注目の投稿

人類史の本流は中華秩序なのか、それとも西欧型秩序なのか

1)米国が露呈させた中国共産党政権の真の姿と日本の課題   日本が抱えている最重要な課題は、コロナ問題や拉致問題等ではなく、表題の問に対して明確な答えと姿勢を持つことである。短期的な経済的利益に囚われないで、現在が世界の歴史の方向が決定される時なのかどうかを考えるべきである。...

2017年1月24日火曜日

キリスト教には“諦め”という考えがない:トランプ政権は恐ろしい

キリスト教の神を考える際の出発点は、私にとっては自然科学発展の歴史である。人類の100万年を超える歴史の中で、99.8万年の間自然に対する知識が低いレベルにあり、この2000年という短い時間で急速に発展したというのは、“言葉の発生”と共に大きな謎である。

近代科学&技術文明は主に西欧で築かれ、その発生の中心にギリシャ文明とキリスト教があったのだろう。よく聞くのは、「この世界はキリスト教の唯一神(補足1)が創造された完全なものである」との確信とそれを知りたいと言う思いが、ギリシャ哲学の方法をと結びついて、科学を産んだと言う話である。従って、キリスト教を信じる人たちは、完全を目指すという面があるのではないだろうか?しかし、それは異邦人にとっては恐ろしいことである。

人が神の創造物に関心を持つ理由は、キリスト教における神と人の関係にある。キリスト教徒にとって神は愛する存在であり(補足2)、神と人は愛で結ばれた関係にあると聖書に書かれている。つまり、神は創造したものを愛し、創造されたものである人は神を愛するのである。それ故に、人は神と神の創造された“完全な存在である自然”を知りたいと思う。勿論、人も神に似せて作られた本来完全な存在である。

一方、日本の神道を含めて他の宗教では、神は完全で偉大な存在だろうが、その意思を明確には表さない恐ろしい存在である。(補足3)人はその怒りを避け恩恵を受けるためには、ただ祈るほかに方法はない。善い行いをすべきだろうと漠然と思うが、どうもそれほど単純ではないだろうと思う。

日本人が持つもう一つの宗教は、仏教である。仏教には経典はあるが、そこには諦めの境地が、涅槃つまり極楽往生の方法であると書かれている。生病老死は避けることはできないが、物質界は本質でないと言う真理を知れば悟りの境地に達して、それらを乗り越えることができると言うのである。四諦と言うこの考えは、あきらめる(諦める)ことではないと教える坊主がいるだろうが、それは”まやかし”である。

以上の宗教的文化的背景から、日本人は諦めることが(かろうじて)できる民族であることがわかる。日本人、そしておそらく多くのキリスト教徒から見ての異邦人は、自分の境遇が恵まれなくても、それを直ちに他人の悪行と結びつけるようなことはしないだろう。一方、西欧人は諦観が持てずに、完全を目指す人種である。かれらの頭脳は、我々東洋人と同程度だろうから、完全を目指せば必ず問題の単純化に陥る。その優れた体力は性格を荒くし、彼らが考える悪、不幸、不都合の種を、できるだけ自分ではなく、強引に他に見出そうとする。

従って、西欧人のあまり知的でない人たちは、単純に自分の恵まれない境遇を他の国の人々、つまり、異邦人の所為にすると言う楽な道を選ぶ傾向が強いと思われる。(そのような傾向は誰でも持つのだが、傾向が強いと思うのである。)その人たちの票で、大統領になった人は本当に厄介である。
(12:30編集; キリスト教に関する誤解があるかもしれませんので、指摘くだされば助かります。)

補足:
1)言うまでもないが、旧約聖書の神のことで、ユダヤ教とイスラム教の神でもある。
2)神と愛(アガペー)で検索すれば、たくさん出てくると思う。例えば、ヨハネの第一の手紙に「愛さないものは神を知らない。神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった。」などの記述がある。
3)キリスト教では、信者にも起こりうる恐ろしい出来事を、信者の不十分な信仰と悪魔(サターン)の所為とし、神を二つに分けて、キリスト教の神(エホバ)を愛しやすくしているように思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿