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2016年3月12日土曜日

マッカーサーと吉田茂について

戦後史の本である片岡鉄哉著「日本永久占領」(講談社α文庫、1999; さらば吉田茂—虚構なき戦後政治史、文芸春秋1992)を読んだ。その前半に書かれている米国の占領政策と日本の政治は、連合国最高司令官であるマッカーサーの独善的な個性に大きく依存した。そして、それに協力した吉田茂の役割も大きかったと思う。憲法と天皇に関する部分についてまとめ、感想なども追加して書く。(引用は文庫版の頁で行なった)

1)天皇制と憲法

ポツダム宣言にも、占領軍により通知された「降伏後初期対日政策」にも、天皇制維持の保障は何も書かれていなかった(補足1)。実際、米国国務省からマッカーサーの下に政治顧問として送られたジョージ・アチソンは、「天皇を処刑するのも一つの選択肢である」とトルーマン大統領に助言している。(54頁)一方、マッカーサーは敗戦国の元首の処刑には武人として抵抗がある上に、円滑な占領政策の遂行には天皇の協力が不可欠であると考えた。

マッカーサーは天皇を救うために、天皇制を明記した憲法に改定することを考え、幣原内閣に新しい日本国憲法草案の作成を命じている。国務省から憲法問題への干渉をなくすこと、具体的には、アチソンの憲法への関与を取り上げる目的で、それをGHQ民政局(GS、Government section)の専管事項とした(補足2)。1946年2月1日に、内閣の憲法問題調査委員会委員長である松本烝治国務大臣が作った原案が毎日新聞にスクープとして出た。松本案は天皇を立憲君主制の元首と位置付ける草案だった。マッカーサーはそれを却下し、二日後民政局に1。天皇を国民統一の象徴とする、2。戦争を放棄する、3。華族の廃止を骨子とした草案作成を強引に指示する。しかしこれは、ポツダム宣言第12項の規定を無視したことになる。(補足3)

松本草案の却下と民政局作成の草案を示された時、内閣を構成する人々は茫然となった。特に外相・吉田茂の顔は憂慮に満ちていたと書かれている(補足4)。民政局に説明されても内閣では受け入れるという結論に達しないため、又も最後は天皇の聖断(2月)を仰ぎ、受け入れることになる。その後、幣原内閣は総辞職する。(補足5)

そして、6月20日開催の国会で憲法が議論されることになる。幣原の後に総理大臣になった吉田茂は「これは自由に表明された日本国民の意思に基づいたものであります」と説明する役割を担うことになる(補足6)。マッカーサーのその後の異常とも思える日本統治は、すべてこの憲法を守り抜くことが縦糸として存在すると考えれば、説明がつくと「日本永久占領」には書かれている。

マッカーサーは、「日本の憲法を書く機会をつかんだときに、これでシーザーになれると思い込んだのだった」と著者は書いている。そして自分の作った憲法に強い執念をもち、全てにおいて憲法が出発点になった。(148頁)この考え方は一般的ではないかもしれないが、マッカーサーの性格などをウィキペディアでみると分かるような気がする(補足7)。https://ja.wikipedia.org/wiki/ダグラス・マッカーサー

憲法改正を言い出さない社会党を執拗に育てようとしたことも、その考え方で納得が行く。そして、1949年の選挙で大勝するまでは、吉田茂はマッカーサーのしつこい虐めの対象であった。吉田が選挙で大勝したあと二人は緊密に連携するようになったことの裏に何かあるはずである。つまり、憲法を守る二人の約束があったとすれば説明がつく。(153頁)そして、吉田は憲法改正よりも経済優先の政策を始めることになる。憲法は1946年の11月3日公布、翌年1947年5月3日施行された。

東京裁判は1948年に閉じられ、天皇が罰せられる危険性は消えた。1951年4月マッカーサーは司令官を首になり、その年の9月8日にサンフランシスコ平和条約の調印が行われた。しかしその後、吉田政権及び吉田学校の出身者の内閣からは、憲法改正の話はでなかった。

2)マッカーサー統治の評価

マッカーサーが天皇陛下を救ったのは、円滑な武装解除と新しい日本の構築が目的であった。大規模な要人追放(パージ)で、社会党などの左翼を一大政治勢力にしたのは、日本の政治を大きく左方向に旋回させるためであった。新憲法を含む大規模改造は、天皇の命を救うことと引き換えになされたため、日本国内での強い反対を封じることになった。国民一般にも非難の声が広がらなかったのは、厭戦気分と日々の生活で精一杯だったからだろう。ひもじい思いをしていた日本人に食料を放出し、DDTをかけてシラミ退治をしてくれたことも、寛大な占領軍を印象つけたのだろう。

一方、国務省から視察に来たジョージ・ケナンはマッカーサーの日本統治を厳しく批判している。「マッカーサー将軍のこれまで(1947年4月)の占領政策は、一見して共産主義の乗っ取りのために、日本社会を弱体化するという特別の目的で準備されたとしか思えないものだった」と回想録(George F. Kennan,”Memories” p376)に書いているそうである(補足8)。

つまり、世界は冷戦の時代に入っており、米国本土では日本との講和条約の締結と再軍備が考えられていた。戦争放棄の憲法には国務省は懐疑的であり、国防省と統合参謀本部は絶対反対していた。裸の独立国家にはあり得ないからであり、従って、講和条約の交渉で日本の首相が改憲と再軍備を主張すれば、両省は支持するのに決まっていた。(149頁)

マッカーサーは日本の再軍備に反対であった。「それまでおこなってきたことと矛盾し、日本における我々の威信を傷つける」と言ったという。つまり、日米の政治よりも自分のメンツを優先したと考えられる。その他、再軍備は極東の諸国を離間させる;再軍備しても植民地なしでは5等の軍事パワーにしかなれない;コストが高すぎて日本には賄えない;日本人自身が反対している;そして、最後に”日本の軍国主義を復活させる”が後日付け加えられた。

そこで、マッカーサーは講和条約と同時に米国の日本防衛義務を考えていた。これらは全てマッカーサー憲法を守るために考えられたというのが、この本に書かれた戦後史のモデルである。とにかく、日本の現在まで続く異常な政治の原点がここにある。

3)以下感想を混ぜて書く。

その後マッカーサーは、米国議会での証言で「ドイツ人は45歳だが日本人はまだ12歳くらいである」という言葉を、日本と自分の政策の弁護のために用いた。

私には、日本人はマッカーサーにより20歳の青年から、12歳の少年にされてしまったと思う。それまで20歳の未熟な青年レベルだったというのは、明治憲法における国家の形が、権力と権威を分離するものであり、国家の方向を決めるシステムとして不完全だったからである。そのため、肝心な場面で内閣だけで決断ができない。また、戦争で負けてもその責任の在り処が明確に出来ず、同じ間違いを何度も繰り返すことになる。

立憲君主制に拘れば、天皇処刑の理由を米国国務省やロシアなどの他の連合国に与えることになる。それでも、内閣で象徴天皇制の受け入れを決められず天皇の聖断を仰いだ(86頁)ことも、明治体制の不完全性を証明している。明治憲法は明治維新後、明治時代の早い時期に象徴天皇制に改正すべきだったのではないだろうか。それができなかったことは、明治維新も日本独自で成し遂げたのか疑わしいということになる。(最近、西鋭夫はそう講演しているらしい。(例えば: http://mickeyduck.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-f92d.html

吉田茂は、憲法ができ象徴天皇制として天皇の地位が安泰となったのち、マッカーサーの下で権力を振るうことになる。再軍備と憲法改正に反対だったマッカーサー路線を、マッカーサーが帰ったのちも引き継ぐ。経済発展が先ず大事だというのはわかる。しかし国家の骨組みである憲法をまともな形に改正できないことはない。既定路線を走る官僚的政治家だったのだろう。

この本の210頁に書かれている文章をコピーする。
吉田とマッカーサーは何をやっていたか。彼らは、米国政府の政策と日本の国益に反して戦後体制を温存していた。逆コース(まともな独立国に日本を戻すこと)をサボタージュしていた。マッカーサーは追放の解除を引き延ばして、吉田内閣の安定をはかっていた。吉田は再軍備阻止のために社会党と裏取引をやっていた。吉田は1949年の総選挙以来、官僚を政治に登用して、追放中の職業政治家のお株を奪おうとしていた。(後日、これが吉田学校となる。)そして、もっとひどいことに、二人だけで日本の将来の外交を恣意的に決定しようとしていたのである。

マッカーサーが朝鮮戦争の方針でトルーマンの意向に反したことで、1951年4月司令官を首になる。日本を離れる時に、沿道に20万人の日本人が詰めかけて見送り(補足7)、毎日と朝日の両新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載したとのこと、更に、衆参両議院がマッカーサーに感謝決議文を贈呈すると決議し、東京都議会や日本経済団体連合会も感謝文を発表した(ウィキペディア参照)。

一般市民は何もわからないだろう。しかし、新聞や国会のこの姿は非常に情けない。日本国のまともな政治家などを根こそぎ追放され、国家の骨組みを破壊されたことを感じてさえいないのだろうか。その後、マッカーサーが行った米国議会での証言を聞いて、マッカーサー記念館の創設などの話は立ち消えになったという。騙す方も悪いが、騙される方にも責任があると思う。

補足: 1)ポツダム宣言には天皇の地位に関する記述はなかったので、政府は「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾す」と8月10日(1945年)連合国側へ回答した。しかし、12日に米国から「降伏の瞬間から、天皇と日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する」という回答が届いた。従属するという文章に議論が起こりまとまらないので、天皇は14日の御前会議で宣言の受諾を確認された。内閣書記官長の書いた終戦の詔勅には、国体の護持に成功して降伏するとの一節が入っていた。しかし、皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしていなかった。
2)マッカーサーの資格は連合軍最高司令官(SCAP)と米軍の極東司令官であった。SCAPとして行うことには、米国国務省の力は及ばなかった。
3)ポツダム宣言第12項「日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。」
4)この時、民政局長のホイットニーから、他国からの天皇を処罰せよとの圧力が強くなっているので、この案を作ったという説明がされた。
5)「天皇が統治するが、各省大臣は天皇を補弼する」という権力の在り処が分からない憲法では、最も大事な場面で天皇の聖断を仰ぐという形になる。これではまともに国家の運営などできないことは何度も学習してきた筈である。それでも、この形に拘る幣原首相や吉田外相などの日本の官僚出身政治家は、性根から自分は一ミリのリスクも取らず、長いものには巻かれるのである。 新憲法に関する人民投票は4月10日行われた。幣原内閣は22日に総辞職し、その後の選挙で鳩山一郎の自由党は第1党となるが、直後に鳩山は追放される。マッカーサーはまともな政治家は徹底的に追放するのである。
6)これは「日本国国民の自由に表明した意思」というポツダム宣言第12項の体面を繕うためである。そして吉田は、「国体が維持されるという保証があったから日本はポツダム宣言を受諾したのであり、この憲法で国体は事実上維持されたと言明した。しかし、民政局から「日本の降伏は無条件降伏である。発言を訂正せよ」とのクレイムがついた。つまり、GHQはポツダム宣言にこだわっていないことになる。因みに、吉田はこの時第9条について「これは自衛の戦争も否定するものだ」と言っている。
7)3代前は英国人(スコットランド)だったというが、名誉欲が強く、制服を嫌い格好つけることに熱心、絶対に自分の間違いを認めない性質など、この人のキャラクターが日本統治に濃く反映されたのではないだろうか。マッカーサーが解雇されて米国に帰る時、20万人が沿道で見送った。それを、マッカーサーは回顧録で200万人と書いているという。このエピソードも、この人の性格をよく表していると思う。
8)ケナンは、「パージは全体主義的だ」と決めつけている(111頁)。更に、東京裁判についても、「戦争指導者に対する制裁は、戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義とは関係ない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾すべきでない」と言っている。

米国の政治勢力も一枚岩ではなく、政治や外交においても、多くの勢力のせめぎあいの結果であると思われる。

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