのである。

追補:

a)新聞などの報道機関は、日本の場合特に低劣であった。その大本営発表の垂れ流しだけでなく、拡声器として働いた。報道機関というプライドなど求むべくも無い。その点は、今も同じだろう。

2016年1月26日火曜日

野々村元県議問題と甘利大臣の問題の共通性

野々村元県議問題と甘利大臣の問題の共通性野々村被告の裁判のニュースが国民の娯楽として“特ダネ”などで朝から報道されている。司会者は野々村議員をバカにしたような発言をしているが、バカはどちらか私にはわからない。そのような娯楽を与えたことは、まあ、野々村氏の貢献と言えなくもないが、それは国家と地方の行政システムの欠陥による大きな国民の損失の上に乗った小さな虚しい貢献である。

つまり、政務調査費などの部分を全て給与とすれば、この種の犯罪は無くなるのである。わざわざ調査しなくてもパソコン一つで見識を広めることができるかもしれない。能率的に情報を集めることのできる有能な人は、政務調査費を余らせるだろう。無駄に使い切る隣をみれば、カラ出張などもしたくなるだろう。そのような罠をしかけるような法律は悪法だと思う。

これまでの報道を聞いた限りでは、ほとんど全ての県議などがこの種の犯罪行為を行っている(補足1)だろうから、地方政治の舞台に悪賢い政治屋的人物が君臨しておれば、正論を吐くうっとしい議員は全て犯罪人に仕立て上げることが可能となる。ただし、野々村氏が正論を吐いていたかどうかは知らない。

全く同じ類の問題が現在進行形で存在している(補足2)。甘利氏のあっせん利得疑惑もその一つである。これも昨日書いた様に、法律自体が受け取る側のみが罪になるという悪法であることも原因の一つだが、政治資金として十分な額が中心的な政治家に与えられていれば、防止できた可能性が高いと思う。更に、実際に行政での業績に関するレビューがネットなどでなされることが、働く議員とサボる議員の評価分けには大事だろう。 この件、政治問題より簡単でしかも「負け」がない恰好の攻撃材料として、野党に利用されている。そのようなくだらないことで点を稼ぐ野党議員の無能さに国民は気がつかないと政治の質は上がらない。小さい金額の問題で、国会が大揺れに揺れているこの国の情けない姿は、蚤一匹の出現で布団をめくって着るものも脱いで騒いだ貧しい時代の光景を思い出させる。蚤や蚊の問題は、豊かな時代に相応しく清潔な家に立て替え、衛生状態を良くすれば解決するのだから、国政もそのように法改正などすべきであると思う。

例えば、議員定数を半数くらいにして支給額を3倍増くらいにすれば、より優秀な人材が政治の世界に集まると思う。そして、政治資金に関する法律も、違反を誘うような悪法は排除して全体的に簡素な法体系にすれば良いと思う。 その結果、この種の事件は減少して国会も空転しなくなり、且つ、裁判費用や捜査費用などの節約もでき、全体としてみれば得になるだろう。

補足:

1)新幹線の自由席特急券などがカラ出張に使われるだろう。大都市に住んでいるものなら、大都市間の自由席特急券はチケット屋でかなり安く買うことができる。ある店で買った際、どういう経路でこのようなものが何時でも手に入るのかなあ?と店員さんに聞いてみたことがある。そんなことは聞くもんじゃない!と一喝されて終わりであった。

2)科学研究費の使い方についても同様の問題がある。翌年に持ち越せないので、融通の効く業者に日常的に使う品物で、領収書を書いてもらうのである。その額の金額相当の品物は次年度に購入するのである。これも違法であり、日本全国の大学を含む公的研究機関の研究員や教官たちのほとんどは、この種の犯罪行為をしていただろう。(現在の事情はしらない。)

日本人が近親者の間でも「愛している」となかなか言えない二つの理由

1)表題の理由として、愛ということばは書き言葉であり話し言葉でないと言う人もいるだろう。しかし、書き言葉と話し言葉の違いは、通常語尾などの文章の違いである。話しことばで用いられない単語もあるが、それは難解な漢語などに限られる。(補足1) http://lang-8.com/223859/journals/819540

ここで用意した答えは、“日本人独特の言語文化による”というものである。日本語文化の理解の為の私の教科書は、山本七平の「日本教について」である。この本を批判的に読めば、日本語の質の低さ、それと関連して日本人の言葉の使い方、日本人の行動パターンなどがよく分かると思う。

表題の理由であるが、私の答えは“「愛している」「愛」ということばは、山本氏のいうところの「空体語」として主に用いられることばであるため、事実や現実と向き合う場面ではなかなか使いにくい”である。

空体語は実体語と対をなす山本七平の発明によることばである。私は以下のように理解している:
ある言葉が、例えばある現実問題を議論する際に発せられたとき(実体語)、現実との差を感じる場合が多い。その差を考える際に日本人が行うのは、論理を駆使してその差を究明し埋める努力をするのではなく、その差の延長上にあることば、空体語、を感覚的に探し出し、その中間に自分をおいてバランスをとることである。

空体語は直感的に現実離れしていることが分かるので、それをそのまま自分の立場にする人はほとんどいない。この実体語と空体語の間の立ち位置を支点と呼ぶ。また、空体語に近いところに支点を持つ人を”純度の高い人(あるいは純粋な人)”と呼ぶ。そして、日本では純度の高い人を行政から裁判所までが擁護する。山本七平はこの様な日本のあり方を、人間の純度によるアパルトヘイトとしている。

自国のエネルギー確保や安全保障を抜きにして“原発反対”“非武装中立”を叫ぶ人がかなりいるが、これらは共に現実離れしているが故に空体語と言える。そのアパルトヘイトの所為で、このようにバカバカしいことを叫ぶ人たちもこの国ではかなり高い位置を確保できるのである。(補足2)

元に戻って、上記の「私はあなたを愛しています」がなかなか日本人の夫に言えないのは、「私にとってあなたは必要です」という現実を表現した実体語とバランスをとるべく存在する、空体語表現であるからだと私は思うのである。つまり、女房に対しては必要なだけでなく確かに愛情を持っている。しかし、「愛しています」という“純度の高い”表現はなかなかできないのである。

この純度の高い言葉を用いることが普通に出来る場合がある。それは幼児を愛しているという場合である。母親の愛情ということばは、普通になんの衒いもなく使うことができる。それは、自分の幼児を愛するということは、実態をそのまま表しているからである。つまり、空体語の現れる余地がないのである。

2)言葉と実態とのズレは、特にこの言葉については全世界共通ではないのか?という意見があり得る。その反論は正しいのだが、実は日本人の言語文化のもう一つの特徴がその理由に加わる。

日本では言葉の地位は非常に高い。言語がコミュニケーションの道具だけではなく、独自に存在価値を主張する能力を持つのである。それは上記空体語が実体語と同等の地位を持つ原因でもある。また、日本は言霊の国であるというのも同じことの別表現である(補足3)。それが、言葉の意味を理解した上では、空体語表現を口にすることが出来ない理由であると思う。外国ではことばが良くできていて、それだけに軽く人々の間を飛び交うことができる。日本刀とフェンシングの剣の違いのようにも思える。

日本の村共同体では、念仏講というのがあった。今でも残っている地方が多いだろう。そこでは御詠歌を、法事などの際に仏様に奉納するのである。その奉納の様子は、歌を味わって歌うというよりも、歌(詩)は神輿の上にあって、声と鐘の音がその神輿を運ぶような光景であった。 https://www.youtube.com/watch?v=JRlK2tuHyCM

つまり、日本人は、重たい切れ味の悪い牛刀のような言葉を使う運命にある。したがって、重要な言葉ほど重く、聞く人は其れにひれ伏す場合が多い。戦争集結時の昭和天皇の玉音放送https://ja.wikipedia.org/wiki/玉音放送 と戦争前の米国大統領による炉辺談話http://homepage2.nifty.com/daimyoshibo/ppri/fireside.html との違いがそこにあるように思う。

  その言葉の重みに耐えるのが辛く、また、振り下ろせば切られた物は無残な姿を晒すだけであるため、賢い人間は重要な場面では沈黙を選ぶ。また、“切れ味の良い”言葉を巧みに(論理的に)使って、現象の解析や説明を行うことが出来ず、感覚的に空体語を虚空において、自分を言葉の空間の中間に置くことでバランスをとるのである。

補足:

1)言葉の違いは、書き言葉と話し言葉だけでなく、同じ話し言葉でも、演説、日常、公式などの場面により、さらに、話し相手が目上か目下かどうかなどでも違う。表題は、日本人は「愛しています」と書くときにも抵抗を感じるかどうかを問題にしている。

2)太平洋戦争と米国による日本への石油禁輸の関係を知れば、エネルギー確保の重要性は理解できる筈である。非武装中立が”空体語”であることについては、例をあげて説明する気力もわかない。人間純度によるアパルトヘイトは、空 体語を擁護するために存在するのかもしれない。

3)日本語でも論理を駆使することは可能であるが、その能力に関する敷居値はたかい。そして、そのようなことが面倒な人は、その言葉を鵜呑みにして祭り上げてしまうのが楽である。それが”言葉の地位”が上昇し、言霊を生んだ理由の一つだろう。 言霊について:四という数字は死と同音であり、忌み嫌われる。日本人野球選手でこの番号や42番を背番号に持つ人はいない。日本では、数字自体に正負の価値があり、単にものを数える道具としての数字ではない。(これも世界に例はあるが、日本では特に強いという意味である。)

2016年1月25日月曜日

ハニートラップとマネートラップ

ハニートラップは、例えば中国等外国の然るべき機関が、例えば日本の官僚や政治家を中国の手先に使うために、異性を使って仕掛ける罠である。過去、橋本龍太郎総理が疑われたことが有名である。当時の秘書官であった江田憲司氏はテレビ番組で明確に否定していたが、真偽のほどは明らかではない(引用の動画で判断してください)。https://www.youtube.com/watch?v=7OnlFq-kGbU 韓国のハニートラップをキーセントラップといって面白がる人もいる。

ここ数日にわかに話題になっているのが、マネートラップである。昨日の「そこまで言って委員会(関西圏のTV番組)」で、ある出演者が言っていたが、甘利経済産業大臣が引っかかったのはマネートラップなのだろう。音声テープなど証拠が揃えてあるので、あっせんのお礼に金銭を渡したというだけでなく、政治的利用の意図が最初からあったと思う。

過去の例であるが、田中角栄元総理を首にしたロッキード事件も、マネートラップとして機能したと思う。つまり、米国にとって邪魔な総理大臣の排除という政治的役割を結果として果たしている。(孫崎享著、アメリカに潰された政治家たち) そう考えると、そんなに新しいものではなく、どちらも古くからあったものだろう。

二つのトラップの中でマネートラップは、二度働くので非常に効率的である。つまり、一度目は賄賂などの経済犯罪として、送った側に巨大な利益をもたらす。二度目にはそれを暴露することで、ある国やある政敵を操縦することができるのである。つまり、一度目は経済的役割を、二度目は政治的役割を果たすのである。

日本には外国のために働く大勢の日本人や在日外国人がいるだろう。平和ボケで他人に道徳的行動を過度に期待(つまり他人を根拠なく信用)する人が多いので、政官界の人は特にこれらトラップに引っかからないように注意してほしい。

追加:ダボス会議において、甘利氏は会議中司会者から今回の疑惑が安倍経済政策へ影響しないかどうかを聞かれたと報道されている。http://www.asahi.com/articles/ASJ1R74N4J1RULFA007.html  この会議中の質問として、この疑惑が出るというのは極めて異例だろう。世界中に報道されるのだろうか?議事録にどのように掲載されるのだろうか?それも作戦の一環かと考えたくなるほど、今回の疑惑暴露は計算し尽くされた何者かの作戦のように思われる。考えすぎなのだろうか?(1/25 18:20)

2016年1月24日日曜日

北朝鮮に核兵器を開発させたのは米国である:ロイターの記事

米国ロイターの1月7日付の記事(在北京の特派員Benjamin Kang LimとBen Blanchardの取材)には、北朝鮮は中国を仲介として、米国との朝鮮戦争終結するための平和条約を締結することを望んでいる。それが叶わないのなら、もっと核実験を行うと主張しているという。http://www.reuters.com/article/northkorea-nuclear-usa-idUSKBN0UM12S20160108

これは、平壌にコンタクトのある人で2006年の最初の核実験を正確に予言した人からのものである。このニュース源によると、「1950-53年の間戦われた朝鮮戦争は、米国軍、北朝鮮軍、中国軍、の署名で休戦に入ったのだが、北朝鮮はこの三国に韓国を加えた署名での平和条約締結を望んでいる。今回の実験は、米国に戦争を終結して朝鮮半島に永久平和を実現させるこの四カ国間交渉に入るよう説得するのが目的である。」

「北朝鮮が核兵器を捨てるならば、アメリカ合衆国と中国両方は、制裁を中止して最終的には平和条約の可能性があるという提案を見せびらかしてきた。しかし(これまで)、北朝鮮が核兵器によって軍事力の強さを示すことができたとしても、アメリカ合衆国が交渉に応じるだけだろうと考えている。北朝鮮の条約締結の要求は無視され、核兵器を開発し続けるという手詰まり状態が続いているのだ。」(補足1)

日本のマスコミでは、北朝鮮の核兵器開発の問題を朝鮮戦争の終結との関連においてほとんど論じていない。単に金正恩がまるで正気を逸しているというような表現ばかりであり、日本国民の目を事実から遠ざけようとしているかのような印象をうける。北朝鮮は独裁国家だが、独裁国家は世界に沢山ある。すでに、およそ140カ国が北朝鮮を承認しており、国連に加盟している国だということを日本は忘れているのだろうか。

上記記事の内容を考えれば、核兵器を保持する前に、米国は核兵器開発を諦めることを条件に、朝鮮戦争を終結する決断をすれば、北朝鮮は安定化したと思う。そして、日本も米国とともに北朝鮮を承認すれば、生存する拉致被害者は帰国ができただろう。つまり、北朝鮮に核兵器を持たせたのは米国なのだ。

つまり、北朝鮮が独自国家として安定化することを嫌ってきたのは米国である。北朝鮮を東アジアの厄介者として残すことが目的だったのだろう。なぜそのことが、テレビなどの政治番組でまともに放送されないのだ。今日のそこまで言って委員会でも、朝の報道番組でもこのような議論はない。

このロイターの記事は田中宇さんの本日のメイル配信で知ったこと、付け加えておきます。また、この趣旨のことはすでに木曜日のブログで述べておりますのでご覧ください。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42618325.html

補足:
1)原文をあげておきます。The United States and China have both dangled the prospect of better ties, including the lifting of sanctions and eventually a likely peace treaty, if North Korea gives up its nuclear weapons. But North Korea believes the United States will only negotiate if Pyongyang can demonstrate its strength through its weapons. With its demand for a treaty ignored, North Korea has continued to develop its nuclear weapons and a stalemate has ensued.

2016年1月22日金曜日

東アジアで生きるための戦略が日本には皆無である

昨日夜、BSフジのプライムニュースを(風呂の時間以外)見た。彼らは原点(補足)から考えていない。

何故、朝鮮戦争を終結するように米国に働きかけないのか?北朝鮮は米国に振り向いてもらおうと核開発したのだ。米国は北朝鮮を承認して朝鮮戦争終結できる国なのにしないのは、北朝鮮問題を韓国、日本、中国の間に打ち込んだ楔としたいためだ。

日本が北朝鮮が核兵器を持つのなら、日本も持たなければならないと真剣に主張しておれば、日本の核兵器に脅威を感じる米国は、北朝鮮に核を捨てさせて北朝鮮承認の道を選んだだろう。そして、共産党独裁の国家として中国タイプに変わっていただろう。日本も北朝鮮を承認し(その前に日韓基本条約も改訂し)、拉致被害者は全員帰ってきただろう。

日本が韓国に支払ったように、経済協力金という形で賠償金相当額を支払うことで、北朝鮮はインフラ整備と経済発展の道を目指しただろう。朝鮮半島が二つの安定した国家に分かれている方が、日本にとって利益となるのだ。そんなこと、現在韓国がとる反日の姿をみていればわかるだろう。

しかし、今となっては無理かもしれない。核兵器廃棄ができなければ、北朝鮮承認の道はないのだから。とにかく、日本には戦略がない。それは原点から考えないからだ。

補足:
彼らゲスト評論家は、日米同盟強化、日中対立、北朝鮮不承認など、すべてを前提としてその上に議論を立てている。元々問題が解決できない前提の上に立って、何を議論するというのだ。konoteidono chiseide nihonwo daihyousuru hyouronnka nanoka?

2016年1月20日水曜日

性的マイノリティーについての教育

1)NHK午前7時のニュースで性的マイノリティーへの差別を無くそうとする趣旨で、教育現場での実態と対策について放送されていた。性的マイノリティーに対して社会はどう取り組むべきか?未だ意見が収束するには程遠い。ましてや義務教育の中でかなりの時間を費やすべきかどうかも、統一的な意見は形成されていない。

一方、放送では愛媛県のある学校で、LGBT(lesbian、gay、bisexual、transgender)に対する理解を進める教育が積極的になされており、それを学んだ生徒たちによる地域の大人達への周知活動が紹介されていた。要するに、LGBTの人たちへの差別はやめようという趣旨である。そこで私見を以下に述べる。

基本的な理解であるが、LGBTというのは性的障害である。他の障害同様、それが直接妨げにならない社会での活動において、個人の法的権利は当然認められるべきであり、例えば職場等での差別があってはならないと思う。LGBTの存在を教える必要はあると思うが、理解を新たに深める必要はなく、個人の権利に対する理解で必要且つ十分であると思う。

LGBTに対する配慮について特別に教育をする必要を発見した場合でも、まず社会の成り立ちの上での両性の存在、両性による結婚の意味を同時に十分教育することが必要である。現状、解決可能な権利侵害がないのなら、上記のように個人の権利に対する理解を深めることで十分であり、特別な教育は不要だと思う。

2)残る問題で象徴的なのは、トイレの問題である。上記教育の問題でも同じだが、何事に対する対策も有限な資源と時間の配分でなされる。従って、LGBT用のトイレを随所に別々に作る訳にはいかないだろう。作ったとしてもそこを使う資格チェックが無くても良いのか、犯罪頻発の可能性がないのかなど、問題が多すぎる。

従って、この不特定多数が出入りする空間での不自由は、一方的にLGBTの方の負担になるが、仕方がないだろう。つまり男性用トイレに外見が男性であるGayの人が入る際に抵抗を感じるとしても、女性のトイレに入ることはできない。Gayの人と女性的な外見の男性の区別が容易でない以上無理である。他人の権利を侵害する個人の権利は、民主主義社会には存在しない。

ほとんどの個人は、容姿や能力などで問題を抱える。しかし、それは個人の内部で解決するしかない。LGBTも上記個人の権利が保障されれば、残る問題は他の個人的問題と同様のものである。

3)次に同性間の結婚の問題である。同性の結婚を法的に規定して、両性の結婚に準ずる権利を与えることについては反対である。すでに、同性婚についての意見はブログに書いた。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42533121.html 仮に同性婚を法的に規定するとした場合、どの程度の権利を与えるかについては、通常の両性婚の社会的役割について基本的なところから再度考え、それとの区別化が必要である。

つまり、結婚は次の世代を作り育てること、そして、その世代が前の世代の老後の面倒を見ることで、社会が人間的価値を維持したままで循環的に維持されていると言うことである。従って、結婚して子を産み育てることがノーマルな人生の形であり、社会がそのようなタイプのパートナーシップを支持するものでなくてはならない。

同性の二人が人生のパートナーとなる法的契約を新たに作ることには、それほど反対ではない。しかし、仮にそれを認める場合には、LGBTに限らず一般にパートナーシップ(特別な友人関係など)を認めるべきである。それに不都合があるのなら、新たにそのような法律を作る必要がないと思う。

典型的な問題の一つは、同性のパートナーシップを税制にどう反映するかということである。両性のパートナーシップ(結婚)と同等にすることは、逆差別である。なぜなら、両性で結婚したパートナーから生まれた新しい世代による老後の扶助を、子供の養育や教育の負担をしないで受けることになるからである。また、かなりの確率で、パートナーシップを偽装して贈与税を相続税にするような企み、あるいは脱税なども発生するだろう。

以上からLGBTに関する教育を行う場合、その存在についての理解と個人の権利保護の重要性についての教育以外には必要ないと思う。

2016年1月19日火曜日

(李氏)朝鮮と現在の日本の類似点

韓国歴史の特徴は、何と言っても大国中国に支配され続けたことである。19世紀になると、日本同様、西欧諸国やロシアが野獣の目つきで近づいてきた。日本はそれに備えて、明治維新から西欧の武器や兵の組織戦法などを研究して武力を整備した。しかし、李氏朝鮮は中国の属国状態でありそのようなことは必要性を感じても出来なかったのではないだろうか。

西欧諸国が遠方から来る目的は日本のような小さな痩せた国土の国ではなく、大陸であった。日本に期待するのは補給のための寄港と通商などであり、士気の高い武士と複雑な地形の中で戦うのは算盤にあわなかっただろう。その結果、薩長&下級貴族の勢力と幕府との戦いという内戦で、新しい体制に移行可能であった。更に、何があったかわからないが、 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42475174.html 奇跡的に国家の枠組みを市民革命も経ずに国民国家へと変え、近代的軍隊を持つことに成功した。

一方、韓国はロシアの南下に脅かされるも、長期にわたる中国の属国体制の中では、自力で軍の近代化など出来なかっただろう。キリスト教というつながりで、フランスや英国との同盟も考えたが、それも失敗した。結局、日清戦争でタナボタ式に朝鮮は独立し、朝鮮王から朝鮮皇帝になった(補足1)。それも束の間であり、十数年で日本に併合されて独立国でなくなったのである。

このあたりの韓国の歴史を見て、日本では李氏朝鮮をあたかも無気力政権のように云う向きもいるが、地政学的条件などを考えると、日本民族がそこにいても同じ状況だったと思う。何故なら、当時の李氏朝鮮の状況に現在の日本はそっくりだと思うからである。李氏朝鮮にとっての中国は、現在の日本にとっての米国である。

現在の日本は、明らかに米国の属国である。去勢されたような軍隊、自衛隊(補足2)、を持ち、もっとも強力な武器の保持は厳しく禁止されている。安倍政権と雖も、あの韓国に捏造された犯罪行為を、米国の圧力で白状させられる始末である。高麗が元の命令で日本国を攻めた文永の役(1274年)や弘安の役(1281年;朝鮮半島では夫々、第一次日本遠征、第二次日本遠征と呼ぶ)のように、南シナ海まで自衛隊が出かけるハメになるかもしれない。

補足:
1)1897年に独立門がつくられた。朝鮮王は朝鮮皇帝に格上げされ、これまで中国皇帝のみが行っていた祭天儀式を新たに作った式典用建物(園丘壇)で行った。
2)憲法上軍隊ではない。また、自衛隊は米軍の一部としてただちに行動できるように作られているらしい。(米国が世界の警察なら、自衛隊は世界の警察予備隊である。)

== 素人の意見ですので、辛口コメント歓迎します。==

2016年1月18日月曜日

宗教と科学

1)久しぶりに科学と宗教について考える。バートランド・ラッセルの本に“宗教と科学”というのがある。その冒頭には、「宗教と科学は社会生活における二つの側面である(補足1)」と書かれている。そして、「宗教と科学との間には、長い闘争が続けられ、数年前(補足2)までいつも科学が勝利してきた」そして、「純粋に個人的な宗教は科学が最も進歩した時代も静かに生き続けるだろう」と続く。

この考え方によると、科学が発展していない土地或いは民族には、宗教は大きな存在ということになる。また、科学が発展しても尚、宗教は個人の心のなかだけでなく、社会生活の中にも静かに生き残るということになる。ただ、私はこの最後の部分に疑問を持つ。個人の心の中には生き残るだろうが、社会生活の中には最終的には生き残らないと思うからである。

日本の宗教を見ると、現在仏教も葬式仏教に成り果て、それも宗教というよりも慣習でしか無いと思う。アニミズム的な宗教である神道は生きているが、それも個人の心の中だけであり、社会生活においては村社会の崩壊と同時に消えたと思う。 つまり:「古代には、宗教は自然現象から社会、そして個人の心の中まで広く存在したが、科学が最も発展した時代には個人の心の中にだけ生き残る」と思う。

2)ここで、原点に戻って“科学とは何か?”から考える。
Wikipediaを見ると、広義:体系化された知識や経験の総称;狭義:科学的方法に基づく学術的な知識;最狭義:自然科学と三通りの定義が書かれている。自然科学の定義は、“明確に定義された対象(系という)における繰り返し可能な現象を対象とし、それらを記述し整理する学問である”となるだろうが、それでは社会科学という学問領域の大部分は科学ではなくなる。社会科学なども含める意味で、論理的手法で体系化された知識や経験の総称と定義すれば良いと思う。論理的手法とは、因果律を基礎に統計や確率などの数学的諸概念を適用することである。

一方、宗教とは何か?
宗教とは「神聖なる力を信じて生きることの教え」ということになると思う。ここで宗教のキーワードは、“神聖”と“信じる”である(補足3)。科学において知識の体系化を行うのは人間であるから、キーワードは“経験”と“疑問を持つ”に入れ替わる。つまり、バートランド・ラッセルの言葉を真似れば、“体系化された人類の知識の中で、宗教的でない部分を科学と呼ぶ”ということになるだろう。

宗教には、上述の“知の体系には入ら無いアニミズム的なもの”があり、実はそれが最後まで人の心の中に残る宗教だと思う。それは、知の体系としての宗教は、所詮人間が作ったものだからである。或いは、知の体系としての宗教が最後まで残ったのなら、本当に神の啓示により人に伝達された真理なのだろう。

3)以下話を分かり易くするため、自然科学を科学と呼ぶ。真理と科学とは異なることを、科学を専門とした人以外はあまり理解していないかもしれない。科学は再現可能な経験を、新しい概念とモデル(図式)を用いて(補足新1)、整理体系化したものである。新しい経験が加わるとそれに応じて科学体系は変化し、古い体系は修正されるか新しい科学体系に包含される。一方、真理は変化しない。しかし、“真理はなにか”は人間には分からない。

つまり、「りんごが木から落ちる」から力学の体系が作られた。そして、“りんごが木から消える”ことは無いと予測はできるが、科学はそれを否定できない。何者かが別世界から奪い取って食べるかもしれないという考えを科学は差し当たり拒否できても、否定はできないのである。つまり科学の歴史は、経験の集積と整理であり、真理発見の歴史ではないのである。(補足4)

人は“真理”を求める心があるため、宗教は個人の心の中に残る。科学は再現可能な経験以外には無力であるから、“絶対的真理”(補足5)を求めるのなら宗教に頼るしかない。特筆すべきは、人の最後のもっとも重要な経験である「死」は個人にとって再現不可能であるから(補足6)、「死と死後」について科学は無力であることである。このもっとも需要な「死と死後」について、何も語れない科学が、真理の体系である筈がない。

4)近代化とは、混沌とした様々な領域の現象が経験と論理により体系化されて、宗教の支配から解放されたプロセスとも言える。心の中に倫理学や心理学が入り込み、自分の思考すら科学として整理され体系化される時代となった。その結果、僅かに私的感覚の部分にのみ神の支配が残ることになる。

一人の人間の経験は少ないが、他者の経験が蓄積整理されて本となり、疑似体験を含めると昔に比べて遥かに多くの経験が可能になり、それも整理された形で提供・共有される。厳しい人生のなかで神を探すこともあるが、その多くは医者やカウンセラーを探すことにとって代わられた。それらの経験は、いまや現世には神がいないことを確認する機会にしかならない(補足7)。そこで、個人の心の中からも神的なものがほとんどなくなった人も多いだろうし、それを死と死後の世界にまで延長する人も多いだろう。

死後の世界にまで現世の科学的知識を延長することは、科学的知識を真理とすることにひとしい。しかし、それは科学の買いかぶりだろう。何故なら、科学は「意識」の由来について歯が立たないからである。人間は精巧にできた化学工場であり、情報処理装置であり、運搬装置である。それらは科学の対象となり解明されるだろう。しかし、それらを解明している「自分は何者か」について、答えを得ることは不可能だろう。

==何やら難しい話になりました。筆者が何者かにトラップされていると思われる方は、コメントにその理由をお書きください。==

補足:
1)この本が出版されたのが1935年で、ソ連の誕生が1917年である。数年まえまでとなっているのは、科学的社会主義などの科学を被せた言葉が現れたからである。それを科学とみなせば、それらは宗教に勝ったとはいえないということである。しかし、現代では科学的社会主義(当時の)は科学ではなく宗教だと思う。
2)この部分の原文は、”Religion andscience are two aspects of social life”であるので、誤訳ではない。
3)宗教religionの意味は英語の語源辞書に“state of life bound bymonastic vows”, also “conductindicating a belief in a divine power” と書かれている。“修道士的誓いに束縛された生き方”または“神聖な力を信じての行動”である。
宗教の宗は、元々崇ではないのかと思うが、よく分からない。日本語はいい加減な言葉なので、英語辞書を頼りにする次第。 4)新しい現象の発見というが、元からあった現象について、科学会に属する人間が新しい経験をしたにすぎない。人類にとっての新しい経験でさえないかもしれない。アメリカは昔からあったし、インディアンは知っていた。それでも「コロンブスは新大陸発見した」というようなものである。

5)真理に絶対的も相対的もない。しかし、科学的に確認された現象で、これまで変更されなかったものを“真理”と呼ぶこともある。それを除外する意味で“絶対的真理”とここでは呼ぶ。
6)デカルトの言葉を引用するまでもなく、人にとって存在が確認できるのは自分だけである。他人は観測可能であるが、自分と同様に意識を持つ独立した存在だと断定する根拠はない。猫は、鏡に映った自分の像を自分と認識できない。逆に、他の人たちを独立した意識を持つ人々と思っているが、単に自分の意識がこの世界へ投影したた像かもしれない。
7)神は、現世において何かを依頼する存在ではないだろう。God helps those who help themselvesである。

新1)新しい概念は、現象を説明するために図式とともに作られる。例えば、”力”という物理学の概念は、質量と加速度とともに発明されたが、それは日常の力とは異なり厳密に定義された概念である。日常の力は物理的表現の場でも、エネルギーと混同されている。事故などの報道で、この時の衝撃は何トンの力くらいであるという表現がよく使われるが、質量とも混同されている。2)ここで、原点に戻って“科学とは何か?”から考える。


2016年1月17日日曜日

櫻井よしこ氏による、慰安婦問題合意(2015/12/28)は大きな外交的勝利だという愚かな評価

櫻井よしこ氏が今回の慰安婦問題合意について、おかしな評価をしている。 https://www.youtube.com/watch?v=RJdHTrgybOg

日本は米国に脅され、韓国らが創造した大半が嘘の歴史の汚名を着せられたのだ。外交的に成功している?バカバカしい。脅されて署名(確認の意味)をして、それが外交の成功であるはずがない。これまで、この偽造された歴史を消せなかった上に、その汚名が真実であるという確認をさせられたのだ。外国のメディアはその偽造された歴史を再度紹介しているが、どれほどすごい内容か知っていっているのか? https://www.youtube.com/watch?v=93x0bSjqmeU
https://www.youtube.com/watch?v=wTmp3MHECjc

ニューヨークタイムズが評価したことを素直に喜ぶなんて、愚かだ。”この卑劣極まりない犯罪行為故、白状するにも覚悟が必要だっただろう。その苦しさを乗り越えてよくぞ白状した”、と評価しているのだ。このままでは将来にわたって、この件は利用されるだろう。その時、あの時の署名は莫大な日本民族の偽造された歴史的借財を本物と認める署名だったのだと鈍感な人でも気づくだろう。

民間の発信は大事だが、それを英語でやれるか? 丁々発止と英語で議論できるか? そんなことは出来はしないだろうから、せめて英語で勢力的に発信すべきである。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/09/comfort-woman-was-not-sex-slave-fake.html

慰安婦問題を含め戦後評価に対するシナリオはすでにでき上がっていて、欧米はそれを変えることはない。ただそこに政府署名が欲しかっただけだ。その署名をさせる事に米国が成功したから、日本に一ヶ月ほど暖かそうな対応をしているだけなのだ。諸外国の反日メディアの論調など変わるわけがない。大きい声のセリフが世界を駆け巡り、それのみが世界の民衆の記憶に残る。それはやがて歴史として残る。日本の小さい声などどこにも届かないだろう。

また、基金への拠出と慰安婦像の移動について議論しているが、これらも何の根拠もない。だいたい、日本大使館の前にあの像がある事など問題視する方がおかしい。日本にそのような責任がないのなら、韓国が恥を書いているだけではないのか?今回白状をしたのだから、取り除けという権利はない。韓国政府は努力をしたとのポーズはとるが。

基金への拠出額は10億円ともきまっていないし、慰安婦像の撤去も合意事項にはない。もちろん10億円の出費が慰安婦像撤去後である筈がない。基金を韓国が作ったあと、おおよそ10億円の金額(これも双方の議論が必要だろう)を出さなければ、そこで一挙に日本攻撃が始まるだろう。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42601406.html 評論家を名乗るのなら、合意文書をよく読むべきだ。

櫻井氏の記憶力などはすごいと思った事もあるが、櫻井氏の勝手な論理展開に気づいたのは、靖国問題に対する文章だった。ここにそれに対する反論を書いたコラムを引用する。あの戦争を総括しないで、文官や政府構成員までを合祀したまま、靖国参拝を国会議員たちが行うことには反対である。 http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%CC%F7%B9%F1&sk=0

2016年1月15日金曜日

国際標準の政治を政治家に要求すべき

1)最近、高島康司著「日本、残された方向と選拓」という本を読んだ。国際政治に関する国民向けの本で印象に残ったのは、この本と昨年読んだ北野幸伯著「クレムリンメソッド」である。どちらも、(“悪者”と評価の定まった)日本が中途半端な材料と覚悟で名誉回復(歴史変更)を図ることは危険であると述べている。それは、大戦の問題は国際的にはすでに評価済みと見なされているからだ。

クレムリンメソッドは表題だけを見ても参考になる。例えば第3章の表題、「国益のために国家はあらゆる嘘をつく」「世界の全ての情報は操作されている」を頭において、「日本、残された方向と選択」の中のジャパンハンドラーについての記述を見ると、日本政府のとるべき方向が定まるように思う。ジャパンハンドラーとは、米国で日本を操る脚本を書いている、知日派ジョセフ・ナイやリチャード・アーミテージらである。日本は彼らの書いた脚本通りに動いて(動かされて)いる。

日本の東北アジアでの外交は稚拙に見えるのは、日本が大きな力に継続的に操られていることと、国のトップ周辺や与党がその事実を十分認知していなかったからだろう。その流れの中で、安倍総理の年末の従軍慰安婦問題に対する決断もなされたのだろうと思う。結果として、この問題についても蛇行運転のようなことになってしまったが、今後はその合意に従って対応していくべきだと思う。

日本が世界の動きを的確に把握して諸問題に対処しておれば、この種の問題は数十年前に解決していたはずである。上記の本にあるように、世界の大きな流れを理解せずに、自国の比較的小さな事実や名誉に拘泥する人たちが国のトップ周辺を占めるようでは、国民が艱難辛苦に曝されることになる。(クレムリンメソッド、pp34-35; 補足1)つまり、政治の世界では、事実や真実は上手に使えば大きな味方になるが、下手に使えば自分の首を占めることにもなるということである。

2)従軍慰安婦問題については、終戦後多くの書類等が焼却されて証拠いん滅が行われた可能性もあることを考えると、(下位のレベルでの局所的な軍の方針としても)強制が無かったことの証明は非常に困難である。(歴史においても、無かったという証明は一般に非常に困難である。)世界が罪人を見る目で日本を見ている現状を認識せずに、“証拠が確定していないとみなされる事実”を政治的場面で主張することは、益々状況を悪くする。政治以外(歴史学)で日本に有利な諸項目についての証拠を確定する努力を継続すべきである。

日本の政治家でありながら、日本の政治的敗北をあざ笑う元衆議院議長や元社民党トップのような態度は、決して忘れず歴史の中に残すべきだろう(補足2)。

毎日の食も命も保証されない状況下の出来事を、豊かな時代になって過去の状況を完全無視し、今日的感覚で裁くような彼の国の態度は腹立たしい。実際、共に敵と戦うという姿勢でおられた女性の方も多かったし、また、報酬も支払われていたのも事実だろう(補足3)。しかし、そのようなことは学者の声として、国際社会で宣伝すべきであるが、政治では国際標準の外交を目指すべきであると思う。

マスコミで話題になることを予測しながら、「あれは単なる売春婦だった」とか、日韓合意の文書も読まないで「10億円の拠出は慰安婦撤去が条件だ」などとこの時点で発言することは、 (腹立たしい思いをしている一定数の)国民の票を得ようとする売名行為だろう。本当にそう思うのなら、資料を集めて自分の考察を加えて論文や本を書くべきである。そのような人に限って何も勉強せずに、国会議員を職業としているのである。

私自身は、今回のケースで再び非常に腹立たしい思いに駆られているが、どちらに向いて怒りを投げつけるのが“正しい怒り方”なのか分からない状況である。

このあたりで日本の全ての有権者は、これまでの常識を排してもう一度原点から考えるべきであると思う。米国と日本の政治をほぼ一貫して支配してきた親米派官僚と政治家が行ってきた日本人への刷り込みを取り除くことが、東北アジアで生き残る上に必須である。慰安婦を始め、尖閣問題、竹島問題、全て一から考えることが大事だろう。(補足4)

補足:

1)1939年8月、時の総理平沼麒一郎が、「欧州の天地(世界)は複雑怪奇」と言って辞職したという。全く大局が読めない人が総理を務めるのが日本国であったという。(クレムリンメソッド、p35)
2)河野談話の後でもこの問題が再燃したのは、この問題がなくなっては困る勢力が韓国にあったことと、日本人(+日系人)にもそれを利用して地位を確保しようとした人がいたことだろう。また当時、日本のトップに腹を決めるタイプの人がいなかったのも大きな原因であると思う(宮澤、細川、羽田、村山内閣)。
3)朴裕河著「帝国の慰安婦」にはこのあたりのことが詳しく書かれている。真実が知られることを恐れた韓国裁判所は著者に罰金支払いを命じた。(2015/1/13; ソウル東部地裁)
4)上記高島氏著の本には、1902年(日韓協約前)日本の漁師が竹島周辺で漁をするにあたって、税金を韓国側に納めたという資料が2012年に韓国より明らかにされているという(p60)。また、尖閣諸島については、1978年に福田総理と鄧小平の間で結ばれた福田密約の存在(p47)について触れられている。更に、ごく最近の出来事で、丹羽中国大使の後任で中国着任前に死亡した西宮大使の暗殺説についても述べている。「日中韓の東アジア共同体構想を破壊することが、米国の最優先課題である」という言葉を、頭の中に置くべきであると思う。

2016年1月12日火曜日

米国は北朝鮮に核兵器保持を認める可能性大か? それを止めるのは、日本の核兵器開発言及しかないだろう。

北が水爆実験成功と発表してから6日経った。実際は水爆実験なら失敗であり、或いは、もともと原爆の小型化などの実験だった可能性もある。では何故、水爆実験成功といったのか? 田中宇さんのブログがその答えと思しきことを書いている。 http://jp.mg5.mail.yahoo.co.jp/neo/launch?.rand=64t3c74o72e9l#tb=mw7v6lxr

北朝鮮と中国は表向き仲が悪いとか言っているが、それは中国、または米国、或いは両国協調の巧妙なウソだろう。実際には中国は決して北朝鮮に圧力をかけないだろう。その証拠の一つが、7日のケリー米国務長官と王毅中国外相の会談において、ケリーが圧力強化を要請したが、それに対して王毅は、カギは米国にあると発言したことである。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160108-00000093-mai-int

日本では中国のメンツが潰されて怒っているとかなんとかバカなことばかり報道している。何故まともな報道ができないのか。おそらく、親米外交評論家たちがテレビ出演枠を抑えているからだろう。

実際には、相当深刻なシナリオが進みつつある。田中氏は米国が考える北朝鮮の核問題解決は、①これ以上の核兵器製造をしないこと、②高性能核兵器開発をしないこと、③核輸出をアラブ諸国等へしないこと、の三点であり、その線でオバマは六カ国協議再開を考えているというのである。この考えは田中氏のオリジナルではない、それを言い出したのが90年代のクリントン政権の国防長官だったウィリアム・ペリーである(1/10、Politicomagazine). http://www.politico.com/magazine/story/2016/01/north-korea-nuclear-weapons-contain-213516

この動きを韓国は察知しているだろう。そして、韓国でも核保持の議論が始まっている。http://www.sankei.com/world/news/160107/wor1601070070-n1.html 田中氏の推理は、北朝鮮もこの米国の考えているシナリオを予想して、水爆実験成功を演出したというのだ。核開発を現状で凍結するという”現状”の中に、水爆保持を潜り込ませておくためである。いざとなれば、水爆廃棄という架空の譲歩も可能だからだ。

しかし、日本ではそのような動きは出ないだろう。核アレルギーが国民の間に根強いからであるが、それを放置したのは自民党対米従属派である。そして、これまで核保持を考えた政治家は米国により或いは米国の指示による日本側外交関係者により葬り去られてきたと思う。その結果、日本はこのまま破滅への道を歩むだろう。

それに抵抗する勢力はこれまで通り、米国の手により処分されるだろう。吉田茂や佐藤栄作など、自民党主流はすべて米国の言いなりになることで自分の政治生命を最大限伸ばしたのである。その政権が安定なのは、日本を囲むすべての国の期待するのは日本破滅のシナリオだからだ。

もちろん、今後この動きがスムースに進むとは思えない。オバマ氏が(最低の努力で最高の名誉を得ようとする)この路線を進めれば、次期大統領を共和党にとられる可能性大である。トランプ氏が次期大統領になれば、世界は混沌となり、その方が悲劇的かもしれない。そのシナリオを避けるためにも、早期に日本は独自核兵器開発をチラつかせる必要があると思う。また、それしか北朝鮮から核兵器を取り除く手段はないのだ。

2016年1月11日月曜日

先週末の従軍慰安婦関連TV番組での議論について

国会議員たちは、マスコミで政治解説している人たちの議論は、合意事項全文を読んでいないのか?それとも、日本語をまともに使えないのか? これがTV番組を視聴した感想である。(面白くなく途中で切ることが多いが。。。)日韓合意の内容全文は以下に書かれている。http://news.livedoor.com/article/detail/11007181/

一般に、当事国双方の首脳がともに確認・同意したことを守らなければ、外交関係は成立しない。従って、“従軍慰安婦”問題について日韓で約束したことは、どちら側も実行すべきである。しかし、報道されている両国の様子から考えると、おそらく具体的な実行には至らないだろう。

結局、日本側発表の最初の合意事項: 「慰安婦問題に対する日本軍関与と日本政府の責任の確認、安倍総理による慰安婦への心からのお詫びと反省の気持ちの表明」だけが生き残り、それ以下はうやむやになるだろう。

国際社会のメディアはそれを、「日本が20万人の少女を性奴隷にした。日本民族とはその様な民族なのだ。それを日本政府も認めた。」とニヤニヤしながら報道するだろう。仲間が増えて喜ぶのは、原爆を落とした米国とユダヤ民族絶滅を企んだドイツである。最初に苛められるのは、在外日本人子弟たちかもしれない。

この合意に対して先週末、多くの政治関連TV番組で議論されていた。それによると、慰安婦の像が撤去されることに注目が集まっているようである。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160110-00000559-san-pol

上記サイトによると、稲田朋美与党政調会長も慰安婦像を撤去してもらうと言っているらしい。テレビを見ていても、「10億円拠出は慰安婦像撤去が前提だ」とかなんとか言っている人が多数だが、合意事項全文には10億円で良いとは書いていないし、慰安婦像撤去が条件だとも書いていない。

合意事項に書かれている金額は、“おおよそ10億円”であり、韓国側が例えば「財団の目的達成のために再度計算したところ、40億円必要だ」といえば、その金額について協議が必要になるだろう。慰安婦像撤去の件も、「韓国政府は関係団体と協議して努力する」のであり、撤去できるかどうかはわからない。

TVでの議論を聞いていて、政治家連中やマスコミ出演の人たちは、合意事項全文を読みもせず、いい加減なことを言っているのだろうと思った。「日韓で合意しろ」と命令した米国をごまかすだけなら良いが、上記のように日本側が既に一方的に損をしている。こうなった以上、韓国に財団を設立させて、資金を一括支払し、韓国側の姿勢をじっくり見た方が良いと思う。

補足として、以下に両外務大臣の確認事項の概略を記す。詳細は上記サイトを見て欲しい。

岸田外務大臣の確認事項の概略は、
(1)慰安婦問題に対する日本政府の責任の確認、安倍総理による慰安婦への心からのお詫びと反省の気持ちの表明;
(2)韓国政府が設立した「慰安婦支援の財団」へおおよそ10億円の基金を一括拠出する。
(3)上記の実施を前提に、この問題の最終的不可逆的解決を確認する。今後両政府は国際社会において、この件で互いに非難しない。

それに対して、韓国外務大臣の確認事項の概略は、
(1)日本政府が上記(1)、(2)で表明した措置が着実に実施されるとの前提で、この問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する。韓国政府は、日本政府の実施する措置に協力する;
(2)韓国政府は、日本大使館前の少女像に対し、公館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、可能な対応方向について関連団体と協議を行う等を通じて、適切に解決されるよう努力する。
(3)日本政府と共に、今後、国連等国際社会において、本問題について互いに非難・批判することは控える。

よくもこのような曖昧な合意をしたものだと思う。言語的に曖昧でないのは、岸田外相の(1)だけであるが、“謝罪”が対象とする出来事は、歴史的には捏造である可能性が極めて高い。政治家は、歴史を無視し言葉もまともに使えない連中なのか。

2016年1月9日土曜日

世界資本が目指す政治経済のグローバル化

近年の経済発展と政治経済のグローバル化は、米国が牽引車としての役割を担っている。世界中でFTAやTPPのような自由貿易協定が結ばれれば、生き残れる企業は一つの分野で数社という寡占状態に行き着き、その競争から脱落した企業は生き残れなくなる。その筋書きは、一部でユダヤ金融資本により作られたと言われているが、私にはわからない。

生き残り企業に乏しい国では、多くの人が世界企業傘下の現地法人の従業員として採用されたとしても、その企業のほとんどの利益はその企業の資本家、つまり主にその企業を輩出した国の資本家のものとなる。つまり、その様な国は外国資本の植民地と言える。一次産業が主だったころの植民地は、土地を奪われるタイプのものだったが、近年の植民地は資本による支配を受けるタイプのものになったのだ。

その様な資本の植民地となった国の役割は、その国特有の資源をグローバル企業に差し出すこととなる。そして人々は、地域密着型の農業等一次産業に従事する人、グローバル企業の資本家として勝ち残った少数の人、その企業での労働者、小売業など従業員などとして、細々と生きる。

現在、一定の技術を持ち一定の顧客を持つ日本のトヨタのような会社は、そしてその様な企業を一定数持つ国家は、外国資本の植民地には差し当たりならないだろう。しかし、米国資本等は新しいタイプの技術や産業(補足1)でもって、戦場を拡大し、世界制覇を狙っているように見える。

また、環境保全(補足2)や地球温暖化(補足3)という新しい概念は、決して人間の健康や世界の気候の安定を考えてのことだけではない。それらは、新しいルールを世界に強要して、途上国に多く存在する限られた資源の保存と、中程度工業化国家の企業を淘汰するためであると考えている。それらの技術面と政治面の両方向からの企みにより、最終的にはグローバル資本が世界中を支配するような地球になるかもしれない。

そのような世界で世界資本に支配された国々は、米国の調教による“自由と民主主義を重視する社会”を形成するものの、繰り返しになるが、米国以外の国の役割はその国特有の資源(補足4)を米国企業に差し出すだけとなる。現在でも既に中東諸国は、政治体制は違うもののそのようなタイプの国となっていると思う。石油などの資源がある場合は、かなり裕福な生活がさしあたりできるが、資源が枯渇すると未来は暗い。資本家だけが生き残れるが、それも米国等へ逃げるしか生き残る道はないかもしれない。

更に資本植民地候補として、韓国などの国である。経済評論家の三橋氏などが指摘する様に、サムソンや現代は韓国の企業ではないという根拠は、それらの株の大半は外国人所有であることを意味している。日本の大企業の株主の30%以上も既に外国人となっている。日本の場合、多額の資本投資を外国に行っており、現在の所貿易終始が赤字でも経常収支は黒字である。

補足:

1)具体的に、トヨタを考えてみる。トヨタのさしあたりの課題は問題化する順で、1)環境を配慮した車での競争で勝ち残れるか、2)自動運転車の技術の競争に勝ち残れるか、3)自動車の個人所有が不要になる時代がこないか、の3つである。1)は、プラグインハイブリッドの競争である。燃料電池車が主流になればトヨタは有利である。2)は、グーグルとフォードが提携するので、やはり一歩遅れているのではないか。3)は、アマゾンなどの会社が自動運転車を一定数保有して、いつでもネットからの発注で配車してくれるため、社会が必要とする自動車の数が激減するのである。このように考えると、日本もそして代表的企業であるトヨタも安心してはおられない。

2)クジラやイルカの保護、森林保護、サンゴ礁の保護も大切ではあるが、それよりも人間社会の平和と繁栄が大事である。

3)地球温暖化が急激にすすむとした有名な論文(Mann, Bradley and Hughes: Global-scale temperature patterns and climateforcing over the past six centuries, Nature, 392, 779-787, 1998.)に捏造疑惑がある。なお、この問題については以前のブログで議論したので引用しておく。 http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2014/08/blog-post_26.html 重要な点は、気温測定ポイントが都市化してもそれを変更せず、地球の気温を測定しているのか都市化を測定しているのか分からない杜撰さを放置していることである。

4)観光資源もその一つである。ギリシャなどはこのタイプの国の一つだろう。

2016年1月7日木曜日

北朝鮮を承認すれば、核兵器を放棄するだろう。

なんども同じことを書く:
朝鮮戦争の休戦から60年以上たっているが、終戦にはなっていない。つまり、敵国であった米国や韓国は、北朝鮮が国連に加盟して久しいにもかかわらず、未だに北朝鮮の征服を諦めたということになっていない。

朝鮮戦争を終戦とし、国境を確定して講和条約を結べば、北朝鮮が核兵器の開発などしなかっただろう。現在の異常な北朝鮮の姿は、米国らがその存在を認めなかったからだと思う。

なぜ、60年以上たっても、朝鮮戦争を終戦として、北朝鮮の体制をみとめないのか?
米国がアジアに混乱の種を残したいというエゴに原因があるのではないか。マッカーサーが朝鮮戦争のときに更迭されたことに関係があると思う。なぜなら、マッカーサーは怒って議会で日本の戦争は自衛の戦争だと証言していることでもわかる。

北朝鮮が中国にたいして持つ不満は、米国との仲立ちとなり、朝鮮戦争の終戦と韓国、米国、日本との関係正常化などの道を開いてくれないことだと思う。六カ国協議とは、ピストルを持った怖い人を含めて5人の警官が一人の男、怪しげではあるが、を取り囲み、”命の保障をしないが武器を捨てろ”というようなものである。

解決する気になれば、それほど難しくない。北朝鮮の承認で米国は一体なにを失うのか?
テレビでは終始いい加減なことを言っている。

2016年1月5日火曜日

山崎豊子著「大地の子」の感想

山崎豊子著「大地の子」を読んだ。満州開拓団として海を渡ったある一家の内、南下してくるソ連兵の銃弾や銃剣から生き残った幼い兄妹二人のその後の半生を描いた、文庫本4冊の大河ドラマ風小説である。冒頭に、「この作品は、多数の関係者を取材し、小説的に構成したもので、登場する人物、関係機関なども、すべて事実に基づいて再構成したフィクションである」と書かれている。

主人公陸一心(日本名、松本勝男)は、日本の中国残留孤児(小日本鬼子)という負の遺産に起因する、壮絶な個人と国家による虐待を受ける一方、高い能力と幸運、それに人間的魅力による多くの個人(男性&女性)による援護を受けて、最終的には養父(陸徳志)にも実の父(松本耕次)にも、認められるような実りある人生を築いた。その人生には、普通の人の数倍の悲しみや迷いと、同じく数倍の喜びと決断を伴っただろうと思う。

「大地の子」は人間に起こりうる様々な境遇と、それに応じて人間が性質においては野獣から天使の範囲で、大きさにおいては小鳥から象或いはその数十倍にまで変化しうることを、大きな画面で拡大して見せてくれるような小説であると思う。それと同時に国家とそれを動かす人間、それに扇動或いは虐待される民衆をリアルに描いており、我々一般民が国家とはなにかを考える上でも良い材料になると思う。

主人公の陸一心は最後まで等身大の善意の人間として振る舞うが、それは上記の様々な人間たちを測るスケールにもなり得るように描かれている。

以下に簡単に小説の粗筋を書く。

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主人公は7歳の時に、終戦後中ソ国境から南下してきたソ連兵の銃剣から逃れるべく重なった死体の間に身を隠す。幼子を抱いた母や祖父が死に、生き残ったのは一心と妹あつ子のみであった。父は満州から召集されて九州にいたので生き別れとなったのである。

農夫に拾われた一心は、そこで牛馬のようにこき使われる。その苛酷な使役から自力で逃れ、途中で別の中国人に捕まり売られるが、温情ある養父に拾われる。貧しい中で大連の工業大学まで卒業させてもらい技師(北京鋼鉄公司)として職を得るが、文化大革命(補足1)の時代になり、運命が暗転する。

狂ったような自己保全の空気に支配された群衆によって、主に知識人や地位の高い人間が走資派として、冤罪をでっち上げられる。陸一心は、日本孤児であるという出自も関係して、凄まじいほどの虐待の末に、懲役刑を受け労働改造所(内蒙古)に送られる。文革が終了したあと日本語に関する知識も買われて、日本と中国の合同プロジェクトである上海での大型製鉄所の建設に関わり、中国側の利益のために能力を発揮するが、その日本側の現地代表が実の父松本耕次である。父とは知らないで数年間、主人公はタフな交渉相手となって中国のために尽くすことになる。

そのころ中国残留孤児の調査が日本から度々派遣され、松本耕次も参加して子供たちを探す。陸一心は実父松本耕次よりも先に、既に重病を抱えた妹あつ子の所在を突き止め、その病気の治療に尽くすが、その甲斐なくあつ子は死の床につく(補足2)。松本耕次もようやく娘の所在を突き止めて、そこで陸一心を名乗っていた息子の勝男と再会する。

父子ともに数十年の空いた時間を埋め合わせる事が容易でないが、わだかまりはそれぞれの事情を知るにつれて徐々に消えていく。日本へ出張することになった陸一心は、僅かな空いた時間を利用して実家に父を訪問し、母の位牌や妹の遺髪が置かれた仏壇に手を合わすことになる。

その後、実父は養父と面会して、息子が裸にされて売りに出されていた様子や、長春から解放区へ出る際に残留孤児ではないかと疑われた話、共産党青年部に入部する際の話などを聞いて、再会するまでの息子の歩んだ厳しい道と、実子以上の愛情で接してくれた養父母との関係を知るようになる。二人がその建設に力を尽くした製鉄所の火入れも終わり、松本耕次と陸一心の父と子は、長江三峡下りの船旅にでる。そこで、実父は一心に日本に来て一緒に暮らさないかと言い、息子もこころが動くが、やはり自分は「大地の子」だと言って話は終わる。
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中国は広い、そしてそこに住む人々の心も暮らしぶりも、広い範囲に亘っている。大家族というネットワークもその一つだが、生き残るにはできるだけ多くの味方を作りそのコネ(ネットワーク)を総動員しなければならない。法もルールも道徳も(補足3)、場合によっては無力であることを、大衆の隅々までもが知っている国であると思う。

大きな国では、その政治の波もまた大きい。大躍進運動や文化大革命の他にも、鄧小平が華国鋒を失脚させる手段に、この上海での日中合同プロジェクトが利用され、そのため工事が一時中断することになる。登場人物は仮名だが、容易に実在名がわかるので、文化大革命以後の中国の政治の動きと社会の様子の相関を感じる上でも、有用な小説だと思う。

ただ、実際の出来事に基づいているとは言え、多くの事実を再構成する段階で、多くの人生が一つの人生に重ねて作り換えられているのではないかという疑いを持ってしまう。つまり、これほどドラマチックな人生を陸一心という人ひとりが経験しただろうかという疑問である。

補足:
1)大躍進運動という誤った経済政策で、一時政権から遠ざかっていた毛沢東が、権力奪還のために始めた運動である。文化大革命と言うものの、文化にも革命にも無関係な毛沢東の権力奪還の運動である。(その時期の中国の様子については、ユン・チャンのワイルドスワン(wild swans)参照)
2)妹のあつ子の人生は本当に凄まじいものであった。一心の人生も悲惨な時期の体験は凄まじいものであり、感想文などでは書けない。
3)法に道徳、その他のルールは、平和な時代の豊かな人たちのものである。

2016年1月4日月曜日

言葉を大切にする文化と公の空間を持つ文化

1)この数日慰安婦問題を議論してきた。この問題の根幹の一つに慰安所(婦)という当時の新造語がある。この言葉は、「兵士を慰安して指揮を高め、日本国の国策に協力する仕事である」という意味を込め、女性やその親族に応募する際の心理的圧迫感を減少させるために作ったのだろう(補足1)。

慰安所の実体は売春宿だったのだが、そう言ってしまえば身も蓋もないという反論がでたのだろう。そのような“言語文化”が、実は日本や東アジア特有のごまかしの文化の一端であることを、再確認すべきである。西欧では考えられない言葉の軽視である。(補足2)その原因と対策などを少し考えてみた。

言葉が正確に定義される必要性は、公の空間が十分に広く作られている場合に高いのである。それは空間を渡る間に誤解や曲解が生じる(或いは意図的に生じさせる)可能性があるからである。日本において一般大衆が参加する公の空間は、皮一枚程度に薄いか、或いはほとんどない(補足3)。したがって、言葉の定義が曖昧でも社会はそれなりに動くのである。(補足4)

この慰安所(婦)という言葉を思いついた軍当局は、阿吽の呼吸でうまくことが運ぶとほくそ笑んだだろう。その言葉が、公の空間を汚すことになるという意識など、当時の軍関係者にはなかっただろう。日本の敗戦は想像できても、慰安婦という言葉が80年後に国際的な公空間に引っ張り出されて、赤恥をかくことなど想像すらできなかっただろう。

2)その次に現れた大きなごまかしの言葉が自衛隊である(補足5)。自衛のための戦争というごまかしを含んだ用法(補足6)も同時につくられた。いうまでもなく、憲法9条第二項との整合性をごまかすために作られた言葉である。当然自衛隊を用いて、自衛のために外国に侵攻するという詭弁も成立するだろう。そして、自衛のために自国が滅びるという皮肉なこともあり得るのである。言葉を軽視するのは、自分をごまかすことであり、他人はおろか自分でも論理の根拠を失うのである。

韓国では裁判所が「本件に関しては、行政から斯々然々の要請があった」と読み上げる国であると驚くのは、将に目糞鼻糞を笑うの類である。

公の空間を意識する文化へ向かうには、マスコミの努力も重要である。NHKは率先して、政府から独立して発言しなければならない。なぜなら、NHKは現政権のためではなく国民のための放送局だから、国民は税金ではなく視聴料を支払うのである。

もっとも、公の空間と個人の自立は、同時達成されるものである。「個人の自立」は東アジア諸国にとって極めて難しい問題である。何時も問題解決を考える時に行き着く先は、学校教育である。

補足:

1)強制連行するのなら、このような言葉を作る必要などない。
2)「始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。全てのものは彼を通してつくられた。」と聖書にある。言葉は肉を得てキリストとなる。
3)公の空間を意識するところから、公つまり表に向かう姿勢と裏での私的な姿勢に差が生じる。公の空間と私の空間の峻別があって初めて、プライバシーという言葉の意味が理解される。因みに、寄付は公の空間への金銭的貢献である。日本では、寄付を社会人の義務と考えるのではなく、恵まれない個人への施しと考えるのは、本文に示したような未熟な社会的意識による。
4)そのような文化的背景があるため、大衆相手の言葉は定義が曖昧で時代とともに大きく動く可能性が高い。最近の言葉で、例えば”イケメンゴリラ”や”美しすぎる国会議員”では、言葉のかなりの深いところまで崩れている。ゴリラはメンではないし、「すぎる」は形容詞の最上級を示す語尾ではない。
5)念のために補足すると、私は憲法を改訂(改正とはいいません)して、軍隊をもつべきだと思っています。
6)ある国が攻めてきた場合、戦うのは自衛の戦争と言えるという反論はあり得る。しかし、その反論が正当なら、先の大戦で日本と戦った米国の戦争は、自衛のための戦争ということになる。

慰安婦は存在したが、慰安婦問題は現在存在しない筈

慰安婦問題についてもう少し本を読もうと、大沼保昭著「慰安婦問題とは何だったか」(補足1)を読み始めた。しかし、第1章で以下のような記述を見て読む気が失せた。

6ペイジ目に「過去の戦争と植民地支配で日本がどれだけ取り返しのつかない行為を犯してしまったかを国民自身が知り、問題に直面しなければ、問題は解決しない」と書かれている。

また、7ペイジにかけて、「こうした取り決め(サンフランシスコ講和条約と日韓基本条約)のない北朝鮮を除けば、日本の戦争と植民地支配に関わる賠償・保障問題は法的には一応「解決」していた」。

そのあとに以下の文章が続く。この文のエッセンスは、最初に引用した文章と同じである。「他方、国民の多くは日本が戦争と植民地支配でどのような非道・蛮行を犯したかを知らない。こうした問題の「解決(補足2)」がどれほど多くの被害者を放置し、中国や韓国などの国民の怒りの種になっているかも知らない。日本の政府と国民がともに歴史に対峙しなければ、日本はいつまでも被害を受けた国から批判されつづける。」

しかし、この著者の論拠には注意すべき点が三つある。それらは、1)異常な戦争の時代と平和の時代を峻別していないこと、2)講和条約や日韓基本条約の役割を十分考慮していないこと、3)国家と個人を明確に分けて議論していないこと、である。

確かに、軍に同行して多くの兵士に性サービスを提供する日常は、代償として高い給金をもらっていたとはいえ、現代の視点で考えれば非常に過酷な境遇である。しかし、満州や千島を南下して女さらいや強姦を繰り返したソ連兵の行動について、どう評価するのか。もちろん、ベトナムでの韓国の慰安婦制度についても言及するひとも多い。http://www.sankei.com/world/news/150513/wor1505130021-n1.html

悲劇的で異常な当時の世界の中で、日本軍周辺の慰安所だけをクローズアップする手法は、全体的に鬱憤がたまった集団において、弱虫を見つけ出して袋叩きにする学校での虐めと酷似していると思う。

講和条約や日韓基本条約(以下講和条約等)は、戦争の時代が終わったことを敗戦国と戦勝国が宣言する行為である。具体的には、講和条約等以前の出来事の評価とその埋め合わせを取り決め、今後はこの講和条約等の時点を起点にして両国関係を考えましょうという公的な約束である。そして、「そののちの出来事は通常の価値判断で互いに処理しましょう」という意味も当然含まれていることである(補足3)。

戦地で食料に困窮すれば、現地の家に押し入り食物を奪うこともあるだろうが、講和条約前の判断基準では敵軍に向かう兵士の補給行為の一つとなるだろうが、平和時では強盗となる。国民国家における徴兵制度は、”殺人鬼奴隷制度”である。殺人鬼と性サービスのどちらが非人道的なのか? 従軍慰安婦だけ、平和時の価値基準で評価してこの本は、世界の日本パッシングに協力している。(英国ガーディアンの記事のコラム参照)因みに韓国は、強制連行があったとする物的証拠を示さず、元慰安婦の曖昧な証言を証拠としている。一般の裁判では物的証拠を必須としても、日本パッシングでは証言で十分だとする欧米の態度は卑怯である。

国家が歴史に対峙することは当然であり、講和条約後に戦争時にあった個々の事象について改めて評価することはあっても、それは今後その様な状況に陥らない様にするためである。つまり、個々の事象についての評価を外交に反映すること、例えば、改めて謝罪する必要は特別な場合を除いてない(補足4)。

国民各自が歴史を勉強すること、歴史上の個々の出来事を各自評価をすることは大切だと思う。しかし、それは私的なこころと知識の問題であり、国家の外交へ反映させるためではない。国家に永続性があっても、国民はすでに世代交代しているのであり、歴史に”対峙”(補足5)などできない。

それら根本的な諸点で上記本の著者はまちがっていると思う。

補足:

1)中公新書2007年、大沼保昭氏は当時国際法選考の東大大学院教授
2)この「解決」は「講和条約や日韓基本条約での解決」の意味
3)わかりやすい例では、殺人は戦争行為ではなく犯罪行為となる。通常の刑事犯として処罰される。
4)個々の事象についての評価を、講和条約後にそれぞれ外交に反映すれば、戦後秩序の破壊に繋がる。
5)辞書によると、対峙とは「対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること」である。当事者でないのに、対峙などできるわけがない。「対峙しろ、謝罪しろ、保障しろ」という韓国人のほとんども当事者でない。

2016年1月3日日曜日

米国と韓国の歴史修正主義:米国の慰安婦問題干渉の目的は何か

米国と韓国の歴史修正主義:米国の慰安婦問題干渉の目的は何か1)河野談話に批判的だったと思っていた安倍さんが、あのような合意を韓国とするとは、想像できなかった。http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20140610/plt1406101537005-n1.htm 下のサイトを見ると、韓国の言い分に全く根拠はないように思える。もちろん、これも大きな慰安婦という歴史をミクロに見た場合の一つの光景かもしれない。http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/151117/lif15111715270005-n1.html

先週の従軍慰安婦問題の日韓合意は、韓国により新たに書かれた「従軍慰安婦の歴史」が、日本で最初に作られた「従軍慰安婦の歴史」に勝利したという意味で画期的である。国連事務総長もさぞ満足なことだろう。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160101-00000057-jij-kr 韓国が勝利したのは、日本の歴史を貶すことで日本に対して何かをしたいと考える米国の強力な援軍があったからと感じる。

2)ちょっと原点に戻って考えてみる。
歴史とは、「時間と空間の両軸に沿って、人間の住む世界を把握、解釈、叙述する営み」(補足1)であるから、空間や時間を限定すれば大きく違った歴史が出来上がる。何万という事実を羅列しても、それは歴史ではなく、それらのうち重要なものをつなぎ合わせて、時間と空間を座標に因果関係を添えて一つの物語にすることで歴史になる。従って当然、韓国の歴史と日本の歴史は異なっても何の不思議もない。

未来に向かって両国の互恵関係を築くというのなら、両国関係について共通の基盤がなければならない。これまでの歴史に関する理解が相互に大きく異なれば、共通の基盤を持ち得ないのだからプラス方向で付き合うことはできない。従って、講和条約(日韓では日韓基本条約)を締結しそれを共通の基盤にして、その後は前を向いて付き合おうというのが人類の築いた政治文化だと理解する。それに反する動きを「歴史修正主義」として、欧米は排斥してきた筈である。

そして、韓国の従軍慰安婦問題を利用した日本攻撃は、まさにその歴史修正主義的な行為であると思う。しかも韓国の“慰安婦の歴史”は、物的証拠ではなく、旧慰安婦を名乗る自国民の証言に基づいて作られたものである。その歴史構築は、証言のみを証拠にして犯罪捜査するようなもので、日本側の“慰安婦の歴史”の構築姿勢に比べて非常に不完全だと思う。

今回の慰安婦の件は米国と韓国が共同して、韓国製の従軍慰安婦物語を、慰安婦への賠償(間接的であっても)を日本政府の金で行わせることで、現在の日本政府に強要したものである。それが歴史修正主義でなくて何なのか。米国は、自分たちが排斥している歴史修正主義を韓国に許容し、日韓の関係修復という名目で両国の間に楔を打ち込むという非常に卑怯な行為である(補足2)。

その米国の目的は、何なのかわからない。前回は、中国に米国の覇権範囲を再確認させるためと書いたが、そんなことは中国は最初からわかっている筈。そっぽを向き始めた韓国を米国側に向き直させることにしては、やり方が卑劣すぎる。北朝鮮の崩壊などの政変を睨んで、早急に日米韓の協力関係を築きたいのなら、逆に韓国に厳しい要求であってしかるべきである。

ひょっとして、久しぶりに長期政権になる可能性の高い安倍政権を潰すことではないだろうか。

補足:
1)岡田英弘著「歴史とはなにか」(文春新書2001)の記述を、私流に変形した。
2)米国の広島と長崎における非人道的な行為に関して、日本政府も個人も米国に対して賠償を要求しないのは、講和条約締結前のことだからである。