2017年4月12日水曜日

善と悪の話:善は「社会」と伴に作られた抽象的概念である

週初めの日曜日の「そこまで言って委員会NP」において、性善説とか性悪説を弄った議論をしていた。あまり良い議論に思えなかったので、ここに善と悪を再度考察する。このテーマについては、以前何度も議論したが、一つだけ親鸞の悪人正機説との関連でも議論した記事を引用する。議論コメントなど歓迎します。http://rcbyspinmanipulation.blogspot.jp/2013/12/blog-post_5.html

1)生物の命は、他の生物を食物とすることにより維持再生される。食物は異種の生物である場合が多いが、同種の生物は食物とならなくても、食物獲得の競争相手となる。人も生物であり、その点において例外ではない。

善と悪は、社会の形成とともに始まったと思うのだが、その定義は簡単である。悪とは人が生存のためにとる行為のうち、他の人の利益や自由を顧みないものである。善とは悪の反対であり、社会において自己を犠牲にする行動や考え(に付けるラベル)である。社会を作らない場合、善も悪も存在しない。

ヒト(以下人と書く)が地球上で他の生物を支配出来たのは、多くの個体から形成されるグループを作ったからである。そのグループは、最初の段階ではボスによる恐怖支配の小さなものだろうが、言葉の出現と自己の相対的認識がそのグループに多層的な構造を可能にして、大きく且つ強力にした。(補足1)その成長のプロセスを獲得したグループは、何れ国家と呼べる様にまで成長するだろう。その人と人との間の協力関係を築く行為やそれを支える考え方について、抽象化されたのが“善”という概念である。その善のモデルについて、以下に具体的に説明する。

2)言葉(ロゴス)は論理を構成する道具であるから、言葉を得たことは同時に、人が自己を観測の対象とする能力を獲得したことを意味する。他の生物では自己は絶対的であり、従って観測の対象ではないので、自己犠牲も自殺もあり得ない。

自己を相対的に把握する能力を得た人間は、自分の所属する運命共同体のグループを、少なくとも自分の生命以上の存在として把握することになる。それは、そのグループの消滅は自分の命の他に、自分の血族など周囲の人の命をも亡くすることになるからである。

その段階のグループを形成するようになって初めて、自己を犠牲にして自分のグループを支えることが可能になり、「善」が生まれるのである。その善の論理と自己の相対化は、個の能力に応じた積極的なグループへの参加を即し、グループを多層的に大きく成長させた。そのグループの内部は「社会」と呼べる空間となる。その結果、メンバーはより強力で安全な「生」を享受することになる。その正のフィードバックにより、グループはやがて国家と呼べるようになり、善が人間社会に根付くことになったと考える。

自分を認識する能力は、遺伝子に書き込まれたものであるが、自分を犠牲にする協力関係(つまり善)の発生は文化である。それが遺伝子に書き込めない理由は、その反対の悪が生命にとって本質的であるからである。それはまた、自分のグループを存続させるために、他のグループに対して敵対行為をするために必要だからである。人間の歴史は、その争いの物語である。

3)敵に勝つため、グループ内部で行えば悪である行為を敵に対して行う。敵を弱める行為、殲滅する行為は、味方の生存にとって必須であり、従って善である。つまり、現在我々が持つ善悪の物差しはグループ内部では成立するが、境界を跨ぐ出来事の場合には逆転する場合が多い。つまり、善と悪は普遍的な概念でなく、グループ内部に限られるのである。

現在、善悪の成立境界として明白なのは国境である。パスポートを初めて交付してもらった人は、その中に書かれた文章から、自分の命を保障する国家という存在を改めて知ることになる。国境を越えれば、個人としての権利の保障など本来ない。

従って、国家の最重要な義務は、自国民の命の安全と行動の自由を護る(まもる)ことにある。国民の義務は、その国家を自分の能力に応じて支えることである。(補足2)

補足:
1)恐怖が支配するグループは猿など他の生物に見られる。この場合、結局決断は一匹のボスの能力で決まり、複雑な大きなグループを維持できない。それは独裁国家や全体主義国家にも見られる欠陥である。並列に知恵を並べて、そこから方針を決断する体制により初めて大きな「人間特有のグループ(社会)」を形成できる。それを支えるのは、メンバー間の自発的で持続的な「善」に基づく協力である。
2)日本海側から多くの日本人が北朝鮮に拉致された。これは北朝鮮が国家として行ったのであるから、宣戦布告なき戦争行為である。それを単に北朝鮮の犯罪と見なすごまかしがまかり通っているのは、日本国は国家の体をなしていないことの証明である。また、拉致被害者を取り返す努力をしないのは、国家の怠慢である。従って、拉致被害者の会が北朝鮮を非難するのはお門違いであり、非難すべきは国家としての義務を果たさない日本国政府である。

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