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2016年6月6日月曜日

米国の広島長崎での核兵器使用は正当化できるか:昨日のそこまで言って委員会の感想

そこまで言って委員会で、米国の広島と長崎での核兵器使用は仕方なかったのか、日本は核武装保持を議論すべきかどうかなどについて議論していた。番組の中心部分で取り上げたのは、「米国の原爆投下正当化論を受け入れることができますか」という質問だった。YES 又はNOの札をパネラー8名に上げさせ、各パネラーが意見を出し、それに対して全員が議論をしていた。しかし、パネラーの間で意見がほとんど噛み合っていなかった。このような問題の場合、もっと厳密に質問を設定しなければ、議論にならない。兎に角、司会の辛抱氏が「この番組は政治バラエティーです」と以前言ったことがあるので、まともな議論を期待する方がおかしいのかもしれない。しかし、視聴者に誤解を与えるので、この種の重要な問題を議論するのなら、もう少し真面目な番組にしてほしいと思う。

1)この「米国の原爆投下の正当化論を受け入れるかどうか」という質問のコーナーでは、質問設定の時に、米国陸軍長官のH.スチムソンの“原爆を投下せずに本土決戦となれば、米兵100万人の犠牲者がでただろう”という正当化論の論文が発表され、それが米国世論を作ったと紹介している。しかし、このスチムソンの正当化論やそのほかの個別の正当化論ではなく、「米国の原爆投下の正当化を受け入れるか」に質問を拡大して議論を進めていた。正当化論の「論」がなくなっているのである(補足1)。つまり、何時の間にか、「正当化論を受け入れるか」から「正当だったか」に問題をすり替えて、あえて議論が混乱するようにしている。

歴史のある大きな出来事を個別に取り出して、「それが正当かどうか」と漠然と問い掛けるのは、情況や諸条件を抜きに「人を殺すことは正当か」と質問するのと似ていると思う。各個人が自分で問題を勝手に設定して答えているから噛み合う筈がない。

西欧によるアジアの植民地支配が盛んな頃、有色人種の日本人が中国に侵攻したことを欧米が許さなかった。そして、米国等による政治的経済的制裁で、日本は戦争に追い詰められた。その大きな歴史の流れに対する理解がパネラーの間で全くことなるかもしれないのに、戦争末期の原爆投下だけを取り上げ、しかも現代的視点や倫理観で議論することにどれだけの意味があるのか。

米国の戦略的見地に立てば、原爆投下が日本の降伏を早めたことは事実だろう(補足2)。ポツダム宣言の受諾が遅れたら、ソ連の北海道占領とその際の膨大な一般市民の被害者が予想される。本土決戦ということになった場合、民間人の被害は想像を超える数値になるかもしれない。原爆投下が無かった場合の方が日本国民にとって悲劇的な結末になっていたのではないかと思う。原爆投下が「人道的見地からは正当化されない」と言ってみても、死んだ人の命は帰ってこない。兎に角、歴史を勉強することは大切だが、裁くことは愚かな行為だと思う。

2)このようなバラエティー番組的な傾向は、番組の最初にパネラーに向けられた質問で際立っていた。「人類が核エネルギーを手にしたことは良かったかどうか」というものである。良かったが3名、どちらとも言えないが4名、よくなかったが1名であった。この質問も自然科学の歴史の一つのトピックスだけ取り出して、それが人間にとって良かったかどうかと聞いている。

物理と化学の研究は、元素、分子とそれを構成する原子の構造、原子核の構造へと進み、その恩恵を受けて現代文明が築かれている。その科学発展の歴史のなかで、放射能や原子核の構造研究から、核化学という分野の発生、そして原爆の発明は自然な流れである。つまり、現代文明を諦めるか、原爆を手にする人類の運命を受け入れるかの選択ならわかるが、核エネルギーを人類が手にしたことが悪かったとか良かったという議論をするのは愚かだと思う。

3)また、最後の方での核兵器が将来廃絶できるか?の質問において、パネラーの間では出来るという意見が半分あった。出来ると言ったのは、長谷川、田嶋、加藤、竹田の4氏である。核兵器の廃絶など宮家氏の言う通り、出来るわけがない。紹介されていたオバマ大統領の核兵器削減の意見は欺瞞である。核廃絶実現を本気で考えていたのなら、ノーベル財団という小さな団体による評価など不要なだけでなく、米国大統領の決断をバカにする気かと怒るべき話の筈だ。オバマ氏の核廃絶演説の裏の狙いは、核兵器拡散を防ぐことであり、それは核兵器をいざという時の脅しの道具として保持したいという米国の意思と合致していると思う。オバマ氏もノーベル賞は、「呉れるといっているのだから、断るのはもったいない」と考えた筈である。

「人間の良識を信じたい」ということで、核廃絶は可能だと言った長谷川氏の意見や、「オバマ氏の広島訪問に感動した。出来ないかもしれないが、核廃絶を信じるしかない」という加藤氏の意見などは、論理が支離滅裂であり、現実論と理想論の区別さえできていない。現実論と理想論は、思考上”基底”として頭の中で使うのが人間のまともな知性だが、思考の途中で両者を混ぜてしまっては論理的な思考は不可能となるのだ。最初から理想論しか浮かばない(振りをしている)田嶋氏は「他国の回し者でない」なら、およそ理解不可能な人物である。竹田氏の核兵器U-ターン兵器の開発というドクター中松のアイデアは、冗談としては非常に面白かった。

また、核抑止力があったから平和がまもられたという考えは間違いだと思う。この70年間、経済成長により生活が豊かになってきたということが、日本周辺の世界で平和が保たれた理由である。貧困にあえぐようになれば、核兵器を使用した戦争さえ起こるだろう。さらに、サイバー攻撃が戦争の主役になるという話があったと記憶する。そして、核兵器発射のボタンさえ乗っ取られる時代だといった人もいたと思う。しかし、核兵器の発射をネットに頼る必要などない。制御などにコンピュータが必要なら、スタンドアロンで使えば良いと思う。

補足:
1)より正確に言えば、番組では「正当化」と「正当化論」の区別していない。正当化論は英語でいう可算名詞であり、個別に厳密に議論ができる。しかし、正当化は不可算名詞であり、米国の態度そのものであり、それにイエスかノーかを決めることは、歴史を裁く行為になる。日本語の出来が悪いのが、このような議論になる原因かもしれない。
2)竹田氏は「原爆投下が原因というが、それなら東京大空襲の時に降伏を考えた筈だ。原爆ではなくソ連の参戦が降伏を決意した原因である」と混ぜ返す。しかし、半藤一利さんの昭和史によると、ポツダム宣言が出された翌日に、昭和天皇は東郷外相に「これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。原則として受諾するほかはないだろう」と言われたとある。(468頁)また、広島に原爆が投下された二日後に、天皇は木戸内大臣に「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない」と言われたという。(477頁)竹田氏は、この昭和史の記述を否定するのだろうか? 最近、西尾幹二さんと現代史研究会の本、「自ら歴史を貶める日本人」を買った。その中には、半藤さんの昭和史は、木(日本周辺)を見て森(世界全体)をみていないと非難されている。この点、すこし勉強するつもりである。

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