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2017年4月16日日曜日

テロリストには罰を受ける資格がない:罪と罰について

1)最近、善と悪についてブログを書いてきたので、最後に罪と罰について考えて見たい。

所属するグループの為になる行いが善、それに反する行いが悪だと考えるのが、前回までの結論だった。そのグループ(種族、民族、国家)内で、処罰に相当する程度の悪い行いが罪ということになる。しかし、ただそれだけの定義だと、罪と罰の関係は労働と賃金のような等価交換できる関係になり、随分と軽い感じがする。しかし、罪は元々もっと重い宗教的な意味を持つと思う。つまり、罪という言葉は、本来神の教義に反した行為に対して与えられる。

そう考えると、宗教と民族や国家といったグループとの関係を明らかにしないと罪と罰が理解できないことになる。

そこで、前回までの話を簡単に繰り返すところから思考をスタートする。善と悪は、血縁を中心としたボス支配のグループで生きる状態(自然状態)では存在せず、人が大きな多層的なグループを作るようになった時に発生すると考えた。そして、そのグループ内で生きる人に対してグループの成長と安定にプラスになる行為及びそれを形容する言葉が善であり、その逆が悪であると結論した。

多層的で大きなグループは、種族とよばれたレベルから国と言う現在の段階まで発展する。そのグループが種族と呼ばれる段階では、その寿命は人の自然寿命よりはるかに長くなるが、その運命は他の種族との争いの勝敗に依存する。種族は運命共同体であり、そのことをメンバーは強く意識している筈である。

他の種族と競争して最終的に生き残るには、リーダーには世代を超えて特別に強い指導力が必要である。そのレベルは、非常に優秀な人レベル程度ではなく、それを圧倒的に超えるレベル、つまり神のレベルである。従って、長く続いた種族の中に神話が生じ、嘗ての英雄が神として崇められるのは自然である。その神の権威の下に、リーダーの権威を置くのが世代を超えた権威を持つ秘訣である。その結果、リーダーの下す罰は、神の罰となるのである。善と悪そして罪と罰は、この様にして神の権威を得ると考えるのである。(補足1)

その段階で、リーダーの地位やグループ内の掟などは全て種族の神の権威の下に集約される。歴代のリーダーの考えが集約され、聖典となって纏められることもある。キリスト教の聖典である旧約聖書では、人が神と契約を交わし、種族のメンバーに神の掟を守るように書かれている。(補足2)

2)罪を犯した者には罰があたえられるが、罰には日本語では二つの読み方がある。バチとバツである。バチには、“罰当たり”という派生語の意味からわかるように、悪事に対して神が与えるこらしめの意味がある。バツにも、やはり教育的な意味がある。つまり、罰を与える側と受ける側に共通の絶対的な権威がなければならない。従って、罪と罰の関係は種族内部の話であり、異邦人との関係ではありえない。異邦人との間には無視、敵対、戦争、報復、駆除など、民族(種族)の神の裁きとは無関係な対応がなされる。(補足3)

刑事裁判などでよく問題にされる言葉に、“罪の意識”がある。罪の意識がない犯罪人にはふた通りある。片方は幼児であり、もう片方は現在住んでいる社会のメンバーでは無いと考える犯罪人である。幼児の場合(刑法では14歳以下)は、悪事を為しても罪の意識がないので、罰しない。そのような罪を犯さないように、今後の教育は主として家庭でなされる。罰せられないのは、今も今後もグループ内の人間であるからである。もう片方の罪の意識のない犯罪として、精神に障害のある人間の犯罪と反国家(反民族)的犯罪(テロリスト的犯罪)があり、後者には元々国内の犯罪人を裁く法律を適用する理由はない。

前者の場合、明らかに精神が未発達な場合には、幼児と同様の根拠で、然るべき場所での隔離あるいは治療が適当な措置だと考える。一方、精神的発達が正常だが、サイコパスのように特別に反社会的性格を持つ人間の場合、知識として犯罪が処罰の対象になることを承知しているのだから、罪の意識の無い場合でも、少なくとも正常人と同等かそれ以上の処分が相当である。

最近あった名古屋大女子学生による殺人事件では、犯人は殺人嗜好がつよいタイプのサイコパスだろう。この種の人間は、殺人が所謂重罰に相当する犯罪であることはわかっているのだから、罪の意識が生じない精神障害者だとして無罪を主張する根拠はない。(補足4)山から出てきた熊や異邦人テロリストのように、駆除の対象になっても良い人間なのだ。知的に問題があるのは、その判決の際に、更生に期待するという言葉をかけた裁判官と、精神障害故に無罪であると主張した弁護士である。

外国人の単純犯罪の場合には、国際条約があり、国内法によって処罰される。それは、外国人と雖も、日本国内で生活する場合は日本人の仲間と看做して処遇するからである。しかし、日本社会の破壊工作には、日本人であっても外国人であっても、罪と罰の関係で論じる根拠はない。罪と罰の関係は、日本(社会)を共通の宇(いえ)と考える体制に最高の権威を認める場合にのみ成立するからである。テロリストには罰を受ける資格がないのだ。

補足:

1)現在国家を作って生き残っている種族には、そのような超人的なリーダーシップを作り出す工夫がされていたと言える。日本(大和朝廷)の建国神話もその一つである。
2)ユダヤの種族に対して、他の種族は異邦人という言葉(日本語訳の聖書)で語られている。異邦人という言葉には“何を考えているのか全く分からない人たち”という響を、聖書の中では特に感じる。異邦人による行いは、悪であるとして排斥するか侮蔑するかどちらかである。
3)戦争が外交の一環だという考え(クラウゼウィッツの戦争論)は共通の神を持つヨーロッパにしか本来(あるいは西欧人の感覚として)適用されないだろう。また、日本の上杉と武田の戦いにおいて「敵に塩を送った」と言う話も、両者ともに日本のメンバーであることの共通理解があったからこそである。
4)「人を殺してみたかった」というセリフは、社会を根本から否定する言葉であり、法を適用する理由はない。ただ、そのようなケースに対応できる法整備がなされていないので、さしあたり最高刑で対応すべきである。

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