2017年8月3日木曜日

太宰治「人間失格」の感想

この小説は、作者太宰治の経歴を考えると著者自身の生涯がモデルだと思われ、単なる作り話ではなさそうである。つまり、読む気がしないタイプの小説だが、モデルがあるとすると、ある種重要な問題を我々に投げかけているに違いない。最後まで読んで考えても、どうしても非現実的に思えるのだが、それが現実ならどう解釈するかを無理矢理考えてみた。(補足1)

1)人間は、野生の本能を持つが、社会という人工的な空間でも生きる能力を持つ。その二つの能力を一定のバランスを保って持つ必要がある。そのバランスが欠けると、人の作る人工的空間で窒息したり溺れたりするのではないだろうか。この小説は後者の溺れるタイプの人間を描いていると思う。

人が高度な社会を作って生きるプロセスに伴い、他人との間に潤滑油的な空気をつくる能力を持つ様になったと思う。その人の間の特有の空気は、野生としての人の行動を制御する。これら社会を作る能力と動物としての能力の両方のバランス点は、民族により異なる。つまり、極端な言葉を使えば、野生人の家畜化のレベルは民族文化の一部であると思う。

人は、その社会化を受ける性質を遺伝子的に持っていて、それは民族により異なるだろう。それに加えて社会化教育のレベルも方向も、民族に固有のものだろう。この個人の社会的性質と民族の文化は互いに協奏的でなければならない。そうでないと、個人はその社会で浮き上がってしまう。

「人間失格」の主人公は、特有の性質と幼少期の環境等により、日本という社会的規制の多い社会で浮き上がったというか、不適応となったのだろう。ただ、通常の場合よりも病的なほどの不適応状態だったと思う。

私の想像だが、日本民族は家畜化されやすい性質を強く持っているのではないだろうか。それが社会と協奏的であるという上記の考察から、日本ほど社会的規制の強い国(民族)は無いだろうと思う。つまり、「人間失格」の様な小説は外国には無いのではと想像する。(補足2)

2)この小説で、主人公は非常に自堕落な性格である。その原因として、人並み外れた知性と容貌、それに恵まれた家庭経済、末っ子であり自分の周りの空間は常に自分自身のために存在するという状況などにより、欠乏や失敗とそれに伴う教育がない幼少期を送ったことが考えられる。

その結果、人からの認知欲求、知識欲など、全てにおいて幼少時に十分形成されなかったのではないだろうか。人の目は常に自分に注がれており、知識は努力などなしに、自然に頭に流れ入ってくる。不足のない日常は食欲さえ忘れる生活だったのだろう。

大人たちの性質、訓練を経て得た処世術なども、全て並外れた知性の主人公には丸見えである。その結果、人間一般を侮蔑する様になり、やがて自分自身の疎外感にまで発展してしまったようだ。

その疎外感により出来てしまった他人との間の溝を埋めるために、主人公が得た技術が道化なのだろう。その道化による人気、優れた学業による尊敬の目、優れた容貌による女性の憧憬など、全ては内向的な主人公には他人との深い溝と感じられたようである。

その中で得たと思われた安らぎは、同程度に世間の規格からずれた女性や、無垢で無防備と感じる少女との同棲や結婚生活だったのだと思う。しかし、幸せの感覚は、結婚した少女の優れた包摂的性格が招いた“裏切り”、或いは彼女の知り合い男性による“犯罪的事件”なのか(補足3)、わからない出来事により脆い性格でもあった主人公の人生と供に、破壊されてしまった。

そのような感想をもった。

補足:
1)短編小説であることと、書きにくい内容なので、あらすじは書かなかった。
2)あまり小説を読まないので、これは理系人間の勝手な解釈の可能性があります。詳しい方のご教授をいただきたい。
3)現場を偶然覗き見た友人もどきの堀木の証言は、「電気がついたままで、二匹の動物がいました」とあったことから、裏切りである。

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