2016年2月28日日曜日

人間と社会における表と裏の別は大切である

1)人間は言葉を話す唯一の生物である(補足1)。言葉を話すことにより人間に表裏ができた。発した言葉が表で心の中が裏である。「表裏の無い人」と言う言葉がある。「表裏の無い人」は表裏の違い、つまり、表で発せられた約束などの言葉と実際の行動とのずれ(補足2)の無い人を褒める言葉である。

そのような人は当然立派で褒めるに価する人ではある。その人は自分の発した言葉に責任を持つ人であるが、表裏が無いわけではない。一般に「表裏の無い人」というのは、本音は別にあってもそれを制御して、社会の中での自分の責任を承知し、それを果たす人のことである。上記タイトルの意味は、この表裏の差は本質的なものであり、むしろなくしてはならないという意味である。

直接関係はないが、細胞の内外(表裏)で大きなナトリウムイオンとカリウムイオンの濃度差がある。この表裏の差が神経での信号伝達など生物の命を支えているのである。生命は、そして人間の体も心も、そのように作られている。

人間の生活に目を転じても、表と裏や“ハレとケ”の区別が社会の構造を支えてきた。しかしそれが、経済発展とともに氷解するようになくなりつつある。個人も社会も、暑くなって衣服を脱ぎ捨てるように、表と裏の差もハレとケの区別もなくそうとしている。小泉内閣のとき、国会でもノーネクタイがクールビズとかなんとか言って推奨されたのもその一例である。

もう一つの重要な例が、性(セックス)が表の世界にしゃしゃり出たことである。性は人間にとって個人の裏(内部)に封じ込めておくべきことだったが、それが上記社会の変化に伴って、大手を振って外に出てきたのである。細胞内のカリウムイオンのように家庭の夫婦間に性を封じ込め、外での濃度を低く保つことが、人間にとっての性の意味とポテンシャルを維持しつつ、性のモラルを保つことになるのである(補足3)。それにより家庭という細胞の崩壊を防いで来たのだが、最近は家庭や家族の価値も低下する方向にある(補足4)。それは社会の崩壊の始まりである。

昨今、その人類が築いた知恵をないがしろにする場面を屡々テレビなどでも見る。外国に来て職をもらい、テレビに出演させてもらいながら、不埒な発言をする人物もいる(補足5)。

2)一旦発した言葉に責任を持つと同時に、他人が発した言葉をそのまま受け取りその人の意思の表明と考えるのが、先進社会のルールである。そして、言葉に信用を置けない社会では、社会のあらゆる機能:経済行為、契約行為、行政から司法までの国家の行為、さらに外交関係にまで、障害が生じる。外交でどちらにでも取れるような言葉を多用する日本国は、その点では後進国である。

言葉に信用が十分おけない社会とは、絶縁のとれていない基盤の上に組んだ電子装置のようなものである。少しでも漏電するような装置は満足に動くはずがない。社会機能を保つのは、人間の言葉の信用であり、それは屡々本音の一部を心の中でフィルターにかけることで保たれる。つまり、本音と建前を分離して、互いに建前を大事にすることが社会の機能を保障するのである。

しかし、言葉には常に意味の広がりや曖昧さが伴うので、正確な意味を互いに確認する作業が、混乱を避けるために必要である。そして、その言葉使いの歴史が、言葉を育ててきたのだろう。

3)同様のことが国家と国民の関係でもいえると思う。民主主義国家では、国民が国家の最高機関である国会の構成員を選び、その国会からあるいは別途選挙で行政府の長を選ぶ。その行政府の長が政府の上層部の人事を決定する。そして、国民の前に見せる国家の姿(表の姿)は、政府が発する言葉とデータ(実績)である。

しかし、裏から見た国家の姿は大きくことなる。政府内部で実質的に多くの企画や戦略策定などの仕事をしているのは、官僚である。官僚に対して情報を持ち込むのは、諜報機関(CIA, M16, KGBなど)や国家戦略研究所などのシンクタンク(補足6)などである。更に手足となる軍隊や警察などの組織もある。政府の発する言葉やデータを選挙民は選挙における投票の材料にするが、それらは上記の政府機関全体が作ったものである。

選挙民である国民は、政治の主人公というより客である。選挙で行うのは、政府の出したメニューに対する選択あるいは可否の判断である。その判断が的確であれば、政府はより国民の期待する方向に成長するだろう。それは、客の舌が肥えて来れば、料亭の料理人の腕が上がるのと相似形である。いちいち厨房に行って、内部を見る客はいない。

従って、この国家内部からみた官僚組織、諜報機関やシンクタンク、軍隊組織などが、それらしく成長していなければ、民主主義政治は混乱するだけで、衆愚政治となるだろう。アラブの春の失敗は最初から予想されていたはずである。その時点までに、国民からのフィードバックを政府が取り入れるプロセスを経験していなければ、混乱するだけだ。

補足:

1)他の動物では行動の延長上に発する声があるが、それは論理を伴う言葉ではない。論理がなければ嘘も真もなく、表裏も生じない。つまり、唯一人間のみが裏表のある動物である。
2)100円と1ドルの差は、ドルを円に換算しないと取れない。上の例では、言動から予想される行動と実際の行動の差でも良い。単純なことのようだが、本当は簡単ではない。例えば、「拉致問題解決のために全力を尽くす」という言葉と、北朝鮮の国連制裁決議の発議国となるという行動は、言行不一致に思える。つまり、表のことばと異なり、「拉致問題を軽視する」のが現政権の裏だと思う。しかし、行動から裏の言葉に変換するには知識がひつようだからである。
3)最近の性の乱れと同時に草食系と言われる人々の出現の理由は、この文章で自ずと明らかである。
4)下重暁子という元NHKアナウンサーの書いた「家族という病」が非常に良く売れている。
5)3日ほど前、朝のテレビ番組ビビットで金慶珠という怪しげな人が、「セックスもすてき」ということを雑談に紛れていっていた。こんな女に日本の電波が穢されることに不快感を感じた記憶がある。
6)米国のシンクタンクのリストがあった。https://www.spc.jst.go.jp/link/under/list_usa.html

2016年2月27日土曜日

北朝鮮制裁国連決議案

アメリカは敵にすれば恐ろしい

北朝鮮に対する国連の制裁案が米中の会談で決まったらしい。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160226/k10010422651000.html航空燃料の輸出禁止、石炭の輸入禁止など、これまでにない厳しい内容だという。制裁案は、北朝鮮の出口を考えて作っているのだろうか?厳しければ最終的に暴発するだけであり、その様な制裁案は東洋人である私から見て正しい制裁案とは思えない。

戦争前、くず鉄禁輸から石油禁輸と逃げ道を封じられ、最後に中国での権益を一切否定する覚書を突きつけられて、負ける戦争に突入した日本を思い出す人が多いのではないだろうか。もちろん、日本の近衛総理の無能さや松岡外相の愚かさが日米開戦の第一の原因だと思う。しかし、英米など能力のある一神教の国は、愚かな国に対しては容赦なく叩くことしか頭に浮かばないのだろうかと思ってしまう。しかも、二度と立ち上がれ無い様に。日本なら、力も能力もある者は、弱い者や愚かで間違いを犯す者がいれば、助けるのが人徳だと教えられて育つのだが。

彼らは人情は傍に置いて(無いとは言わない)、論理で自国の利益を考える人たちである。その論理を用いて、二度と立ち上がれ無い叩き方を優秀な人たちのブレインストーミングで練る。そして日本に用いた方法は、しばらくは戦える力を与えることである。勝てるかもしれ無いと愚者が思い込む程度の力である。開戦前の1年半の石油備蓄がそれに当たるのかもしれない。そして北朝鮮にとっての核兵器だろう。アメリカまでミサイルで打ち込むことは出来ないだろう。せいぜい在韓国か在日本の米軍基地だろう。その時点で米国に傷を負わせることは可能だが、打ち込んだ方の命はなくなる。皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を折るのだ。北朝鮮もこれでいよいよ終わりだ。拉致被害者の命もよど号乗っ取り犯の命もこれで消える可能性が高いと思う。

全力で戦いに臨む相手ほど負けた時の打撃は大きいし、その後の調教も簡単なのだ。北朝鮮から核を排除することは、20年前(ソ連崩壊後)に朝鮮戦争を終わらせることで出来たと思う。http://blogs.yahoo.co.jp/mopyesr/42622974.html それは、米国に蚊に噛まれる程度のことを許す度量があればである。周りが狩猟民から牧畜民へとなったキリスト教圏の国々ならそうしただろうと思う。しかし、日本も中国も彼らにとって異教徒の国である。農耕民族であり、独特の粘りと団結がある。東アジアに打ち込んだ杭である北朝鮮を失うと、家畜化した日本が再び野生の狼に戻る可能性がある。東アジア共同体つまり昔の大東亜共栄圏は、米国が最も嫌がるシナリオであり、それが進行しない様に犬を繋ぎとめる重要な杭なのだ。(補足1)

中国はバカじゃない。米国を知り尽くしているだろう。今回の米国との対北朝鮮制裁に関する合意は、本物だろう。ロシアにとっても、北朝鮮はそれほど大きな存在ではない。今回の国連決議は採択されるだろうと思う。

補足:
1)この考え方は、僻み根性の極みかもしれない。日本には三方一両損という話がある。「お互い人間じゃないか。あんたには富も能力もあるのだから、一両損の大岡越前になってもらいたい」といえば、米国はどういうだろうか。

=これは素人の書きなぐりです。適当に読みとばしてください。=

2016年2月26日金曜日

山形での32年間無免許で教員を続けたケースの処分について

ニュースによると、先日山形県立高校の保健体育の女性教諭(55)が、32年間も教員免許を持たないまま授業をしていたことがおとといにわかった。これまで4つの学校で約7700人の生徒を教えていたという。http://www.j-cast.com/tv/2016/02/24259419.html

女性は「誰にも相談できず、ずっと悩んでいた」と話しているという。教員免許の取得試験に合格していたが、病気で申請することができず、そのままになっていたというのだから、教員としての能力はある筈。それは32年間教育現場において疑問が出なかったことでも明らかである。

この件、県では32年間分の給与の返還を要求するというが、それは徒らに一人の不幸な人間をつくるだけだ。雇用停止と例えば給与の支払い額累計の1/20程度の返還要求くらいが妥当だと思う。教師としての仕事はこなしていたし、実害はないのだから。もちろん、法を 超えたことはしてはいけないが、返還要求の額は合理的に査定すれば良い筈だ。

更に、厳格な姿勢で臨むのなら、県は免許の確認をせずに雇用を続けた責任を問うべきである。

しかし、何故、免許の再申請をしなかったのだろうか?

追加事項:

戦後かなりの期間、小中学校では教員免許証の無い人が代用教員として、教壇に立っていた。筆者も代用教員に教わった経験がある。彼らには、師範学校や大学の教育学部を出ていないが、現場教育という形で教員免許が授与され、その結果教壇に立つものは全て教員免許を持つこととなった。ウィキペディアには昭和36年まで代用教員が教壇に立っていたとある。https://ja.wikipedia.org/wiki/代用教員

ウィキペディアの文章の中の以下の部分を読んでもらいたい。
「1949年(昭和24年)に制定された教育職員免許法において、小学校等の教員は免許状を有する者でなければならないと定められたため、代用教員の存在根拠が失われたが、新制中学校成立に伴う小中学校有資格教員不足を背景に、従前の代用教員には臨時免許状が付与され、助教諭の身分が与えられた。」

つまり、1949年の法律と現実は一致せず、超法規的に臨時免許が発行されていたのである。

すぐに厳罰を考えるのは、社会が冷え冷えとしていて、教育委員会の人たちも心が冷え切っているのだろう。

2016年2月25日木曜日

和を貴ぶ文化は高度な組織には向かない:日本陸軍の暴走について

1)「和を以て貴しとなす」は聖徳太子の17条憲法の第一条である(補足1)。日本の文化の特徴として頻繁に引用されるこの言葉は、現実的でなくイデオロギー的である。人と人の和は大切であるが、この条文だけではどの範囲の人を含むのかわからない。例えば、ある人ともう一人の人の間の和が、三人目の不和を含むなら、それは和の達成にはならない。

最も強固な社会の枠が、家族から、部族、民族、国家と拡大したのが、人類の歴史である。したがって、社会のあり方に関する法やルールは、その社会の枠内で一定の期間を通して、普遍性を持たなくてはならない。「和をもって貴しとなす」は家族や部族までの社会では普遍性を持ち得ても、複雑化した現代社会では普遍性を持ち得ない。つまり、17条憲法第1条など、この社会での何かを語るのに持ち出すことは間違いなのだ。

取って代わるべきは何か?国家全体の長期に亘る利益につながるものは、和ではなく真理だろう。真理は動かず、思考の原点になり得るからである。その原点から思考を開始し、何が国家にとって得かを論理を尽くして考え、道を導き出すのが為政者の仕事であると思う。

2)しかし、日本社会は17条憲法第1条の呪縛にかかっている。最近昭和史の本を少し読んでいるが、あの英米と戦争を始める際、データを元に(補足2)強く反対した冷静な意見は、熱くなり思考停止に陥った連中の楽観論に打ち勝たなかった。そんな時に標語となるのが「精神一到何事か成らざらん」である。そして、予定通り敗戦となり、その後も和を以て誰も責任を問われることはなかった(補足3)。

この時陸軍が主導的な役割をするが、その陸軍の組織としての特徴がノモンハン事件に関する本、「ノモンハンの夏」(半藤一利、文春文庫)に書かれている。このケースでは、和の範囲は陸軍でさえなく、関東軍限りになったのである。和の範囲が狭まると、思考力はないが親分肌の人間が座を支配し、自分たちにとって有利な楽観論が狭い空間での空気を支配する。

参謀本部の方針は、国境紛争不拡大だったが、関東軍司令部はそれとは全く逆の「満ソ国境紛争処理要綱」を将軍たちに示達した(1939年4月)。それはソ連軍の力を軽視した楽観的な分析を前提としており、広範な議論を経ず、関東軍司令部作戦課に集まった数人によりまとめられた。彼らは、陸軍大学を優秀な成績で卒業して恩賜の軍刀をもらった秀才たち、好戦的な辻少佐や服部中佐などである。(ノモンハンの夏、57頁)

盧溝橋事件から戦闘に入った対中国戦争で手がいっぱいの陸軍にとって、ソ連(外モンゴル)との戦争は避けたい。東京の参謀本部のこの方針を実質的に無視して、大敗する結果となった。秀才が集まった関東軍作戦課だったが、和を重視する文化の下での限られた議論では、数人の楽観論に収斂する危険が高いのだ。

辻参謀の「前後を通じて、当時の関東軍司令部ほど上下一体、水いらずの人間関係はなかった」という言葉は(同上、56頁)、“水入らずの人間関係が国を危うくした”ことを示している。辻氏は戦後、代議士となった。“和をもって貴しとなす”原理の支配下にあるこの国では、業績の客観的評価など期待すべくもない。

補足:
1)一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。 口語訳:一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことに順わなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
2)英米と戦争すれば、石油はとまる。石油備蓄量から考えても、戦えるのは1年半くらいであった。(半藤一利、「昭和史」平凡社文庫308ページ)
3)東京裁判は敵国によってなされた戦争処理のようなものである。国内では、国民の署名と国会での議決に基づく、戦争犯罪者の釈放、処刑された者の公務死認定、靖国神社への合祀が全員を対象になされた。

2016年2月23日火曜日

「守るべき日本の国益」菅沼光弘氏著の本の内容と感想

1)1)菅沼光弘氏は、日本外国特派員協会で”日本の裏社会について”という講演をし、注目された元公安調査庁調査第二部長である。https://www.youtube.com/watch?v=kr1rvu5vR40  公安調査庁は法務省の外局であり、調査部門として国内を対象にする調査第一部と国際情報を担当する調査第二部を持つ。限られた陣容と権限の中で活動しているが、諸外国が持つ諜報機関とは性格もレベルも違う。表題の本は、2009年出版である。

まず、著者の国際関係についての基本的な考え方は、「主権国家の上に立つ超国家的な公権力は存在せず、無政府状態にあると言っていい」、そして「政治&経済力、特に軍事力において優位に立つ国が自由自在に世界を動かしている」。

日本が、独立自尊の国家として国際社会で国益を守るには、日本国民が自覚と国家意識を持つことが前提である。その上で、国際社会の現実(諸外国の意向、世界戦略、対日政策の本当の狙い)を把握し、それを踏まえて的確な国家戦略を構築する必要がある。それは、多数の専門家による集団の努力により初めて得られるものである。第二次大戦後、主要国は何れも強大な中央情報機関を設立して、自らの判断で国民の安全と繁栄を守ろうとしている。しかし、我が国だけがそのような中央情報機関の設立をせず、不可欠な対外情報をアメリカに依存しているのが実情である。(序章)

2)1952年4月の講和条約の後、緒方竹虎元副総理らが中心になって中央情報機構をつくるべく動いたが、実現しなかった。左翼勢力が強くてできなかったという公式の説明があるが、調査によると本当は米国が作らせなかったのである。(207頁) その理由は、調査の対象をアメリカに向かわせない為と、アメリカの情報に依存させるためである。(202頁)

冷戦が終結しソ連が解体されたのち、CIAの方針を議会で問われた当時のロバート・ゲーツCIA長官は、「これまでCIAの能力の90%を対ソ問題に費やしてきたが、これからはその能力の60%を経済戦争につぎ込む」と公言した。手始めにアメリカの大使館などにCIAの経済分析官を入れ、日本研究を行った。その研究結果を基に、大蔵省、大蔵官僚、大蔵省傘下の組織の腐敗等を批判し、大蔵省を財務省と金融庁とに分割させた。そして、新自由主義・市場経済の導入など、米国の価値観の共有を強いた。(178-181頁)

つまり、日本の情報源である米国は、日本を敵対国と考えているようなのだ。(175ページ;CIAのターゲットはソ連から、経済戦争の敵対国・日本へ)

3)日本の現在の危機的状況について、菅沼氏は“日清戦争や日露戦争前夜のような状況に置かれている”(47頁)と考えている。明治の日本の指導者には危機感があった。そして的を射た判断に基づいて、戦略戦術を練りあげた。当時の日本に比べて、現在日本には独立自尊(の気概)がない。

菅沼氏は、北朝鮮問題が落ち着き米中の対決が解消したのちの日本の置かれた状況を予想し、以下のように書いている。(補足1)六カ国協議を「北東アジアの平和と安全を守るための恒常的な多国間の機構としていこう」という機運が各国の間で高まる。既に冷戦は終わり、更に米中の対決が解消すれば、アメリカは日本を軍事拠点にする必然性はなくなり、日米安保条約に代わって六カ国協議で、北東アジアの平和と安全を守っていこうということになる。日本の安全は名目上、アメリカの核の傘から六カ国協議の枠組みの「核の傘」に依存することになる。(49頁)

更に、韓国は同じ民族であるし、そのほかは核大国であるから、六カ国協議構成国の中で北朝鮮の核兵器の脅威に晒されるのは、現実的に日本だけだ。(133頁)北朝鮮が核兵器を持つことになった時、日本でも核武装の是非について議論が出るのは当然である。しかし、ライス国務長官が日本に飛んできて、「米国は日本の防衛に対して強い決意を持っている。米国の核の傘は有効だ。」と発言し、議論を沈静化した。米国が日本の核保有論に過敏に反応した理由は、「日本が核兵器を持てば、いつか米国本土を核攻撃し、広島と長崎への原爆投下の復讐を果たそうとする」と考えているからだ。

報復は罪に問われないとするキリスト教的な価値観があるから、米国は日本の核報復を恐れるのである。(補足2)中国、韓国、そして、ロシアも、日本の軍事力を封じ込めたいのであり、各国にとっての最大の脅威は、北朝鮮の核武装ではなく、日本の核武装なのだ。(195-198頁)六カ国協議は北朝鮮を非核化させる機構から、日本の核武装を阻止し、軍事的台頭を抑える機構へと変質しているだろう。

4)以上がこの本のだいたいの内容であり、日本の危機的状況とそれまでの経緯である。それを乗り越えるには日本国民が危機感を持つこと、それには情報収集が国家によりなされ戦略構築の材料として提供しなければならないということである。そのほかに非常に示唆に富む文章が幾つかあった。

①その一つは、「拉致問題解決のためにも日朝国交正常化を最優先せよ」という文章である。これは既に、私がブログになんども書いたが、菅沼氏のこの本の中にあるとは思わなかった。ただし、それは韓国と米国の反対にあってできないだろう。(このブログで何度も書いている)また、「拉致問題にもたつく日本の状況は、北朝鮮の地下資源を狙う国々にとって有利だ」とある。(224-229頁)

②盧溝橋事件を引き起こしたのは実は中国共産党軍である。1949年の中華人民共和国の成立宣言の際、周恩来首相は「あの時、我々の軍隊が日本軍と国民党軍の両方に鉄砲を打ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々に今日の栄光をもたらせた」と語ったとされる。(150頁)

③外人記者クラブでの講演の概要と補足(62-77頁)と、日本のヤクザの撲滅運動がまさに米国の圧力のもとに進められたことが書かれている。(72頁;補足3)

5)感想の追加:
この本は、読む時にはスラスラと読めるのだが、感想文としてまとめる作業はかなり困難だった。情報機関のプロの視点から見た日本の危機的状況と国際環境について、直感的に分かりやすく書かれており、有用な本だと思った。

日本が危機的状況を乗り越えるには、置かれた状況に対する日本国民の自覚が何よりも必要だと私も思う。しかし、それはナショナリズムとポピュリズムの台頭を抑えつつ行わなければならない。その為、近代史に重点をおいた歴史教育と児童に独立した人格を育てるような教育が大切である。日本の「和を以て貴しとなす」という伝統を重視する姿勢は、むしろ障害になると考える。伝統に学ぶのは良いが、伝統に囚われては新しい時代の危機を乗り越えることはできない。

日本の伝統には、日本の近代化にふさわしくないものも多い。 ”和を以て貴しとなす文化”は、機能を分担し更にそれを多層化する近代的な組織化には向かない。それが関東軍が参謀本部や天皇陛下の意向を無視して暴走した原因の一つである。かれらは、仲間内では”和を以て貴しとなしていた”のである。つまり、米国の圧力も、伝統ではなく論理的思考のフィルターを通して、正しいものは取り入れるべきだと思う。
また、マスコミは社会的役割を自覚して、積極的に寄与しなくてはならないと思う。

補足:
1)2009年当時、北朝鮮問題は現在ほど緊迫していなかったので、このような議論になったと思う。しかし、それが解決したあとのことを考えるのは現在も重要である。
2)キリストの言葉:「もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をむけてやりなさい。」は、元々存在する報復の文化を戒めている。その文化圏に米国があると言うことである。
3)菅沼氏は、ヤクザも日本の伝統であるとして擁護的なのは、一定の社会的役割を果たしてきたからである。しかし、その伝統は保持すべきものだとは思えない。ただ、ヤクザの構成員も日本国民として生きる権利を有しており、その取り締まりが権利侵害になってはいけないと思う。

2016年2月22日月曜日

北朝鮮に核兵器を開発させたのは米国である(II)

今日Wall Street Journalが、北朝鮮による1月6日の核実験前、米国と北朝鮮が朝鮮戦争(1950~53年)の平和協定交渉開始の可否をめぐり非公式に接触したものの、折り合わず核実験で完全に決裂していたと伝えた(今日のヤフーニュースによる;http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160222-00000011-jij-n_ame)。

朝鮮戦争終結を、60年以上経った今ようやく議論するのは誠におかしな話だ。ずっと前から、私はブログで北朝鮮をソフトランディングさせるべきだと書いてきた。また、具体的に国連事務総長が中心になって米国を説得して北朝鮮をなぜ承認しないのかと言ってきた。最近では、1月24日のブログ記事で、北朝鮮に核兵器を持たせたのはアメリカであると書いた。

今日のWSJの記事は、単に米国のアリバイ工作のようなものである。核兵器開発前に、朝鮮戦争の終結を考えておれば、北朝鮮の核の脅威は生じなかった可能性大であるし、拉致被害者の帰還も実現していただろう

そして、飢えに苦しむ北朝鮮ではなく、ベトナム型の国が出来ていて、飢えなど無くなっていただろう。北朝鮮を承認せずに、東北アジアの紛争の種として残したのは、米国の犯罪的企みの結果である。

2016年2月21日日曜日

「自省録」中曽根元総理の回想録の感想

戦後総理の中でも長期政権を誇った中曽根氏が何を考えていたか知りたかったのだが、表題の本を読んだ理由である。しかし、内容が薄いという印象をもった。戦後日本を代表する元総理の一人が、日本政治を動かしたのがどのような力であったか、日本の世界における位置をどうかんがえていたか、将来の日本をどう予測していたのか、などを 知る上で参考になるだろうと思って最後まで読んだ。

日本の戦後政治はGHQの日本改造計画を元に進められた。それは、旧日本を数領域に分断(南北朝鮮、千島、台湾、日本列島)し、強力な軍備は持たさず、愛国心を国民から払拭して、二度と強国として立ち上がれない国にするという方針である。

日本独立後も、米国の対日方針が統治方針から外交方針になっただけで、内容が変わったわけではないと思う。GHQの影、或いは、GHQの残像が強く日本政治に残ったはずだが、この自省録にはそれがいくつかの具体例に見られるだけであり、体系的な記述は全く見られない。

例えば、吉田茂総理が、「(GHQから日本に)与えられた憲法の改正、日本の安全保障を担当する自衛隊(軍?)の必要性、教育基本法の改正などを訴え、堂々と“自分の国は自分で守り、米軍は早く返す”と、まっとうな議論をやっていたなら、今日これほどひどい後遺症は残らなかったと思います」と書いている。それは吉田茂の怠慢なのか、無能さなのか、米国の反対があってのことなのか、何の議論もない。

また、現在(2004年)の世界の紛争の理解も、アメリカと一部の“ならず者国家”との間のものと捉えている(212頁)。ならず者国家というのは政治家としては安っぽい表現だと思う。それらの国が何故ならず者になったのか、何故ならず者に見えるのか、それに大国の影響などないのか?それらについても、何も書いていない。

昭和の大戦と明治憲法の欠陥については述べているが、その欠陥が放置された理由については言及していない。また、運用の間違いについて、「明治の元老が亡くなった」ことに丸投げしている。軍、特に陸軍の奢りについて、少しでも議論すべきである。憲法改正(改訂でなく改正と書いている)についても、「一生懸命に説明しても国民が理解しれくれない」「何故理解しれもらえないのか?これは人間の壁だと思い至ったのです」(248-249頁)という、貧弱な理解である。

憲法改正の必要性を国民に理解させる為になすべきことは、国民と日本政府の間に信頼感を築くことである。そして、それには昭和の大戦の再評価を徹底的に国内の問題として行うことだと思う。中曽根氏の個人的総括は32頁に書かれているが、貧弱だと思う。最初に、「皇国史観は通用しない」としているが、誰が皇室史観で戦争を始めたのか?(補足1)自分が開戦反対を軍艦上でいうには勇気が必要だと言っているが、海軍では大臣(米内光 政)も次官(山本五十六)も英米との開戦は反対だった筈だ。

自分の政権を回想するという章であるが、外交に関しては米国の要求をほぼ丸呑みであったが、米国の要請は米国の保護国である日本は受け入れるしか方法がないと受け取ったのだろう。ロンとヤスの関係については、内外の政治家の評価のところで書かれている。個人として仲良くやるのは比較的簡単だろうが、国家を背負って仲良くなるは困難な仕事だと思う。単に米国の対外方針に理解を示し“イエス”というだけでは、仲はよくなるが、国家を背負ったことにならないと思う。

繰り返しになるが、何故、吉田茂元総理が、国家としての政治的骨組作りに着手しなかったのか?それらを大事と思わなかったのか?時期尚早と思ったからなのか、議論がないのは非常に残念である。鳩山一郎が憲法改正と日ソ交渉という政策を掲げて昭和29年の選挙にかった。その鳩山一郎の政策は、脱占領政策、吉田政治からの脱却という面を持っていたが、何故鳩山内閣が短命に終わったのかについても書かれていない。(補足2)

田中角栄失脚の原因として米国石油メジャーの絶大な力に言及しているが、どのような経緯で石油メジャーとロッキード疑惑が関係しているのか? とにかく、これがこの本で唯一政治を動かす深部に潜って存在する本当の力に言及したことばである(補足3)。

田中角栄だけではなく、鳩山一郎内閣にも、短命に終わった内閣の影に米国があったのではないのか? それにどう対処するかにアイデアを出さなければ、米国の属国からの脱却はできないのである。つまり、それらすべてに、米国の日本を二度と立ち上がれない国にするという基本方針が反映されていた筈であるが、その重要な点についてほとんど気がついていないか隠している。

中曽根内閣は、何かを行うチャンスであったにも関わらず、自分にできないことはやらないし、できるだけ長期間総理大臣を務めるという世俗的目的を最優先したのではないのか。

内政では国鉄、日本専売高公社、電電公社などの行政改革を成し遂げた話と教育改革できなかった話が主である。最後に、「教育改革を私の政権時代に実現できなかったことは、最大の悔やみと思っています。」と述べている。つまり、上記国家の枠組の問題はさしあたり、それほど大きなものではなかったと言っていることになる。教育改革など、国家の骨組がまともになれば、自然に解決するのだ。

この本は結論として、永田町の住民内の勢力争いに最も多く頁数を割いた、政治屋的回想録である。この本では、米国や中国をはじめ、世界は日本が働きかけるべき対象と言うよりは、永田町内ポリティックスに与えられた土俵のような感覚である。

補足:

1)大東亜戦争の総括として中曽根氏は5項目あげている。 ①昔の皇国史観には賛成しない。②東京裁判史観は正当でない。③⑤あの戦争は、対英米と対中国&アジアで性格がことなる。対英米仏蘭に対しては普通の戦争だが、アジアに対しては侵略戦争だった。④動員された国民大多数は祖国防衛の為に戦ったし、一部は反植民地主義・アジア解放の為に戦った。(32頁)
2)日ソ国交回復(1956)後に、退陣している。体調なのか、何なのかわからない。
3)これには孫崎亨氏の「アメリカに潰された政治家たち」の中で、日中国交回復が真の原因だろうと書かれている。石油政策なら、当時石油政策にかかわっていた中曽根通産大臣(孫崎氏は当時、イラクから石油利権獲得に動いていた通産省の石油開発課にいた。)が無傷である筈がないと書いている。因みに、この本の中で、中曽根康弘氏は代表的な対米追随路線の政治家とされている。

2016年2月20日土曜日

韓国の反日は米国が作った:菅沼光弘氏の考え方の当否

米国が戦後日本を徹底的に骨抜きにしておこうとしたことは、改めていうまでもない。その一つが日韓の完全分断であった。韓国を独立させ、最初の大統領に置いたのが、あの李承晩である。李承晩は青年期に米国留学し、その後日本の朝鮮総督暗殺疑惑で危なくなった時に、米国に亡命した独立運動家である。

戦時中、韓国の人たちも旧日本軍の将校などになることは誇りの理由になりえたし、神風特攻隊に志願した人たちもいた。必ずしも日韓関係は、韓国=反日というものではなかった。しかし、米国の旧日本を分断して統治(“divide and rule”)するという路線を李承晩が忠実に実行する中で、今日の反日が始まったのだという。このように証言するのは、元公安調査庁調査第二部長(国際情勢分析担当)の菅沼光弘氏である。https://www.youtube.com/watch?v=gQK6QrNCG3k

菅沼氏は更に、次の朴正煕大統領(補足1)が完全な独立国になるべく原爆保持を目指した為に、米国の指示により暗殺されたと証言している。これらの証言は、信ぴょう性が高いと思う。https://www.youtube.com/watch?v=xCTfGiUpZVc

韓国の経済は、朴大統領が当選したころは北朝鮮よりも貧しい状況だった。朴正煕大統領の経済政策により、1970年始めころになって漸く北朝鮮を経済的に追い越し最貧国から脱した。それには、朴正煕大統領と佐藤内閣の日韓基本条約締結と日本からの経済協力金の支払いが大きい。(ウィキペディア;対日請求権白書、1976年、韓国政府による)

その一方、韓国の日本評論家である呉善花は、「朴正煕執政下の1960年代に、韓国を日本に比較し文化的に優位に位置づける反日イデオロギーが国民に教えられた」と主張したとウィキペディアは書いている。

しかし、朴大統領が韓国民に自国の文化的優位性を教えたことは、反日イデオロギーとは言えないと思う。それは、李承晩時代に禁止されていた日本語教育を中高等教育において再開させたことからも分かる。独立国で自国の文化的優位性を教育するのはなんら不思議なことではなく、朴正煕大統領は現実的な政治家であった結果だろう。イデオロギーを国民に植え付けるようなことは、その現実路線に反する。

従って、反日を植え付けたのは米国傀儡政権の李承晩だと思う。その流れは韓国の、日本併合を恥辱と受け取る底辺での国民感情と共鳴して、最終的に大きな流れになったのだろう。朴正煕大統領は、その流れの中の反日というネガティブな効果しかない愚かな動きを、ポジティブな効果が期待できる民族の誇りの方向に誘導したかったのだろう。

補足:
1)満州国軍官学校、および日本陸軍士官学校卒業(1944年)した。1942年当時満州国軍中尉だった丁一権は、新京でしばしば会った際に“いずれ日本帝国主義が滅び韓国が独立する”との旨を朴正煕から酒の席で聞いたと証言している。(ウィキペディア朴正煕の項)朴正煕の先見性と自国を思う心が現れている。  尚大統領の職には、腐敗した選挙に対する批判で失脚した李承晩の後、1963年に大統領選挙に当選。任期は1963年から1979年側近に暗殺されるまで。

2016年2月19日金曜日

反面教師:宮崎謙介氏と日本国

1)宮崎謙介氏は、国会中に男性議員も育休をとると言い出した元衆議院議員である。その育休中には、育児に協力するのではなく、何か別のことに専念しただろう。既に議員を辞職したが、彼の業績は有権者に対して反面教師となったことである。

週刊誌やテレビは、彼の公人としての情けない姿を延々と大衆の娯楽に供しているが、それだけで良いのか? 折角、宮崎氏が反面教師の役を演じてくれたのに、正面教師としての役割があるのと違うのか? 

政治評論をマスコミに流し、それを仕事にしながら宮崎氏のようなタイプの政治家に取って代わることを目指さない多くの人たちは、日本国に負う父祖からの恩を忘れた人たちである。しかしあまり強く非難ができないのは、真面目に考えた場合、政治家は割りに合わない仕事だからである。

政治家という職業が、日本国と国民の将来を決める大変重要な仕事であるということを知れば知るほど、その重責とあまりにも軽い待遇のギャップが、政治家を目指そうとする人の障害となる。政治家として国家国民の為に仕事をすることは、よほどの幸運がない限り割に合わない。何かをすれば、業績は他人に盗られ、自分は失敗をしたとして非難される可能性も大きいだろう。

また、政治家を目指す際、最初に汚名を覚悟しなければならないということもある。

2)その汚名とは何か?

日本では、遺産相続で政治家になる人が多分最も多いだろう。遺産として政治家の椅子を継げない人は、3本の道を経由しなければならない。それらは、議員秘書、芸能やスポーツなどテレビ界、官僚などの世界から通じている。

遺産相続以外の道から、敢えて政治家を職業として目指す人は、幾つかのタイプに分けられると思う。(タイプ1)何もしないでサラリーマンとしては最高レベルの待遇が得られるという理由で、政治家を選ぶ人もその一つである。その典型例が宮崎氏だったと思う。そしてこのタイプが最も多いので、誰でも政治家を目指す人は、一旦この汚名を着せられる。それを覚悟しなければ、政治家を目指せないのである。

その他のタイプであるが、(タイプ2)漠然とボス猿的な権威権力に憧れる人と(タイプ3)世を憂いその身を犠牲にすることを厭わない英雄的な人である。前者のタイプ(タイプ2)だと思うのは、元コメディアンの男である。地方から国に舞台を換える時に、馬脚を現したのである。これも汚名かもしれない。何故なら、彼は他のタイプ1の政治家よりも優秀だと思われるからである。

最後のタイプ(タイプ3)が現れる確率は、宝くじの当選の確率程度だろう。後者のタイプは、善悪どちらかわからないが、歴史に名を残すだろう。このタイプでも汚名を歴史に残す可能性がかなり大きいから、政治家という仕事は割りが合わない。少しトライしたのだが、一旦身を引いた元大阪市長をこのタイプと期待した(している)人は多いだろう。橋下氏がこれまで残した一つの確かな業績は、この「政治家は割りの合わない仕事である」という上記の考え方を、周知した(と思われる)ことである。

3)外国では英雄らしき人物が政治家として現れ消えている(補足1)。彼らが失う命をまるで自業自得のように眺めている人が多いだろうが、本当にそれで良いのか?明治維新の時に命を失った多くの英雄たちと同じではないのか。

大衆のだれもが国家に危機感を持つ時、必ず英雄が現れるのは不思議でもなんでもない。「平和ボケしている国に英雄が現れない」の、待遇(数学or論理学)を採ればそうなる。つまり、日本の現在の状況は諸外国にとっての反面教師だということになる。

政治家は専門職である。専門と素人の差は、白井選手の床運動と自分の運動を比べればわかる。政治も経済同様にグローバル化している。大国の虚々実々の駆け引きの中で、事実を認識して国家の舵をとるのは専門家にしかできない。従って、優れた専門家としての政治家を育成するシステムを、日本は考えるべきである。

例えば、政治学部を国立大学全てに創設するのも一つである。大学に独立して政治学部がないのは異常である。

国民も、戦国時代から江戸時代までに、諸藩が生き残りの為に取った多くの戦略と戦術をもう一度研究し学習したほうが良いのだろう。あの歴史の中から、血のでないチャンバラ劇や勧善懲悪の印籠を見せる劇だけしか抽出しないのは、あまりにも愚かである。大河ドラマでその種の放送を1年間行うNHKには、視聴料を支払う理由はないと思う。

しかし、マスコミにも期待したい。国家の危うい状況を素早く感じる感覚を多くの国民が持った時、英雄は現れる。その感覚は、世界の状況を知らなければ育たない。世界の状況を把握するのは、事実とそれらをつなぐ論理である。マスコミには利益追求だけでなく、事実を報じることで社会の公益に奉仕してもらいたい。その意味で現在多少の貢献をしているのは、木曜日発売の週刊誌くらいだろう。

補足:
1)英雄らしき人物としたのは、米国などによる自由と民主主義の輸出により、殺された人たちを指す。貧しい国では独裁しか統治の方法はないだろうし、反対する者の粛清などで、悪人と決めつけるのは無理がある。経済の発展段階に応じて政治体制が変化するというのは、やはり真理だと思う。

2016年2月18日木曜日

今後の世界人口についての基礎データ:GDP/人と合計特殊出生率の相関

世界の経済発展と人口増加の問題は、今後の世界政治を考える上で非常に重要である。宗教や人種毎の人口などで大きな変化が短期間に起こると、政治を不安定にする可能性がある。また、トータルな人口があまりに大きくなると、食料と資源不足が生じることになる。

そこで、「貧乏人の子だくさん」の信憑性が気になり調べてみた。下の図は年収別世帯子供数の統計である。(http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h17/01_honpen/html/hm02010006.html)この図を見る限り、日本では年収と子供数の相関関係はあまりないようである。
ただ、年収が400万円以下の世帯で、子供4人以上の世帯の割合が目立って大きいことと、子供ゼロの割合も非常に大きいことが気になる。先進国では産児制限が技術的にも社会風習上でも可能であることを考えると、上記ことわざが正しいようにも見えるが、それを結論付けには十分ではない。

次に、世界の各国の一人当たりGDPと合計特殊出生率の関係(2013年)を調べてみた。合計特殊出生率、つまり一人の女性が一生の間に産む子供の数のランク上位には、アフリカの最貧国が並ぶ。中東でも貧しいアフガニスタン(4.9人)やイエメン(4.1人)に比較して、一人あたりの年収が10倍以上あるオマーン(2.6人 )やクウェート (2.9人)の出生率が目立って小さい。http://ecodb.net/ranking/wb_tfrtin.html

この傾向が正しいかどうかを更に確認するために、アフリカ各国の合計特殊出生率と一人当たりGDPの相関をみた(2013年、補足1)。下の図が結果で、2、3の例外を除いて、一人あたりGDPが大きいほど、合計特殊出生率は小さくなっている。傾向から離れた国であるが、赤道ギニアはもともと貧しい地域だが、1980年代に石油の採掘が始まり、1990年以降急激に経済発展した(2004年:成長率34%)国である。ガボンも同様であり、1970年より油田開発された。更に、GDP/人が5800ドルで出生率5.8のアンゴラも産油国である。
中東の石油は1900年ころから採掘されてきたが、ギニア湾岸の石油は1970年と新しい産油国であり、豊かさの歴史は浅いのだ。また、セーシェルやモーリシャスは産油国ではないが、観光資源の豊富な小さい島国である。セーシェルはインド洋の真珠とも呼ばれる一方、モーリシャスは現在英連邦の国であり、元々アフリカでは豊かな国である。

従って国のレベルでは、「貧乏な国の子だくさん」が確認された。

なぜこのような逆相関が一人当たりGDPと合計特殊出生率との間にあるのか。一つの理由として、欧米などの先進国でも同様であるが、経済発展に伴って一般に貧富の差が拡大する。そのため、国民は富裕層を目指して教育投資を積極的に行うだろう。その負担が大きいため、産児制限を行うのだろう。つまり、貧しい国では子供は低年齢から働き手だが、豊かな国では高年齢まで教育投資の対象となる。従って、赤道ギニアやガボンもやがて出生率が低下することになるだろう。

そのほかに、飽食状態よりも節食状態の方が繁殖能力があるという情報もある。しかし、その信憑性は定かではない。 http://www.midori-funin.com/blog/2013/05/post-50.html

補足:
1)数値データを再録する。

2016年2月17日水曜日

米国への宣戦布告文書が遅れたのは、米国大使館員の所為なのか?

日本軍が真珠湾を奇襲した翌日、ルーズベルト大統領が個々の爆撃された場所の名前をあげ、憎々しげに米国民にむけその事実を放送した。それまで戦端を開くことに消極的だった米国民の戦意を一挙に高め、日本の敗戦がその時点で決まった。

ウィキペディアの真珠湾攻撃の項目を見ると、以下のように書かれている。アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手交する。日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、米国と英国に宣戦を布告した。この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。そのため「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」と、アメリカから批判を受ける事となった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/真珠湾攻撃#.E5.AE.A3.E6.88.A6.E5.B8.83.E5.91.8A

この米国大使館員の手落ちによる通告の遅れは、ほとんど昭和史を勉強していない時点でも、よく知っていた。その後読んだ本での記述例をあげる。例えば、半藤一利著「昭和史」では、「大使館の外交官どもの怠慢というか無神経が災いし、結果的に通告が一時間遅れたという、歴史にあってはならない破廉恥な事態になったことはご存知だと思います」(平凡社、文庫版189頁)とある。

また、最近少し目を通した、中曽根康弘元総理の本「自省録」(新潮社、2004、30頁)にも、「日米交渉の最終局面で、ワシントンの日本大使館で暗号を解読し一刻も早く届けるべきところを怠った官僚の罪は万死に値します。ところが、この外務官僚は処罰どころか、戦後は優遇されて外務次官にまでなりました。」とある。

この件、井口貞夫の子の井口武夫は、宣戦通告遅延問題について、父親の勤務していた駐米大使館に落ち度はなく、通告の遅れは全て本省と軍部が責任を負うべきものであったとの主張を行なっている。(ウィキペディアの井口貞夫の項参照、なお、井口武夫は「開戦神話—対米通告は何故遅れたのか」を中央公論より出版している。)

この井口武夫氏の通説への反論を裏付ける資料が、2012年の秋に九州大の三輪教授の調査により米メリーランド州にある米国立公文書記録管理局で発見されたという。日経新聞2012/12/8朝刊の記事である。宣戦布告の本文電報は、1-14部に分かれた公電902号であり、1-13部は通常通りの時間に送られたが、二つの訂正公電903と906がその13.5-14.25時間後に送られ、そして最後の公電902号の第14部の打電が、真珠湾攻撃の10分前だったというのである。

軍部と外務省が最初から奇襲を計画し公電を遅らせたのだが、それを米国大使館員の不手際としたのは、外務大臣郷茂徳外相が重い罰を科されないようにするためらしい。

それは、今回とは別に三輪教授が国立公文書館で発見した「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」が証拠である。通告文の遅れを在米大使館に責任転嫁するとした弁護方針を記した資料ということである。http://www.nikkei.com/article/DGXDZO49302190X01C12A2BC8001/

そして、米国で文書をタイプした外務官僚が、その後外務次官まで出世した謎もとけるのである。これらの事実を知れば、中曽根元総理も憤慨でき無い筈である。

米国は公電を傍受しており、上記事実は重要でないという意見を言う人が多いかもしれない。しかし、それは全く違う。なぜなら、奇襲が米国民の戦意を高めたことのほかに、国民は日本政府の発表する歴史を信用できなくなるからである。

国連の女子差別撤廃委員会の対日審査会合が16日、ジュネーブで開かれた。 杉山晋輔外務審議官が慰安婦問題について、「日本政府が発見した資料の中には、軍や官憲による強制連行は確認できなかった」と述べた上、昨年末の日韓外相会談において「日韓間で最終的かつ不可逆的に解決されることが確認された」と説明した。しかし、戦後、上記宣戦布告文書公電の原本同様、関連資料を廃棄したのではないかという疑いが残る。

2016年2月16日火曜日

日本の言語文化:何故日本人は難解な言葉を使いたがるのか?

思い向くままに、いつもの日本語論議を以下に書きます。つまらないかもしれませんが。。。

1)現在政治家がよく使うことばに、慙愧に堪えない、忸怩たる思い、矜持を保つ、遺憾の意を示す、などがある。これらの言葉は発言する方も相手の心に語りかけている様に思えないし、聞く方も単に頭上を越えるような感覚をもつと思うが、その様に感じるのは私だけだろうか?

つまり、日本語で語られる言葉には、現実から離れて“宙に浮く様な”不思議な性質がある。それは日本語文化の特徴であるが、その原因の一つには借り物の言葉である漢語を多く使うからである。

政治家がこのような難解な表現を用いる理由は、“教養を言葉で飾るように”喋って、有権者の評価を上げることが一つだろうが、もう一つの理由は、自分の心の中でその言葉がほとんど反響しないため、気分的に楽だからだ。

例えば、慙愧という言葉の意味であるが、辞書には:ざんき=自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること、とある。“自分の見苦しさや過ちを反省する”という言葉をそのまま話すことは、一応高いプライドを持つ政治家には至難の技である。つまり、これらの言葉は通常あまり使われないため、喋っても心に響かないのである。

また、何か悪事の証拠を示され追求された政治家は、決して「わすれました」と言わない。それは日常語でわかり易い為、発言する側から聞く側にストレートに伝わるだけでなく、その言葉が自分の心をも攻撃するのである。従って使う表現は決まって、「記憶にありません」或いは「失念しました」である。その言葉の意味は「わすれました」と同じだが、聞いた側を煙に巻くだけでなく、自分の心も重く沈まないのである。

しかしである。心の中で反響するのを感じつつ、相手に向かって言葉を発するのが、人間にとっての喋るということなのだ。

2)ここで、慙愧という難解語の誤用例を取り上げる。安倍総理が第一次内閣のときに、松岡農水大臣が政治と金の問題で自殺した件で、「慙愧に耐えない」と発言し、ネット上で話題になったことがある。

松岡農水大臣の件の詳細はウィキペディアなどに譲るが、それは安倍総理が心に深く恥じることではない。従って、慙愧という単語の意味を十分ご存知なく、誤用だったのだろうというのがネット上での結論である。(http://techpr.cocolog-nifty.com/nakamura/2007/05/post_7d01.htmlなど)

慙愧という言葉の慙や愧という感じの意味を知っている人は、漢字検定一級を取った人以外にはほとんどいないだろう。総理大臣と言っても、知らない可能性は十分ある。財務大臣が未曾有や踏襲が読めなかったのだから。(最近では、北方領土担当大臣が歯舞が読めなかった。)

一般に言葉は、貨幣と同様社会のだれもが使えることが前提の筈である。従って、このような誤用の背景には、日本文化の中では「言葉は、自分の意思を相手に直接伝達するために用いられていない」という了解があるようだ。

3)日本の言語文化は不思議である。そして思い出すのが、幼少期に聞いた御詠歌やお坊さんが仏壇の前で読む経である。なんの目的であのような訳のわからない歌や漢詩にリズムをつけて歌うのか?(補足1)相手を意識して読んでいるのか?相手はだれなのか?

日本では、相手が一人の場合は、意思の伝達は本来以心伝心でなされることを理想とする。言葉を用いるのは次善の方法である。言葉を多く用いる人は饒舌な人物と軽蔑される。そして、寡黙は日本では誉め言葉である。何かの説得に言葉で応じると、「言葉じゃないのだ、態度で示せ」という風に軽蔑される。

相手が多数の場合は、改まった雰囲気で言葉を空間に電波のように投げかけるのである。聴く人はそれを受信機で受け取るのだ。その典型的な例は、何かの式などでの挨拶(スピーチ)や、街のあちこちに掲げられた「ゴミのない町、⚪⚪市」とかの掲示である。

補足:
1)般若心経の中の有名な色即是空&空即是色の是は、中国語のBe動詞であるので、集合の記号∈を用いると、色(形あるもの)∈空(実体のないもの)&空(実体のないもの)∈色(形あるもの)となる。これは色と空は等価であることとなり、単なる言い換えでなければ論理的に有りえない。(人は動物である&動物は人であるなら、人以外の生き物は動物ではないこととなる。)

2016年2月15日月曜日

人類が宗教を必要とした理由

宗教が生じた原因について若干考えてみたい。もちろん、素人なので戯言のように思われる方も多いと思うが、遠慮なく叩いてもらいたい。

1)人は生き残るために集団化した。そして、その集団(一つの部族)には動物の群れと違って、複雑な社会的構造と一組みの規範や習慣が存在する。その部族の安定的維持に中心的役割を果たすのが戦力と宗教であると思う。宗教の一大特徴は、死して天国あるいは極楽に行けるという教えであり、それは幼児からの”刷り込み”と強制で部族構成員が共有する(補足1)。

あらゆる宗教において、戒めを守れば死後天国に行けること保証するのは何故か。私は部族の戦力維持の為に、若者の命の供出が必要だからだと思う。つまり、部族(や民族)が戦う場合に当然死者がでる。その部族の為に戦って死んだ者こそ、真っ先に天国に入ることが宗教で保証されるべきだからである。

戦争に勝ち残る為には、若者が命を差し出すだけでは無理である。その宗教に対する信仰心で、部族の結束を強くする必要がある。そして、それら要求にあった最も優秀で説得力ある宗教を作った民族が、戦争を勝ち抜き生き残る確率が高くなるだろう。優秀な武器を作り、戦術を工夫する必要がある。従って、生き残る為には技術(や文化)の発展も大切である。武力と宗教と文化の三重の鎖の発展が、部族の生き残りの為になくてはならないと思う。

宗教の基本は、若者に命を部族の為に差し出させることであるが、それを合理化する為の道徳や規範、及びその説明に信憑性を持たせる為の部族の神話、更に(後の世で分離する)実用的な自然と社会に関する知識、などを含んだより高度なものに進化する。宗教の進化は、戦争などによる部族の淘汰で起こる。

生物の進化と部族の進化は相似であると思う。生物の進化では、頭脳や四肢などの個体の機能変化が起こるが、部族の進化は社会の組織化、宗教を含む文化の発展、軍事を含む技術の発展などを伴う。

従って:軍事と宗教は、ペアとなって他部族との戦争の為に生じ進化したと思う。

2)有史以来、人口は食料生産量で決まる。人も動物も食料が十分あれば、その数は幾何級数的に増加する。従って、下図に現れている近世の急激な人口増は、農業の発達などによって食料生産量が増加したことに対応している。
上の図(内閣府のHPより)によれば、1世紀から11世紀まで、世界の人口はほとんど増加していない。従って、幼児の段階で死亡したり、疫病で死亡したりすることも相当あるだろうが、多くは飢えた部族間の戦争で命を落としたのではないだろうか(補足2)。人口増加の裏には、必ず農業の広がりと改良がある筈である。人口が急増するとき、戦争で死ぬ人間の数は減少し、軍備開発の停滞や宗教の堕落が起こっているだろう(補足3)。
上図は考古学及び歴史学的に調査された、全死亡の内戦争でなくなる割合を示している。(池田信夫氏のブログhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51795121.html から転載;原著、Steven Pinker著、The better nature of our nature) 例えば、AD1325ころのSouth DakotaのCrow Creek(一番上)では60%にもなるっている。西欧文明が入り込まなかった地域では、南北米でもオセアニアでも、最大60%、平均して20%程度の戦争死亡率である。一方、20世紀の世界では平均2%以下の死亡率しかない。

つまり、近代文明前までは戦争死亡率は非常に高く、従ってこのデータは上記仮説の背景を説明している一つの資料であると思う。

グーグルグローブを見ると、温暖で緑に覆われた土地は、アフリカ中部、インドから東アジア、それに中南米である。アフリカで生まれた現世人は全地球に広がったが、部族の生き残りの理由となった農業など新技術の発生・発展は、東西に広がったユーラシア大陸で起こった(補足4)。http://www.s-yamaga.jp/nanimono/seimei/jinrui-01.htm

そして、もともと肥沃な土地であるインドや東アジアなどの人口密度が非常に高い地域は、人のプールの様な役割を果たしただろう。つまり、干ばつなど自然災害が起こって世界中の人口が減少しても、その後その土地へ人を移動させる役割を果たしたと考えられる。そして、部族の境界が明確にできる、中東など砂漠地域やヨーロッパなどの寒い地域において、戦争と宗教と文化の三重の鎖の戦いと発展があったのではないだろうか。

3)日本での例:
日本で戦争死を救う役割を果たしたのは、明治維新以降では靖国神社である。自爆攻撃を玉砕と呼び、最後に靖国で会おうと言い残して飛行機に乗ったのだから、それに異論のある方は皆無だろう。

日本の神道も、アニミズム的なものから、朝廷の英雄である天照大神を祀る神道に進化した。そして支配層は、古事記のような伝説とともに、出来れば聖書としてまとめたかったのではないだろうか。そうなれば、天照大神は日本製の人格神となる(補足5)。

武士が支配した中世、江戸時代以前の武士の戦争での死亡率は相当たかかったのではないだろうか。その戦争での死の救済のため、武士道が出来上がったと思う。儒教や仏教などから作り上げられた武士道は、思想というより宗教だと思う。

補足:
1)哲学の方でも死や、霊魂不滅などは考察されるが、来世がアプリオリに仮定されるわけではない。e.g., http://www.edv-consult.com/drwolf/lang_ja/Essay/Philosophia_mortis.html
2)致命的な病気の多くは、農業の発展特に家畜の飼育により生じた。従って、先進国と接触しなかった上記2番目の図の民は、ペストなどの疫病で死ぬことはなかった。(ジャレド・ダイヤモンド著、「銃・病原菌・鉄」)
3)現在はこの時期だと思う。武器の発展が停滞していたが、今後の歴史の大転換に備えて、新兵器の開発が進む時期に入ったかもしれない。おそらく、兵器ロボット、ドローン型殺人機、地球周回型の攻撃基地などが研究されているのではないだろうか。また、月面基地は人類による最初の大規模な月利用となる可能性が高いと思う。
4)これも、「銃・病原菌・鉄」に記載された考え方である。
5)その神道聖書が編纂されれば、聖徳太子の17条憲法は聖書におけるモーセの十戒に相当する形で載ったかもしれない。

2016年2月14日日曜日

日本の中に反日政党があるのは何故か?

青山繁晴氏の、「エゴと愛、命の選別と反日政党への視線」との題での動画について: https://www.youtube.com/watch?v=X-1Ldv4AYiM この後半部分で、日本に反日政党があることの異常性について話されている。また、どこの国の一般市民も普通に持っている愛国心が、日本では特別視されていることの異常性を指摘しておられる。

以下に私の感想を書く。

自国を貶める国会議員たちには腹立たしく思う。そして、日本人が持つべき土台である愛国心を持っていないという青山さんの指摘にも同意する。しかし、それは日本国という共通の土台に立って生きているということを、日本人全てが実感できていないことが原因ではないのか。日本国というのは、もちろん国土だけでなく、精神風土や政治文化など全てを含む。

その原因には二つあると思う。
第一の理由:それは、日本国が未だに米国の占領下に近いことである。この動画でも、昨年末の従軍慰安婦問題に対する日韓同意について、反日的決断であると指摘されている。私もそう思い、幾つも投稿してきた。以下にその一部を記す。

安易な“慰安婦最終決着”は危険では:韓国との交渉は中国と米国を念頭に進めるべき(12/26am)
ーーーーー(日韓合意、12/28)ーーーーーーー
今回の米国の圧力による慰安婦問題の合意は禍根を残すだろう(12/28 pm)
2050年問題:日本国の弱点について(12/29 pm)
慰安婦問題合意:汚い韓国と米国、そしてそれに盲従する外務省(12/31 pm)
米国と韓国の歴史修正主義:米国の慰安婦問題干渉の目的は何か(1/2 pm)
慰安婦は存在したが、慰安婦問題は現在存在しない筈(1/3 pm)

安倍政権でもあのような日韓同意をするのは、今や日本は米国に逆らって生きる道がないという(多分米国派官僚たちの)考えに安倍さんが同意せざるを得なかったのだろう。つまり、それなりの理由と歴史的経緯があると考えるべきだ。

その日本の情けない姿は、吉田茂から佐藤栄作などの長期政権の時、変更できた可能性がある。しかし、国を代表する地位にいながら、自分の政治生命や生物的生命を賭けて、それをしなかったのである(補足1)。青山氏の河野洋平氏らだけを槍玉にあげるのは間違っていると思う。

第二の理由:過去の歴史に向かい合う努力をしなかったため、70年前の戦争により一旦壊れた日本人の土台である愛国心を、未だ修復も再建もできないことである。

あの戦争を、国家として国民全ての議論として総括していないのである。例えば、あの大敗した戦争が、関東軍の暴走(軍による天皇の統帥権の干犯である;補足2)を契機として起こったという史実さえ、国民に共有されていない。

その時の政治家や軍人は他国の人間により処罰された(東京裁判など)が、それを支えた当時の外務官僚は全て不問に付されただけでなく、戦後日本の外交をリードしたのである。(半藤一利、「ノモンハンの夏」文芸春秋、文庫p39-40)それは日本国が戦争の総括をしていない証拠の一つである。官僚の無謬性という言葉で片付けるのは、このケースでは間違いである。

戦争の総括が国民とその代表によって行われておらず、その結論が国民全てに周知され確認されていなければ、国民が共通の土台に立てる訳がない。あの様な大敗をした他の国では、このようなことは無いだろう。

また、今でも薩長や下級貴族など明治維新の功労者の末裔が、日本をリードしている。これも異常であり、新陳代謝が国の指導者の考え方において、皆無だということになる。その良い例が、安倍総理が岸信介元総理を過剰に意識されていることではないだろうか。

この「考え方における新陳代謝の無さ」は、大戦時の陸軍幹部が不自然なほど自信過剰であったことでもわかる。例えばノモンハン事件の際、関東軍がソ連軍の実力をあまりにも低く評価していたことがある。それは日露戦争の勝利の後遺症だというのである。(「ノモンハンの夏」参照)

当時の陸軍も薩長土肥の出身が多い。そしてかれらは、明治維新の際に孝明天皇を暗殺したように、昭和天皇が三国同盟に最後まで反対すれば、暗殺した可能性すらあった。実際、昭和天皇は三国同盟を認める際、もしそうしなければ内乱となり、日本国が一層危うい方向に走ることを危惧されたと、独白録にあるという。(半藤一利、「昭和史」平凡社、文庫p301)

日本の再建は遠いと思う。

補足:
1)何も米国にとって都合の悪いことをしなかったから長期政権となったと考える方が正しいだろう。これは、元外務官僚の孫崎享氏の指摘である。
2)軍の内閣の決定を無視して、あるいは、待たずして陸軍が暴走したのは、明治憲法の構造にあるという指摘が普通なされる。大日本帝国憲法第1条の「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」と「天皇は陸海軍を統帥す(第11条)」という規定である。内閣ではなく、天皇の決定に従うというのである。そして、内閣からも天皇からも自由になって、陸軍は暴走した。つまり、最初から天皇は眼中になかったというか、自分たちと天皇は一体であると勝手に決め込んでいたのだ。

2016年2月12日金曜日

発展がとまり、定常的経済になれば、利子がマイナスなのは当たり前では?

負の利子が導入されてびっくりしている人も多い。しかし、経済発展が終わり、定常的な経済が実現したとしたら、負の利子はあたりまえではないか。

つまり、ある時点で1日働いて対価として金を受け取る。1年後に1日働いた時、以前より多くの仕事が出来るとすると、1日の労働の価値は時間とともに増える。従って、昨年1日働いた分の対価であるお金にも利子がついて、1年後に増加するのは当たり前である。1日(単位時間あたり)の労働の価値が増加することが、経済発展である。

一方、先進国となり経済発展が止まり、1日の労働の価値が1年後も変わらないのなら、昔の労働と交換して得たお金は過去の出来事の対価である分、減少しても不思議ではない。骨董品ではないのだから、古くなれば価値は減るのだ。(補足1)

しかし、1日分の労働がお金に変換された場合、1年後に量(金額)が減少する代わりに、何時でも必要な時に使えるというプラスの価値が、手に入るのである。例えば、食料でもなんでも蓄えることで、一般に時間とともにものの価値は減少するが、何時でも消費できるという価値が加わることに対応する。これが貯蓄の動機である。(補足2)

経済発展している時には、新しいビジネスを始めるというチャンスが多く存在する。その場合、多くの労働力(つまり、お金)を予め投入して、労働の価値を高めるシステムを作れる可能性が高い。そのシステムが完成した時、高くなった労働の対価で、利子付きの負債を支払うことは十分可能である。

以上から、単位労働に対する単価が上昇する場合に、利子がプラスになると理解できる。この説どうだろう。因みに理系人間ゆえ、ケインズの「雇用・利子および貨幣の一般理論」という本は読んでいません。ひょっとして、この本の端に同じようなことが書いてあるとしたら、お許しを。

補足:
1)貸し倒れ相当の利子がつくだろうが、それは今回無視します。
2)この場合、タンス預金は卑怯なことになる。おそらく、遠くない未来にお金は全て電子マネーになるだろう。その場合、お金には日付が打たれる可能性がある。

2016年2月11日木曜日

介護ヘルパーによる現金窃盗事件を考える: ”特ダネ”で放送された事件の感想

1)今日の“特ダネ”(フジテレビ系)で放送された事件についての感想を書く。放送内容であるが、介護ヘルパーが世話をする老人(88歳)宅を訪れた際、数千円の現金を財布から抜き取った窃盗事件である。この件、財布からどうも現金が消えるらしいと不審に思った老人の言葉を聞いて、親族が天井に設置したカメラの映像により明らかになった。

このケース、私には介護ヘルパーだけを責めることに若干の疑問を持つ。生活がもし豊かであれば、実の子供でも嫌がる介護など仕事にしていなかっただろう。そして、密室とも言える高齢の要介護老人宅の手の届くところに財布があり、それを開けるだけで現金が手に入る状況は、罠を仕掛けられた動物のように見えなくもないからである。

同類の犯罪として被害額が百万円をこえるものもある。その場合には、通帳を持ち出してATMなどから引き出すなどのかなり高いハードルを越える必要がある。番組では金額の問題ではないと言っているが、金額はこのようなケースの場合大きな問題だと思う。

「信じていたのに裏切られた気持ちである」という被害者の感想は良く理解できるが、しかしなお被害者と親族の対応には疑問を持つ。もともと介護人と介護を受ける側には、労働とその対象としての関係しかない。それ以上の、「人間的思いやりをこめた、明るい態度での暖かい介護」要求をするのなら、西欧圏でのチップのようなものが必要だろう。

このケースにはいくつかの美しくない点がある。それは、犯行が明らかになったあととった被害者の親族らの対応に、人間的な思いやりが不足していること等である。介護ヘルパーの犯行を疑って、カメラを天井に仕掛けるまでに何かすることはなかったか?数千円の行方を明らかにするために行った努力の大きさも不思議な点である。

その映像を介護ヘルパーに見せて、追求したところ、その介護ヘルパーは「返却しますから、警察には内密に」と泣いて頼んだ。しかし、被害者は警察に告発し、警察は検察に書類送検したという。警察だけではなく、そのフィルムや音声データをテレビ局に渡したのである。その対価については放送では触れられていない。

この番組を観たほとんどの人は、介護ヘルパーを非難して被害者の味方になるだろう。しかし、自分が見ている映像や音声データをテレビ局に渡す際に、お金や品物の授受が絡んでいたのではないかと想像するだけで、少し“味方の程度”は変わるのではないだろうか。

その一件がなければ、信用できる良い介護人であったのなら、被害者はそれを失ったことにもなり、その犯行と犯行の露見は双方にとって損であったのではないだろうか。そのようなことの無いように、現金を置かない工夫はできなかったのか?また、現金が必要になることがあれば、代わりに親族が済ませることは出来なかったのか?などの疑問を持つ。一定の努力もなく、「人間的な思いやりを持った、明るく優しい介護」を低い金額で望むのは、そもそも無理ではなかったのか。

あくまでもテレビを観た限りのことではあるが、この種のケースを刑法である窃盗罪で処罰することは裁判官にとっても難しいと思う。何故なら、犯罪人を多く作ることは社会にとっての損害になるからである。

2)以下に、一般論として法あるいはルールを如何に考えるべきかを書く。

犯罪はルール違反であるが、ルールは絶対ではない。ルールは全体が差し引き幸せになるように設定し適用すべきである。罠をいたるところに仕掛けるような法は悪法である(補足1)。もちろん、犯罪を犯した人は罰を受けるべきということは確かであり、それは「悪法も法なり」という論理、つまり、法により社会を運営するという大前提を守るためである。

「悪法も法なり」という言葉を批判する記事がネットにかなり存在するが、この言葉は本来罰せられる側の論理ではなく、法により秩序を守る社会の論理を表現したものである。ソクラテスが毒杯を仰いだのは、自分の思想:「法秩序を守ることが社会全体の益となる」を守るためだったのだろう。

したがって、その社会に自分が属していると考えれば、自分も社会の一員として法に従うだろう。しかし、その罰が社会と自分の繋がりを切るのなら、社会側の論理が「悪法も法なり」だとしても、裁かれる側はその法に従う必要はない。

補足:

1)田舎の直線道路で交差する田舎道があるとしても、制限速度を40kmに設定したところがある。そこを日曜の朝、60kmを少し超えたスピードで通りかかった自動車を、速度違反で罰金刑に処することが、法の適用として合理的だとは思わない。予算稼ぎ業績稼ぎの交通警察の悪業である。国家公安委員長が、「流れにのっていれば、現在行われている20km超えの速度取り締まりはいかがなものか」と言ったのに、警察官は知らん顔である。一般市民と警察の不信感は、社会にとっての損害であるなどという論理は、警察官には般若心境と同様眠たくなるだけだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=aiD9CNHAS3U&feature=youtu.be

2016年2月9日火曜日

人間は孤独な生物

元巨人軍選手、清原氏逮捕に関連したニュースが毎日テレビで報道されている。今朝も“特ダネ”で放送されていた。多くは興味本位の報道であり、品が悪いと思う。その報道を利用するのはちょっと後ろめたいが、報道された清原氏の言葉が気になった。スターであり多くの知人らに囲まれていた筈の彼が、「寂しい」と漏らしたというのだ。それが、覚せい剤との縁がきれなかった理由の一つではないかと思う。「人間は孤独な生物」投稿の切掛である。

テレビのワイドショウで屡々紹介されるのが、芸能界で有名だった人たちの孤独な死である。ここ2、3年では、大原麗子さん(補足1)、飯島愛さん、淡島千景さん、山城新伍さんなどである。 http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20120319/enn1203191545006-n1.htm 孤独な死と対照的な追悼の言葉の虚しい響きに気づく人も多いと思う。 

個々の人生を一般人で見るのは困難だが、芸能人の人生はマスコミで詳細に紹介される。周りに人が集まる芸能人でも、このような孤独な人生があるのだから、一般人なら尚更のことである。

現代人は孤独である。いくら有名であっても、本質的に孤独であり、何時かはそれを実感するのだと思う。それは、科学的文化と経済の豊かさの享受と引き換えに支払った代償なのかもしれない。なぜなら経済的豊かさは、人と人の関係を希薄にする。それは、エネルギーが与えられた液体の水が蒸発して気体になるのと相似である。

19世紀の終わり頃、ツアラツストラ(ニーチェ)は「肉体が全てであり、精神は肉体の道具である」と言い、人の心から“超自然的”な神や仏の放棄を迫った。そして今年、嗅覚の鋭い人が「家族という病」という本を書いたように、家族というつながりさえ失いかけている。

その孤独感に起因する人の生態は、成長の途中にある学童たちの集りにおいて、より明確に観察されるように思う。独立した人格を持たない子供たちが持つ孤独への恐怖が、LINE(詳細は知りませんが。。)などにしがみ付くことや、虐めの共犯者となることを助長するのだと思う。

政治の世界でも、独立した人格が民主主義の前提である(補足2)。しかし、人間は完全には独立した人格を持たない。それは、人間が他の動物とは異なる点であり、社会性を持つことと等価であり、且つ、知性の源泉でもあるというのが私の持論である。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/09/blog-post_2.html

孤独感は、人間が独立していないこと、つまり、幼児性を一生持つことから生じるとすれば、人間の宿命ということになる。この独立していないことが、自分を他人との関係において認識し(補足3)、且つ、両方とも世界において同等な存在であると意識する特異な能力の背景ともなっていると思う(これは独自説だろう)。

広い草原で狩りをするトラの姿には、独立した者の風格を感じる。しかし、成獣のトラにとって他のトラは(繁殖期以外では)、象やシマウマと同じく自分の生存の背景に過ぎないだろう。従って、トラは死ぬ間際でも寂しいという感情を持たないだろう。一方、のれんの中で酔っ払っている会社員のグループには幼児性を感じる(補足4)。http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20120314/302385/?P=1

“スポーツ界に君臨したトラ”とでも形容できる清原氏も、本質的には皆と同じ寂しい人間である。

補足:

1)芸能ニュースに詳しければ、今年死亡した元スターの名を何人か上げることが可能だと思います。http://www.excite.co.jp/News/column_g/20120222/Asagei_3896.html
2)小沢一郎氏の著書「日本改造計画」に述べられている。
3)外の方向から自分を見る目、つまり自意識を持つのである。
4)孤独感は、集団生活で生き延びてきた生物が、個体で存在する状況が長く続くと持つ不安感が原因で生じる感情だろう。他に依存することを上では幼児性の残余と表現した。これも単なる言葉の定義を弄んだことかもしれない。

=== これはあくまで自分のメモとして書いたものです。===

2016年2月8日月曜日

北朝鮮のロケット発射を米韓が批判する資格が論理的に存在するのだろうか?

北朝鮮のロケット発射に対して、日米韓が国連決議違反だとして安保理事会に提訴した。北朝鮮に対する脅威として存在する国である米国と韓国が、その脅威となる政策を変えないで、その脅威に対抗する手段の開発に向けた準備を理由に、北朝鮮を非難するのは論理的におかしいのではないか(補足1)。

2006年に国連は加盟国である北朝鮮にたいして、同年行った核実験を非難し、核拡散防止条約加盟とIAEAの査察受け入れを要求し、それと同時に経済制裁を決議している(補足2)。この提案も北朝鮮がNPTに参加していないこともあり、何かおかしい。何故なら、1)核拡散防止条約に加盟していないで、核兵器を保有していると考えられている国が複数存在するからである。それらは、インド、パキスタン、イスラエルなどである。それにもかかわらず、これらに国々に対して、国連が非難決議や経済制裁決議したという話を聞いていない;2)韓国、米国、中国、北朝鮮は朝鮮戦争の当事国であり、その戦争が終結していないこと;などである。

つまり、北朝鮮を国家として承認しておらず、しかも朝鮮戦争の当事国である米国と韓国が、北朝鮮という国家を公的機関に非難要求する資格がないと思うのである。そして、国連をつかって北朝鮮を制裁しようというのは、国連を朝鮮戦争に巻き込む行為であると思う。

国連が行うべきは、朝鮮戦争の終結ではないのか。

なお、筆者は北朝鮮には何のゆかりもない、政治の素人である。そして、拉致被害者たちの命の心配をしている一人である。北朝鮮を追い詰め、日本が北朝鮮の敵国として明確になれば、彼らの命が危ないのである。拉致被害者の命は、日本に対する取引材料としての価値が保障している。そのことを拉致被害者の会の方々は承知しているのか?

上記議論が、何か論理的(感情的ではなく)におかしいというのなら、お教えいただきたい。

補足:
1)それが、日本が提案者に含まれる理由だろう。そのような役割を日本がしていることを韓国は理解しているのだろうか。
2)https://ja.wikipedia.org/wiki/国際連合安全保障理事会決議1718 これは日本が非常任理事国の立場を利用して主導的役割を果たしたと書かれている。
現在すでに十分円安である: 日銀の偏った金融政策現在、日銀は年間80兆円の量的緩和を行っている。物価上昇目標2%というが、世界経済はグローバル化で物価が下がる方向にあり、それが逆転するとは思えない。したがって、物価目標2%は言い訳で、目的は単なる円安誘導のような気がする。そして円安誘導は結局日本国民にとって、貯蓄の目減りを意味し、損である。

海外で事業を展開している会社や海外に輸出する企業の株価は、円安で上昇し円高で下降する。世界最大の債権国である日本は、毎年一定量の外貨が円に両替されて国内に流入するため、当然円高に傾く。ただ、日本に滞留しても利を産まないため、その金が再び海外へ投資として向かえば、その円高は是正される筈(補足1)。


上図は過去40年ほどのドル/円レートを消費者物価(赤)、企業物価(緑)、輸出品物価(青)のドル円購買力平価と実勢為替レート(黒)である(出典は図内に表示)。過去黒田総裁以前のレートに相関性が高い曲線は、輸出品でのドル円購買力平価である。日本は輸出で外貨を稼いでいるならば、それが自然である。2000年以降ドル/円レートが上方に外れているのは、外貨取引における輸出品決済の割合が減少したことを意味していると思う。企業の海外進出が進んだ結果だろう。そのように考えると、2009年からは円高傾向は、2014年ころには是正されている(〜110円)と思う。

日銀は、2012/4~2015/4の間に通貨供給量を120兆から300兆に増加させている(現在約350兆円)。この図で見る限り、現在すでに相当の円安であるから、マイナス金利などの異常な金融緩和は短期に終了すべきであると思う。日銀の円安政策は、国民の蓄えを実質的に小さくする政策であるから、企業の円安での業績改善は国民の蓄えを食って延命していることにすぎない。

ドル円レートは、中央銀行の通貨供給量から中央銀行当座預金残高を差し引いた額、つまり実際に流通している通貨量の比率(その図は修正ソロスチャートと呼ばれる)で良く説明される。現在日銀が行っていることは、市場に流通する通貨量を少しだけ増加させるために、通貨供給量全体(マネタリーベース)を異常に膨らませていることである。量的緩和を行っても、円の流通量増加になるのは一時的であり、ほとんどは結局日銀当座預金に溜め込まれることになる。

今年に入って、日銀は一定の量的緩和を続けているものの、ドル/円レートはむしろ下落している。これを石油価格の下落などの経済の混乱と関係付けて、“有事の円買い”という人が多いが、その効果はそれほど大きくはないと思う。有事の時には金価格の値上がりがあっても良いのだが、金価格は最近少し戻してはいるが、2013年からほぼ直線的に下がっている。

従って、最近の円高傾向は単に本来のドル/円レートに近づいているだけであると思う。日銀の国債買付けが市場から合法的に行われているとしても、国の財政規律を無くするおそれがある。現政権は実際その傾向にあると思う。国民は、この金融政策に対してそろそろ反対の声を上げるべきであると思う。

補足:
1)実際に企業の多くは、海外に投資している。製造業の多くは海外に工場を持ち、海外の経済発展に寄与している。今朝のモーニングサテライトでは、ミャンマーへの投資のほぼ半分は日本からのものであると紹介されていた。

2016年2月7日日曜日

時事放談と私の考え

時事放談:ジェラルドカーチス氏と藤井裕久氏がゲスト

大統領予備選、甘利氏問題、日銀マイナス金利などについて議論されていた。

大統領選挙予備選:

藤井氏:米国は人種を問わず誰でも受け入れるというのが米国の姿勢だとおもっていたので、トランプ氏が予備選で健闘するのは意外だった。 カーチス氏:トランプ氏は、すぐ候補外になるだろうと思っていたが、完全に予想が外れた。いずれにしてもトランプは大統領になれない。

甘利問題: 

カーチス氏:TPPの件での甘利氏の仕事は評価されるべき。実際のところはわからないが、大臣を辞めたので民主党は、あとは検察にまかせるべき。金権政治という点では米国の方がすごい。しかし、大臣室でどうこうするという様な、日本の政治風土とはことなる。

マイナス金利など日銀の政策とアベノミクスについて:

藤井氏:金をばら撒けば経済がよくなるというのは間違いと言ってきた。日銀当座マイナス金利は輪をかけて悪いことだ。
カーチス氏:賃金を上げることや設備投資増はビジネスがきめること。国民も将来不安があれば金を借りない。マイナス金利は副作用のある危険なやり方だ。 (補足: 北朝鮮のミサイルの議論があったかどうか、中座したので確信がありません。この問題での私の考えは、米国や中国が朝鮮戦争の後始末をしなかったことが原因だと思って言います。つまり、米国、中国、北朝鮮、韓国が話しして、北朝鮮の体制温存を条件に核廃棄をさせる形で、決着をつけるべきだと思います。昔ならそれができたのですが、現在は難しいかもしれません。それは米国の責任だと思います。)

これらについての私の考えを以下に書きます。 トランプ氏の件について:

大統領予備選でのトランプ氏の健闘は、米国民一般の本音だと思う。人間は平和で裕福な時は建前をいうが、それらに不安を感じると本音がでるのだ。米国保守白人の本音は、白人優先、キリスト教徒優先なのだ。米国の自由と民主主義も大いなる建前論であり、本音の部分は裏でしっかりと機能していることを知るべきである。

その最後は本音が決めるという考えは、例えば核兵器の脅威を考える上でも重要だ。キッシンジャーは他国を核攻撃から守る時に、自国の命運を賭けることは考えられないと言った。したがって、北朝鮮の核の脅威が深刻なら、韓国も日本も核兵器開発すべきなのだ。もちろん米国や中国の反対はあるだろうし、外交関係の冷却は考えられる。しかし、キッシンジャーらの言葉を使って交渉するのが政府外務省の仕事である。それを戦後の長期政権を担った自民党主流派がしてこなかったのは、彼らはすべて国家の利益と比較して自分の利益を優先した政治屋だったからだと思う。

もちろん、現在の日本は核兵器を持つ資格があるかといえば、今の政治では無いと思う。過去の戦争を政府として総括できないような政権では、危ない兵器は持てない。それを本能的に感じているのが、日本国民の核アレルギーなのかもしれない。その点でキッシンジャーと周恩来が会見して、日本を危険視する点で一致したのも頷ける。

日本政府が戦争を総括できない理由は、天皇制に話が及ぶことかもしれない。しかし、そんなことを恐れていたなら、天皇制の健全な形での温存に暗雲が漂うことになる。つまり、明治維新の薩長のように、イザという時には天皇を政治利用しようという考えが心の奥にあるから、その議論をさけているのだと思ってしまう。

日銀のマイナス金利について: 

非常時の政策であることは日銀総裁も十分承知のはずで、藤井さんたちの議論は従来の説を言っただけで、「じゃー、この不景気何もしないというのか?」と問われて答えに窮するだろう。ただ、ここ3年で240兆円位の量的緩和をしているのだが、国債だけの買い付けでは国の放漫財政に協力することになる。この辺りで辞めるべきだと思う。日本国債の格付けは韓国や中国より低いのだから。

もし量的緩和をするのなら、国債を買う以外に株を買う方法がある。日銀法43条は内閣総理大臣と財務大臣の許可があれば可能であるし、2002年以来現実に少しだがやっているようだ。http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/568

株の購入による量的緩和は、現金を市場に供給する他、株価の上昇をもたらす。それは、個人であれ企業であれ、純資産の実質増加を意味しており、消費活動を刺戟する。日本の一流グローバル企業の株は国債よりも格付けはかなり高い。

安倍政権下での日銀の量的緩和の目的は、物価目標2%は表の姿であり、裏の目標として円の価値を下げること、つまり円安効果の他に、国家債務を実質的に下げることもあるのでは。

2016年2月3日水曜日

経済もバブルなら人生もバブル

1)世界経済はバブル崩壊の寸前かもしれない。米国FRBは、不況に陥っても相対的に米国の被害が少なければ、この際世界は不況に陥っても良いと思っているのかもしれない。その証拠に、米国カンザスシティー連銀総裁は、「利上げを続けるべき」と発言している。 http://news.finance.yahoo.co.jp/detail/20160203-00000040-dzh-fx

英米系金融資本は、中国やその他の地域の優良企業を底値で買うことを考えているのかもしれない。英国以外の欧州や日本が金融緩和で、損な役回りを強いられることになるのではないか。ルールが無いわけではないが、ほとんど何でも有りの野生の世界(経済)に世界中を巻き込み、そこに君臨するのは何者なのか。

世界経済は意図的に進められたグローバル化で冷えている。先進国の中レベル以下の人は、自分の経済力がバブルであったと振返ることになるのでは。

戦争と犯罪は、それぞれ世界と社会の貧困の表現である。犯罪は、個人の資質とか能力などで説明されることが多いが、それは貧困化した社会の歪みがたまたま個人に集中した時の現象(自然な)である場合も多いと思う。

2)日本でも経済発展の中で、テレビの画面に頻繁に出る人間は押し並べて、高い収入を得、高級マンションに住み、そして高級車を乗り回す。それが自分の実力であり、バブルだとは決して思わないだろう。

元プロ野球のスター選手の名前が今朝のワイドショウで取り上げられていた。野球での天才的能力を、この社会は高値で買い、眩しいほどのスポットライトを当てた。しかし、野球を離れて一個人に戻った時、本来の自分は思った以上に小さく、自分だけの空間は意外なほど暗かったのだろう。誰でも、思わぬ落とし穴があれば、目が慣れるまでに転落する危険性は高い。

マスコミにとって、落とし穴に落ち込んだ嘗てのスターは格好の餌食である。落ちた人が悲惨であればあるほど、その放映により視聴率が稼げて利益となる。「嘘であって欲しい。夢であって欲しい」と白々しいコメントを発する嘗ての盟友も、その片棒を担ぐ。http://news.yahoo.co.jp/pickup/6189882

その悲惨な境遇の人は、多くの楽しい時間を大衆に与え、そして、あなた方に給与の源を与えたスター選手であったはずだ。それで視聴率を稼ぐなんて恥ずかしくないのだろうか。

勿論、彼は自分の意思でそのような道に進んだのだろう。道に迷う人は全て、自分で方向を決めて迷う。しかし、その状況に置かれれば、多くの人が同じように迷うのである。選択の自由とは、透明な高い壁で囲まれた道を進む人間が、自分は左右の方向に進む自由があると思い込む勘違いのことかもしれない。

その罪は、微罪とは言えないが大罪とも言えないと思う。そのようなニュースでプログラムを組むマスコミ関係者は、多くの場合もっと大きな犯罪行為には協力的なのだ。大衆には見えない世界全体に広がる罪のことである。

今日たまたま、現代の奴隷を世の中に告発し続けている人を知った。リサ・クリスティンという女性である。その中で紹介された悲惨な人間の姿は、“極大罪”の現場の一角であると思う(補足1)。経済発展の中で、一時のバブルを味わっている人たちも、その共犯者の末席に位置しているかもしれない。 http://headlines.yahoo.co.jp/ted?a=20151120-00001541-ted

補足:
1)“極大罪”の主は、その飛び出た尻尾をワザと摘み取る真似をする。ひょっとして、その類ではないだろうかと疑ってしまう。

2016年2月2日火曜日

後味の悪いテレビ番組

1)昨日夜のテレビ番組についての感想である。イタリアのある実業家に嫁いだ日本人女性の話が、ご両人や彼らの近親者たちへのインタビューと日常生活の画面とともに紹介されていた。そのソフト開発会社を経営している実業家は、四肢は動かない上発声も自由でないような重度な身体障害者である。

イタリアのその実業家は日本を訪れた際に、日本人の優しさが気に入ったようである。一方その女性は、近親者に障害者が出て、介護に関心を持ち介護士となって日本で働いていたが、何か物足りないものを感じていたという。ある時、イタリアでの介護の仕事を紹介され、一念発起してイタリアで働くことになる。しかし言葉の壁などもあり、一年間の契約後は住居と食事のみの提供で給与なしの条件で働くことになった。

人種差別的な周囲の対応など今後の生活に不安を感じていた時、その実業家の元で働く機会をえて、その悩みは徐々に薄くなった。そして、その人と結婚することになったという。結婚生活は、最初から夫の口に食物をスプーンで運ぶという形で始まるが、夫の親族からは天使だと言われて大事にされている。この結婚はイタリアの新聞にも掲載されたとのことである。当初は、財産目当ての結婚だとの陰口もあったが、誠実なその日本人女性の対応はそれを払拭することになったとのことである。

この結婚は美談である。しかし、その女性の内面を理解するのは、普通の人には極めて困難である。私は、その女性の善意と幸せな異国での日常とを信じようと思うが、それはこのテレビ放送の内容からそう理解できるからではない。もっと深い事情があってのことだろうと思うからである。正直に言って、そう納得する以外、この番組内容を心理的に消化できないのである(補足1)。

この種のケースは、マスコミ特にテレビなどで中途半端に紹介する位なら、そっとしておくべきだと思う。放送することを本人が了解することは理解できる。なぜなら、テレビ局の人たちが来た以上、誇りある人生として誇示したいだろうし、それを自分に納得させる意味もあるからである。

しかし、大河ドラマにして放送するのなら兎も角、数十分で完結する形での紹介では、失礼な見世物のレベルを超えられないのではないだろうか。

2)身体障害者を社会が受け入れることは当然大切である。それは、豊かに成長し複雑化した現代社会において、様々な背景を持った人間が互いの権利と思想とを尊重して生きる文化を持つことは、社会を構成するすべての人が不満なく住む条件だと思う。

その中で、人間関係もいろんな形があり得る。一定の想像力と知的能力しか持たない我々には、そのすべてを理解することは困難である。その近くで協力する人々にとっては消化済みのことでも、初めて見聞きする場合にはその理解には相当の努力を要する。したがって、かなり特異なケースに出会ったときは、理解できるまで付き合うか、お辞儀をして退場する(補足2)かのどちらかを摂るのが礼儀だろうと思う。

不十分な理解と覚悟で、自分の関心を優先してその中に割り込むのは、失礼であると思うのである。金儲け主義のテレビ放送であっても、そのような役割を仲介するのは遠慮すべきだと思う。

補足:

1)直接関係はないが、ある身障者との拘りを思い出した:カナダのある大学の教授が50代の時に難病にかかり車椅子生活になった。実力者であったその教授は博士研究員を数人継続して雇用していた。車椅子に乗った教授を自宅から送り迎えするのは、彼が雇用した研究員の内の日本人であり、英国からの研究員ではなかった。2、3年毎に入れ替わる日本人研究員の仕事なのだが、“必ず日本人”ということはずっと記憶に残った。

2)このような時に使う言葉として、英語にはbow outという熟語がある。それを日本語訳してここで用いる。特異なケースを好奇心だけで見るのは失礼だと思う。